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「戦後」美空ひばりとその時代 <本田靖春>

■「戦後」美空ひばりとその時代 <本田靖春> 講談社文庫 20100525
 美空ひばりの生涯を縦糸にとり、それにかかわる人の戦前からの足取りを丹念に記して、「戦後」を浮き彫りにする。
 「美空」という芸名、戦後の歌に頻出する「青空」、闇市の別名「青空市場」といった語は、戦前戦中の暗鬱とした雰囲気が一気にふっとび、貧しいながらも希望があふれていた「戦後」のイメージにぴったりだという。美空ひばりは「戦後」の天井が取っ払われたような「自由」のなかでこそ生まれたスーパースターだった。
 飢餓に苦しめられた「戦後」がいかに可能性と自由があふれる時代だったか--。これでもかこれでもかと描く。本田の人生の、いや日本の歴史のなかでも最良の時代である「戦後」へのオマージュである。
 「私は高度経済成長以降の世の中の移り変わりに、自分を合わせまいとして生きている。戦後に授けられた民主主義を「墨守」したまま人生を終えたいと思っている」と本田は書く。「戦後」を体現した美空ひばりは筆者自身の鏡に映った姿なのかもしれない。

========メモと抜粋=========
 ▽17 日本の産業かは完成され……それは真に豊かであるとはいえない物質的充足と引き替えに、人々が折角得た自由を差し出していく過程でもあった。「社会人間」ではなく「会社人間」の時代になっていった。
 ▽23 ひばりの弟逮捕によるボイコット。紅白からも閉め出される。明らかに警察当局が仕掛けた世論操作であった。警察の尻馬に乗って騒ぎ立てるマスコミのありように、たいへん危険なものを感じた。
 ▽46 嗜好性の問題として、「美空」をとるかとらないかはある。教養をおのれの上に認める人間は、たぶんとらない。しかし、そこには「戦後」の実感がこめられている。
 ▽79 「セコハン娘」を作曲した服部良一は、戦時中、軍歌を絶対に書かない、と宣言して、実際に書かなかった。
 ▽93 「悲しき口笛」 戦後最大のヒットだった「湯の町エレジー」の記録を破った。少女歌手を「児童の福祉」を理由に嫌悪する雑誌も。サトウハチローも嫌悪。
 ▽105 「青い山脈」 「古い上衣よさようなら」というのが、戦前から戦中へと続いた古い思想からの脱却を意味していることは、改めて断るまでもないだろう。
 ▽111 闇物資を口にせず餓死した山口良忠判事「食糧統制法は悪法だ。……ソクラテスが悪法だと知りつつも、その法律のためにいさぎよく刑に服した精神に敬服している」
 ▽133 PTAが校舎の改修、給食場の改修などに取り組み……(PTAの力) だから滝頭小のPTAは移転を拒んだ。……滝頭の人々は、戦後はじめて民主主義を実践し、占領軍を相手に勝利をおさめたのである。
 ▽175 黒田征太郎 月1回勉強会をやろうや……戦後はたしかによかった。どうしてそれを忘れちゃうんだろう、と思いますね。「ああいう人を生みだした時代がすごい」
 ▽212 ひばりの家庭教師をした3兄弟。病院チェーンを経営。「その当時は、函館のほうが札幌より都会だったんです。文化水準が高くて、自由な気風にあふれている町でしたね。軍事教練をボイコットしようと、クラス全体でストライキを起こしたりして……」
 ▽233 山口組3代目 田岡一雄
 ▽255 吉展ちゃん事件の小原死刑囚 事件後15年たって取材。「町の恥」。その年の夏に学法石川が甲子園出場し町は湧いた。永年、小原保のために肩身の狭い思いをしてきたが、学法石川の甲子園出場で、「誘拐殺人犯を生んだ町」という汚名をすすぐことができた、と喜んでいた。
 ▽257 ひばりに塩酸をかけた少女。追いかけて現住所を割り出したが、「困るんです……どうかカンベンしてください……」私たちには、彼女に迫る権利はまったくない。
 ▽279 沖縄映画界のジンクス 戦争映画は絶対に客が入らない。「史上最大の作戦」も惨憺たる結果だった。
 ▽291 沖縄公演 体を売りながら兄弟を育てた女性……別世界
 ▽358 安保闘争に、新聞社の首脳たちは「共同声明」で水をかけた。……彼らが口にしてきた民主主義がいかにまやかしであったかを、証明した。……戦後民主主義否定の方向が決まってしまった。
 ▽375 やくざと芸能界。山口組=神戸芸能社が手がけたタレント……
 ▽386 
 ▽395 美空ひばりは唯一存在者といった立場。都はるみは巫女ないしは媒介者のようなもの……はるみの初期の歌は、農村分解とか都市流出といった部分を背負って成立したけど、40年代に入って急速に社会構造が変わってきて、戦略が破産した。そこから再度Uターンしてきた曲が「北の宿から」だった。日本社会が大きく変わった後で、第二のはるみが誕生した。ひばりさんは、戦後の光と影みたいなものをずっと引きずりながら瞬間冷凍したままで来ちゃったんじゃないかなと。
 ……私は高度経済成長以降の世の中の移り変わりに、自分を合わせまいとして生きている。戦後に授けられた民主主義を「墨守」したまま人生を終えたいと思っている。
 ▽403 「スポ根」をうたい上げた「柔」が大ヒットしたとき、「戦後」を体現してきた美空ひばりの輝きは失せた。私の彼女に対する訣別の理由はそこにあった。私にとってのひばりは「悲しき口笛」「東京キッド」「私は街の子」……昭和32年の「港町十三番地」あたりまで。

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