■疾風の人 ある草奔伝 <松下竜一> 朝日新聞社 20100410
大分・中津の福沢諭吉の家のすぐ近所に、福沢の洋学に反発して福沢暗殺をはかった尊皇攘夷派の福沢の又従弟がいた。増田宗太郎。
薩長による新政権は、尊皇攘夷から一転、文明開化をはかった。この時期、福沢はもてはやされる。昭和初期になると国士の増田の評価が高まり、戦中は福沢は「鬼畜米英の手先」と家に石が投げこまれた。だが戦後になると一転、福沢は民主主義の象徴として重視され、増田の自宅跡は打ち捨てられる。時代によって評価が二転三転した増田宗太郎の歩みをたどる。
増田は尊皇攘夷派として天皇中心の国家をめざすが、明治維新が実現すると、国学派は冷や飯を食う。明治政府への不信から自由民権運動に近づき、西郷隆盛に殉じて西南戦争に参加して死ぬ。純粋であるが故の悲劇だった。
宗太郎の妻のひとり語りを狂言まわしにして、情景がうかんでくるような細密な描写をする。さすが松下竜一だ。どうやって資料を読み込み、これほどの描写を可能にしたのだろう。
不平士族と自由民権運動のつながりも、右翼と左翼と見たら矛盾しているように見えるが、こうやって一人の国士の生き様を見ると、不平士族のなかから、民権運動も国士的右翼も生まれたことが見えてくる。土のにおいのする国士的右翼と、昭和期に台頭する革新的な右翼との違いもよくわかる。歴史の描写としてもおもしろい。
民権運動の興隆には新聞・雑誌の力が大きかった。中津には一時期、民選議会ができていた。そういう民主主義の伝統は綴り方運動などに受け継がれたと思われる。だとしたら、明治の民権運動と今の町おこしとは意外につながりがあるのではないか? そんなことも考えながら呼んだ。
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▽139 大弾圧によって反政府尊王攘夷派を一掃した政府が一挙に中央集権の確立を図ったのが廃藩置県だった。気楽だった藩士という職業は消滅する。中津藩では農業・商業に転身する者があれば転業資金を給与する、と募った。
▽166 征韓論。どうせ列強が侵略するだろうから、蛮夷のほしいままにするよりは、皇国日本の下におくほうがいいのだとする思い上がりが、侵略思想を有無。宗太郎たちの奉じる皇国思想の危険性がここにある。
▽185 土佐の立志社でも、民権運動を標榜しつつ、国権的士族体質は濃厚だった。台湾出兵。
▽198 宗太郎は、天皇を全知全能の存在ととらえた。天賦人権思想の「天」を天皇と解することによって、民権運動を受け入れ、民選議員設立運動に奔走したのではないか。(神の存在を前提とすることで生まれた西洋の民主主義と同じ流れ?〓)
▽203 宗太郎は運動の基盤を下士層い置いた。それが急激に没落し、中津の民権運動は衰退していく。
▽217 尊皇攘夷という右側から民権運動を介して左側へ屈折してきた宗太郎。西洋啓蒙思想という左側から、そのゆきすぎに気づいて右側へと屈折してきた福沢。2人がちょうど出会った接点が明治9年の宗太郎の慶応入塾だったといえまいか。福沢はその後さらに右へ向かい、民権論者としてのポーズを捨てる。その行き着く果てが、明治18年の「脱亜論」。朝鮮やシナに対して、「正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ」という露骨な侵略思想にいたる。
▽225 民権運動をひろく訴えるにあたって、新聞・雑誌の役割は絶大だった。中津でも明治9年に「田舎新聞」が創刊。明治7年には全国で50余種が刊行されていた。政府は明治8年、讒謗律・新聞紙条令で言論弾圧にでる。(地域民主主義とメディアとの関係は?〓出雲の場合は?)(民権運動と地域づくりの関係〓)
▽229 維新の立役者の西郷も「天皇の賊」とされる。「みんなみんな、天皇様の賊として殺されていくのですわ……」
▽270
▽306 西南戦争後に福沢が書いた「丁丑公論」は西郷を弁護するが、政府を倒せとはならず、建言になっている。……ここで福沢はすでに、無智のの小民と上流なす士族をはっきり分けて考慮している。5年前「天は人の上に……」と揚言した福沢っも、今や小民に絶望して、唯一の知識階級の旧士族のみを対象の視野に入れ始めている。
(〓戦前の知識階級は旧士族だった)
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