文春文庫 20060725
□三.一五共産党検挙
温泉で組織の大会を開くのに、工場の慰安会と偽装する。細かなところでミスをして、そのほつれをつけ込まれて組織の全体像をつかまれ弾圧される。スパイ小説そのままだ。
「大逆罪」によって幸徳秋水らが死刑となったのを見ていたため、当時は共産主義者でさえ、「君主制廃止」を盛り込むことには慎重論が根強かった。「この問題を議論したことがわかった場合は、徒に犠牲を多く出すのみである」という発言もり、コミンテルンが示した行動綱領には入っていたが、党の政策としては掲げなかったという。
第一次共産党検挙は、治安維持法が出来ていなかったから、長期間獄につなげなかった。
だが、治安警察法では思想犯に対して手ぬるいというので、大正14年に維持法成立が強行され、改正をくり返し、死刑を含む重刑になる。その背景には、満州と中国東部侵略計画の進行があったという。
天皇制がいかに息苦しい社会を作っていたか、治安維持法がどれだけの「効果」を発揮したか。権力にフリーハンドを与えてしまう怖さを実感させられる。
ビラ配りをしただけで逮捕される今、これ以上、警察権力を肥大化させる共謀罪などの怖さがよくわかる。
・獄中の同志に差し入れをしたり、家族の生活の面を世話したりする機関が、その後の国民救援会の前身となった。
・被告たちは裁判の公開をあくまで死守するため、裁判長に対する言葉遣いも「何々であります」というふうに丁寧になっている。陳述が裁判長の傍聴禁止の事項にふれそうになると、巧みにそこを避けるなど、どこまでも党の在り方を大衆に知らせることを死守した。旧中央委員らによる代表陳述は、下部党員に綱領をよく理解させる効果を狙っていた。(カストロがモンカダ兵営襲撃で捕まったとき法廷を利用したのと似ている)
□満州某大事件
張作霖の爆殺とその時代を、日中両国の側から描いている。
中国側の歴史は勉強したことがなかったから、新鮮だった。
孫文の革命がつぶされ、袁世凱にのっとられ、国民党ができて……という流れと、1軍閥である張作霖が、日本軍の傀儡という立場からじょじょに自立しようとしたことが、現地の日本軍の怒りを買った、という流れがよくわかる。
さらに、張作霖爆殺の犯人である軍人を処分せず、ほおかむりしたことが、その後の侵略戦争の泥沼への転落への一歩となった。
軍の暴走に歯止めをかけられない、狂気の国家への入口となった事件だった。
・大正15年から国民党の北伐がはじまる。蒋介石は、国民党内から共産党を追いだすことにつとめていた。背後には、革命を喜ばない華南の地主、財閥の援助があった。共産勢力を国民党内から一掃するため、上海でクーデターを起こし、多数の共産党員を虐殺し逮捕した。南京や杭州でも。共産党が強かった武漢政府は南京政権の治下に入り、国共合作は終わった。
・「満蒙は支那の領土にあらず」と断定したが、日露戦争当時、わが国は宣戦布告において明らか満蒙がシナの領土なることを認めたこと……
・済南事件 新聞は、支那軍による在留邦人の虐殺を凄惨きわまりない活字で埋めている。これを理由に済南を占領し、せっかく融和的だった蒋介石の政策を急激に硬化させる逆効果になった。
□佐分利公使の怪死
中国との関係を何とか改善しようとしていた公使が死亡した事件。実は、軍部とその関係者による陰謀ではないか、という視点から描く。
□潤一郎と春夫
谷崎潤一郎が妻を佐藤春夫にゆずった、というスキャンダルを描く。
□天理研究会事件
古事記にある天地創成の話は、中国の古典そのままであるし、東南アジア諸島に古くから分布している(松村武雄「日本神話の研究」〓)。天理教の「泥海古記」では、教祖中山みきはイザナミの再生であるとされているため、昭和に入って強い国家主義が台頭するに伴い「不敬罪」を構成しそうになった。そこで天理教は、「泥海古記」のイザナギ、イザナミは古事記とはちがう神であると改変した。はじめ神道よりも仏教の色彩が濃厚だったが、神道に結びつけたほうが公認・許可が早くおりるということで神道色を強めていた。
天理教徒だった大西愛治郎はあるとき、自分こそが天理教の真の後継者であると知り、分派を結成する。天理教のもともとの姿に近い、いわば原理主義的な回帰だった。
天理教本体は、教団が存続するため、政府側に一定の妥協をするが、大西は、自分こそが日本の統治者であり、天皇は正当な統治者ではないと主張する。この「天皇否定」が弾圧を招く。
戦後、大西らは共産主義者とともに刑務所から釈放されると、高石町羽衣に本部を設け「ほんみち」を再建することになった。