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渡邉恒雄メディアと権力 <魚住昭>

 講談社文庫 20060616

言わずとしれた読売のドン、メディアの覇王の半生を描いている。
なんとも後味の悪い人間だ。
いいところのボンボンとして育ち、戦後、東大で共産党の活動家になるが、主流派と対立してはじきだされる。
全学連草創期の東大での活動で獲得した権力獲得の手法を生かし、読売新聞のなかで若いころから「トップ」をめざす。
出世し、ライバルを蹴落としライバルになりうる人材を左遷してつぶし、上には気を遣い、媚び、必要がなくなれば容赦なく切り捨て……ついには頂点にのぼりつめる。
上司への「気遣い」の細かい描写を見ると、よくぞここまで、と思う。私にはぜったいできないし、そこまでして出世したいとも思えない。権力者の前では、やせ我慢して屁をこくくらいの方がすがすがしいと思ってしまうのだが。
自民党の大物政治家に食いこみ、その派閥を牛耳ってしまった政治力が、最大の武器になった。他社の記者でも、ネタを得るために渡邉に平伏することになった。いつのまにか「記者」というよりも「政治家が記事も書く」というスタンスになっていった。
「ジャーナリストのあるべき姿」なんて青臭い理念ははなから彼にはない。会社と自分の利益のために紙面を利用しつづける。たぶんナベツネは「自分こそ最高のジャーナリストだ」と思っているのだろう。
後味が悪いのは彼の生き様だけではない。
彼のような権力者に媚び、言われてもいないのに先回りして、たとえば「黒田軍団」を潰すことに狂奔したり、保守政治家の疑惑をにぎりつぶしたりする「下」(管理職や記者)の存在こそが絶望的なのだ。たぶんナベツネが死んだとしても、そうした権力的な風土は生きつづけ、拡大再生産されつづけるのだろう。
これはもう読売1社だけの問題ではない。

筆者の取材力はすさまじい。どこから聞き出したのか、というほどの細かい描写をちりばめている。ナベツネ本人は10時間にわたってインタビューしたという。

----------抜粋・要約------------
▽「10人子分をつくれば、政治部は好きなように動くわね。仲間をつくるにはまず会合することだ。政治部時代だって僕の家で十数人が毎土曜日集まって、政治の研究会や英会話の勉強会をやっていた」
▽……渡邉の頭の中には、自社の利益で政府に圧力をかけることがジャーナリズムの「禁じ手」だという意識はまったくない。あるのは自分の力に対する過信と務台への忠誠心だけだ。
▽江川問題(江川本人にも取材「婚約者の正子へエルメスのバッグを買いに走った」)
▽昭和61年、社説で「売上税導入キャンペーン」をしているときに、社会部黄金時代の最後の生き残りの論説委員・村尾清一がコラムで中曽根を批判した。すると、遅版からコラムは紙面から落とされた。
▽「俺は社長になる。そのためには才能のあるやつなんか邪魔だ。俺にとっちゃ、何でも俺の言うことに忠実に従うやつだけが優秀な社員だ。俺の哲学は決まってるんだ」(君主論の影響)
▽(魚住)団塊世代の弁護士 住管とかRCCとか、中坊路線を推進する。かつて青法協にいたりした人たちが、司法の世界を悪くしていってる。反権力というのが戦後の弁護士会の主流だった。それが中坊さんの登場前後から、急激に権力寄りの発想になっていく。実際に勧めている人たちは、団塊の世代の旧新左翼。新聞社でも同じ現象が起きてるんだろうな。……彼らが抱いていた志は嘘、というかムードだった。だから、組織の上のほうになっていくと、すごく権力的なことをやりだす。ナベツネのような第一次転向者と団塊世代の第二次転向者が合体して動いている感じ。
▽巨人のユニフォームの胸のマークがTOKYOからYOMIURIに変わったことを、松井がすごい批判をしていた。

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