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戦争絶滅へ、人間回復へ 93歳・ジャーナリストの発言 <むのたけじ 聞き手 黒岩比佐子>

 岩波新書 20080923

 戦中に朝日新聞の記者をつとめ、敗戦後、戦争責任をとって30歳で朝日を退職した。以来、東北地方の実家にひっこみ、週刊新聞「たいまつ」を発行しつづけた。生活のめどがたたず一時は自殺しようと思いつめたという。
 戦前にマルクス主義にふれ、戦争中は特派員としてインドネシアを歩く。殺さなければ殺される状態で3日間もすごせばだれもが投げやりになる。中国では虐殺や強姦が相次ぎ、それを防ごうと軍が設けた慰安所では、何十人もの兵士が行列を作って順番を待ちながら屹立した局部を手で握って「早くやれ! まだか!」と叫んでいた。
 ただ、虐殺や強姦をしたのは日本軍だけではなかった。インドネシアでは、連合軍もまたすさまじい強姦をして、自分の妻が犯されるのを防ごうとして殺された現地の男の死骸がベッドの周囲に転がっていた。
 戦場から日本に帰ると、新聞は権力の忠実な伝達者になりさがっていた。学童疎開の記事を書いたら、検閲当局は何も言わないのに「この時局に、こんなセンチメンタルな記事を載せるとはけしからん」と社の幹部は怒った。官憲からの強制ではなく、自ら進んで表現を自己規制していた。また新聞社内でさえも、3人が集まると、だれが密告するかわからないから大事なことは話せなかった。社会のあらゆる場で、相互警戒から自己規制へ、相互監視へと進んだ。密告することが「愛国」とされた。「愛国心」は自分と異なる人を「非国民」と差別することで生まれる概念であることがよくわかる。
 逆に、そうなる前の朝日新聞は人を大事にする会社で、部下の過ちは幹部が受けとめ、社員を罰することはなく、社員は職場のなかで学び合い、高め合っていた。事件が起きたら、警察を批判するためにも自分で現場に行き犯人探しをした(今は警察の動きを追うのが主流)。素朴なジャーナリズムの熱気が漲っていた--。それだけ立派な会社が、戦争をとおして社員同士でさえモノ言えぬ状態に追い込まれていく。
 今の日本のカイシャはどうだろう。社員がちょっとしたミスをするとトカゲの尻尾切りのように切られ、上層部の巨大な判断ミスは看過される。たてつく社員だけに厳格な規則が適用される……そんな組織だらけではなかろうか。当然のことながら、社内の「自由な言論」など求めるべくもない。それも暴力的に封じられているのではなく、なんとなく、そうなっている。
 会社組織だけではない。全国水平社の松本治一郎は、戦時中の国会でノーネクタイ主義を通し、議事堂でも我が物顔の軍人の前で「軍人どもがいばりくさっている」と言って憚らなかった。そんな頑強な「個」があの時代に存在したことは希望なのか、そんな頑強な「個」があったのに国全体が破滅に向かったことは絶望なのか。

 筆者の憲法9条のとらえかたは、一般的な護憲論ではない。日本という国から交戦権を奪った9条は、我々の国への死刑判決であり、国家としては屈辱的である--という一面と、人類が生きつづけるには戦争を放棄した9条の道を選択する以外にないという積極的な一面をもつという。その両面を真正面から突き合わせ、矛盾を自覚したうえで日本の進路を定めるべきだったが、そうはならなかった……。こうした論のたてかたは加藤典洋の「敗戦後論」に似ている。
 戦後、労働組合や大衆組織によるマスの運動が盛り上がったが、結局社会は変わらなかった。だから筆者は、「私」を大事にして自分に誇りを感じ、志をもって生きることが大切だという。「志をもちなさい。人生の方針を自分でつくっておけば、その通りにならなくても方針は変えられる。でも、方針がなければ変えることもできない。惰性に流されていくのは一番よくないよ」と高校生に告げた言葉は正鵠を射ている。
 9.11後の沖縄・辺野古の自衛隊の基地では、基地建設反対派の住民に平気で銃口を向け、威嚇射撃もしていた。「軍隊は住民を守らない」ことが実感された。「平和に暮らすということ、平和であるということを、空気やお日様の光のように思われては困りますものね」と現地の人は語った。歴史は一人から始まる、自分から始まると自覚し、一人一人が平和な社会を求める生き方を、自分の日常の365日、毎日の生活に貫徹する必要があるという。

=======================覚え書き・抜粋============================
 ▽11 報知から朝日へ 朝日は人を大事にする会社だった。上の役職には、部下の過ちは幹部がきちんと聞いて、自分の下にいる社員を減俸するというようなことは絶対になかった。社員も職場のなかで学び合い、高め合っていた。
 当時は、自分で事件現場に行って、犯人探しをやった。自分たちが犯人を探さなければ警察の捜索を批判できないから。
 ▽17 全国水平社の松本治一郎 国会議員。戦時中の国会でノーネクタイ主義。軍人たちが議事堂でも我が物顔。松本さんはわざと声を大きくして「軍人どもがいばりくさっているが、大事なタマシイが入っておらんよ。わしが九州の炭鉱に坑夫たちと立てこもったら、一個連隊がやって来たって3日は引き受けてみせる」。生涯独身で酒も煙草もたしなまず、ひたすら解放運動に献身した人。松本さんの民衆に対するあのやさしさというのは、全身で支配権力と対決していた姿勢の裏返しだったのでしょう。
 ▽35 殺さなければ殺されるという狂いの状態で、3日間はなんとか神経を維持できるけれども、あとは虚脱状態で投げやりになってしまう。ほとんどの男は、とても華族に話せないようなことを、戦場でやっているんですよ。中国戦線では女性を強姦することも許し、南京では虐殺もした。そのにがい経験に懲りて、日本軍は太平洋戦争が始まると、そういうことはやるな、と逆にいさめた。「強姦すれば極刑に処せられる」とか。
 そこででてきたのが「慰安婦」。慰安所は便利な場所に開設される。ジャカルタだった、新しい市場だとか……恥をさらしたものだ。取材すると、だまされた、おどされた、拉致された……。何十人もが長い行列を作って順番を待っている。女の前に行ってからズボンを脱ぐ時間がないので、順番を待ちながらマラをビンビン立てて、それを手で握って「早くやれ! まだか!」と叫んでいる。
 ▽39 日本軍が上陸したとき、オランダ、オーストラリア、イギリスの8万人がほとんど戦わず降伏した。彼らがバタビアの兵営に帰るときに、すごい強姦をやっている。ジャングルのなかに何十のベッド、その周りに死体がいっぱい。自分の妻が犯されるのを防ごうとして殺された男たちだった。日本人はあの当時、敵の死体があれば一緒に葬るくらいのことはやっていた。アングロサクソンは死体に対しても陵辱を加える。……アメリカ兵が、日本兵の死体から切り取った骨でペーパーナイフをつくって記念品としてアメリカ本国へ送る。
 ▽47 新聞はひたすら号令者の側に立って、忠実な伝達者であることにとどまっていた。戦時下での救いは、本を読むことくらい。月給のほぼ半分は本代に当てていた。毛沢東やレーニンに感心し、禁制の書を探しては古本屋を歩きまわった。魯迅からの影響。 学童疎開の記事を書いたら、検閲当局は横槍を入れてこなかったのに、自社の幹部が「この時局に、こんなセンチメンタルな記事を載せるとはけしからん」と怒った。(〓みずから進んで協力した)
 ▽63 戦局の悪化につれて、威張りくさっていた連中は、だんだん元気を失ってしおれていました。一方、寡黙だった人たち、とくに主婦たちは日増しにたくましくなっていた。役人や軍人の指揮や号令とは無縁の、いわば民衆自身の決意というものが感じられた。
 ▽65 ポツダム宣言受諾のニュースが朝日新聞に伝わったのは8月12日午後2時ごろ。それなのに15日まで、「撃ちてし止まむ」を繰り返していた。
 「われわれは間違ったことをしてきたんだから、全員辞めるべきではないか」と提案した。同意した人はいなかった。14日の晩に「私はもう朝日を去ります。明日から来ません」と伝えて15日からは出社しなかった。……8月終わりから9月にかけて、どんどん新聞記者が会社を辞めている。ただ、少し経ってからまた戻った人も多かった。
 ▽69 琉球新報の「沖縄戦新聞」。戦争中書けなかった内容を、新たに14回分の新聞にした。軍部が倒れて自由に書けるということになったら、新聞は8月16日、17日からでも「本当の戦争はこうでした」ということを、国民に知らせ、お詫びをするべきだった。エネルギーが蝕まれていて、誰一人としてそういうことを考えられなかった。
 ▽89 憲法9条は、軍国日本に対する死刑判決。国家ではない、という宣告。日本は新憲法で完全に交戦権を奪われた。国家としてこれほど屈辱的なことはない。ところが一方で、人類が生きつづけるには戦争を放棄した9条の道を選択する以外にない。「人類の道しるべ」とも言える。二面性をもつのが9条。
 連合軍に宣告された死刑判決だという屈辱と、輝かしい道標という理想の両方の面を突き合わさなければならなかった。その上ではじめて、日本人は今後どういう生き方をし、人類に対してどういう呼びかけをしていくべきかという苦闘が始まったはず。そういう議論をあのときしなければならなかった。〓〓(内田樹のねじれの議論)

 ▽100 1970年の減反政策が、農林水産物をつくる第一次産業を完全にダメにした。それを受け入れてしまった。
 ▽118 社会主義国には、資本主義国では生まれない人間がいるはずだ、と思ってソ連を訪問したが、失望した。社会主義は人間を役人風にする。紋切り型だ。いきいきした個性の躍動なんてものはない。
 ▽123 ユートピア 19世紀までユートピア思想はさかんだった。今の日本で「ユートピア」という言葉を口にする人が一人もいないのはなぜか。「ユートピア」を合い言葉にしようとした19世紀の魂は実らなかった。20世紀は、人類が模索してきた理想への芽をことごとく踏みにじったと言っていい。
 もう一度、その理想を見直すべきでは。
 ▽139 沖縄・辺野古 自衛隊の基地 彼らは平気で銃口を向けますよ。威嚇射撃もする。「軍隊は住民を守らない」そのことを9.11のあとにも沖縄の人は感じたという。「むのさん、平和に暮らすということ、平和であるということを、空気やお日様の光のように思われては困りますものね」
 ▽142 軍国日本カミカゼをやらせたのは何か。米国の学者は、家族制度と農村社会の封建制、右翼団体がその原因だと考えた。古い封建制をこわすためには地主階級を解体する必要がある、ということで、第1次第2次の農地改革が実施された。地主たちが貧乏人になって、かえって日本の社会を混乱させることになると気づいて、アメリカは第3次でやる予定だった土地改革を中止した。第3次では山林地主が対象だった。
 右翼も実は影響力がないことがわかった。
 そういうわけで、カミカゼの根っこを断とうとして、家族制度を解体した。3世代同居型で男親が絶対的権力をもっている。これを解体しようとした。
 ▽151 私は三世代同居ということを言う。子供を孤立させずに、親と老人とが一緒にいるようにしなければいけない。物質的財産は親から子供へ、生きる知恵は祖父母から孫へ。
 ▽154 大事なのは、私を救えるのは私以外にない。私自身を大事にして自分に誇りを感じ、志をもって生きる。自分で自分を変えようとすれば、少しずつでも違ってくる。歴史は一人から始まる、自分から始まる、ということをもう一度、みんなで見つめ直さなければ。……一人一人が平和な社会を求めていくという平和主義。「戦争絶対反対主義」という生き方を、自分の日常の365日、毎日の生活に貫徹するということ。
 炭鉱から逃亡した人が、農村に逃げ込むと必ず追っ手に引き渡される。でも、漁村に逃げ込むと匿ってもらえた。農村の団結力はいいが、余所者に対して警戒して排撃する面がある。同一性や共通性を粗末にする必要はない。でもそれ以上に、違っていても仲良くできる、いや、違っているからこそ仲良くできるという、新しい哲学というか生き方をつくらなければ。(〓遍路と茶堂、距離をとりながら受け入れる工夫=親との同居、他者の受け入れ)
 ▽172 「最初にむのさんに会ったとき、志をもちなさい。人生の方針を自分でつくっておけば、その通りにならなくても方針は変えられる。でも、方針がなければ変えることもできない。惰性に流されていくのは一番よくないよ、と言われました」
 ▽174
 ▽187 仏陀の言葉 病人に対して、あなたは千に一つも長生きはできない、だから、とことん、生きなさい。
 ▽192 
 ▽196 戦争中の新聞 会話の中身が権力側にもれた場合、2人なら責任の所在は知れるが、3人だと互いに腹をさぐりあうことになる。だから、編集局内部で、互いに信頼しあって協力する三角形は全く不作だった。コミュニケーションを姓名として、それを社会に提供するはずの職場にそれが欠落していた。権力が現場にはいって強制したのではなく、新聞社の人たち自身と組織が進行させた。社会のあらゆる場に。相互警戒から自己規制へ、相互監視へと互いに人間らしさを傷つけ合った。それが「愛国」とされた。
 ▽203 それぞれ自分の仕事に志と誇りを込めて、それで社会とのつながりを耕している。歴史の脈絡を確かめてこうなればこうなるという認識が澄んでいた。人と人とが連帯して力を合わせる基盤の三角形がぴんと張っていた。これら3つのことは、社会情勢がむずかしく暗くなったとき、いつどこでも提灯の役をするにちがいない。
 

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