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姜尚中の青春読書ノート <姜尚中>

 朝日新書 20080920

 気鋭の政治学者であり、専門の論文は難解なことを書いているのに、自らを語るときはみずみずしく若々しい悩みに満ちている。東大という象牙の塔のなかで、なぜこんな感性をもちつづけることができるだろう。その答えの一部は「在日」に記されていたが、本書には「読書」という視点からつづられている。とりわけ、ウェーバーという小難しい社会学者のどこに心を動かされたのか、という記述が興味深かった。
 熊本から東京にでてきた筆者は、夏目漱石の「三四郎」と自分を重ね合わせて共感する。田舎の世界と東京の煌びやかな世界と学問の世界--3つの世界を比較しながら、三四郎がたどり着いた結論は「国から母を呼び寄せて、美しい細君を迎えて、そうして身を学問に委ねるに越したことはない」という陳腐なものだった。そんな三四郎を漱石は冷ややかに突き放すが、三四郎の「頗る平凡な結論」が常識と化し、それ以外の結論が考えられなくなったのが筆者の学生時代だった。さらに今は、田舎の力は衰え、東京への一極集中がすすみ、学問はカネの前にひれ伏している。「カネを稼いで美しい女性と出会い、タワーマンションに暮らせたらよい」くらいの身も蓋もないカネと個人主義の物語が「常識」と化しているような気がする。
 --歴史的にみてもパトリオティズムとナショナリズは対立していた。特定の土地と結びついた誕生と死とが「パトリ」の「不動性の観念」を支えているのとは違って、「ナショナリティ」は「自分に生をあたえ、育んでくれた故郷のふところへ戻ることを、もはや容易に夢見ることができな」くなった人々によって生み出された(ベネディクト・アンダーソン「比較の亡霊」)--という指摘は、田舎(=パトリ)から切れて浮游する人々が石原慎太郎を支える構図を説明してくれる。熊本というパトリを愛する彼ならではの実感だろう。

 筆者は、江戸川乱歩からエドガー・アラン・ポーを読み、ボードレールがポーから影響を受けていたことを知って「悪の華」と出会った。
 煤煙まみれの労働者、せむしの老婆、売春婦、内面がぶよぶよの貴婦人……。退廃した醜悪なものばかりが表現されている。1857年、パリにはこの世の悪徳と悲惨、豊満さと貧寒さがひしめきあっていた。ボードレールも、借金取りに追われ、病にかかり、情婦とは諍いが絶えなかった。近代の突先で懊悩する詩人の痛ましいほどの苦悩が見える。ボードレールにとっての永遠とは、この儚い今のなかにしかありえないものだった。だからその悲惨な「いま・ここ」に、美を見いだしたという。
 「悪の華」を読む気がしないという時は、自分の中に青春がなくなっている。自分の人生をリセットしたいという気持ちをかきたててくれる本だという。

 ウエーバーのおもしろさは、「意味問題」を社会学の中心的テーマに据えることで、社会的行為の意図と結果との逆説的な関係を鮮やかに描いてみせたところにあるという。
 カルヴィニズムの予定説は、神によって、あらかじめ救われる者とそうでない者とが決められているという教説だった。生きる意味や労働の意味などを問うことが無意味にしてしまう究極の差別的教説が、ニヒリズムのつけ込む余地すら排除し、この世の楽しみを拒絶し、神の栄光を増すためにひたすら労働に励むという「労働機械」的な態度を形づくった。人生いかに生きるべきかといった「意味問題」をシャットアウトする究極の禁欲的「解決法」が、資本のための資本、労働のための労働を追求する「資本主義の精神」へと転化する。
 資本主義の起源とユダヤ人の経済活動を結びつけたゾンバルトは、欲望の極大化がモノやカネ、サービスをつくりだし、資本主義を生みだしたと説いたが、そうした一般にわかりやすい「正論」を、ウェーバーは真っ向から否定することになった。
 ウェーバーは資本主義のありかたを悲観的に見つめ、「禁欲」からはじまった資本主義が本来の哲学や倫理を忘却して暴走し、とんでもない社会になっていくと予言していた。それを防ぐためのオルタナティブをアメリカの小宗教のコミュニティなどに求めていたという。
 ホリエモンや村上ファンドのような「カネをもうけるのがどこか悪いの?」というようなむき出しの資本主義は、長い歴史のなかでは「あたりまえ」なのではなく、むしろキリスト教の一宗派からはじまる一時的な変異体でしかないことがよくわかる。

=========覚え書き・抜粋==========

 ▽田舎の世界、東京の煌びやかな世界、学問の世界。3つの世界を比較しながら三四郎がたどり着いた結論は陳腐。「国から母を呼び寄せて、美しい細君を迎えて、そうして身を学問に委ねるに越したことはない」と。そんな三四郎を漱石は冷ややかに突き放す。三四郎の「頗る平凡な結論」が常識と化し、それ以外の結論が考えられなくなった時代が、わたしの学生時代だった。
 ▽44 歴史的にみてもパトリオティズムとナショナリズは対立していた。特定の土地と結びついた誕生と死とが「パトリ」の「不動性の観念」を支えているのとは違って、「ナショナリティ」は「自分に生をあたえ、育んでくれた故郷のふところへ戻ることを、もはや容易に夢見ることができな」くなった人々によって生み出された(ベネディクト・アンダーソン「比較の亡霊」)

 パトリを愛すれば、その延長上に「ナショナリティ」への愛が生まれる、そんなハーモニーを思い描くことができる時代があった。戦争と高度成長の時代。国と地域、東京と地方が、ともに国民ー国家の運命を共有しあっているという実感が人々を支えていた。
 しかし、そんなハーモニーは描くことすらできなくなった。東京へのすさまじい一極集中。地方が、「パトリ」が見捨てられようとしている。
 ▽56
 ▽60 悪の華 江戸川乱歩からエドガー・アラン・ポーへ。ボードレールがポーから影響を受けていたことを知ってボードレールにたどりつく。
 詩集全体を覆うデカダンスの強烈な毒。煤煙まみれの労働者、せむしの老婆、売春婦、内面がぶよぶよの貴婦人。退廃した醜悪なものばかり。1857年、パリにはこの世の悪徳と悲惨、豊満さと貧寒さがひしめきあっていた。
 ボードレールも、借金取りに追われ、病にかかり、情婦とは諍いが絶えなかった。
 近代の突先で懊悩する詩人の痛ましいほどの苦悩。(ウェーバーも)
 「昔はよかった。永遠の美があった」などという浪漫主義を拒絶し、せむしの老婆のなかに美を発見し、明日をもしれない労働者のなかに古代スパルタの剣士のようなヒロイズムを見いだしたりした。彼にとっての永遠とは、この儚い今のなかにしかありえないものだった(いま・ここ)
 ▽85 連合赤軍事件は前衛を気取った人々のいわば自滅的現象だった。光栄ある後衛になろうとしていた。ボードレールは、芸術の前衛にはいたが、政治的には後衛だった。
 前衛が前衛たらんとして、結局はピエロに終わったとき、転向という現象が起きる。前衛としてわたしたちの人生を支配してきた、あの団塊の世代はいまどうしているのか。「あのころは若かった」ですませてよいのか。その点、後衛はあまり変わらなかった。いつまでも金魚の糞のようについてきて、あれこれ思案し、逡巡しながらやってきたから、わたし自身はあまり変わらなかった。
 「悪の華」を読む気がしないという時は、自分の中に青春がなくなっている。〓自分の人生をリセットしたいという気持ちをもう一度かきたててくれる、そういう本。〓
 ▽123 ウェーバの「ロシア革命論」
 ▽140 ロバート・ケーガン ネオコン総本山「アメリカ新世紀プロジェクト」の創設者のひとりで、ブッシュノブレーンのひとり。……ヨーロッパはカント的な世界平和の幻想の中にまどろんでいるが、アメリカホッブス的な世界にとどまり、力による平和維持を引き受けると宣言。ケーガンは、この論文を通じて、文明史的、思想史的に位置づけていく作業をやろうとした。ホッブスが、戦争と国際政治の生々しいテーマとして浮上してくることになった。
 ▽153 中央を起動とする近代化が地方と下層に波及・下降していくプロセスと、他方、「むら」「郷党社会」をモデルとする人間関係と制裁様式(涙の折檻、愛の鞭)が底辺からたちのぼってあらゆる国家機構・社会組織内部に転位していくプロセスと、両方向の無限の往復からなっている。=「制度の物神化」と擬制的な郷党社会的結合の「自然状態」に対する2正面作戦が、丸山が取り組むべき課題だった。
 ▽161 ウエーバーは「意味問題」を社会学の中心的テーマに据えることで、社会的行為の意図と結果との逆説的な関係を鮮やかに描いてみせた。
 ピューリタン 禁欲は修道士の部屋から職業生活のただ中に移されて、世俗内的道徳を支配しはじめるとともに、今度は近代的経済秩序の、強力な秩序界を作り上げるのに力を貸すことになった。
 「つねに善を欲しつつ、つねに悪を」 宗教的禁欲の立場では「悪」としか見えない、所有とその誘惑をつくり出し、結果として資本主義の揺籃期を早めてしまった、宗教倫理の逆説が描かれる。「禁欲的節約強制による資本形成」〓(グアテマラのプロテスタントも)
 ▽166 予定説というカルヴィニズムの教理。絶対的な意志によって、あらかじめ救われる者とそうでない者とが決定されているという、おそるべき教説。なのに、一切の行為を無意味にしてしまう宿命論に陥らず、むしろ逆に徹底して労働に専念する「行為への実践的起動力」を導き出してしまうという逆説。生きる意味や労働の意味など、意味を問うことがそもそも無意味になってしまう。なぜ、どうして、という回路がふさがれることで、「力のエコノミー」が働き、その分、ひたすら神の意志に従った労働への専念が生じることになる。
 究極の差別的な恐るべき教説は、ニヒリズムのつけ込む余地すら排除し、人々をぞっとするほどの孤独な境地に追いやったはず。神の栄光を増すために、恋愛やエロス、芸術に関心を向けず、ひたすら労働に励み、節制・倹約を通じて労働の成果をもたらすために、自分の生活のあらゆぶ部分まで合理的に組織化していく生活態度が形成されることになった。この世の楽しみをはなから拒絶し、「労働機械」に仕立て上げていく「世俗的禁欲」のすさまじい形成力が発揮されることになった。
 ▽168 「意味問題」の「解決法」が、予定説の信仰と世俗内的禁欲による労働倫理。人生いかに生きるべきかという探求を思い描いていたのに、「意味問題」をシャットアウトするピューリタンの「解決法」。それが、資本のための資本、労働のための労働を執拗に求め続ける「資本主義の精神」へと転化していく。
 ……宗教と経済、資本主義という、水と油のように対立しあうものが結びつき、そこから思ってもみない結果が生まれてしまう、逆説の歴史的ドラマ。
 ▽171 資本主義の起源とユダヤ人の経済活動を結びつけたゾンバルト 欲望の極大化がモノやカネ、サービスをつくり出し…… そう考えると資本主義は、禁欲ではなく、むしろ欲望の拡大の中から成長してきたということになる。このストーリーを否定するのがウェーバーのねらいのひとつだった。
 ウェーバの累計は、生産を中心とする産業形態とそのエートスに重点を置いているとするなら、ゾンバルトのそれは企業形態や金融的側面に重きを置いている。
 ▽186

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