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大正=歴史の踊り場とは何か<鷲田清一編著>

 ■大正=歴史の踊り場とは何か<鷲田清一編著>講談社選書メチエ

 チンが買っていた本。体がつらくても好奇心は衰えていなかった。
 大正は「歴史の踊り場」だった。歴史の転換点だった。そこで何が生まれ、なにが消えたのかを検証する。  農村から都市部へ流入した人たちは零細の商売を始め、供給過多と人口増、消費増が重なって物価の乱高下と粗悪品を流通を引き起こした。それが1918年の米騒動の背景だった。消費者の自衛策として協同組合も結成され、自治体による公設市場が設けられた。  近代化の過程で、相互扶助を国家や企業が担うようになり、市民はサービスを税金などと引き換えに消費するようになっていった。西欧諸国が、相互支援をする教区などの中間集団を一定残したのとは対照的だった。日本はそれによって効率化を果たしたが、地域コミュニティの力を急速に失わせた。
 明治の京都の学校建設は「学区」が負担し、自治区である「学区」の要が小学校だったが、行政が税を一括徴収し再分配するために「学区」制度を廃止した。
 地域コミュニティが生業の場でなくなり、地域外で働くようになり、地域コミュニティが消費だけの空間になって、「自治」が崩れていった。「勤め」以外の活動が余暇とみなされ、家事や地域活動が仕事に数えられなくなった。
 サラリーマンという言葉は、安月給の人を示した腰弁や洋服細民にかわって1910年代から給与生活者を指すようになった。サラリーマンは、家業がないから生産手段を私有しない。地縁血縁に依存できないから、子供に学歴を付けさせる。家族が物を生産する単位から労働力を生産する単位になり、性別役割意識や性的分業が成立した。
 家業から分離したサラリーマン家庭では、「家永続の願い」が「家庭の幸福」に変化し、庭付き一戸建てが幸せの象徴だった。郊外の宅地開発が進み、通勤電車で読むために「文芸春秋」「キング」「旬刊朝日」「サンデー毎日」「週刊エコノミスト」が創刊された。  柳田は「農村では、労働を生存の手段とまでは考えず、生きることは働くこと、働けるのが生きている本当の価値であると思っている人が多かった」と語っていた。サラリーマンという「単業の時代」からもう一度、いくつもの副業をもつ「複業の時代」に再転換することも考えるべきだと筆者は主張する。
 明治から昭和は、地域自治の主体である「ジカタ」が国家の末端の「チホウ」に変化する時代だった。
 危機が深刻化するたびに、日露戦争後の「地方改良運動」や、世界大恐慌後の「農山漁村経済更生運動」のように、問題解決能力がない地方を中央政府が指導するという形が繰り返された。指導行政と国庫補助金を通じての地方公共団体に対する中央政府の権限強化だった。
 新渡戸稲造や柳田は、それに対抗した。都市化と中央集権化が問題と考え、中央や外来の物が土着のものよりも優れているという考え方を改めるため、地方(じかた)学を位置づけた。柳田は、郷土の民俗資料を研究する若い人材を発掘しネットワークをつくろうと試みた。
 地方(じかた)は、国家以前に存在していた、トランスボーダーな超領域性をもった時空間でもある。
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▽文学全集、大衆文学、百科事典が生まれた。辞典ではなく「事典」という後は、平凡社をつくった下中彌三郎の造語だった。
▽20 農村出身者が都市部へ。彼らの多くは、零細の商売を始めるほかなかった。供給過多が、都市人口と消費量の急増と相まって、物価の乱高下と粗悪品を流通を引き起こす。 消費者たちの自衛策ともいえる協同組合も結成される。吉野作造の家庭購買組合、賀川豊彦による神戸消費組合・灘消費組合も。
 自治体による公設市場の設置もはじまる。
▽ラジオ放送開始。ターミナルデパートの最初は、阪急梅田駅構内に出張売店を出した白木屋が第1号。
▽23 明治以降の近代化の過程で、地域社会における相互扶助の活動を、国家や企業が引き取り、市民はそのサービスを税金などと引き換えに消費するというしくみに変えていった。西欧諸国が、相互支援の活動を、教区など、行政機構と個人の間にある中間集団の活動にある程度残しておいたのと対照的。  効率化をなしとげたが、地域コミュニティの地力を急速に失わせた。 「ふだんできないことは緊急の時はなおのことできない」という声を東北の被災地で幾度か耳にした。
▽34 明治の京都の学校建設は、学区が負担した。「学区」が行政制度の末端の制度として機能し、その要として小学校があった。番組小学校は、行政の出先機関でコミュニティセンターだった。 …学区間の格差を縮小するため、行政が税を一括して徴収し、再分配するために「学区」制度を廃止した。
▽ 地域コミュニティが生業の場所でなくなり、その財を共有して地域のために事をなす算段もまたできなくなることが、「自治」を崩す。地域コミュニティは、生産ではなく消費だけの空間になっている。 …コモンなものへと身を開いてゆかねばならない。それを「地域社会圏」として構想する…1日の大半を生活の場所と異なる地域で働くことになる。人びとが生計を立てるための活動が「労働」としてひとくくりにされていった。「勤め」以外の活動が余暇のそれとみなされるようになった。「家事」や家の普請や祭りの準備など地域活動が仕事に数え入れられなくなった
▽41 1910年代には、国民の「生存権」が主張された。2017年、民生委員制度100周年の行事が催された。1917年に岡山で創設された「済世顧問」制度。その翌年には大阪で「方面委員」制度が設けられた。 …1926~30年の平均寿命は男性44.82歳、女性46.54歳。 …明治期、自助論と社会進化論が影響力をもった。現在でも貧困は自己責任という議論が根強い。生存権の主張や貧困問題の政治的対応のはじまりも大正時代。  各地の委員の多くは、伝統的な自治組織や名誉職を基盤としていた。
▽68 関東大震災 「自己生存の不安」を通して言葉が変わらざるを得ない。東日本の直後も、文学芸術家たちが同じような主張をした。 …「国難」に対して「精神文明」を日本人が情熱をもって呼号したとき、思想としてのファシズムを呼び込む危険水域に入ったことを示している。
▽85 芸者遊びのイメージから徐々に切り離され、より一般的な宴会への志向を強めてくる流れ。それが大正期。
▽87 農村の娯楽環境を整備する。青年団は、若者組、若衆などと呼ばれたものを解体して近代的に組み替え、支配体制に組み込む組織という面が強調されがちだが、娯楽面でも、新たな世界に触れる唯一の場としての役割を果たした。
▽114 明治までの日本女性は洗髪をめったにしなかった。頭髪油を濃厚に付ける習慣があり、非衛生的でもあった。 …関東大震災後、女性の社会進出が進んだ。…モダン・ガールが現れるのは、大正末年から昭和初年代。同時に断髪が流行。宇野千代は小説家のなかで断髪をした最初の女性だった。 …化粧と衣装がファッションとして結びついたとき、化粧は薄化粧に、衣裳は体を締め付ける和装から、身体が動きやすい、ゆるやかな洋装に移っていった。 …和装は仕事が終わったとき、くつろぐときの衣裳になるという生活スタイルが、このときからできあがった。
▽122 公設市場 都市住民が急増し、食料品を安定的に供給するために自治体が開設。米騒動をきっかけに急増。 …多くの農産品を中央卸売市場が引き受けることで、需給調整と価格調整が可能になると考えられた。 …現在、中央卸売市場は数を減らしつつも存続しているが、公設小売市場はほとんど消えた。沖縄は今も存在感をみせている。
▽128 「鎮守の森」という言葉は明治後半以前にはさかのぼれない。西洋近代の風景認識というまなざしの力。  鎮守の森は、人工的に植栽・管理する里山的なものだった。大正時代に「原生林」を創出しようとする方針に転換する。大正モダンの日本の感性が鎮守の森の「原生林」化を推進した。
▽134 女子事務員を1930年代からビジネスガールと呼び始めていたが、BGが「街娼」を意味する隠語だという説も現れたため、東京オリンピック前年の1963年にNHKが放送禁止用語にしている。この言葉に変わる呼称を「女性自身」が募集して採用したのがオフィス・レディー(OL)だった。
▽138 サラリーマンという言葉。安月給の人を揶揄して使われていた腰弁や洋服細民にかわって1910年代になって給与生活者を指して用いられるようになった。
▽144 第一次大戦の好景気で一挙に増えたサラリーマン。不況で給料削減や失業増。 …サラリーマンは、学校教育を経て職業につくので、従来のような家業をもたない。妻は職業婦人として働きに出るか、主婦として家事に専念するか内職をするかという選択を迫られるようになった。 …サラリーマン家庭は生産手段を私有せず、地縁や血縁にも依存できないから、個人の能力で職業を得るしかない。子供に継がせる家業もないため、学力と学歴を付けさせるしかない。サラリーマン家庭は、教育のために主婦も学ぶという「教育家庭」になっていく。…1913年「婦人之友」に紹介された家庭用仕事着が「割烹着」のはじまり。主婦の雑誌や「家の光」が急増。
▽154 家業と一体化した家族のあり方は、サラリーマン家庭においては家業から分離した「家庭」を営む夫婦を主体とした「生活」に転換した。「家永続の願い」が「家庭の幸福」に。 …庭付きの家にすむことが幸福の証しとされた。戦後になると、「庭付き一戸建て」に住むためにローン返済に苦しむことがサラリーマンの宿命と観念された。 …1919年の東京近辺の住宅調査では、92%が借家暮らしだった。 …郊外の宅地開発が鉄道会社によって進められ、商業地と居住地ベッドタウンが分離した。サラリーマンが通勤電車で読むための月刊雑誌として「文芸春秋」「キング」が売り上げをのばし、「旬刊朝日」「サンデー毎日」「週刊エコノミスト」が創刊され、週刊誌文化のさきがけとなった。
▽住宅から生活資料、娯楽まで現金によって購入しなければならなくなり、御用聞きや行商人から掛け売りで買っていた主婦も、市場や商店街で買い物するようになる。…生活困窮を避けるため、「消費組合」が生まれ、生活協同組合が組織されていく。購買文化が農村まで及んでいったことが「家の光」が農家で読まれた背景にあった。 …欧米でも、産業革命によって、家族がものを生産する単位から労働力を生産する単位へと転換し、性別役割意識と性的分業が成立したと言われる。日本でも同じことが大正時代に生まれていた。
▽160 柳田「都市と農村」 農村で確認した「うれしい発見」として「労働を生存の手段とまでは考えず、生きることはすなわち働くこと、働けるのが生きている本当の価値である」と思っている人が多かったという事実を挙げている。 …柳田は、日本社会には「複雑なる家業の交響楽を楽しむ」日常があったことに注意を喚起しているが、サラリーマンという「単業の時代」からいくつもの副業をもつ「複業の時代」への可能性も考えるべき時ではないか。
▽校歌 日本固有の特殊なもの。  フランス革命のような「反体制」運動のツールだったのが、状況次第では、国歌に代表されるように統治のツールに転化しうる。  …1879年には「音楽取調掛」が設置された。「一緒に歌う文化」が「上から」の国民づくりのためのツールとして形作られた。 …様々なレベルの共同体において、帰属意識を確認するようなコミュニティソングが日本では数多く作られた。校歌はその代表。昭和初期ごろに「校歌制定ブーム」 …
170 大正前半までの校歌のモデルになったのが、旧制高校などの寮歌だった。 ▽172 流用される寮歌や応援歌。「聞けバンコクの労働者」ももとは一高寮歌の「アムール川の流血や」から。アムールのさらに本歌もあった。 …これは「替え歌」の文化。古くからつづいていた音楽文化の延長線上にある。民謡などでは、ひとつの旋律を共有財産のようにして使い回し…。
▽184 詩 大正は、文語詩から口語詩への移行期。 …七五調や五七調をやめ、口語の破調。 … 「民謡」という言葉は一般化されていなかった。俚謡であり俗謡であり、一般には「唄」とだけ呼ばれた。1925年に始まったラジオ放送とレコード普及によって、全国の「唄」が、都道府県ごとの「民謡」に整理された。
▽207 明治維新以来の日本の歩みは「地方(じかた)が地方(地方)に変わった時代」 …明治政府は、地域を自治の主体とするのではなく、「じかた」から国家機構の末端としての「ちほう」へと編成替えしていった。 …柳田「明治大正史世相篇」 明治の大合併を取り上げ…地方自治ではなく、地方「官治」への変遷ではなかったか。 …「自治」とは、中央政府が財政負担から自由になるという意味での自治であり、資産家優位の町村運営体制が確立した。
▽213 経済危機や社会不安が深刻化すると必ず持ち出されるのが「地方」だった。  日露戦争後の「地方改良運動」も、政界大恐慌後の「農山漁村経済更生運動」も、地方が疲弊しているのは地方に自らの問題を解決する能力が欠けているからであり、中央政府による指導が不可欠という考え方だった。指導行政と国庫補助金の分配を通じての地方公共団体に対する中央政府の権限強化だった。 …新渡戸稲造や柳田は、それに対抗した。新渡戸は都市化と中央集権化が問題だと考え、当時においては自明とされていた中央や外来のものが地方や土着のものよりも優れているという考え方そのものを問い直す契機として地方(じかた)学を位置づけた。 …「郷土」に関心が高まった1910年代。各地で郷土誌の編纂が勧められた。
▽222 民俗学への関心を強めた柳田は、…郷土にあって郷土の民俗資料を採集し研究する若い人材を発掘しネットワークをつくる拠点として「郷土研究」の刊行に力を注いだ。 …「郷土で郷土を」研究する地方学が郷土史や民俗学という形で花開いていく。 ▽224 大正は…地方や郷土の特色を対象とする芸術活動が好意的に迎えられた。それが日本文化を豊穣にさせる可能があった。 ▽新渡戸の地方学や柳田の民俗学は、農山村などのジカタが直面していた衰退の危機に、いかに対処するかという模索から生まれた。自省の学であり、危機の学であり、危機を招いた中央政府の施策に対抗するための学であった。 「郷土が自ら自分の前代を知ろうとするには、中央で行われている今までの方法を持ってきたのでは足らぬのであります。別に地方のための新しい手段を見つけなければならぬ、というのが所謂地方主義の眼目であります」  …現在、中央政府による「地方創生」が唱導されている。(中央からの視点、世界恐慌の時と同じ)  地方(じかた)は、国家以前に存在していた。トランスボーダーな超領域性をもった時空間でもある。
「自治は自知から始まる」
〓「アジアびとの風姿 環地方学の試み」(山室信一、人文書院、2017年)

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