■鉄幹と文壇照魔鏡事件 山川登美子及び「明星」異史 <木村勲>国書刊行会 20170226
山川登美子と与謝野晶子といえば「明星」の歌人で、与謝野鉄幹を巡ってさや当てをして、奔放な恋愛をうたったというぐらいしか知らなかった。ましてや照魔鏡事件と登美子の関係などは、学会でもまったく取りあげられていなかったという。
愛憎渦巻く三角関係や家の呪縛、前近代と近代が混沌とした様子など、江戸川乱歩の小説を読むような読後感だった。
悲劇的な人生を歩む登美子が、その境遇のなかで表現を究め、それが彼女の心を支える様子は、松下竜一の「豆腐屋の四季」とも似ている。
若き歌人の与謝野寛は、20歳に満たないときに女学校の教師となり、教え子で資産家の娘2人と相次いで結婚する。
歌会で出会った鳳晶子と山川登美子も、寛にはまってしまう。この三角関係が二人の短歌の形で「明星」に表現され、一世を風靡することになった。
だが登美子は実家に結婚を強制されてしまう。晶子は先妻から「寛をゆずる」と許されて結婚する。「乱れ髪」など性を赤裸々に描く歌で名声を獲得していった。
一方、登美子を偏愛していた文学青年の高須梅渓(芳次郎)は、この事件をきっかけに「文壇照魔鏡」という匿名の本を出して鉄幹の乱倫や、朝鮮半島での非人道的なふるまいあったと告発した。
それが大反響を呼び、鉄幹はメディアの総攻撃にさらされた。したたかな鉄幹はそれをうまく乗り越え、大きな打撃を受けることはなかった。
親の命令で田舎で結婚した登美子は、自分が照魔鏡事件の原因になっていると知り、深く悔いて傷つく。メディア禍の最大の被害者だった。夫が結核で死に、24歳で東京に再び出てきて文学界にも復帰するが、その傷が癒えることなく、まもなく結核を発症し、29歳で亡くなった。
同じ時期、足尾鉱毒事件が起きていた。高須は照魔鏡とほぼ同じ時期に、正義派の論客として被害者の思いを記す文章を発表していた。三面記事的な恋愛問題と、社会問題の鉱毒事件が微妙に影響しあっている様子も興味深かった。
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▽21 閔妃殺害事件。寛は使い走りの若者扱いで、起訴されなかったが、本人は、事件を自ら「画策」したのだとする主張を生涯変えなかった。「国士」
▽56 照魔鏡で実名まで挙げられた滝野は、寛と別れ、晶子に夫をゆずる決心をした。堺の晶子から滝野あての歓喜号泣の手紙が残っている。
▽60 メディア的には寛の負けは明らかだが、この体験から学び、3年後の「君死にたまふことなかれ」論争のとき、乱臣・賊子と非難した大町桂月をその自宅に仲間と押しかけ、問いつめ、桂月のギブアップ宣言を引き出し、「明星」にのせて局面を転換させた。
▽69 足尾鉱毒事件。政府は渡良瀬川下流の遊水池化を推し進める。…首都防災が最優先、帝都には鉱毒入り洪水お断り……中央の矛盾の地方への転嫁である。
わたしは「地方の時代」などと称される社会現象が明治以降、ある周期性をもって生ずることを分析したことがある。「戦前における思潮としての『地方の時代』」〓〓
▽70 渡瀬流域の大洪水は利根川からの逆流で生じてはいた。それが豊かなみのりをもたらした。だが、水源域の足尾の山々が伐採と煙害で丸坊主になり、一気に水が流れ下ってくるようになる。それには鉱毒が濃厚に含まれていた。
▽72 社会面ネタをもっぱらにする小新聞系が台頭するなかで硬派の大新聞は退潮を余儀なくされ、…明治30年代前半は朝日など小新聞出自の現在の大手新聞社につながる社が、政論を軸とした大新聞の特徴を取り込んで、その中間路線で商業的に成功していった時期であった。それは官との連携(取り込まれ)を前提とした取材・紙面作り体制であり、必然的に官の広報的役割を担うことになった。…それを可能にしたのが記者クラブ制度。(これが成立するのは、私見では日露戦争下の海軍においてである)
▽135 登美子は、思わせぶりな歌を梅渓に送ったが、本心ではなかった。恋文を受け取るといやだと振り切って寛に知らせ…。
▽147 「浜寺の歌会から2週間足らずの間に、2人は数回以上も鉄幹に会っている。…当時としてはやはり異常に属すること」
▽155 時代をとどろかせた官能ラブソング「やわ肌のあつき血しほにふれも見でさびしからずや道を説く君」 「病みませるうなじに細きかひなまきて熱にかわける御口を吸はむ」(ストレートな晶子)
▽159 山口帰りの寛は晶子と登美子の3人で京都・粟田山の辻野旅館に同宿する。
「我いきを芙蓉の風にたとへますな十三弦を一いきに切る」(登美子)彼女としては抽象的にして精いっぱいのラブ表現である。
▽163 理由を明らかにされない「明星」発禁処分。寛は、「文」での発禁はダメージになるから、美術が問題だったと論点をずらした。…論点すり替えによる既成事実化はすでにメディアの効用を手にした寛の得意とするところだった。
▽165 「晶子の明星」となる以前、寛が作品指導、紙面演出に腕をふるっていた「鉄幹の明星」。晶子・登美子はすぐれたタレントだった。紙面は恋の三者関係がわかるように編集された。
▽203 「静逸なる大阪」は、前代、さらには古典文芸以来、この地の正調を行く伝統であった。その正調を当世風に伝えたのが江戸っ子の谷崎潤一郞だった。
現在の大阪イメージは、対せ隠語の新たなメディアであるテレビ、とくに地元局が大市場である東京を意識して、多分に演出的な濃厚脂臭を売りとしたことによる、とわたしは考えている。(〓大阪こってり、は戦後のこと?)
▽205「春みぢかし何に不滅のいのちぞとちからある乳に手をさぐらせぬ」
▽209 明治33年から35年初頭がメディア的には足尾鉱毒問題がもっとも盛り上がったときだった。ピークの明治34年に照魔鏡は刊行された。
▽267 登美子の己を罰する贖罪意識。この国の近代社会における最初期の、メディア禍の被害者。
▽296 全人生が歌い込まれた14首。父、夫、師という縁の男3人(梅渓を入れれば4人)、輝かしい青春と愛に気づいた日々、その暗転、すべてがその躓きからはじまったとする悔い。…自然にこういう構成になったのだろう。
…漱石の「夢十夜」
▽316 梅渓 これまで書かれた多くの登美子論のなかに彼の姿は全く存在しない。あるのは鉄幹だけ。
…すさまじいメディア禍、その因を自らに引き受けてしまう登美子の心理。夫の死、自らの発病、父の死と悲運はつづくが、ここで自己を内部から支える力が湧出する。短歌である。文学の力といってもよい。
(表現が人生を支える〓〓松下竜一にも似ている)
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