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海に生きる人びと<宮本常一>

■海に生きる人びと<宮本常一>河出文庫 20170203
(初版は1964年)
古代の中央政府から海人と見られていた人々は、海岸づたいに新しい漁場を見つけつつ広がった。輪島の海女などは福岡の鐘ケ崎の海人がルーツだ。海人の一部は陸上がりして、一部は海上交通に従事するようになった。日本の人口のなかではごく一部を占めるにすぎない海人の子孫によって日本の海は支配されてきたという。
魏志倭人伝には、入れ墨をして、潜水漁業をしている海人の姿が描かれている。そういった人の住んだところをアマとかアマベといい、「和名抄」には、九州の天草や四国、隠岐、越前、武蔵、上総など17カ所があげられていた。
その後、海人の一部は陸に上がって農民化する。滋賀や長野の「安曇」の地名はその名残で、穂高岳は、安曇氏の祖先穂高見之命をまつったからその名になったという。
「延喜式」によると、佐渡から九州、四国や関東までアワビを貢納していたが、瀬戸内海はない。瀬戸内海はタイやサバ、タコ…などを釣る者が多く、潜る海人はいなくなっていた。
一方、船住まいは、海岸の出入りが多いか島が多い海に多く、九州の西から北と、瀬戸内海がその条件に合っていた。
海人が定住する理由のひとつは塩焼きだった。そして木を切り尽くすと畑を開いて農業もはじめた。塩焼きの木がないところでは、付近の住民を相手に商売をはじめた。だから海人の定住した所には商人町がめだつという。
対馬の海人は、一つの船に夫婦で乗って稼いでいたが、江戸時代に男が鯨組で稼ぐようになって、家船を解体し、女だけがアワビをとるようになった。海女が最も多い志摩では、男がカツオ漁の出稼ぎに出るから、女だけが働いているように思われがちになった。福井の海女の夫たちも最近まで船乗りだったのを思い出した。
昔の船は底が平らだから、潮がひくと干潟の上に固定され、荷物の積み卸しをした。潮が満ちて船が浮かんだら出航した。淀川尻、住吉、武庫、博多津などはそういう船着き場だった。ところが、船に水切りができると、干潮時でも浮かんでいる方がよい。兵庫・堺・室津・鞆津・尾道・浦戸…など中世に入ってからの港は、そういう形だった。
江戸のまちができることで、その住民を養う食料や生活物資が必要となり、廻船が営業として成立するようになった。馬による運搬よりも、海上輸送ははるかに効率的だった。コメを馬で運ぶとしたら1頭に2俵。江戸初期の人口が40万人として、1人Ⅰ石の米を消費すれば40万石、俵にして100万俵、50万頭の馬が必要になる……と陸送と海運の効率の差を数字で示してしまうのが、生活技術を知り尽くした宮本の真骨頂だ。
物資輸送を廻船に依存する傾向がでてきたころ、海外渡航禁止で、500石以上の造船や、竜骨をもちいる船が禁止されてしまった。造船技術はここで一度後退してしまう。
それでも海上交通は衰えず、1658年に伊丹の酒を運ぶ樽廻船が生まれ、醬油や酢、木綿なども積むようになって菱垣廻船ができる。日本海の北前航路は、貸積みではなく積荷を買いきることが多いから、海難さえなければ利益は莫大で、裸一貫から廻船業者になった人が少なくなかった。
中世末以降、三河地方でワタの栽培が盛んになり、その後近畿の平野に移ってきた。魚肥となるイワシは地引網でとった。近世初期に入ると千葉県九十九里浜に進出し、干鰯を俵につめて大阪に運んできた。漁場は江戸中期には下北半島にまで及んだ。
阿波のアイ、各地のタバコ、サトウキビがなどの商品作物の栽培が広がり、肥料の需要が高まって、松前のニシン漁場が開拓された。
日本は島国なのに、わずかな海人とその子孫以外は、海に無関心であり海をおそれさえした。「船に乗ると何はさておいても船室に入って横になることばかり考える。甲板で海の風景をたのしもうとするようなものはごく少数である」と、現代のふるまいや習慣を歴史と結びつけるアクロバティックな論理も刺激的だった。
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▽33 海藻。藻塩を焼く原料に。海水のしみとおったものは日に干して、さらに海水をかけて濃縮した液体を煮つめた。
▽52 若狭湾一帯も早くから海人が定住した。敦賀湾(角鹿)の気比神社は、熊襲征伐では、神功皇后はここから長門へ出発した。軍船が多く、それをあやつる海人も多かったことがわかる。この地の海人は朝鮮半島から来たものが多かったのではないか。立石半島の突端に近いとおろに白木明神がある。「この地には新羅人が住んでいたのではないか」としるしてある。
▽60 佐賀関は古くから海人のいたところで、今日なおもぐりつづけている。…愛媛県三崎にも男海人がいる。海峡のアワビをとっていた。
▽62 鐘ヶ崎の海人 網で魚を捕り、また鉾で突き、女は潜ってアワビを多くとった。対馬や壱岐の海人は鐘ヶ崎から進出した人々だった。能登へも。
▽73 対馬の海人 一つの船に夫婦ともに野って稼いでいたものが、男が鯨組で多く稼ぐようになって、家船を解体させなければならなくなった。そして女だけがアワビをとる生活がはじまった。鯨のとれるところでは、家船が解体していった例がきわめて多いのである。…アワビは支那へ輸出されるようになって高価に売れるようになり、女がアワビとりに力をいれるようになった。男は網漁をおこない、また羽差として出ていくので、男女の仕事はおのずからわかれてきた。
(江戸時代家船がへるのは、鯨組に参加していたから。鯨組が解体すると、家船がまたふえる。)
▽77 舳倉の海人 土地の漁民は七ツ島や舳倉島まで出かけることがなかったので、新来のものの稼ぎ場としてこれらの沖の島を与え、沿岸のアワビはとらせぬようにしたともいわれる。……「輪島崎と鳳至町の間に12200歩ほどの山畑があるから、そこを拝領して別に小家をつくり、きれいなところでのしアワビをつくりたいからよろしくお願いしたい」とあり…
▽80 一つの天国として、毎年島に渡ることを楽しみにしたのである。…新暦の6月23日頃の朝6時に海士町を出て、その日のうちにわたってしまう。…追い風がよく吹いておれば昼前には島へつくことができた。
▽82 島にいるとき男たちは、網漁でイワシその他の干物をつくる。女たちはワカメをとって干しておく。輪島にもどって、今度は本当の家船で、能登の浦々をまわり、農家へいって米や大豆とかえてくる。それを灘まわりといった。
▽89 瀬戸内海や九州北西の海人の生活や技術には共通のものがあり、男女ともに一船で沖で働く風が見られたが、海人のもっとも多い三重県志摩地方では、近い過去に家船があったような様子は見えない。
▽93 男ばかりの漁のひとつがカツオ釣り。男が出稼ぎしておれば、女だけが稼がねばならぬ場合もあった。志摩では女だけが産みに働いているように思われがちになった。
広がっている。(福井の海女も、男は船乗りに〓)
▽110 塩を焼くために木を伐採し、その跡をひらいて耕作する…半ば農民化…背後が水田地帯ですでに拓き尽くされているところでは塩焼きをおこなうことは少なく、むしろ付近の住民を相手に商人化する傾向が見られる。古く海人の定住したと見られる所には商人町が少なくない。
▽124 和寇と商船
昔の船は底が平で、渚に着けるとともに潮がひくと干潟の上にそのまますわってしまった。…だいたい月の出るときは潮が八合満ちているときである。潮が満ちてきて今まで干潟にすわっていた船が浮いたら、漕ぎ出すことになる。
船はできるだけ潮の満ちているときに船を着け、ひくと船のになども陸揚げし…。そういうところが古くは船着き場として利用せられた。淀川尻、住吉、武庫、博多津などはそういうところ。
…ところが、そこに水切りがあると…船は潮のひいたときに海に浮かんでいる方がよくなる。するとそういう港が喜ばれる。兵庫・堺・室津・鞆津・尾道・浦戸…など中世に入って発達する港。津とよばれるところが多くなる。
▽140 秋田県の男鹿半島の戸賀は現在潜水海人の北限だといわれている。南からじょじょに北上してこのあたりまで村をつくったのである。
▽ 正月の食べものは、昆布、塩鮭、カズノコなど北海産のものが多い。
▽158 家船の商船化
大分・臼杵湾の津留という部落。平家の子孫であると自称していた。広島の能地から来たらしい。海で得た魚を女たちは桶に入れ頭にのせて付近の村々を売り歩いた。イサバという小さな運搬船。九州と大阪を往来するようになり、石炭を積む。昭和初期までにはほとんど運搬船にきりかえた。津留の運搬船が成功したのは夫婦共稼ぎで船の中に一家のものが寝泊まりして、別に船員を雇うことがなかったためである。
▽160 有明海沿岸の機帆船の運搬船のほとんどは家族乗り組みで与一浦や御所浦島などの古い海人部落の出身者が大半をしめている。
▽176 小豆島・塩飽諸島の廻船業
由良、福良、岩屋のように海峡に臨むところでは釣り漁が盛んだったが、それ以外では、一般に砂浜の長くつづいているところが多く地引網漁が盛んにおこなわれた。
▽180 山田長政によってつくられたシャム国の軍艦の図を見ると、舳先に板水押がつき帆は洋式のもの。近世初期にはかなり行動性のある船がつくられるようになっていた。ところが、このような船は、寛永16年の海外渡航禁止を境として一切つくることが止められ、漁船の商船化したものに軍船の様式が取り入れられて次第に大きくなって、江戸時代の沿岸用廻船が発達してくる。だがその船は帆柱が1本であり…真後ろから風が来るのでなければ帆走は難しい。造船技術からいうと一歩遅れたことになる。
▽184 江戸開府によって、その住民を養うための食料や生活物資が必要となり、廻船が営業として成立するようになる。コメを陸送するには、馬で運ぶとしたら1頭に2俵。100俵運ぶには50頭の馬が必要で、10人の馬方を必要とする。江戸初期の人口が40万人として、1人Ⅰ石の米を消費すれば40万石、俵にして100万俵、50万頭の馬が必要になる。馬方だけでも10万人以上いなければならぬ。
海上輸送なら、500石積の船は、1259俵を積める。馬につけるとすれば625頭分馬方125人を要し、大阪から江戸間で11日を要すると見込まれる。船ならばよい順風のある限り、同一の日数で船員10人ほどかかって、運ばれるのである。
…鳥羽から下田までは港らしい港がないので危険が多かった。
(宮本の真骨頂。海の暮らしの技術。山の暮らしの技術、運送方法などを具体的に知っている)
▽186 物資輸送の大半は廻船に依存する傾向を見せはじめたところ、寛永12年(1635年)500石以上の造船を禁じ、竜骨をもちいる造船法が禁止せられて、江戸への海上交通は困難をきわめることになる。享保の初めごろ(1716)に200隻あった廻船が50年後には30隻に減っていた。
…にもかかわらず、海上交通は衰えず、1658年に伊丹の酒を運ぶ樽廻船が差し立てられ、小間物屋醬油、酢、木綿なども積むようになって菱垣廻船にとってかわる。
…日本海の北前航路は、寛文11年(1671年)河村瑞賢によってひらかれたといわれる。…日本海岸では貸積みではなく、積荷を買いきることが多く、海難にあいさえしなければ利益は莫大だった。日本海側には裸一貫から身を起こして廻船業者になったものが少なくない。
能登の黒島は、良港ではないのに、そこが幕府領でほかへ出て行くにも比較的障碍が少なかったことと、当初能登半島の塩を加賀や越中へ運んでいたのがしだいに大きな廻船業者を生むに至った。
橋立の場合は、尼御前崎があるように、昔は海人の村で、海人から廻船業に転じて入ったのである。
▽193 50歳をすぎて廻船乗りが困難になると、郷里で小漁師にもどるのが普通だった。塩飽島に廻船のほかになお多くの漁船や小船があったのは、志摩が老人たちの住処として、小船は老後を生きていくための手段として必要だったのである。
▽198 泉佐野 漁民の多くは遠方出漁し、地元は小船ばかりの漁浦になりさがった。江戸後期に入ると、和泉木綿の機業地になる。女たちは家に残って木綿織に精出した。漁家の場合は(農家とちがって)女の労力がすべて利用されるので、漁浦での機織はきわめて盛んになる。
…佐野には小さい機屋が群生してくるが、その大半は漁民の陸上がりしたものであった。
▽201 中世末までは漁民はきわめて移動性がつよかった。これを定住させ、近世的な秩序をうちたてていったのが豊臣秀吉。
海上漂泊民は、沖の小島を根拠地にしていた。田畑はなくてもよい。水と薪が得られれば事足りる。海賊の根拠地を見るとよくわかる。瀬戸内海でもっとも強大をほおった村上氏でも、古城島、能島、務司島、中途島など今日いずれも無人島になっている。そのほかでも来島、魚島、新居大島などきわめて小さい。…瀬戸内海の平穏を保つには、こうした根拠地をつぶしていく必要があった。
▽204 生口島は江戸中期から綿をつくるようになり、多くの肥料を必要とした。沖でテグリ網をひいている能地の家船たちは糞尿をすべて海にたれ流している。もったいないことだと考えた農民が海岸に小屋を建て、そこへ定住させるようにした。
…岡山県児島半島の南岸にも家船の定住を見た部落がいくつかあるが、その地方の農民に糞尿を提供するために定住したものだといわれる。〓
▽206 定住地には1月に1回帰ってくればよいくらい。…明治になって義務教育制度がしかれたが、陸上がりして学校へ通うものは少なかった。大正の初めには、因島の箱崎など寄宿舎をもうけてそこへ通学児童を収容して通学させることにした。…次第に定住地に落ちつくようになり、漁業だけでは生活がたちにくくなって転業を強いられることになる。
▽212 イワシは肥料にもしたが、釜で煎ったものを干して煮干しとして鰹節と同じようにだしとしてもちいたり、副食物にもした。広島沿岸のイワシ網業者たちはやや大きな船に、イワシを煎るかまどを据えて、船上ですぐ煎ることにした。「煎り船」「釜船」。広島県側のイワシ網船はこうした船を同道して、沖でとったものをその場で煎って腐敗を止めるのが大きな特色でもあった。漁獲物の加工船としては、世界でもっとも古いのではないか。〓
▽222 中世末以降、三河地方でワタの栽培が盛んになり、近世初期に入ると近畿の平野に移ってくる。大和、河内、和泉、摂津ではおびただしい栽培を見るにいたる。肥効の高い肥料であった魚肥。そのイワシははじめは地引網でとった。大阪湾岸は白砂の浜がつづいていたからイワシ網が早くから発達した。近世初期に入ると千葉県九十九里浜に進出する。浜でほして干鰯とし、俵につめて三浦半島の浦賀から大阪向けの廻船に積んで運んだ。その漁場は江戸中期になると下北半島にまで達した。
▽225 魚肥の絶対量はなお不足。商品作物の栽培が西日本に全面的に広がっていったからである。阿波のアイ、各地のタバコ、サトウキビがそれである。
それらの需要を満たすため、松前のニシン漁場が開拓せられる。…大阪へは江戸中期以後、ニシンの入荷が干鰯の量をこえてくるようになる。
▽226 一本釣り漁師たちが釣り糸にテグスを使用するようになってから釣り漁はすばらしい発展をする。テグスはシナ広東省地方の楓蚕の腺液を醋酸のなかでひきのばしてかためたもの。はじめ薬品の包装したものをくくるために利用せられたというが、漁民がこれに目をつけた。正徳4年(1714)に大阪にはじめて問屋ができる。
▽228 肥前五島から五島鮪の江戸への輸送。風さえよければ1週間で江戸に達した。無塩の鮪を江戸人の食膳にのぼさしめた。途中で風待ちをしなければならなくなると腹を割って臓腑を出し、塩をして江戸までもっていったが、そうすれば半値にも売れなかった。
▽234 日本は島国なのに、民族全体に海洋性らしいものはみとめられない。わずかに海洋民族らしい活躍をしたのは少数の海人とその子孫たちにすぎぬ。そして日本人は全体としておよそ海に無関心であり海をおそれさえした。今も、船に乗ると何はさておいても船室に入って横になることばかり考える。甲板で海の風景をたのしもうとするようなものはごく少数である。それだけに国民全体としても海に対しては無関心に近い。

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