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天神崎を守った人たち<河村宏男>

■天神崎を守った人たち<河村宏男>朝日新聞社 20161025

朝日新聞の記者が、天神崎にかかわった人々を丹念に取材し、日本のナショナルトラストの先駆的運動がどんな経緯をたどってきたのかを紹介している。それまでの自然保護運動とちがうのは、土地を買い取ってしまう、というだけでなく、開発業者さえも味方に取り込もうという包容力にある。その背景には、クリスチャンである外山教諭の思想と、自己犠牲をいとわない献身的な行動があった。
どんな運動でも、気が狂ったと思われるくらい自己犠牲を払う人なしには成功しえない。この運動では、自らの退職金や家屋敷まで抵当に入れてまで買収費を確保した外山教諭や、月給やボーナス、退職金、年金、営業資金などから多額のカネを出した教員や自営業者がいた。本にはあまり書かれていないが、教員組合によって育まれたコミュニティが大きな役割を果たしていた。組合が衰えた今、これだけの自己犠牲をはらう先生グループは出てこないだろう。さらに、家庭に問題のある自宅に住まわせてしまう先生もいた。そういう「金八先生」が当時の田辺にはグループとして存在したというのがすごいことだと思う。
天神崎の北隣の芳養湾に、火力発電所や海上空港を建設する構想がもちあがったが、「大切にする会」は反対運動をしなかった。行政の課題に異論を唱えると、さまざまな人が参加している会にヒビが入るからだ。でも、天神崎の運動があったから、結果的に空港や火力発電の計画も止まったという。

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▽5 丘の南斜面に3つの開発業者が50戸分の別荘地を造成しようと許可申請を県に出した。1974年に高校の先生たちがその情報をキャッチする。
…1987年、全国はじめての自然環境保全法人、ナショナルトラスト法人第1号に。
▽13 天神崎運動のシンボル、丸山灯台
…近頃の田辺湾は、自然海岸のほとんどが消えてしまった。せめて天神崎だけは、手をつけずに自然のままの姿で残したい。それが運動の原点だった。
…田辺湾には黒潮が、熱帯や亜熱帯の生物を運んでくる。…自然の営みを保存していくためには、陸地から土砂や排水が流れこまないよう、後背地を確保しなければならない。…一番高いところが日和山。
▽18 京大臨海実験所の元所長、時岡隆名誉教授
…外山八郎さんは、「守る会」とせずに「大切にする会」にしようと強く主張した。「守るというのは、攻めてくる敵がいる、ということです。この運動には、敵があってはなりません。開発会社の人も、けっして敵ではないのです。運動を理解してもらい、協力しあって、天神崎を大切にしていきたいのです」
…開発業者も、着工を止められ、買い取りまで長いこと待たされて、結局は自然保護に協力したのだ。
▽25 時岡隆さん「田辺市の天神崎と、京大の臨海実験所や我が家のある白浜町の番所ケ崎とは海上わずか3.5キロ。すぐ目の前です。コの字型の田辺湾の入口にあり、湾をはさんで向かいあっています」
▽27 運動の中心になった人たちが、自分たちの月給、ボーナス、退職金、年金、営業資金などから、かなり多額のカネを出したこと。
▽28「時岡先生は、田辺湾の自然保護を早くから主張し、研究のために住みついてしまったんです。京大の教官時代、観光開発されようとした湾内の島を、国に買いとらせた、いわば運動の経験者なのです」
▽30 時岡さんは昭和13年、臨海実験所につとめてから52年に所長を退官するまで、田辺湾の生物を研究してきた。助教授だった41年〓、すぐ目の前の畠島(2.6ヘクタール)を観光会社が買いとって、海洋娯楽センターをつくろうとした。島に橋までかけるというのだ。…小さな島だが、砂浜と岩礁があり、内湾性と外洋性の生物がたくさんいる。…国が買いとることに。だが、値段の開きが大きく「それっぽっちのカネで売れるか」と社長はどなった。が、会社が別の件で税務署から追徴金をとられ、どうしも現金が欲しくなったのです。3年がかりでした。
▽31 有明海のムツゴロウのような特別な生物がいるわけではない。ほんの間口(南北)(3.5キロ)、奥行き(東西)5キロという小さな湾である。が、その位置や地形の関係で、海洋生物の宝庫なのだ。
…黒潮の支流が、潮岬の手前から紀伊水道へ北流し、田辺湾にも入ってくる。それが、天神崎から時計回りで湾内をゆっくり洗い、臨海実験所のある番所ヶ崎から再び出て行く。これが熱帯・亜熱帯の生物を運んでくる。
一方、湾の奥には小さな枝湾が多い。瀬戸内海のように水の動きが少なく、内湾性の生物がいる。田辺湾には、熱帯性と内海性の生物がまざりあって共存しているのだ。
▽40 外山さんは田辺高校の生物教師だった後藤さんと玉井さんに声をかけて…
▽51 私たちが天神崎を守るのは、そこが市民の憩いの場であるとともに、子どもたちのための生きた生物学教室であり、野外教育の場であるからです」
▽55 熊楠は、今世紀はじめには自然破壊によって生態系をこわすなと訴えていた。天神崎の危機についても予言していたそうです。
▽62 南方文枝さん「父は天神崎から帰ってくると、口癖のようにいってました。磯は広いし、景色はいい。いまに大阪の不動産屋がやってきて、土地を買い占め、別荘を建てるにちがいない。…天神崎一帯を保護地区に指定しなければいかん、とねぇ」
…神社合祀。和歌山県は3700社ほどあったのが、5年間で5分の1に減った。
…神島、周囲1キロ、広さ3ヘクタール。合祀令で廃社に。島の木も伐採することになったが、熊楠の説得で村長が思いとどまり、県の保安林に。そして、史跡名勝天然記念物保護区域に指定された。
▽65白浜温泉では、大阪のガラス工場に海岸の砂を売っていた。熊楠は「砂は重要な観光資源だ。切り売りするようなことをしていたら、いまに砂がなくなってしまうぞ」ってやめさせた。
▽102 職員朝礼のとき、先生がたに「12月のボーナスで、いくらでもけっこうですから貸して下さい」
▽112 天神崎の自然を残したい理由は、①市民のいこいの場だから②子どもたちの生きた生物学教室だから、と、外山さんは説いてまわった。
▽135 畑と山林と家屋敷も借金の抵当に。「このときはじめて、家内が反対しました。『自然保護が大切なことはよくわかっています。だから、これまで黙ってついてきました。が、こんどは嫌です。そこまでしなくてはならないものでしょうか』と」
▽138 ナショナル・トラスト運動を日本にはじめて紹介したのは、作家の大佛次郎だった。鎌倉の鶴岡八幡宮の裏山が開発されようとしたとき…
▽158 後藤先生、両親が離婚した生徒を家に預かる。交通事故で親を亡くした生徒も引き取る。「毎朝、お弁当を6つつくるんです。わたしら夫婦は学校へいくでしょ。息子と娘が1人ずつ。預かってる子が2人、男の子は腹が減るとうるさいから、脂っこいものをたくさん詰めます。女の子は色合いを考えて、果物や野菜をちりばめ、見た目をきれいにせなあかん。」
▽173 廃品回収をする看護師。おばちゃん、ふつうの市民が次々に参加。〓子どもの手紙も。何が心を響かせたのか。
▽184 和歌山県内の人は、教員と公務員が42.8%で一番多い。つづいて主婦、自営業やサービス業の順。県外の人は、主婦が27.9%で1位。つづいて教員と公務員、無職の順。
▽192 開発業者 女房が外山さんの勤めている学校へ「直訴」にいったのは昭和53年5月ごろ。わたしは田辺署へ電話しました。「いまから、外山のところへ談判にいくんや。わしは気が高ぶっとるから、何するかわからん。刺し殺すかもしれんぞ」
▽198 「天神崎運動は、大きい目で見て、田辺の経済開発の邪魔になってます。手狭な白浜空港のかわりに、天神崎の隣の芳養湾にジェット機の入れる空港をつくろう、火力発電所を誘致しようという計画があったが、流れました。原因は天神崎運動です。自然保護は聖域だし、それを支持するマスコミはこわいのです」(山林主の真砂久哉さん)
▽207 外山さん 分裂せず、息長くつづけられたコツのひとつは、政治を持ちこまなかったことだという。「北隣の芳養湾に、火力発電所や海上空港を建設する構想がもちあがりました。…天神崎の自然をおびやかしかねない問題でしたが、わたしたちは反対運動をしなかった。…行政の課題に口を出すと、いろんな階層や職業の市民が参加している天神崎の会にヒビが入ります。わたしたちの目標は、天神崎を守ることだけに絞りました」
(〓〓でも天神崎があったからさらなる開発も防げた)

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