■美しい日本の私<川端康成> 講談社
ノーベル文学賞受賞時の講演。明恵をどう位置づけているか知りたくて買った。
道元や良寛とともに明恵の歌を紹介する。
雲を出でて我にともなふ冬の月 風や身にしむ雪や冷めたき
という歌について、「自然や人間にたいする、あたたかく、深い、こまやかな思ひやりの歌であり、しみじみとやさしい日本人の心の歌」という。川端は、日本礼賛のためにこの歌を評価するのではなく、むしろそれを失った現代日本批判という意味を込めているという。
芥川龍之介は遺書に「…僕がいつ敢然とお自殺出来るかは疑問である。唯自然はかういふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛ししかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは、僕の末期の眼に映るからである」と書いたのも取り上げた。
芥川の気持ちは理解できる。転勤で長年住んだまちを離れるとき、風景がやけに美しく見える。 ましてや、まもなく死ぬと意識したときの美しさはたとえようもないだろう。川端は死を意識する眼をもっていたから美しい小説を書けたのかもしれない。だから数年後に自殺することになったのだろうか。一休禅師や良寛、明恵のスカンと抜けたような透明感も、西行のいう「虚空」の感覚も、死を見つめることで育まれているのかもしれない。
「しみじみとやさしい日本人の心」とは死を意識することで生じる、自然や他人に対する透明なやさしさのことではないのだろうか。
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▽7 (冒頭に道元の歌とともに紹介)
雲を出でて我にともなふ冬の月 風や身にしむ雪や冷めたき
山の端にわれも入りなむ月も入れ 夜な夜なごとにまた友とせむ
あかあかやあかあかあかやあかあかや あかやあかあかあかあかや月
明恵を「月の歌人」と呼ぶ人もあるほど。
「月を友とする」よりも月に親しく、月を見る我が月になり、我に見られる月が我になり、自然に没入、自然と合一してゐます。
▽10 雲に入ったり雲を出たりして、禅堂に行き帰りする我の足もとを明るくしてくれ、狼の吠え声もこはいと感じさせないでくれる「冬の月」よ、風が身にしみないか、雪が冷たくないか。私はこれを自然、そして人間にたいする、あたたかく、深い、こまやかな思ひやりの歌として、しみじみとやさしい日本人の心の歌として、人に書いてあげてゐます。
(〓失ったものを。現代日本批判)
▽12 私の小説「千羽鶴」は、日本の茶の心と形の美しさを書いたと読まれるのは誤りで、今の世間に俗悪となった茶、それに疑いと警めを向けた、むしろ否定の作品なのです。
▽15 良寛の歌 しみじみとさびしい。
▽17 「末期の眼」という随筆。この言葉は芥川龍之介の自殺の遺書から拾ったもの。「…僕がいつ敢然とお自殺出来るかは疑問である。唯自然はかういふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛ししかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは、僕の末期の眼に映るからである」
(亡くなる前の風景の美しさ。引っ越しは擬死体験。死を意識し、そういう眼をもっているから美しい小説を書けるのだろうか。川端も。一休も)
▽23 禅宗に偶像崇拝はありません…さとりは自分ひとりの力でひらかねばならないのです。そして、論理よりも直観です。他からの教へよりも、内にめざめるさとりです。心理は「不立文字」であり「言外」にあります。
▽31 源氏物語は古今を通じて、日本の最高の小説で、現代にもこれに及ぶ小説はまだなく、十世紀に、このやうに近代的でもある長編小説が書かれたのは、世界の奇蹟として、海外にも広く知られてゐます。
▽35 西行法師常に来りて物語りして言はく、…花、ほととぎす、月、雪、すべて万物の興に向ひても、およそあらゆる相これ虚妄なること、眼に遮り、耳に満てり。…花を読むとも実に花と思ふことなく、月を詠ずれども実に月とも思はず。ただこの如くして、緑に随い、興に随い、読みおくところなり。…白日かがやけば虚空明かなるに似たり。しかれども、虚空は本明かなるものにあらず。また、色どれるものにもあらず。我またこの虚空の如くなる心の上において、種々の風情を色どるといへども更にしょう跡なし。この歌即ち是れ如来の真の形体なり。(喜海の「明恵伝」より)
東洋の「虚空」、無はここにも言ひあてられてゐます。私の作品を虚無と言ふ評家がありますが、西洋流のニヒリズムといふ言葉はあてはまりません。心の根本がちがふと思ってゐます。…
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