■明恵上人<白洲正子>講談社文芸文庫 20161106芸術にくわしい筆者が、いさぎよく美しい明恵の生き方を女性の視点から描き出す。
明恵は幸せな幼年時代だったが、8歳で母を亡くし、同じ年に父も上総国で戦死した。頼朝が兵をあげた時の戦だった。
「我は後世たすからんと云ふ者にあらず。ただ現世に先づあるべきやうにあらんと云ふ者なり」。浄土に救いを求める法然たちの浄土宗とは正反対で、「今」を生き抜く覚悟がすがすがしい。その潔さは武士の子としての育ちによるものらしい。
「あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月」「雲をいでて我にともなふ冬の月風やみにしむ雪やつめたき」などの歌で、明恵は「月の歌人」と呼ばれる。「我ナクテ後ニシヌバン人ナクバ飛ビテカヘレネ鷹島ノ石」などと、無人島や小さな石とも心を通じていた。月も石も島も、彼にとっては人間の友と変わらぬ存在だった。
明恵は宗派はつくらなかったが、彼の「あるべきやうわ」の思想は、御成敗式目に引き継がれ、江戸時代まで影響を及ぼした。その影響力は徹底した純粋さによるものなのだろう。
明恵は死ぬまで童貞だった。「単に戒律を守っただけでなく、現実の女性は、童貞を捧げるべく、あまりにはかない存在に映ったのではないか」と筆者は純粋さをたたえるが、現実の女性を母との比較でしかとらえられなかったマザコンという側面を見落としているような気がした。
白洲の明恵論は美しいのだけど、美しすぎて純粋すぎて、違和感を感じる部分も少なくなかった。私の心が汚れているからだろうか。
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▽12「我は後世たすからんと云ふ者にあらず。ただ現世に先づあるべきやうにあらんと云ふ者なり」 すがすがしい
▽35 雲をいでて我にともなふ冬の月風やみにしむ雪やつめたき
やまのはにかたぶくをみをきて、みねの禅堂にいたる時…
桜を愛した西行に対して、明恵を「月の歌人」と呼ぶと聞きますが、つまらないことです。月も花も雪も、彼らにとっては付き合いのいい友というより、自分を写す鏡として、向こうから眺められている心地がしたに違いありません。…自然の中に没入したように、歌の中にも、まったく手ぶらで入って行けた人なのです。
▽37 あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月
▽57 仏眼仏母像 彼は一生不犯で通し、…単に戒律を守っただけでなく、現実の女性は、童貞を捧げるべく、あまりにはかない存在に映ったのではないでしょうか。(マザコンとしての明恵、そこに純粋さを見る筆者の視点)
▽62 油を流したような入海の、複雑な海岸線を背景に、苅藻島、鷹島、黒島などが点々と浮かび、その向こうにかすかに見えるのは淡路島でしょうか、折しも日落ちるところで、金粉をまき散らした海面に、それらの島々が夢のように煙っている。…普陀落信仰とか西方浄土のような思想が、こういう風景の中から生まれたということは、…うなずけるものがあったのです。
白上の庵室跡は、施無畏寺から7,8丁登った山の頂にあり、…明恵ははじめ、西の峰に住みましたが、そこは漁村の真上に当たり、何かと騒がしかったため、後に後峰に移ったと聞きます。
▽66 自然の中に神を見たいと願ったのが明恵上人で、末世に生まれた人間にとって、それは非常に苦しいことだったに違いありません。美しい風景は彼にとって、ただ楽しむためのものではなく、たえず「見ること」をしいた過酷な存在だったかもしれないのです。
…ある夜、仏眼仏母の前で、耳の耳を仏壇にしばりつけ、剃刀をもって切ってしまう。「血ハシリテ本尊ナラビニ仏具ナドニカカレリ。其血今ニ失セズ」とその凄惨な様子を伝えています。
▽71 紀州で蜜柑を作るようになったのは近世のことで、昔はビワの名産地だったそうです。
▽73 苅藻島への長文の手紙。
しばらくご無沙汰したが、お変わりはないか。昔、磯に遊び島に戯れたことを思い出すにつけても、涙がこぼれる程懐かしく思っているが、お目にかかる機会もなく打過ぎたのは、残念である。またそこにあった大きな桜の木のことも、恋しくてたまらない。手紙を書いて、様子を聞きたいのは山々だが、物言わぬ桜のもとへ、文など書いて送っては、わからず屋の世間の振る舞いに似て「物ぐるひ」と見られるやも知れず、そういうわけで今までは我慢していた。「然れども所詮は物狂はしく思はん人は友達になせそかし」自分にとっては、行い澄ました人々より、そういうものこそ得がたい友と、深く信頼している。大事な友達を尊重しないのは、衆生を護る者として申しわけないことである。よって、このような文を奉る、「恐惶謹言。島殿へ」とあり、使いの者ががあっけにとられて、誰に渡したらよいか尋ねると「只其苅藻嶋の中にて、栂尾の明恵房の許よりの文にて候と、高らかに喚ばはりて、打捨てて帰り給へ」といったという。
…苅藻島の石は、天竺の蘇婆卒河になぞらえて、蘇婆石と名づけました。…鷹島の石の方は、黒い所に白い線の通ってる卵形のもので、…
我ナクテ後ニシヌバン人ナクバ飛ビテカヘレネ鷹島ノ石
▽74 一時、高雄に行っていたが、1198年には再び紀州に帰ってくる「…筏立と云ふ処あり…」
▽76 三蔵法師の「西域記」などをたよりに旅行の計画を立てるのですが、京都を出発して、1日に8里では何日、7里では何日という風に、長安の都からインドの王舎白まで5万余里、即ち8333里12丁というところまで、実にくわしく調べ上げています。
▽88 文覚は、後白河法皇に流され、伊豆で頼朝挙兵をそそのかし、頼朝の死後はまた流され…荒法師のような生き方。
▽100 あるべきやうわ
お茶は高山寺にはじまった。建仁寺の僧正が唐からもちかえったものを植えて、栂尾から宇治に移され、今でも宇治の業者たちは、明恵上人を茶の祖として仰いでいると聞きます。
…栄西は自力難行の禅宗、法然は他力易行の浄土宗。自力を元とした明恵の信仰は、栄西の禅に近かった、というより、禅宗そのものだったといえましょう。…明恵のほんとうの流儀が何であったのか、それを語るのはむつかしいことなので、華厳から出て、華厳を超えている。
▽108 日本で末世とか末法といわれだしたのは平安朝で、鎌倉時代に入ると、苦しい現世はあきらめて、死後に浄土を求める気持ちが切実になってきた。それに直接こたえたのが、法然と親鸞ですが、「現世にはとてもかくてもあれ、後世計り資かれと説かれたる聖教はなきなり」と、明恵がいったのは、彼らを意識したものに違いありません。
…末世とか末法とかいうことも、あまり気にしてはいない。時世を憂うるより、釈迦の理想を実現することが急務であった。そこに「あるべきやうわ」という、現実肯定の精神が生まれたのですが、幼いときから釈迦だけを目標に学んで得たものは、ようするにこの7文字につきるといっても過言ではない。
▽122 明恵を訪ねてきたお坊さんに対して、一晩中語りつづけたので、疲れ果てた坊さんたちは小用に立つふりをして、かわるがわる休息をとったが、上人はその場から動かない。次の日も食事にも立つ気配がなかったので、弟子が注意すると、彼は一昼夜たったとは露知らず、いまだ昨日の昼のつもりでいた。
▽133 北条泰時は、丹波国の一庄を高山寺に寄進しようとしたが、明恵はそれを断りました。…僧は貧しくて、人の恵みによって生きていれば、放逸に流れる恐れはない。…
▽144「御成敗式目」「道理」というものが、法を支える精神とされており、その根本には明恵の影響を見ないわけには行きません。…泰時の無私を示すのは、独裁を否定したことでしょう。執権職を2人にし、更に11人の評定衆を作り、合議制をしきました。その中には、かつて謀反をはかった伊賀光宗も入っており…
▽147 華厳絵巻 2人の主人公の名を借りて、自分の思想と体験を語ったのではないか。
▽152 明恵は若いときから、美貌の聞こえ高く、女の信者に慕われ…
▽168 「我ナクテ後にシヌバン人ナクバ飛ビテカヘレネ鷹島ノ石」の歌は、石の表面に書きつけてあり、よく見ると今でも筆の跡がかすかに残っています。
▽188 「念珠像」 恵日坊成忍は、上人の眼や耳などの寸法まで計って描き…真に迫った作でした。
…「我ガ死ナムズルコトハ、今日ヲ明日ニツグニコトナラズ」明恵の仏教をついだ人はいなかったかも知れないが、明恵というひとつの精神は、数は少なくともそれを伝えた人々によって、私たち日本人の中に「今日ヲ明日ニツグ」が如く生きつづけるでしょう。
▽河合隼雄の解説
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