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熊野 海が紡ぐ近代史<稲生淳>

■熊野 海が紡ぐ近代史<稲生淳>森話社 20161024

■熊野 海が紡ぐ近代史<稲生淳>森話社 20161024
熊野と海のつながりの歴史は別の本に詳しく書いてあったが、近代に関する記述はあまりなかった。エルトゥールル号事故や、アラフラ海のダイバーなどの背景やそのほかの「熊野の海」と世界とのつながりを知りたくて入手した。

熊秦の始皇帝の命令で不老不死の薬をさがしにきた徐福や、那智山を開山したと伝えられるインドの裸形上人の伝承など、古くからの外とのつながりを示す伝承がある。カツオやマグロ、クジラを求めて先進的な漁法を編み出して全国各地に伝えた。明治になると、ダイバーなどで外国に出かけていった。
ペリー来航の62年前にアメリカ船が最初に来たのも串本の大島だった。その船レディ・ワシントン号は中国の茶や陶磁器、南京綿などの輸入するための航海だった。とくに茶は、18世紀にはイギリスの日常生活に欠かせないものとなっていた。
ペリーのころ、アメリカ捕鯨は小笠原周辺海域にまで進出していた。クジラは、ランプや灯台の光源、女性のスカートの骨としても重宝がられた。なかでもマッコウクジラの頭部にある固形物でつくったロウソクは高値で取引された。捕鯨活動に伴って、蒸気船の燃料及び食料基地として日本が注目するようになった。

暗礁や岩礁の多い熊野灘は「遭難海岸」と恐れられ、諸外国は真っ先に樫野崎と潮岬への洋式灯台設置を要求し、1870年に点灯した。
日本における灯台建設の中心となった外国人のほとんどが英国のスティーブンソン社から派遣された。当時の外国人旅行者は日本を称賛する人が多かったが、灯台技術者のプラントンは「この国をたまたま訪れた旅行者によってこの国民が過大に美化されている弊害を私は強く感じている…」「日清戦争での勝利によって誇張された評価は、日本人に過剰な自尊心を持たせてしまった。そのことは災いへとつながるかもしれない」と数十年後を正確に予見していた。
ノルマントン号やエルトゥールル号など外国船の漂着や遭難、灯台建設をとおして、早くから外国人と接触していたことが、出稼ぎや移民として外国に出る素地になったという。オーストラリアの木曜島やアラフラ海への採貝出稼ぎはイギリス人灯台技師のつながりで出かけるようになった。
採貝は、ボタンの材料としての貝殻が目的だった。産業革命によって綿製品が大量生産されて貝ボタンが重宝された。
その後、オーストラリアが移民を制限したため、トレス海峡とティモール海に東西をはさまれたアラフラ海に行くようになった。太平洋戦争で打ち切られたが、戦後一時復活した。

熊野での海難事故は、物資の流通が盛んになった江戸中期から急増した。弁才船(千石船)は甲板がないため荒天候に弱かった。地乗りから沖乗り(沖を通る航海)にかわり、夜間航海も可能となったことも、遭難の原因になった。夜間に黒潮の反流現象で流され、暗礁に激突することも多かった。
串本・和深のマグロ船「良栄丸」は1926年から11カ月間漂流し、アメリカ太平洋岸の沖でアメリカ貨物船に発見されたが、乗組員全員が餓死していた。乗員は克明な航海日記をつけ、串本町無量寺の応挙芦雪館には板に墨で書かれた遺書が保存されている。

昭和末頃までは、熊野の家には外国経験が必ずいたし、大島や潮岬、出雲などでは床の間に大きな貝殻が戦利品のようにおかれていたという。熊野が孤立した僻地という感覚は、実は最近になってつくられてきたのかもしれない。

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▽8 古くは徐福、那智山を開山したと伝えられるインドの裸形上人、吉備真備が乗った船が太地に漂着したという伝承もある。熊野の海は黒潮が流れ、人々はカツオやマグロ、クジラを求めて……さまざまな漁法を生みだし、全国各地に伝えた。明治に入ってからは、外国に出かけていった人も多かった。
…熊野信仰が海を通じて九州や沖縄に伝わったことや、太地発祥の網掛突取捕鯨法が五島列島に伝わったことなど…国内に限られがちだが、…熊野の海が世界につながっていることを考えれば、「世界史」の中で熊野をとらえなおす必要があると考える。
▽9 1687年、紀伊大島の苗我島にルソンの船が漂着し、乗組員11人のうち生存者3人は長崎を経由して帰国。…アメリカ船がさいしょにきたのも熊野の海だった。1791年、ボストン商船レディ・ワシントン号とニューヨーク商船グレイス号が広東からアメリカに向かう途中、大島に寄港した。ペリー来航の62年前。
▽10 ペリーのころ、アメリカ捕鯨は、世界的なクジラの漁場であった小笠原周辺海域にまで進出。その数は年間約500隻。
…暗礁や岩礁の多い熊野灘は、外国人から「遭難海岸」と呼ばれ、恐れられた。それゆえ諸外国は洋式灯台の設置を要求した際、その設置場所として真っ先に樫野崎と潮岬をあげ、両灯台は他に先駆けて1870年に点灯した。
▽12 ノルマントン号やエルトゥールル号…熊野の人々は、外国船の漂着や遭難、灯台建設などをとおして、早くから外国人と接触していた。このようなことが、出稼ぎや移民として、熊野の人々が外国に出かけていく素地となったのではないか。
▽17 1973年、樫野崎に日米修好記念館を建設。ふたたび話題になるのは、1991年、佐山和夫が「わが名はケンドリック」を出版してから。「アメリカ船は漂着ではなく、最初から通商を目的として日本にやってきた」と述べ…
▽28 レディ・ワシントン号の目的は中国貿易。…ヨーロッパ諸国が広東に船を派遣したのは、茶や陶磁器、南京綿などの中国製品が利益う生んだからである。なかでも茶は、ファッショナブルな飲みものとして愛好され、18世紀にはイギリスの日常生活に欠かせないものとなっていた。
▽35 ニューファンドランドやニューイングランド近海での、主な漁獲物は、タラの他に、サバ、スズキ、ヒラメなど。上等な物はヨーロッパに送られ、下等な物は西インド植民地で働く奴隷の食糧として輸出された。
ニューイングランドにとって、もうひとつ重要な産業は捕鯨。18世紀当時、「クジラは夜会の必需品」といわれ、ランプや灯台の光源、女性のスカートの骨としても重宝がられた。なかでもマッコウクジラの頭部にある固形物を原料としたロウソクは、炎も大きく良質で高値で取引されたため、ヤンキーたちは、クジラを求めて世界中いたる海域に進出した。
▽47 串本駅前。串本ロータリー・クラブがつくった、レディ・ワシントン号のブロンズ像がある。1991年に大島寄港200年を記念して建てられた。…94年春には、同号船長の7代目の子孫であるアルフレッド・ケンドリック夫妻も訪れるなど…
串本町は日本最初の米国との出会いの地であった。だがアメリカ側から見れば、18世紀末の日本は中国の影に隠れた極東の1島国にすぎず、あまり注目していなかった。…日本に関心を持ちはじめるのは、19世紀以降であり、日本近海での捕鯨活動に伴って起きる漂流民の救済や、蒸気船の燃料及び食料基地として注目するようになってからである。
▽57 フォーチュンの記述からも、大島沖が航海の難所であったことがわかる。…西洋人旅行者らがしきりに瀬戸内海を見たがっている様子も窺える。…トマス・クックも瀬戸内海の景色を絶賛した一人。
▽63 1785年につくられた「日本湊絵図」のなかにも、紀伊半島先端部が「串本」ではなく「大シマ」と記されている。江戸末期には串本よりも大島の方が、当地方の地名として国内および外国人にも認識されていたことが窺える。
▽67 当時、大島は行政上は古座の支配下にあり、捕鯨においても古座鯨組に所属していた。…幕末はふるわなかったが、大島の捕鯨は、明治末に近代捕鯨の時代を迎えて活気をとりもどし…
▽69 下関砲撃事件後に、幕府と諸外国との間に交わされた江戸条約によって、横浜に向かう外国船の航路上8カ所に洋式灯台の設置が義務づけられた。そのうち2カ所が串本・大島だった。
▽73 近世のはじめ、紀伊半島先端の大島は、江戸・大坂を結ぶ海の道筋にあたり、風待ち、日和待ちの港として注目されるようになった。
…熊野は「陸の孤島」と呼ばれてきたが、串本・大島は決して孤島ではなかったのである。
▽84 (灯台建設の)プラントンの手記には、牛を巡っての冬眠とのやりとりが記されている。…牛を買う目的が食べることと知った島民は、われわれの本意を知ると断固として商売を拒否した。牛が自然死するまで待つのであれば売ってもよいが、屠殺するなら占い、というのであった。…
灯台建設にやってきたイギリス人が牛肉を欲しがったという話は、愛媛県の釣島灯台にもあり…イギリス人が牛肉を手に入れるため、あれこれ知恵を巡らせていた。
▽93 賄賂が蔓延していたこともプラントンを憤慨させる要員の一つであった。
▽104 日本における灯台建設の中心となった工部省灯台寮に勤務した外国人は100人ほどだったが、そのほとんどがスティーブンソン社から派遣された者。
▽106 プラントン「この国をたまたま訪れた旅行者によってこの国民が過大に美化されている弊害を私は強く感じている。…」「日清戦争での勝利によって誇張された評価は、日本人に過剰な自尊心を持たせてしまった。そのことは災いへとつながるかもしれない。いやおそらくそうなるであろう」と手記に記している。〓
▽111 ノルマントン号。1886年に遭難。船長ら13人は、ボートで海上を漂い、大漁旗を掲げていた串本の旧家を役所と勘違いして下浦海岸に上陸。…「土足で家に上がったり、つばを吐いたり」と、大変困った様子であった。
▽118 熊野灘で海難事故が多発するようになったのは、物資の流通がさかんになった江戸中期から。江戸・大坂間の航路では、とくに遠州灘と熊野灘が難所だった。ほとんどが弁才船(千石船)だった。瀬戸内海を中心に発達した船であるため、外海での航海には不向きであった。船体に甲板がなく、大量の貨物を積み上げることができる半面、荒天候に弱く…
港外術の進歩で、地乗りから沖乗り(沖を通る航海)にかわり、夜間航海も可能となった。このような効率化も漂流多発の原因ともなった。
…黒潮の反流現象も事故の誘引のひとつ。熊野灘から遠州灘にかけて生じる弱い左旋環流。おれを「上り潮」といい、黒潮本流を「下り潮」と呼ぶ。…夜間航行中に船が方向を見失った場合、黒潮反流によって流され、暗礁に激突する。
▽124 太地の「大背美流れ」この事件によって伝統的な古式捕鯨は終焉を迎える。
那智勝浦サンマ船団の遭難。1892年。黒潮本流まで流され、52隻が遭難。八畳島にたどりついた人々もいた。
▽126 串本・和深の「良栄丸」の事件。マグロ漁船。アメリカ太平洋岸のワシントン州フラッター岬沖でアメリカ貨物船に発見された。1926年12月7日に田子港を出港。1927年10月31日に発見されるまで漂流。乗組員全員が餓死して、一部はミイラになっていた。乗組員が克明な航海日記をつけていた。〓〓魚を釣ったり、船に近づく大鳥を捕ったりして飢えをしのいだが…
串本町無量寺の応挙芦雪館には、長方形の板に墨で書かれた遺書が保存されている。〓〓(衝撃的な遭難〓田子に覚えている人は?)
…船長の遺書には、息子にあてて「絶対漁師にならないように」としるされてあった。(「串本町史 通史編」762~764)
▽132 熊野ではサンマをサイラと呼び、その姿寿司は正月料理には欠かせない。明治以降に「流し刺網」が発明されたことや漁船の動力化によって、サンマ漁は急速に発展した。
▽134 エルトゥールル号の事件が知られるようになったきっかけは2002年のW杯での日本トルコ戦だった。
▽171 イギリス人灯台技師と真珠貝ダイバー。オーストラリア北部の木曜島やアラフラカイへの採貝出稼ぎ。司馬遼太郎も「木曜島の夜会」で紹介。…明治半ば、小学校の校長の月給が10円前後だったころ、ダイバーの年収は1200円から1500円だった。校長の職をなげうってまで真珠貝採りに出かけた人もいた。
▽176 採貝の目的は、真珠ではなく、ボタンの材料としての貝殻にあった。産業革命によって綿製品が大量生産されたこともあって、ファッションにも変化があらわれ、身体にフィットした女性服が流行し、その留め具として貝ボタンが重宝された。(〓〓木曜島と上富田のボタン産業は関係ある?〓)
イギリス人灯台技師、ジョセフ・ディックがつれていったのでは?
▽180 串本町の潮岬には、「イギリス人技師から南洋での貝採りがもうかると誘われた際、土地の若者がアワビ採りと間違えてアワビ採り用の鉄ベラを持参した」という話が伝わっている(「和歌山県移民史」582ページ)
▽184 1897年における木曜島で採貝に従事した日本人900人あまりのうち、和歌山県人が8割を占めていた。1926年の和歌山県の収入の78.8%は海外からの送金であり、そのうちオーストラリアからの送金額は、移民の数が少ないにもかかわらず、アメリカに次いで二番目だったという。しかし、1908年の木曜島における日本人ダイバーの死亡率が毎年10%であった…
▽186 オーストラリアの移民制限。オーストラリアの領海外に漁場を見つける必要性に迫られた。トレス海峡とティモール海に東西をはさまれたアラフラ海は、真珠貝の宝庫だった。…乱獲。最後は太平洋戦争によって操業打ち切り。
▽188 戦後1953年、アラフラ海へ…復活。大島在住の山本義和さん〓〓、樫野の雷公神社にお参りし、境内の石を1個家に持ち帰り、神棚に置き、無事に帰ってきたとき、その石を再び神社にもどす…
パラオ近海はいつもべた凪だったので、ここで船団を止め、デッキに積んでいたドラム缶から燃料を機関に入れた後、空になったドラム缶を海に放り投げた。700本のドラム缶が海面を漂ったという。
…朝食はパンを焼いた。パンはダイバーしか食べられず、船長以下、乗組員はパンの縁を食べた。
…潜水病にかかると、患者が両足で錨をはさみ、潜水病にかかった深さに吊り下げるというガントン療法。吊っているうちに窒素ガスが排出され、病状が回復してくる。吐き気止めまいがある場合は、何時間でも海中に吊られ続けた。〓〓

▽194 シロチョウガイは直径30センチほどの二枚貝。分厚い貝殻をもとめ、なかでも内側にある銀白色の真珠層はブローチや家具などの装飾品として需要があった。
▽195 クイーンズランドやニューサウスウェールズ州は、中国向けの新たな商品開発をめざし、ナマコ漁に着手。19世紀初めの太平洋や東アジア海域では、ナマコ、シロチョウガイ、鯨油、白檀などが中国との交易品として求められ、オランダ、イギリス、フランス、アメリカ、ドイツの間で太平洋通商の覇権が争われていた。
…19世紀後半になると、中国貿易の主要産品だった鯨油がしだいに石油にとってかわられ、白檀も資源枯渇に。シドニーの南太平洋通商会社は経営の多角化を狙って、オーストラリアのゴールドラッシュに伴う中国系移民の輸送、クイーンズランド州やフィジー諸島のサトウキビ、綿花プランテーションへの労働力の輸送、ナマコやシロチョウガイなどの採取と交易に活路を見いだそうとした。…
「ナマコは強壮不老の信仰をともなった食糧だった。ナマコの需要は伸びているけれど、清朝末の中国社会には、産業の爆発的な勢いに乗るヨーロッパのボタンに匹敵する需要はナマコにはなかった」
▽197 熊野の人は、木曜島に「三輪崎ハウス」「宇久井ハウス」「串本ハウス」「出雲ハウス」「潮岬ハウス」「周参見ハウス」などをつくっていた。
▽221 かつて熊野では、山に死体を置き去る単なる風葬ではなく、それをカラスに食べさせる鳥葬が行われていたと推測されている。
補陀落渡海 古代の熊野では水葬も行われていたと推測されることなどから「熊野の海の彼方には黄泉の国がある」と信じられていたと五来重は述べている。
▽249 ブラントンについて知るまでは、スコットランドが灯台先進国であり、わが国の灯台建設に多くのスコットランド人がかかわっていたことなど知るよしもなかった。
▽250 昭和末頃までの熊野の家々では、外国への渡航経験がある親戚が一人や二人は必ずいたし、大島や潮岬、出雲などでは床の間に大きな貝殻が戦利品のようにおかれた家も多かった。(〓そんな風景を見てきた?〓今も?〓 今逆に内向きになってきてしまっている?〓)

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