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石にやどるもの 甲斐の石神と石仏<中沢厚>

■平凡社 20161004

 紀伊半島を歩いているとそこここで丸石にであう。神社に転がる丸石は力比べをした「力石」だったり、信仰の対象だったりする。みなべ町の無人島・鹿島には地震の暴威をおさえるという要石という丸石がまつられている。丸石信仰はどこから生まれ、どんな役割を果たし、どこに分布しているのだろう。調べると、甲斐は丸石がもっとも集中しており、道祖神のほとんどは丸石だという。
 そして甲斐の丸石を研究したのが、人類学者の中沢新一の父で、歴史学者・網野善彦の義兄である著者だった。古本屋でさっそく購入した。
 文章は平易でわかりやすい。専門家は分類からはじめるから硬い文章になるが、著者は丸石などにこめた人々の思いに寄り添い、解き明かそうとするから、すっと心に入ってくる。在野の研究者ならではの想像力で謎を解いていくのがおもしろかった。

 道祖神は、大きな石棒をまつることが多い。後にそれが男根とみなされるようになった。五来重は、石棒をまつったのが、路傍の地蔵や塔婆などになったと書いていた。

 甲斐の丸石も石棒と同じように、道祖神としてあちこちにごろごろとまつられている。

□丸石
▽60 山梨県にあっては、丸石を祀る道祖神が700カ所もあるというありさま。それも1カ所が1個から3個、5個、多きは数十個を1カ所に積んで祀りますから、平均5個で計算されば3500個となります。
…花祭りで知られる愛知県北設楽郡の山間の一部の村、あるいは滋賀県蒲生郡穴村の安羅神社のご神体の丸石群のことも聞いています。遠隔地では、紀伊半島の南端部、枯木灘に沿った山間の村々に、とくに顕著に丸石祭祀が見られます。
▽63 山中共古翁の石神論「甲州の道祖神は一種無類の祀りにて、はなはだしく悪風行われしという。……道祖神は本社もなければ各村とも常には村社の境内又は村道などへ道祖神として丸石数個をならべ置くにすぎず。鳥居なく宮もなし。……甲州国いたるところ丸石の道祖神を祭らぬ土地なし」
 民俗学者・武田久吉
 「信貴山縁起絵巻」平安時代中期。路傍の少祠のわきの木の根株のような岩の上に丸石神がまつられている。
▽65 福士氏の「原日本考」で、遠く紀州の一部にも丸石神のあることを知るのです。
▽71 山梨県は古来水晶の名産地と知られ、…甲府市の宝石店の店頭には、必ず水晶の飾り玉が飾ってあります。
▽75 アメリカの学者スターリング博士は、コスタリカの山林中の丸石群を研究していました。花崗岩質の大きさ1インチから人間大のものまでありました。メキシコのシエラ・アメカでも。…コスタリカやメキシコで見た丸石は間違いなく火山活動の産物であること。高温に加熱した多量のガスをふくむベース状の火山灰の大量な層の深部でできた結晶だというのです。…
▽80 丸石神の信仰分布圏が、山梨周辺だけでなく、第2の分布圏とでもいうべき紀伊半島南端部、東牟婁郡のとくに枯木灘沿いの村々の実際を知りました。そこの丸石祭祀は分布地域もせまく、濃密ではありませんが、よく古代集落神のおもかげを残しておりました。しかも、那智山の一部の山腹には、大丸石が露出しているところもあり…(「日本の石仏」8号「南紀石神の旅」参照)〓
▽83 中部・関東を中心に、石器時代の縄文中期以来の石棒をシンボルとする信仰があり、これも不思議な文化なのですが、その文化が発生する以前、すでにこの地方人のある集団は丸石信仰を持っていたであろうと、…
▽88 昔は道祖神場に石棒も丸石と一緒にあったのですが今では石棒がかなりなくなっています。…きっと村の人が何本かずつに分けて保管したか、屋敷神にしたかだと思いますが。
▽91 縄文遺跡の丸石 出土する時期は、縄文前期末と中期後半から後期はじめにかかる2時期に大きく分けられそうです。
▽98 石棒のようなものを祀ってはいけない。淫祠だとか邪神だという明治のはじめの政府の達示で、境内にほうりだして、縁の下や、自分の家へ。石棒などをのけたあとに、鏡をおいてみたり、御幣をおいてみたり。
▽107 丸石神信仰が石器時代に端を発するらしいことがはっきりしてきた。
▽109 鳥取県の丸石神、宮城県柴田町、熊本市周辺と阿蘇山の西麓の村々にも。串本町。
 徳島県神山町の女性中心の成人大学学級による1町村徹底取材。「おふなとさん」と称する小祠961カ所、うち石を祀る数434カ所で、石は小さな数個の丸石の場合が多くいずれも自然石。

□庚申
▽153 庚申の夜は禁欲すべしというタブー。
…庚申塔の日待もなくなった。庚申講も再び日の目を見ることがあるまい。
□馬頭観音

□石投げ合戦考
全共闘の投石から考えていく、というのがおもしろい。
▽218 大正末期笛吹川の川原で遊び、対岸の村の少年集団と激しい石投げの応酬をはじめる。「石投げ合戦」…石ぶん、という一種の投石具を持って、ぶんぶん振りまわして、対岸めがけ飛ばせる。80メートルも100メートルも飛ぶ。投石具といっても、帯を裂いてつくったり、真田ひもなどでつくったりした。
 …今の子どもはこんなことを知らない。
▽221 ただの遊びではなく、ただの喧嘩でもなく、原因は一体何であろうかと行けんを求めたが「さあね、昔は遊びがなかったから」…。
▽225 満州事変のころはまだやっていたが、太平洋戦争のはじまったころはもう川原の石投げ合戦はおこなわれなくなっていた。…あの悪名高い翼賛運動の血祭りにあげられたような具合に、石投げ合戦は昭和14年ごろ消滅してしまったのである。
…家康が今川の人質だった子ども時代、安部川原で石投げ合戦…
▽233 菖蒲たたき ショウブタタキ、ショウブキリ。
 菖蒲の葉をもちいて争うことによって邪気を払う。またその勝ち負けで吉凶を占ったり、村と村の決めごとをした。菖蒲の葉であんで刀をつくって打ち合ったり、菖蒲の葉であんだ鉢巻きをして石を投げ合ったり。危険がともない、信仰的意味合いも薄れ、江戸末期には禁止のおふれが出されるようになったが、…子どもらは5月の季節を順にずらし、一夏中の河原の遊びとして復活した。


▽326 丸石信仰の起源は石器時代にもとめるべき。丸石と石棒神の祭祀の共存がみられることから、一応、縄文文化期を想定してみる。
……中部山岳地帯には、文化度の高い集団が住んでいた。丸石信仰はかれらのなかで発せした。列島の西方から権力集中の変動がはじまり、大陸文化で武装した九州方面か、山陰を通じて朝鮮とかかわりをもった大和地方か、北方騎馬民族か……によって中部山岳地方の勢力が減退した。しかし丸石信仰は千年2千年つづいてきた。
▽丸石道祖神分布のもっとも緻密なのは甲府盆地の東北部

▽340 石棒の道祖神(古座街道では大日如来と言っていたが〓)

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