■石の宗教<五来重>講談社学術文庫 20161003
熊野を歩くと、石をご神体にする社が多い。社でなくても丸石がお地蔵さんの横に鎮座していたりする。男根型の石柱をご神体とする例は全国あちこちで目にする。石に対する信仰はどうやって生まれ、どんな分布状況なのか知りたくて購入した。
ヨーロッパでは、キリスト教が暴威をふるって原始宗教は根絶され、メンヒルやストーンヘンジなどの謎は解きがたくなった。だが、日本では、庶民信仰の形で原始宗教が残っている。建前は仏教だが本音は庶民信仰だから、仏教にはない葬式をしたり、お盆、彼岸をまつったり、供養の石塔を建てたりする。宝塔や多宝塔、宝篋印塔や五輪塔の造形も、仏教ではない祖霊崇拝の卒塔婆から発生したという。「石の宗教」は原始宗教に起源をもち、原始性をいまも保持しているのが修験道だ。
日本人の自然宗教は、非常事態が起きると再燃する。石や樹木や路傍の石像にまで真剣な祈りを捧げ、神風という自然現象を待望し、神道でも仏教でも修験道でもない千人針という腹巻きを身につける。天皇崇拝も人間を「生き神」「生き仏」として身を任せてしまう。
絶対帰依の感情を、動物にも木や石にも起こすのが庶民信仰であり、弘法大師の霊場巡礼もそこから出ている。四国八十八カ所霊場は海辺の修行路だったが、その各所に自然石をめぐる修行があった。熊野の大辺路も、熊野三山巡りとは別の海辺のルートがあった。能登半島にも「辺路」があったと推測される。
仏教以前に霊をまつるには、常磐木の枝を立て、石を積んで磐境とした。その常磐木の枝が、卒塔婆になった。磐境の積石は密教思想と結合して五輪塔がつくられた。
山にある「賽の河原」は、死者の霊をできるだけ高い山に送って鎮まらせようとしたあらわれだった。洞窟の賽の河原は、黄泉の国への入り口という観念からおこった。死者を洞窟で風葬したことと関係がある。沖縄の久高島には、昭和40年ごろに不祥事で廃止されるまでの洞窟風葬があった。四国霊場71番の弥谷寺に洞窟積石の多いのも、瀬戸内海各地から、船で納骨に来ていたからだ。
日本の積石信仰の起源は、原始的葬墓制が風葬だったことにある、というのが筆者の推測だ。
各地にある道祖神には、陽石、陰石が添えられていた。男根、女根という石の造形は祖先のシンボルだったが、近代になると、祖先であることを忘れて性的な興味をもつようになり、明治維新の「淫祠邪教の禁」によって多くの石棒が撤去され、文字費や石像だけが残った。撤去された石棒はそれまではみな道祖神としてまつられていた。
石の宗教は、第1は自然石崇拝があり、次に石の配列による崇拝があり、三番目に石の造形による崇拝が出現する。その源が石棒だった。最初は石棒を立てて、道祖神または塞の神として拝んでいたのを、仏像の影響で神像がつくられ、神像に石棒をつけて道祖神または塞の神にしたという。
男根形石棒の道祖神が仏教化すると、地蔵菩薩立像になる。地蔵石仏になっても立てられる場所は道の辻や村の入口だった。地蔵盆は、道祖神のまつり方を地蔵信仰に代えたものだ。
庚申信仰も、中国道教の流れではなく、日本固有の祖霊祭(先祖供養)のひとつの形態だ。庚申の名において祖先をおがむのが庚申講だったという。
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▽11 修験道は本来、自然宗教だったから、多くの謎の石がある。修験道を実践する「行場」には、ふしぎな「お亀石」という謎の石があって、それを踏んではいけないことになっている。
▽16 ヨーロッパは文化宗教としてのキリスト教が暴威をふるいすぎた。キリスト教伝播以前の原始宗教は根絶され、アリニュマンやメンヒル、ストーンヘンジなどの謎は解きがたくなった。…日本人の自然主義や伝統主義、仏教の寛容主義などのおかげで、日本には庶民信仰の形で民族固有の原始宗教が残っている。
…現在の日本仏教というのは、民族宗教と庶民信仰が、未分のまま仏教の衣をつけただけのものと言える。タテマエは仏教だけれども、本音は庶民信仰だから、仏教にはない葬式をしたり、お盆、彼岸をまつったり、供養の石塔を建てたりする。
…仏教ではない庶民信仰の卒塔婆から、石塔は発生する。…仮に宝塔や多宝塔、宝篋印塔や五輪塔の造形のもとが、なんらかの仏教経典や…に記載があるとしても、その信仰内容は祖霊崇拝であり、…。
▽19 日本人は石を積むことが好きで、山へ登ればいたるところに積石を見ることができる。山の登り口や頂上に近いところに、塞(賽)の河原という場所があって…(〓海の洞窟にも)
…山岳宗教の入定は石子詰葬法なので…
▽24 「石の宗教」は仏教以前の原始宗教から見ていく必要がある。山岳宗教、すなわち修験道が原始性をいまも保持している…
…石鎚山は…天狗岳や天柱石もあるが、山としてよりも「石の霊」を拝むもので、もとは「弥山」といって、頂上へは登らなかったであろう。「いしつち」とは「石の霊」を指す言葉である。
▽27 いったん非常事態や困難に遭えば、自然宗教が再燃してきて、自然石や樹木や路傍の石像にまで、真剣な祈りを捧げるようになる。神風などという自然現象を待望し、神道でも仏教でも修験道でもない千人針などという腹巻きを身につけたのもこのあらわれである。
▽37 日本人の天皇崇拝もシャーマニズムも…人間を「生き神」「生き仏」として、現世の幸福も来世の幸福もまかせてしまう。
…絶対帰依の感情を、聖なる動物に対しても聖なる木や石に対しても起こしうるのが、日本人の庶民信仰なのである。天葬式をしたり墓をつくり石塔を建てたり、いまだに生きている弘法大師の霊場や札所を巡礼するというような、日常的な「宗教のない仏教」はこの庶民信仰から出ている。
▽48 原始神道では巨石群を磐境とか磐座というが、石の中に神の霊が籠もっているという意味である。もう一段古い庶民信仰の段階では、霊威をもった鬼や天狗の宿るところとされていたのである。
…甲斐のあたりの道祖神は自然の丸石であることはよく知られている。石神もシャクジンも読み方のちがいだけで、石を神として崇拝することは共通している。
▽52 「さざれ石の…」小石が成長するという発想には、日本人の石の崇拝が背後にあるといわなければならない。…実は熊野比丘尼の袂石が成長したという石は方々にある。熊野信仰の伝播は熊野比丘尼が熊野神の神体という小石をもって遊行し、その石のお告げで有縁の地にまつったことにはじまるという社は多い。
▽55 東北の湯殿山の神体石は、その形を語ってはならぬというタブーがある。…20年ほど前までは女人禁制の聖域であった。…連れて行った女子学生は目をそむけるほどであった。
▽56 四国八十八カ所霊場は、海辺の修行路であったが、その各所に自然石をめぐる修行があったことがわかってきた。
▽59 熊野川の河口の東側にある梶鼻という自然石。ウバメガシやトベラが群生し、南に向いた洞窟がある。なにものかが住んでいた生活の跡があった。実はこの梶鼻には「梶鼻王子」という熊野王子社があったという。風波が激しいというので、今は山の中に移してまつっている。(津波で二度流されたから?:み熊野ネット〓)…もとは「加持鼻」で、行者が加持をする岬であったらしい。
…「四国ノ辺地」がわかってくると、熊野の大辺路も「巡礼路」として大きな意味をもっていることがわかった。熊野三山をめぐる熊野詣でとは別に、海辺をめぐる「辺路巡礼」があり、…かつては中辺路から本宮へ入って新宮へ出て那智へ廻るのが正道とと思われていたが、それより古く「海辺ノ廻」の大辺路のある意味がわかったのである。…梶鼻王子が見つかり、熊野三山巡りとは別の海辺のルートがあったことがわかると、これから伊勢へ向けて「海辺ノ廻」大辺路が続いていたことが予測される。…「花ノ窟」 ここに「王子の窟」があるのは、やはり大辺路の王子とおもわれる。
…能登半島にも「辺路」があったことが推定され、…岬の巖に抱きつきながらめぐったものとおもわれる。
▽75 積石信仰
仏教以前に霊をまつり、回向するためには、その依り代として常磐木の枝を立ててヒモロギとし、石を積んで磐境としたから…常磐木の枝が、棒型塔婆になり、…卒塔婆になった。磐境の積石は三重、五重…などの石造層塔になるとともに、五輪五大の密教思想と結合して…五輪石塔がつくられた。五輪塔が日本ではじめて成立したのは、そのような日本人の原始信仰が仏教に反映したからである。
▽77 山岳宗教のある山にはたいてい賽の河原がある。そのなかでももっとも広く大きいのは、月山の九合目に広がる賽の河原である。見わたすかぎりの積石。積石の上には10センチぐらいの板切れが立ててあって、戒名や俗名の霊位が書いてある。これこそ立派な塔婆である。
…日本人の民族宗教では、死者の霊は山へ帰るとされている。…遺族はできるだけ高い山に霊を送っていって鎮まらせようとしたのが山頂の賽の河原となった。宗教民族学では「他界信仰」という。
…起源的にはヨーロッパのケルンも、宗教的な意味があったのだろう。
▽83 洞窟の賽の河原。佐渡のの外海府には「願の地蔵堂」(加賀の潜戸や、能登の接吻トンネルにも〓)。…日本人の洞窟信仰は、黄泉の国への入り口という観念からおこる。
…海岸の洞窟はとくに黄泉の国信仰が強かった。「出雲風土記」…海岸洞窟の黄泉の国伝承は、…死者の棺を洞窟へ運んで、風葬した歴史事実を伝えたものと思っている。
沖縄の久高島の洞窟風葬。昭和40年ごろ、不祥事があって、数千年の伝統が廃止された。…「出雲風土記」の「脳(なづき)の磯」の黄泉の穴も同様であったろう。「脳の磯」と推定される猪ノ目洞窟(平田市)からは、船形木棺が発掘されている。…賽の河原の積石のある洞窟は、かつての風葬洞窟が多かったという推定が成り立つ。
…自然洞窟の風葬墓では、その入り口を石で塞いだのが、賽の河原の積石の起源であったことは疑いがない。
…石垣島のヌーヤ(野屋) やはり死者を積石の四角の石垣のなかに風葬している。
▽90 広島県東城町帝釈の永明寺に、賽の河原の洞窟がある。旧石器時代の人骨や遺物が発掘されている。
…土佐の室戸岬の「みくろ洞」 最御崎寺の下にある。弘法大師が青年時代に求聞持法を修したところという。
…71番の弥谷寺も、洞窟積石の多いところ。瀬戸内海各地から、船で納骨に来るところであったことは有名。この寺では納骨と位牌供養の原簿が完備していて、お参りに来た遺族の出身地によって位牌の繰り出しが即座にできるといわれる。
▽93 日本の積石信仰の起源は、原始的葬墓制が風葬だったことにある、という仮説を私は持っており、日本の原始風葬は洞窟からはじまったとおもう。…佳実百穴も、横穴群集墳説に落ちついている。
…石垣で囲まれた琉球の御嶽、オガン(拝所)の起源は、風葬死者のまわりの積石であろうと、伊波普猷氏は書いている。
▽98 本土の洞窟に積石信仰が多いのは、かつて洞窟風葬があって、積石をもって死者を隠したのが、土葬・火葬に移行しても、手向けとか供養といって、積石をする習俗にのこったものと考えなければならない。この考え方から、日本での石造層塔や石造五輪塔の受容が説明できるのである。これらの石塔を、インドや中国のたんなる模倣とすることは、その信仰内容から無理のあることが現在ではわかってきている。
…対馬の習俗「石かませ」 埋葬後に子どもたちが墓に向かって後ろ向きに石を投げることも、積石の意味だとおもう。
▽100 …近江の高島町の横山墓地。大きな石を墓の上に積む。朽木村にも積石墓が多い。讃岐の佐柳島の海岸墓。埋葬にはほとんど穴を掘らず、棺を地上においてそのまわりに石を積む。(〓今も?)
▽103 備前熊山の山頂の謎の積石壇。
▽113 下諏訪町東山田「浮島の阿弥陀さま」 自然石の上に、異様な仏の頭がのって仏像が形成されている。
…下諏訪出身の新田次郎が、イースター島の石人の頭が来たのだろうという乱暴な論をいいだした。「方治の石仏」。岡本太郎が「こんなおもしろいものは見たことがない」と言って一躍有名に。
▽125 環状列石も、墳墓説が支配的。
▽141 道祖神信仰 …杉島(長野県長谷村)あたりには、道祖神碑とともに、陽石、陰石がのこっていた。…このような遺物を恥ずかしいとおもうようになって、石は撤去されていく。
…原始的な石の造形が、男根、女根であったということは、これが祖先のシンボルだったためである。それを近代になるにつれて、祖先であることを忘れて、性的な興味をもつようになったので、道徳的価値判断から「淫祠邪教」といったのである。明治維新の「淫祠邪教の禁」によって、撤去処分された石棒は莫大だったという。…これらの石棒はそれまでみな道祖神としてまつられていたのである。
多くの道祖神の信仰は、男女和合、子孫繁昌、家内富貴、五穀豊穣。…私見としては「同祖神」として同族がその祖先神をまつったものではないかと思う。これが道教の道禄神(道陸神)とむすんで、道の神になったのかもしれない。
▽146 …紀州の加太の淡島明神の境内を見て、今もその(性病)祈願が多いのにおどろいた。
…淡島明神の縁起は、インドから流された王妃の話になり、また、少彦名神をまつったことになっているが、その古代的発祥は海の民の道祖神を常世から迎えてまつったのではないかと思う。今昔物語集には、紀州美奈部の海辺の道祖を小柴船に乗せて海上に流し放った話があるからで、これは道祖神が海の彼方の常世(補陀落)との間を去来をする信仰があったことをしめしている〓。
美奈部の海辺の道祖神というのは、常世へ渡海するという意味で、辺路の王子となってからは、南部(三鍋)王子とよばれたものであろうとおもっている。
▽148 石の宗教は、第1は自然石崇拝、第2は石の配列による崇拝、第3は石の造形による崇拝。そのもっともオリジンになるのが石棒。この石棒はいろいろ発展するが、その第一が道祖神信仰である。道祖神は男根形石棒と夫婦神像とがあることはよく知られている。
…道祖神を村境や辻や家の門口にまつり、悪霊や疫病神を入れない信仰が生まれた。道祖神の火祭。信州はとくにこの祭りがさかん。
▽151 石神という地名も道祖神からついたものであろう。
▽153 道祖神は、路傍や辻堂や畦道にあればこそ、花やロウソク、線香などがあげられる。…京都市内では道祖神にあたるものが、辻辻、町内ごとにまつられる石地蔵である。
▽158 日本人は石棒だけを立てて、道祖神または塞の神としておがんでいたのを、仏像の影響で神像がつくられるようになると、神像に石棒をつけて道祖神または塞の神にしたのであろう。。(〓棒状の大日如来は?)
▽162 水神である河童は田の収穫がすめば、山へ帰って山の神となる、という水神(田神)山神交代信仰がある。河童は形象化されると、山神の化身である猿と、水神の化身である亀との混合形態で表現される。これが、河童が、猿の顔と手足と頭髪と体毛、亀の嘴と甲羅と水かきをもつ所以である。〓(田の神様をもてなす「あえのこと」は? 山と関係ある?)
▽168 男根型の道祖神石が、結界石よりも豊穣信仰に変化したものとして、薩摩に多い男根形の「田の神どん」がある。…前から見れば大きな笠をかぶった老農夫の座像で、後ろから見れば笠の円頭で構成された男根形である。もとは道祖神だった…
…結界石として村の境や道の辻に立てられた道祖神は、「村のはずれのお地蔵さん」になったのであるし、辻の地蔵もおなじである。
▽171 道祖神から地蔵盆へ。…男根形石棒の道祖神が仏教化したとき、その形を仏菩薩で表現しようとすれば、地蔵菩薩立像である。地蔵石仏に形を変えても、立てられる場所はやはり道の辻や村の入口である。
…地蔵盆は、日本人のもっていた道祖神信仰とそのまつり方を地蔵信仰に代えたもの。
▽176 弥勒石。長野県の平隠温泉の湯田中には、腰まで土中に埋まった石造弥勒菩薩立像があり、少しずつせり上がってくるという信仰がある。この弥勒さんのおかげで地震がないと信じ切っている。鹿島の要石のように、地中の鯰の頭を押さえている石と信じられた時代があるのであろう。飛鳥の、自然石にでべそのようなものをつくりだしただけの「弥勒石」は要石であって、まだ弥勒仏が造形されないでも、地震を押さえる弥勒さんとして信仰されたのではないか。(〓鹿島の要石と弥勒のつながりは〓)
▽179 庚申塔 「庚申」という文字を彫った石塔と「青面金剛」という憤怒形の密教的金剛童子を彫ったものとがある。金剛は、三面六臂の忿怒形の立像の下に、三匹の猿と2羽の鷄を彫ったものが多い。三匹の猿は「見ざる言わざる聞かざる」(〓起源は? 三猿はエジプトやカンボジアにも)
▽185 庚申石塔は、農民に余裕のできた元禄以降から多くなる。
…「庚申塔」と書いた文字碑の多くは、信州から北の東日本に多い。
▽190 庚申信仰のみならず、庶民信仰一般は修験道を媒介として、仏教、神道、陰陽道に結合する。…修験道というのは、庶民信仰の神をまつるのに、仏教も神道も道教も混合して、すこしも嫌わない宗教。
▽194 長野の東筑摩郡の調査で、馬頭観音碑が図抜けて多いのは、牛馬の守護神であるばかりでなく、養蚕守護の碑だからである。
▽198 庚申信仰を中国道教の(三尸虫)日本伝来とする従来の論に対して、私は庚申は日本固有の祖霊祭(先祖供養)のひとつの形態であることを、くどいように主張している。
…私は、三尸虫を離れさらしむという思想が庚申塔の三猿になっているとかんがえる。三尸虫を「去る」ことを寓したとおもう。…眠らずに夜明かしをして、三尸虫が身から抜け出さないようにするという教説とちがうことになる。
▽208 庚申信仰は、仏教と神道と陰陽道(道教)の混合した、複雑な内容と形態をもっているが、その根底に存在するのは素朴な庶民信仰である。…庶民信仰の根本的な理念は祖霊観念であり、祖先崇拝なので、庚申の名において祖先をおがみ、共同体の先祖祭をするのが庚申講であった。…先祖祭は真夜中におこなうものなので、徹夜の祭や講になるのである。
▽228 私は各駅停車の列車を利用する時期には、車窓から石塔や石仏を多く見かけたところでは、すぐ下車して、民族の聞き書きを取ることにしていた。そのような土地は必ず人情豊かで、先祖と伝統を大切にし、民俗もよくのこっているからである。
▽250 如意輪観音石仏 その日暮らしの妻女の罪業であり、そのためにこそ、凶作が多く生産性の低い東国に、如意輪観音石仏が多い理由になる。…江戸時代の東国では、間引きは貧困女性の一種の自己防衛だった。人の目につきにくいところにまつられている理由は、その背景に隠さなければならない貧困女性の生活があったといわなければならない。
▽258 江戸時代の水子供養は石造如意輪観音を造立した。それは女人講によってひっそりとおこなわれていた。
▽259 死者のために小型の石地蔵を造立するので有名なのは佐渡。石地蔵専門の石屋さんもいる。この信仰のもとは外海府の北端にちかい願の地蔵洞への石地蔵奉納にあったであろう。…この洞窟は、海辺風葬洞窟の名残とかんがえているが、このような洞窟に奉納積石したのが賽の河原になった。賽の河原は仏説にも地蔵経典にもないもので、日本人が墓地のような死者の世界と、人間の住む娑婆世界との境界に、霊魂の往来を遮るために積石をした場所である。
…霊魂の往来をさえぎるための積石のかわりに、石棒を立てることもあって、それが男根形(こけし形)の石棒となり、これが道祖神の起源。男根形の道祖神は明治維新の「淫祠邪教の禁」で大部分撤去されたので、男神女神抱擁像の道祖神や文字碑だけがのこったにすぎない。ところが男根形の道祖神は、顔や袈裟衣を彫刻すればそのまま石地蔵になってしまう。石地蔵というものは、けっして図像や仏画や木彫りの地蔵菩薩を石像化したものではなく、もともと石の宗教性から地蔵が造型されたものであることを、私は主張するのである。
▽263 死者の御霊がこの世にもどってきて、たたりをおこさないように塞るのも地蔵の役割だった。これは道祖神(塞る神)の役割を地蔵尊が引き継いだもので、その代表的なものが六地蔵である。いま墓地の入口に六地蔵石仏が立っていないところはない。…墓地から荒び出る荒魂を塞るためにおかれた地蔵で、いわばガードマンだ。
▽270 多種多様な地蔵信仰を分析してゆけば、日本人のもっとも根源的な信仰対象である「祖霊」または「先祖」を仏教化したものにほかならないことがわかってくる。
▽274 阿弥陀如来は来世だけの救済者で、浄土にいるばかりだが、地蔵菩薩は現世と来世の救済者で、娑婆にいる。…民衆は現実の生活上の悩みは地蔵菩薩のほうへもっていく。この構造は、高級僧侶と、下級僧侶や遊行の聖の関係と同じ。民衆が地蔵菩薩に願をかけるときは、阿弥陀如来に往生を願うときより真剣である。というのは、各地に「日限り地蔵」「釘抜き地蔵」「とげ抜き地蔵」があって、「日限り」は7日とか21日の日参と、塩断ち、茶断ち、火物断ちをして願をかける。京都の「釘抜き地蔵」ならば、毎日本堂の百度参りをする。東京巣鴨の「とげ抜き地蔵」ならば、手桶と棕櫚たわしをもっていって石地蔵をせっせと洗うのである。…願が叶えば、御礼に頭巾やよだれかけを石地蔵に着せかけるのである。
▽283 石窟寺院と磨崖仏はとくに九州に多い。彦山、国東半島、大分市、臼杵など。
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