■原発を拒み続けた和歌山の記録<汐見文隆監修 「脱原発わかやま」編集委員会編>2012寿郎社 20160228
和歌山では、那智勝浦、古座、日置川と日高2カ所の計5カ所で原発計画があったのに、すべてが阻止された。なぜ和歌山で阻止できたのか。地域性があるのではないかと想像して本を手に取った。
「もうあかん」と思った1979年にスリーマイル島の原発事故が起き、ほとぼりが冷めて県が原発推進の結論を出そうとした86年にチェルノブイリ原発事故が起きた。「住民運動の勝利というよりは、まさに神の助け」と書いている。著者たちが和歌山の人だからか、私が知りたかった「原発を阻止できた和歌山の特殊性」への言及はなかった。
原発立地地域では札びらが飛び交い、地域共同体はぼろぼろになる。
関電とは関係のない第三者が地権者から土地を買収し、それを関電が後からまとめて入手するといった詐欺まがいは日常茶飯事だ。日高町の阿尾地区では、大阪の木材会社が「製材工場を建設したい」と買収した。日置川町では、町開発公社が「自然公園にするため」という理由で山林を買収したのに町に売り渡され、関西電力に売却することが決められた。
日高町の小浦地区の計画では、町長も議会も推進を決めて、最後の砦が漁協だった。ちなみに能登の珠洲原発計画では、「陸上でとめなければ、海上にいったら漁協が妥協してしまう」と必死になって開発を阻止した。一方の日高では漁協がぎりぎりで踏みとどまった。ここに漁師の気質のちがいがないだろうか。
日高町の「女の会」代表の鈴木静枝さんは元教師で、大戦中に戦場へ生徒を送り出した。敗戦後、一夜にして国の言うことが変わった。だから「お上」を信用しなかった。戦争を生き抜いた人は、どちらの立場に立っても肝がすわっている。伊方原発建設を推進した兵頭熊一さんという町議が、後に自らの信念によって少数派の反対に転じたのを思い出した。
日置川では、反対派がかついだ反原発町長が2期目に賛成に転じた。その後、二階俊博らにおされた推進派を、反対派がおした漁協組合長が破った。何度かの選挙でその結果が定着して、平成18年の合併を迎えた。だが今も関電は、日置川に広大な用地を所有し、社員を残しているという。「使用済み核燃料の中間貯蔵施設を狙っているのではないか」と危惧する声もあるという。
那智勝浦の「浦神」の原発計画では、太地町が真っ先に反対した。クジラ漁をつづける太地町は革新的な地盤なのだ。昭和58年の古座町長選では、同和問題と原発問題が争点になり、原発反対を掲げた共産党の前町議が当選した。チェルノブイリ事故をへて平成2年の町議会で「原子力発電所設置に反対する決議」を全会一致で可決した。その風土は能登半島の珠洲周辺とは明らかに異なる。
反対運動を支えた理論家に宇治田一也がいた。戦争体験をへて科学技術に疑問を抱き、京大の哲学科に進学し、和歌山に帰って私塾を開きながら埋め立てによる自然破壊や住友金属による公害問題に異議を唱えてきた。電力料金に時間帯による格差を設ければピーク電力は低下でき、無駄な発電所の新設は不要だと早くから主張した。もう一人、汐見文隆さんと恵さん夫妻は、「和歌山から公害をなくす市民の集い」をつくり、「公害教室」という市民のための学習会も開いた。汐見さんは京大医学部を出て日赤勤務を経て内科医を開業していた。
反対運動に参加した女性の言葉は重い。
「つらかったのは、神様のように崇められていた日本の軍隊が、あちこちで、暴行だ、虐殺だということをやっていた話です。…おかみというと、天皇様とその政府だと私は思っていましたからね。八紘一宇の聖戦が侵略戦争であったとはね。…それからもう、だまされまいと思って私の戦後はあったようなものです。原発もクリーンなエネルギーで、火力・水力なんかよりも値段が安いし、それを持ってきたら地域に何億というお金が降ってきて…あまりにありがたい話なので、これまた戦争の時みたいな八紘一宇ではないかと思って、気をつけなあかんなーと思いました」
「難しいことは学者先生に任したらええ。あんたらかて、おかみの言うこと聞かんせよ…と議員に説得された。おかみ、おかみて、おかみは戦争の時、だましてたんやで、原発かてうそだますか分からんやないの、と言うと、そがな昔のこと言うてもはじまらんよ、と言うわけです。…小浦で、92人もはじめ署名してくれたけど、就職するときにおかみににらまれたら悪いさかいよう…というような形で、だんだんと減って行くわけです。なんかおかみが光り出したら、後ろへ後ろへと下がるんやね。…後になって、おかみにだまされたなどと、泣きごとを言ってほしくない。だまされないように心とぎすまして、時には反対する勇気をもってほしいということです」
オカミが光り出したら危ない時代なのだ。今の時代への警鐘だと思った。
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▽6 御三家以来の伝統が残る和歌山県では、知事周辺の権力者を「えらいさん」と呼び…住民には打ち負かす力はありませんでした。「もうアカン」と思った1979年にスリーマイル島の原発事故が起こりました。…県はほとぼりが冷めるのを待って動きだし80年代半ばになって県として原発推進の結論を出そうとしたのです。今度こそはダメだと覚悟しました。1986年、原発推進の検討結果が発表される直前、チェルノブイリ原発が起こったのです。その後、県の検討結果はなぜか「行方不明」となり、使った税金はまったくの無駄金となりました。…住民運動の勝利というよりは、まさに「神の助け」というほかありません。
▽「紀伊半島電源基地化構想」 関電が当初候補地としたのは、那智勝浦町浦神、古座町荒船、日置川町口吸、日高町阿尾、日高町小浦の5カ所だった。
□20 浅里耕一郎
昭和42年に日高町議会で原発誘致決議が決まると、43年には古座町、44年には那智勝浦でも誘致決議がなされた。
日高町阿尾地区の区民葬会で反対決議。
44年には太地町、46年には那智勝浦町で次々と誘致反対決議。昭和40年代の原発建設計画の1ラウンドがいったん終わった。
昭和50年代に第二ラウンド。
日高町小浦地区と、日置川町口吸地区の予定地が明らかに。以来20年間、この2カ所が主戦場となった。
▽26 関電とは関係のない第三者が原発建設とは異なる使用目的で地権者から土地を買収。それを関電があとからまとめて入手した。
阿尾地区では、大信製材という大坂の木材会社が「製材工場を建設したい」と買収をはじめた。「あの土地は関電に売り、かわりに飾磨の土地をもらった」
…元地権者は土地返還訴訟を起こしたが、請求は棄却された。訴訟費用も負担することに。さらに、大信じる製材が元地権者を相手取って、損害賠償訴訟を起こした。推進派の町長が中に入って訴訟を取り下げてもらうことになるが、その見返りとして、町長は、「陸上事前調査」に協力するよう阿尾地区に要請しようとした。昭和55年のこと。
日置川町では、町開発公社が口吸地区の山林を「自然公園にするため」という理由で地権者から買収した。昭和47年ごろのこと。ところが、その土地は、公社から町に売り渡され、昭和51年の臨時町議会(秘密会)で、公社が購入した土地に町有地を加えた66万平方メートルを関西電力に売却することを決めた。
さらに…日置川町は和歌山県に対して、「熊野枯木灘県立自然公園の国定公園への昇格申請」を取り下げるよう働きかけていた。
▽32 日置川町は、昭和33年の日置川水害で痛い目にあった。昭和32年に「電力をつくる」「下流を洪水から守る」という目的で殿山ダムができたが、その1年後、大水害が起きた。大きな被害は、殿山ダムの無謀な放流のせいだと住民は考えた。
…関電は「天災説」を繰りかえし、流失家屋1戸につき2万円、床上浸水家屋1戸につき7000円ちう「見舞金」、を示しただけだった。住民は37年に泣く泣く受け入れを決めた。
▽36 原発先進地見学ツアー ツアー相場の1割の3000円で1泊2日。
…「旅館では、酒は出る、ビールは出るで、わしら、町のスナックへ行ったって、それも払うてくれる」
□寺井拓也
▽45 日高町阿尾 クエで有名な町。白鬚神社の「クエ祭り」.祭りに繰り出す若者たちの背中の絵柄に、それまでの美人画などに混じって「原発絶対反対」の文字が見えはじめた。
…昭和44年に原発は話は出てこなくなった。沈静化。
▽53 小浦地区に昭和50年に計画を打診。
比井崎漁協。昭和51年の総代会で「現段階において誘致につながる調査研究は絶対反対である」と決議した。
▽63 町議会は推進が多数。町長も議会も推進。最後の砦は比井崎漁協だけだった。
漁協の財政赤字に乗じて。
▽68 陸上と海上の「事前調査」のうち、陸上の事前調査はほぼ終わっていた。海上は漁協の同意を必要とする。漁協が最後の砦だった。(珠洲では「陸上でとめなければだめだ。海上にいったら負ける」と運動していた〓)
昭和59年、最大の山場。漁協の定期総会。推進派の再建案が可決されると海上事前調査受け入れへと進む。
▽70「反原発クジラ新聞」(〓自前のメディアの力)
…定期総会。来賓の県の職員の椅子を取り上げて追い出した。「新聞記者や組合員の家族を閉め出しておきながら、県職員が入っているのはどうしたことか」と。混乱し、「流会にします。私は責任をとってやめます」と組合長。
▽77 チェルノブイリ後も、ほとぼりがさめると「我が国では考えがたい事故であったことがほぼ明らかになった」などと国は安全神話を説いて、推進派は勢いを盛り返す。
「つれもてすわろう女たち」との呼びかけで、漁協事務所前で座り込み。「紀伊半島に原発はいらない女たちの会」の松浦雅代。1988年。漁協総会で組合長が「議案廃案。役員は総辞職します」と宣言。
〓日高町原発反対連絡協議会の濱一巳事務局長〓。
組合長は推進派として活動していたが、以前は、反対派の組合員だった。…もともと漁師は、仲間同士の争いを好まず、漁師仲間をなによりも大切にする。その心が組合長に「廃案」を言わしめたのだろう。
〓日高町の「女の会」の代表の鈴木静枝さんは元教師。大戦中に戦場へ生徒を送り出した。敗戦となって一夜にして国の言うことが変わった。だから「お上」を信用しない。「99%だめでも、0.1%の希望があればあきらめたらあかん」
1990年の町長選挙には「火だねを完全に消してしまう」ことを公約に掲げた志賀政憲氏が当選し、昔の平和な町にもどっていった。
▽日置川
昭和51年、計画に反発した住民はまず「原発反対共闘会議」を結成。市江地区の住民のほか、漁協や労組、全解連日置支部〓などが参加した。
反原発町長が誕生。ところが阪本町長は、昭和55年に再選された2期目に変節する。昭和57年には「原発調査費」を計上した。
〓町会議員の西尾智朗〓は反原発運動に取り組んだ。
▽104 昭和61年の議会で町長「原発のような高度技術の施設は、国の回答を信じなければ、ほかに手だてはないのではないか」(国は誤らないという神話〓今も 戦争体験のある人はお上を疑う能力が一部にあったが 伊方の兵頭熊一さん〓)
▽110 1986年のチェルノブイリ原発事故。
…原発予定地の地元である笠甫地区の住民や、反対協議会の隅田秀夫会長。予定地の地元の市江地区の谷口恵美子さん〓
…予定地の市江地区では昭和63年の区民葬会で、かろうじて反対決議の白紙撤回を免れていた。反対35、賛成34だった。
▽119 昭和63年の町長選挙。現職の宮本町長は、二階俊博や東力や県議らが応援。反対派がおした三倉重夫氏〓は元農協組合長で保守系の人だった。〓三倉の出陣式には革新系だけでなく、自民の大江康弘県議らも来ていた。
三倉氏が当選。町議選も反対派が議席を増やした。平成4年も三倉氏が73票差で勝った。平成8年に引退。町政を引き継ぐことを公約とした前義郎〓が当選し、平成18年の合併までその座を守った〓。
…関電は日置川に広大な用地を所有したまま、関電立地サービスセンターには社員を残して地域活動をいまだに展開している。元町職員労組委員長の冷水喜久夫氏〓〓は「使用済み核燃料の中間貯蔵施設を狙っているのではないか」と語っている。
▽那智勝浦と古座町
▽131 「浦神」から数キロの太地町が真っ先に反対ののろしをあげた。那智勝浦の住民も「那智勝浦町原発誘致反対町民会議」を結成…
▽139 昭和51年、古座町議選で賛成派が多数に。古座漁協も推進に傾きかけていた。「絶対反対」と「条件つき賛成」で二分していた。臨時総会で「原発反対決議」を白紙撤回した。
隣の古座川町議会は昭和52年に「反対決議」
昭和58年、古座町長選。同和問題と原発問題が争点に。原発反対を明確にした共産党の前町議が、保守系2候補を破って当選。チェルノブイリをへて平成2年の町議会で「原子力発電所設置に反対する決議」を全会一致で可決した。これによって古座町の計画は終息した。
□北山敏和
▽146 市井の学者〓宇治田一也の「宇治田理論」。和歌山市在住。…長年、住友金属による公害や埋め立て問題に異議を唱えてきた。
電力料金に時間帯による格差を設けるなどすればピーク電力は低下でき、電力会社にとっても無駄な発電所の新設は必要がなくなると主張した。福島後、ほとんどすべての原発が停止しても、大企業の操業日を変更するなどして、政府主導でピーク電力の操作が実施され、いつもと変わらぬ生活をつづけられた。30年をへて宇治田理論が実証された。
…戦争体験をへて科学技術に疑問を抱き、大学は京大の哲学科へ。卒業はせず、和歌山に帰って私塾を開きながら、開発や埋め立てによる自然破壊を食い止めるための理論と行動を極めた人物。
▽156 和歌山の汐見文隆さん〓、恵さん夫妻が中心となり「和歌山から公害をなくす市民の集い」が発足。「公害教室」と名づけられた市民のための学習会もスタートした。汐見さんは京大医学部を卒業後、和歌山日赤に勤務、退職後は内科医を開業していた。
…「公害教室」第1回は昭和47年。宇治田さんも一緒に。
…学習の場であると同時に、参加者それぞれの経験や考えを伝え合い、共有し合う交流の場となり、ネットワークを自律的に形成していった。原発反対運動に大きな意味をもつことになった。
▽163 住民運動を支えてきた人々は、実はもともと自民党を支持していた保守層が圧倒的に多かった.宇治田さんも、皇室を敬愛し、日の丸を頭に巻きハンストする。
▽168 忘れ得ぬ人 白浜の黒﨑良男さん 原発立地予定地の市江地区に、たった一人で反原発のチラシを入れに行く。 …もともとは京大大学院で農学の研究をしたドクター。海外の知見を含めて、原発の話をわかりやすくチラシに解説していた。
□和歌山の女たち 松浦雅代
▽172 「わいわいがやがや女たちの反原発」(1989年、労働教育センター)
鈴木静枝さん 当時阿尾の小学校の先生だった。原発反対を定年後まで訴え続け…
阿尾の畑木道子さんと小浦の鈴木静枝さんが代表になり、1978年に「原発に反対する女の会」を結成した。
▽178 日置川の市江周辺の女たちが「ふるさとを守る女の会」をつくった。会長の谷口恵美子さん〓。
▽180 日高町「産湯」の海で泳ぐことにシテ子連れで合宿。民宿定員40人のところ70人も参加した(〓ハマヤ?)
▽183 鈴木富士子さん 強さは戦争体験によるものだった。平成2年から「つゆくさの会」の代表。平成16年に76歳で亡くなった。
□中西仁士
▽189 古座町の田原漁協の組合員たちが、荒船海岸が予定地になっていることを知ったのは、関西電力による買収が始まってからだった。
ほかの漁協が賛成するようになるなか、田原漁協は昭和47年以降は反対しつづけた。原発反対同志会のメンバーの一人に矢間正伸(平成22年没)がいた。「反原発」を掲げて町会議員に。
漁協の組合長になった山路勝彦〓は矢間を支え…
…串本地区労も古座地区労も、ほかとはちがって、社共に分裂していなかった。反原発の加藤国司〓が古座町長に。
…古座町議会は平成2年「原子力発電所設置に反対する決議」を全会一致で可決した。
…那智勝浦町下里の竹中初男〓が昭和55年に「紀南原発反対協議会」の会長に。
…日高町の濱一巳〓 30歳前後のときはじめて和歌山市の集会に来たときはシャイな青年だった。
…太地町は反原発が終始ぶれなかった。その中心にいたのが町会議員の三原勝利だった。
▽193 那智勝浦原発。浦神半島の民有地のほとんどが関電に買い占められた。昭和44年に地区住民8割が賛成陳情に署名して、町議会が「原発誘致」を決議。当時の浦神の人々は、養殖によって汚れた浦神湾の海水を、原発の電気をつかって外洋の海水と入れ替えるという「夢」を信じていた。
▽197 日高町・比井崎漁協。不正貸付の焦げ付きが発覚し経営危機に。関電からなぜか3億円の預金がされていたことも発覚。経営再建案として浮上したのが、関電の事前調査を受け入れ、その協力金で再建するという案だった。
…秘密総会。家族の傍聴も認めず、マスコミも入れない。なのに、県の水産課だけは来賓として招かれていた。…濱清一〓(濱一巳の父)が来賓のいすをとりあげた。…組合長が「流会します」「私は組合長をやめさせていただきます」
…濱清一は「原発視察旅行」のとき、原発近くの漁師のところに一人で行って質問をぶつけた。年老いた漁師は「お前に息子がいるのか? 息子がいるのなら原発だけは絶対にやめておけ」といった。(〓生業が健全であるということ〓蛸島も)
濱一巳の家は漁師をしながら民宿をしていたから、窓が外に開かれていた。今中哲二はこれまで100回以上ここに泊まっている。
▽204 日置川とちがって、日高は漁業総会だけが問題だった。…最後の砦の比井崎漁協。
▽207 日置川町 社会党の町議だった西尾智朗。仲間とともに町長選に三倉重夫を担ぎ出した。
▽209 古座町は古座川の河口、日置川町は日置川の河口の町が中心。漁師も木材業者もいた。まちの中心部で闘いが繰り広げられた。だが日高町では、農村部と山を隔てた漁村部が合併した町。町の中心がなかった。漁村と農村は別々の地縁共同体。だから漁村での闘いはなかなか町全体のものにはなりにくかった。…小さな漁村は共同体意識が強かった。決定的な闘いを避けていくのが生活の知恵でもあった。なあなあの合議でものごとを決めていくのが生活の知恵。祭りや冠婚葬祭がいつまでも真っ二つに割れていくなどということは、「ムラ」の存続にかかわる耐えがたい出来事なのだ。
…漁協の総代協議会でひたすらお願いを繰りかえす一松町長にむかって、「漁師はな、板子一枚地獄と言うんや。そんなところで働くもんは皆仲良くせなあかん。町長、お前にこの気持ちがわかるか」と濱一巳。
…前町長の後継者の助役に対し、反原発をかかげた志賀が町長選に勝って、原発問題は白紙にもどされた。
▽214 竹中初男さん(平成12年没) 米作りの百姓。大正4年生まれ。林竹二「学ぶ、ということは、知識を詰め込むことではなく、自ら変わることである」(浅里耕一郎)
□女から女への遺言状 鈴木静枝(1918年生まれ)
▽228 93年7月、日高町産湯の民宿「桂荘」でおこなわれた合宿では「原発に反対する女の会」代表の鈴木静枝さんに講演していただきました。
…どうも戦争負けたと言われても、しゅんとこなくてね。ところが、その次の日だったか、その日だったか、ラジオがね、もうニコニコとした感じで「皆さんアメリカは良い国ですから仲良くしましょう」と言うのです。これを聞いたとき、負けたんやなあと、痛切に思いました。
…次に新聞が「一億総ざんげ」と書きました。戦争負けたんは、我々もしっかりやらなかったから申し訳ない。天皇さんにお詫びしようという一億総ざんげですね。その時はそうやなあと思ったんですけど、後になって考えると、これは変やなあと思いました。だってね、私たちは一生懸命に戦争に向かって走ったけど、それは上からの命令で、バカがつくくらいバカ正直に素直に言うことに従ったんだけど、あっち向いて走れと言って指揮した人たちが上にいたでしょう。
…小学校のときからたたき込まれた、教育というのは恐ろしいですね。天皇陛下のために死ぬ、という一本に絞って学校の教育はあった訳です。…戦争が起こったら、何もかも捨てて天皇さまのために死ねということですよね。…ところがその天皇が「私は神様ではない」とおっしゃるでしょう。雲の上から下へ落っこちてきたような具合です。それもびっくりしましたけどね。
…その次に新聞がめったやたらと、今まで報道できなかった戦争中の悪事を暴露しはじめました。…一番つらかったのは、天皇さんのお使いだと思って神様のように崇められていた日本の軍隊が、あちこちで、暴行だ、虐殺だということをやっていた話です。
…おかみというと、天皇様とその政府だと私は思っていましたからね。八紘一宇の聖戦が侵略戦争であったとはね。
…それからもう、だまされまいと思って私の戦後はあったようなものです。原発も…クリーンなエネルギーで、すごくいいもんで、火力、水力なんかよりも値段が安いし、それを持ってきたら、地域に何億というお金が降ってきて…あまりありがたい話なので、、これまた戦争の時みたいな八紘一宇ではないかと思って、気をつけなあかんなーとその時思いました。…昭和42年。。その時私は阿尾の小学校で教師をしていました。48年、白紙撤回されるまでの阿尾の人の戦いぶりを学校も窓から見せてもらったわけです。…
小浦に来たのはその2年後の昭和50年です。…村が二つに割れて、双方傷だらけになってしまった。…
…漁師の奥さんなんか、お正月前だというのに、洗濯もろくすっぽできんくらい駆け回ったものです。
「難しいことは学者先生に任したらええんで、あんたらかて、そんなこと言わんと、おかみの言うこと、聞かんせよ」と議員に説得される。
おかみ、おかみて、おかみは戦争の時、うそだましてたんやで、原発かてうそだますか分からんやないの、と言うと、そがな昔のこと言うてもはじまらんよ、と言うわけです。
…戦争に負けても、あれは徳川時代からおかみ恐れて暮らしてきたのが、もうしみついているんだと思います。「そらなあ、原発反対でいやだっても、これは小浦に召集きたようなもんやさかい、おかみの言うこと、聞かんわけにはいかんよ」と、これは元軍人さんの言うことです。
…小浦で、92人もはじめ署名してくれたけど、10年ほどのあいだに減っていってしまって…就職するときにおかみににらまれたら、ちょっと悪いさかいよう、…というような形で、だんだんと減って行くわけです。なんかおかみが光り出したら、後ろへ後ろへと下がるんやね。
…今の日高町は妙な安心ムードになりましてね、小浦なんかでも、原発済んだよ、とそう言って、昔のこととして、原発にふれないようにして生きています。…トゲのようなもんで…反対と賛成の間では原発というのは禁句でして、…その話題は皆避けることにしています。
…後になって、おかみにだまされたなどと、泣きごとを言ってほしくない。だまされないように心とぎすまして、時には反対する勇気をもってほしいということです。自分に出来なかったことを、人にやってもらいたいというのは、本当にあつかましい話ですけどね。
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