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現代地域メディア論<田村紀雄・白水繁彦編著>

■現代地域メディア論<田村紀雄・白水繁彦編著>日本評論社 20160304
 メディアが、地域社会に役立つにはどうしたらよいのか、新たな可能性はあるのか…知りたくて手に取った。メディア当事者や関係が深い地域住民ではなく、研究者の論文だから、おもしろさには欠ける。でもいくつか、勉強になる分析や参考になりそうな事例もあった。

 1960年代、タウン誌とよばれる小雑誌が、日本だけでなく、欧米でも広がった。学生運動を経験した人々が成人になり、自分の住むまちで創刊していった。その後のフリーペーパーも含め、団地などに住む政治的には「無党派・革新的」の都市住民がその中心だった。これらの郊外メディアを研究した大手新聞社が「サンケイリビング」や「ショッパー」をつくった。私が育った団地では、ショッパー全盛期だった。
 コミュニティのラジオは、1950年代にボリビア鉱山で、先住民の労働者が団結のツールとしてはじめた放送局が源流だという。1986年に「世界コミュニティラジオ放送連盟(AMARC)」が誕生し、今も中南米やフィリピンで盛んで、貧困の克服や表現の自由のため活動してきた人が殺される事件が起きている。「マイノリティの視点」「多様性の重視」「住民自治」という共通性があるという。
 私も1980年代に中米で聴いて興味を持ったが、日本では規制が強くて無理だと思っていた。
 だが1992年の放送行政の規制緩和で函館市に「FMいるか」が誕生した。NPO法人としてはじめて放送免許を取得した「京都三条ラジオカフェ」が2005年に最初に連盟に加盟し、翌年、阪神大震災で被災した外国人に災害情報を伝えることを目的に「FMわぃわぃ」が設立された。

 読者や視聴者に紙面・番組づくりに参加してもらシステムも、今後は不可欠だろう。その点で参考になるのは、熊本県民テレビだ。
 地元情報を発信する91人の「特派員」を置き、災害時に画像や情報を送ってもらう。この制度を通して「送り手にもなりたい」という「メディアへの参加意識」が高まってきたという。
 大規模店出店をめぐる経緯の分析はおもしろかった。
 筆者によると、昭和48年に施行された大規模小売店舗法は、アメリカの外圧で平成に入って崩れ去り、平成10年に中心市街地活性化法が施行された。両者とも「お粗末きわまりない流通政策」だった。前者は、大型店舗を郊外展開させることで、中心市街地の商店街を一時的に保護する効果しかもたなかった。80平方メートルぐらいのコンビニを開発させ、ライバルの出店を規制させ、既存の大型店に安泰を約束する副次的効果さえもった。「中心市街地…」の期待感は2,3年で消し飛んでしまった。計画をつくるだけで引き揚げてしまった行政はもとより、リスクに及び腰の商議所や商工会が「TMO]を本気で育成しようとせず、国の補助金の範囲でしか動かなかった。私は90年代、大店法をやめることに反対だった。大店法が愚かな制度だったとしたら、どうすれば商店街を守ることができたのだろう。
 アメリカのメガモール時代は、80年代から90年代の20年で終わり、「歩いていけるヒューマンスケール」のまちづくりが主流になっているという。かつてのメガモールが教会や小中学校や役所庁舎に衣替えしているそうだ。本当だとしたら、80年代に見たフレズノのメガモールがどうなったか見てみたいものだ。
 紙媒体メディアを使って商店街を再興した例として帯広が紹介されている。。TMO関連事業である「北の屋台」は、寒さのきびしい北海道では不可能といわれていた屋台村を成功させ、この取り組みが全国の屋台ブームの火付け役となったという。全国では屋台村は衰退してしまったが、帯広の屋台村は今どうなってるのだろうか?

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▽5 「地域民主主義」という地域政治の立場から地域の新聞に着目したのが、…シカゴ学派の手法の一つである参与観察法によって分析した。
…CATVが驚異と思われたが、それが原因で経営危機に陥ったコミュニティ新聞はなかった。
…阪神大震災では、住民の自然発生的な初期的なメディア構築、チラシ、回覧、掲示などが、ひとびとの不安を解消させるのに貢献した。
▽10 1960年代に突如、タウン誌とよばれる町の小雑誌が全国に広がる。日本だけでなく、アメリカやカナダ、ヨーロッパにも生まれた。背景は1960年代の学生運動。そのエネルギーが燃え尽き、若者が成人になり、生まれ故郷や地方都市にうつり、これまでになかったタイプの活字媒体をおこす。
▽11 フリーペーパー 団地の出現。共通の特徴を持った都市住民の誕生。年収も年齢も近く、政治的には「無党派・革新的」だった。…
団地の新住民は、娯楽・文化・政治・教育への関心は高かった。無料配布の印刷物を考え出した発行人たちは、学校や企業につとめるホワイトカラーや教師たちだった。
団地新聞とアメリカの郊外メディアを研究してきた大手新聞社が、「サンケイリビング」。共通しているのは編集局ではなく、広告局のイニシアチブだったこと。
▽38 インターネット新聞。(もう終わってしまったのだろうか。JanJanやオーマイニュース日本版は終わった。ベリタはどうなったのだろう。読者が記者というのはやはり無理があるのか)
▽51 コミュニティのラジオ
1950年代にボリビア鉱山で、先住民の労働者が団結のツールとしてラジオ放送を活用したのがはじまりといわれる。
コミュニティラジオに関心を寄せる人びとが集まり、1986年に「世界コミュニティラジオ放送連盟(AMARC)」が誕生。(〓今の動きは。セグンドモンテスは)
日本からは、NPO法人としてはじめて放送免許を取得したコミュニティ放送局「京都三条ラジオカフェ」が2005年に最初に亀井。翌年、神戸で被災した外国人に災害情報を伝えることを目的に設立された「FMわぃわぃ」が続いた。
…2006年、コミュニティラジオの発祥の地である中南米勢の勢いがすごい。フィリピンでも貧しい地域で、貧困の克服、表現の自由のため活動してきた人が殺された。
…UNESCOは「貧困や阻害といったコミュニティレベルでの重大な社会的問題の解決に取り組み、社会の発展から取り残された市民を力づけ、民主主義と開発の取り組みを活性化させるための特別な存在」と定義。コミュニティという言葉のなかには、周縁化、不可視化されているマイノリティの存在が明確に位置づけられている。
▽63 FMわぃわぃは2006年から、北海道のミニラジオ局「FMピパウシ」と提携してアイヌ語を交えてアイヌ文化を伝える番組を放送している。ピパウシは2001年に誕生。
…2007年、AMARC日本協議会結成〓。
▽80 八代市のウェブ掲示板。「ごろっとやっちろ」。2004年にSNS化した。
▽87 昭和48年に施行され、アメリカの外圧で平成に入るともろくも崩れ去った大規模小売店舗法。
平成10年に施行された中心市街地活性化法。両者の共通点は、「お粗末きわまりない流通政策の代名詞」。前者は、大型店舗を郊外展開させることで、中心市街地の商店街を一時的に保護するだけの効果しかもたなかった。80平方メートルぐらいのコンビニを開発させ、ライバルの出店を規制させ、既存の大型店舗に安泰を約束する副次的効果さえもった。「中心市街地…」は、期待感のバブルは2,3年ではじけてしまった。
…計画をつくれば自分の責任は終わったとさっさと引きあげた行政はもとより、リスクに及び腰の商議所や商工会が「TMO]を本気になって育成しようとはしなかった。国の補助金が続く限りは面倒見ましょうというスタンスだった。
…「まちづくり3法」改正の効果が作動するのは2007年の秋頃から…メガモールなど1万平方メートルを越える大規模店舗の郊外立地に対する規制強化を実効性のあるものにすること。
▽90 アメリカのメガモールの時代は、80年代から90年代の20年で終わってしまった(〓本当か?)
「歩いていける、ヒューマンスケール」の街づくりがアメリカの主流になってきている。かつてのメガモールが教会や小中学校や役所庁舎などに衣替えしているという。
▽94 帯広。紙媒体で商店街再興。TMO関連事業である「北の屋台」は、寒さのきびしい北海道では不可能といわれていた屋台村を実現し、帯広の屋台がモデルとなり全国の屋台ブームの火付け役となった(〓いまはどうなってる?)
▽119 コミュニティ・ビジネス
日本の単一民族的な傾向は、戦後以降強まったものといわれる。…
「FMわぃわぃ」、そこに集まる人から始まった翻訳・通訳の技術をコミュニティビジネスとしてコーディネートする「多言語センターFACIL」、多様な文化的背景を持つ子どもたちに関する活動を展開する「ワールドキッズコミュニケーション」…
▽122 関東大震災時の朝鮮人大量虐殺の歴史が頭をよぎって同胞のことを案じた大阪の在日韓国人が長田区にバイクで持ちこんだ放送機材で「FMヨボセヨ」がはじまる。ベトナム語を中心に、英語、タガログ語、スペイン語、日本語のラジオ放送「FMユーメン」もはじまった。…半年後に合併して「FMわぃわぃ」となり、96年1月17日に正式にコミュニティ放送局「FMわぃわぃ」として認可を得た。マイノリティ自身の発信を最優先にして…
▽131 「マイノリティの視点」「多様性の重視」「住民自治」という共通性。
▽138 コミュニティFM 1992年の放送行政の規制緩和を受けて、函館市に「FMいるか」が誕生することではじまった。(〓だから88年にニカラグアで聞いたときに現実的と思えなかった)
阪神・淡路大震災を契機に急増。

日本のメディア史上最強の地域メディアは、かつて農村を石鹸した有線放送電話。「ムラ丸抱え」的なメディアであり、生活リズムの共有を反映して、スピーカーにスイッチはなく強制聴取であった(〓いまはどうなった?)

▽145 北海道では、札幌から遠いほど、コミュニティFMの事業がなりたつと言われる。
▽149 コミュニティFMにとってもっとも重要なのは「社会的サポートの動員」にある。
▽176 熊本県民テレビ 地元情報提供者91人の「特派員」。自然災害などのときに画像や情報を送ってくれる。さらに、受け手が送り手にもなりたいという「メディアへの参加意識」をもちはじめていたこともとらえた。(そういう制度をつくるべきではないか。きちんと研修して〓)
▽182 ハワイの沖縄系のコミュニティが80年代以降めざましい活動を展開するようになったのは…放送や印刷メディアなど各種メディアを巻き込んだ、「沖縄の文化はユニークである、オンリーワンである」というプライドの醸成が功を奏したと筆者はみている。
▽各大学の地域メディア関連講座の一覧

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