鶴見は戦後、「山びこ学校」を通して「生活綴方」に共感し、自己史をつづることの重要性を説くようになる。このころの鶴見は、人々の生の声をどのように記録し、学問活動につなげるかを追究していた。対象を外から観察する近代科学のような社会学から、対象者みずからが語る歴史を重視し、「今」という場で語りを促すという方向へのパラダイム転換を企図した。そうした社会学のありがたのビジョンを「内発的発展論」と呼んだ。ここには終戦直後、近所に住んで交流した柳田国男の影響があった。
鶴見のフィールドワークは、ある個人の生まれた時から今までの話を聞く。水俣でも、せっせと患者の家へ通って話を聞きつづけた。日本では昔から庶民が日記をつけているから、そうしたオーラル・ヒストリーの宝庫なのだという。
柳田は日本の独自性を追求したが、元資料を示さず、西洋的な論理整合性という面では説得力が弱かった。「西欧のみが内発的な近代化をとげた」という主流の論に対して、西洋的な論理に真正面から反論した存在として、鶴見は南方熊楠を発見した。地域に根付いた民間神道と生態系と地域社会を押しつぶしそうとする国家神道に抗して闘ったのだと鶴見は解釈した。住民みずからが生活を守る「自治の思想」が重要だと説いた。近年、鶴見の論に修正を迫ったのが畔上直樹の「村の鎮守と戦前日本ー国家神道の地域社会史」で、大正期以降の国家神道は、地域の「村の鎮守」に信仰によって支えられていたのではないかという問題提起をした。
水俣とかかわっていたころ、熊楠全集の解説を頼まれたのが鶴見の熊楠研究のきっかけとなった。水俣病調査の経験から、神社合祀反対運動の再発見につながった。
それまで、熊楠は博学だが理論はないと思われ、はちゃめちゃな面ばかりが強調されていた。
鶴見は、体験をもとに実証的に積み上げる正統派研究者としての熊楠の姿をはじめて紹介した。土岐法竜への往復書簡で、斬新な哲学や宗教、生態学をきわめて論理的に展開したことを明らかにして、「南方曼荼羅」の意味を読み解いていった。
鶴見は南方曼荼羅の「萃点」に着目する。「心」と「物」がぶつかるところに「事」が起きる。物は因果が支配するが、心は偶然つまり縁が支配する。そのふたつが交差するところにおきる事は、因果と縁が関係する。「因果律だけに集中しているニュートン力学の方法論よりも、偶然性と必然性とを同時にとらまえる方法論をとらえた仏教の方が一つ上の科学の方法論であるぞよ」と土宜法竜に説いていた。
そして、心と物が非常に運命的な出会いをした点こそが「萃点」なのだという。
「粘菌」の研究も南方曼荼羅の土台になった。粘菌は美しい形のときは生命として死んでいる。その上から生きているものが出てきて、また死んでいく.。その瞬間瞬間に生の部分と死の部分がつねに共存しながら、全体として大きな生命体をつくっている。熊楠は、人間のなかにも常に生と死が共存し、自分のなかには生と死を内包していると考えた。巨大な生命体=曼荼羅の一部が人間であるとも考えた。
留学生は熊楠の比較学に学ぶべきだという主張も説得的だ。
自分の中にレファレンス・ポイントをちゃんと持ったうえで、外のものに対峙する。こっちが発信基地になって向こうにぶつかるものがなければ、比較が非常に客観的な浅薄なものになってしまう。熊楠はまさに、動植物や仏教などの膨大な知識をもっていたから、西洋の近代科学と正面から対峙することができた。鶴見和子や弟の俊輔も同様の強みがあった。
一方、熊楠のエコロジー思想が後世に受けつがれたかという問いには、鶴見のみならず、この本の論者たちは否定的だ。紀伊半島の山のほとんどが植林になり、熊楠の森はわずかしか残されていないことで示されている。
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▽14 鶴見は、南方の学問に対する姿勢が「身についた実証主義」に基づいている、と論をすすめる。それまで、奇人学者のイメージが流布し、そのような独創的な知性を相手にするにはこちらも無手勝流に解釈するしかないという稚拙な南方論が多かった。
柳田国男の名人芸のような手法と比べると、南方はむしろ、愚直なまでに学問的な正確さにこだわった。
▽16 「南方曼荼羅」の意味の発見。
▽23 1947年に柳田国男邸の真向かいに住み、交流を持った。
1951年に「山びこ学校」を通して「生活綴方」に共感。生活記録運動に参加し、自己史をつづることの重要性を説くようになる。
このころの鶴見の活動の中心は、人々の生の声をどのように記録し、学問活動へとつなげていくかという点にあった。
▽24 対象を観察者とは切り離されたものとすることで科学性を担保する従来の社会学の手法から、対象とされる人びとみずからが語る歴史を重視し、現在の時点においてその語りを促すという方向へのパラダイム転換を企図していた。そうした独自の社会学のありがたのビジョンを「内発的発展論」と呼ぶようになる。〓
「内発的発展論という考えをもつようになったのは柳田先生のおかげ」と記しながら、柳田の民俗学に違和感も感じていた。「柳田はいつ、どういう本を読んだか…私たちが調べない限りわからない」と、西洋的な論理の整合性を柳田の学問に求め得ぬことを指摘しているようだ。
…西欧のみが内発的な近代化をとげたという根強い謬見に対して、柳田のように韜晦することなく、真正面から反論してくれる存在として、鶴見は南方熊楠を発見した。
▽27 「南方熊楠への関心も含めて、その後のわたしのすべての仕事の原点となったのが、水俣体験である」としている。
▽ 南方の思想が現代においてもつ最大の可能性を「地球は一つ、されど己が棲むところにおいてそれを捉えよ」という言葉に集約している。
▽30 文枝と結婚した岡本清造の手によってある程度の整理がおこなわれ、1965年に白浜町に南方熊楠記念館が開館した。71~75年にかけて平凡社から新しい「南方熊楠全集」が刊行。
…京都文教大学に収蔵された鶴見和子文庫には、1976年はじめごろから鶴見が旺盛に熊楠関連の資料を収集した跡が残されている。
…水俣からの調査から帰ったばかりの1976年5月に、熊楠の娘婿の岡本清造と会い、助言を受けている。岡本は、白浜の記念館開館にこぎつけた人物。
6月に鶴見は田辺と白浜へ。白浜では、生活綴り方運動以来の知人で、駅前で煙草屋をいとなむ服部たつえ(〓なにをやった人?)と再会。
▽39 第一に南方の創造性の原点は異文化間の対決、古代仏教と近代西欧科学との対決を彼独自の方法で統合しようとしたこと。第二に、精鋭の原初形態と考えていた粘菌の観察から洞察力を得た。第三に、科学における発見の過程において夢および無意識の働きが重要であることを認識していた。(〓第3の意味づけがどれだけ重要なのかわからない)
▽48 97年には長年住んでいた練馬の自宅を処分して、宇治市の京都ゆうゆうの里に移った。終の棲家となった。
▽50 倒れた後に思想的な柔軟性を得ていた。
▽53 2002年に文枝さんが亡くなり、隣に研究施設をつくることに。邸内資料の調査がすすみ、…土宜法竜あての大量の書簡が2004年に京都の高山寺で発見。
▽64 鶴見が死去した2006年に、南方熊楠顕彰館が開館。関連資料のおそらく8〜9割を保有する。
▽65 鶴見が水俣病を調査した際の苦闘から、熊楠の神社合祀反対運動の再発見へとたどりついた。
…国家神道が、地域に根付いた民間神道が土地の生態系と地域社会を押しつぶしそうとしているのに抗して、南方は闘ったのだと鶴見は解釈した。民間神道のような、土地に根ざした地域住民がみずからの生活を守る「自治の思想」こそが重要なのだという結論を導き出している。
近年にそれに修正を迫ったのが、畔上直樹の「村の鎮守と戦前日本ー国家神道の地域社会史」(2009)。大正期以降の国家神道は、近代化の名かで変化していく地域の「村の鎮守」に対する信仰によって支えられていたのではないかという問題提起。
▽68 「内発的」という言葉は「生身の生きている者として、ものごとを理解する」ことにたどりつく。研究の方法として考えた場合には、つねに対象となる人物に対する人間的な共感(やその延長としての反感)に基づきながら、客観的な事実の一つ一つを照合していくこと。熊楠に対するこうした人間存在としての理解こそが、鶴見の「地球志向の比較学」を輝かせつづけている最大の要因である。
□座談会
▽83 粘菌はひとつの細胞だが、固まっていくものは、生命として死んでいる。その上からまた生き延びているものが出てきて、また死んでいく.…粘菌のなかには、その瞬間瞬間に生の部分と死の部分がつねに共存しながら、全体として大きな生命体をつくっている…カオスとコスモスが一緒にある。
▽104 (千田)道に迷ったり…熊楠の生々しい実感がもとになってはじめて「心」と「物」がまじわって「事」が生まれるという抽象化に結びつく。体そのものを使って自然のなかに埋没したり、ぶつかりあったりすることで、何か出来事が生まれる。それは、因縁の力によって設営することができる。因縁の力と、その連なりによって、森羅万象と人間のつながりというものを全体的に捉えていたのではないか。
…萃点の重要性を、「心」と「物」が非常に運命的な出会いをした点、人間と物界との一番の可能性を示した点というふうに捉え直した。熊楠は、精神と自然というものを具体的な次元で考えていた。だから私は、熊楠は唯物論者だといってはばからないところがあるんです。南方曼荼羅は、一番核になっている萃点というところでは、実体験がもとになっている。
▽107 死んだらほんとに如来になるのよ。涅槃というのは、自然と自分がほんとに一体化したもの。それが死なの。だから最高の状態よ。死ぬということは、人間として最高のハレなのよ。私が朝日賞をもらったとき、「私、あれはハレだけど、まだハレがあると思う」といったら、俊輔が「お前、また賞を取りたいのか」といったから「ばかやろう」っていったの。「死ぬことよ」っていったら「ああ、そうか」って。
▽110 人間のなかにつねに生と死が共存しているんだけど、ふだん気づかない…自分が生だけで成り立っている思っている人には見えないものが、自分が死と生を内包しているということによって見えてくる。
▽111 健康なときは、自然と私は関係なかった。だけど病気になったら直接に関係があるの。自然の一部であることがわかるし、いままでわからなかったことがわかるようになったの。南方に対する解釈も、必然性と偶然性の出会い、それが科学史に位置づけられることがわかった。でもそれじゃあ足りないんじゃないかというのが、いまの疑問なの。
▽112 千田 神社合祀反対運動の時期は、南方は、分裂的で非常に暗い時間ではなかったかと思うのです。…気が狂いそうだったのよ。彼は。…合祀反対運動は…氏神が取りつぶしにあおうとしているという現実は、本当に身というか魂が削がれるような、身体的な喪失感みたいなものがもとになっていると思うんです。
▽116 雲藤 熊楠は、たえず自分は残り時間が少ないんじゃないかと思って生きていたと思うんです。
…次の瞬間に足が滑って谷底に落ちて死ぬかもしれないと思えば集中できるのよ。
…私は倒れてよかった。あのままでいけば、私はただギリギリと論理的に追究するだけで終わったのよ。そうしたら全然バラバラよ。統一できなくなっちゃうわよ。そんなバラバラな世界を統一するというのは、これは秘密儀よ。
▽119 「因果律だけに集中しているニュートン力学の方法論よりも、偶然性と必然性とを同時にとらまえる方法論をとらえた仏教の方が一つ上の科学の方法論であるぞよ」と土宜法竜に言っている。
▽140 留学生は熊楠のやり方を。比較学は、自分の中にレファレンス・ポイントをちゃんともって、そして外のものに対峙する。…こっちが発信基地にならなければいけないの。こっちが発信基地になって、向こうにぶつかるものがなければ、比較というのは非常に客観的な浅薄なものになるの。どこにレファレンスポイントを置くかということが、留学生にはすごく大事なことなの。向こうへ行って、何しろ早く取ってきて、それを日本に伝達する。もうそういう時代じゃないでしょう。
▽142 熊楠の議論はマルコ・ポーロの旅行記にも引用されている。「東洋の星座」
▽145 熊楠の英文は、正攻法な英文。ところが日本文はめちゃくちゃ。
▽146 曼荼羅は、お互いに多様なものが多様なものでありながら、異なるものが異なるままに、お互いに助けあって、ともに生きる道を探る。それが私の内発的発展論を普遍的に結びつける筋道になるわけ。柳田国男は、日本には日本のやり方があるということをいうだけなの。そうするとバラバラになっちゃうのよ。熊楠は、日本にあることはほかのすべての国にある。他の国にあることは日本にある。ただ、ある形がちがうだけで、共通性があるということをすごく強調するの。柳田はこれは「日本のみになることなり」ってすぐ言うのよ。これが困るのよ。アメリカのみ、イラクのみ、中国のみ…っていったら、みんなバラバラになっちゃうじゃない。
▽174 社会変化のなかに必然性を強く打ち出したのがマルクス主義で、偶然性を取り入れたのがプラグマティックな社会変動論。
▽176 天皇制は必然性論。絶対主義です。それをどうやって抜け出せるかということでアメリカへ行ったんです。デューイの哲学のなかの「しなやかな思考」によって歴史をもっとしなやかに見る。だから私のマスター論文は「マルクス主義とプラグマティズム」です。…私の関心は、個人と社会の変化の結節点をどういうふうに考えるかということ。それはマルクス主義とプラグマティズムの思想的な戦いなのね。
▽184 水俣 現実に役にたたない学問をやってきたんだなという自己反省ですよ。男の人はそういうイライラがあるとけんかするのよ。…春と夏、7,8年通った。
▽186 当時の熊楠論は、奇人だ、変人だ、というものばかり。桑原武夫らの「知の饗宴」がまともだったけど、饗宴というのは、「理論がない」ということを意味している。私はそれに反発したのよ。
▽190 柳田を読んでなかったら、南方を読んでも、これがどういう特徴をもつものかということをわからなかった。内発的発展論もはじめは柳田国男。柳田は「このことは日本にのみにあることなり、他の国にはないことだ」と、何か一つ見つけるとかならずいうのよ。それがちょっと気に障っていたのね。
▽194 実地調査に役立たないような理論じゃ、社会学にならない。水俣に入ったとき、何か社会活動をやっていると全然思わない。フィールドワークをやりましょうっていってやったのよ。
▽202 熊楠のエコロジーのような考え方が受けつがれたかというと、そんなことはない。紀伊半島は全部、植林になっている。…熊楠の森というのはもう8割から9割は破壊されているのが現状です。熊楠がやろうとしたことは、受けつがれていない。
▽210 萃点という考え方がセンターではない。…移り変わる萃点というもののとらえ方。
▽236 私のフィールドワークは個人史。その人が生まれた時からいままでの話をしてもらうの。オーラルヒストリー。…日本では庶民が字を書けて、日記をつけている。だから日本はオーラル・ヒストリーの宝庫なのよ。それを中野卓さんが少しずつやってるくらい。
▽238 水俣で男の人がお酒飲んで酔っ払っている間にせっせとそういう家へ行って、書き取りをしていたの。全般的にやろうとしたら、つかめないですよ。つかめないし、何やってるんだかわからない。…酔っ払ってけんかしてるより、患者さんの家に行って、お話を聞く。時間がかかるけど、それを地道にやっていこうと思ったの。
▽252 松居 神社合祀をやったことは社会活動としてある程度は成功しているんだけど、役人が持ちこんだ論理に対してそれに対向した。しかし戦後になると、また役人の論理で杉植林がおこなわれて、国土の6,70%が杉になってしまうという、ことが起こってくる。そこで熊楠の議論が生かされて、それをもとに何らかの反対があったかというと、まったくないんです。熊楠を本当にその後にわれわれは生かしたか、いま生かしているかということは、つねに問わなければいけない。〓〓
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