■増補 共同体の基礎理論 内山節著作集15<内山節>農文協201
共同体は1970年代までは、封建時代の遺物と考えられた。
ところが共同体が消え、自立した個人が社会に参加することでよりよき社会が生まれる、という希望は実現しなかった。個人がバラバラになると個性豊かになるどころか、カネの権力に支配され、国家や企業に従属した均質な生き方を強いられた。
そこから共同体の再評価がはじまった。
個性豊かな生き方は、何かと関係を結ぶことから生まれる。自然と関係を結ぶと自然とともにある個性豊かな生き方が生まれ、他者とどんな関係を結ぶかによって人間は個性を確立する。そういう考え方が広がってきた。「市民社会」という言葉が輝く時代から、コミュニティ=共同体という言葉が輝く時代になってきた。
近代化とは、国民国家、個人を基礎とする市民社会、資本主義的な市場経済という三つの要素を意味した。この実現の壁になったのが、生の世界と死の世界を統合した、信仰と一体化された共同体だった。共同体の束縛から自由にれば経済が発展し豊かになると考えられた。
だが、1960年代後半、公害や環境問題などの問題が起こった。このときは、公害などは行政が適切に対応すれば解決すると考えられたが、70年代以降の「環境問題」では我々自身も加害者という認識が広がった。私が学生だった86年ごろ、役所の課の名が「公害」から「環境」にかわるのを見て、行政の責任逃れ、と違和感を感じた。私の感覚は時代遅れだったのだろう。
70年代はまだ、人間の暮らしを守るため環境を守るという人間中心主義的な理論が主流だったが、その後、「自然保護」から「持続可能な社会」へと問い自体が変化していった。
共同体が壊れるとは、人間が共有世界をもって生きていた精神が壊さることを意味する。
日本の伝統的精神では、死ぬことを自然に還るとか成仏すると言った。ジネン(自然)の世界に行くことができれば、自然と一体化して永遠の生を得ることができると考えた。共同体とは、死の世界を含めて展開した世界だった。
共同体は、理由があって結合しているわけではない。理由を問うまでもなく守らなければならない大事なものだから「共同体」なのだ。理由を求める共同体(アソシエーション)を積み上げても共同体にはならない。祭りもまた、理由がないのに存続している。活性化という目的をもったイベントは補助金が消えると潰えるのに、祭りは共同体がある限り継続する。逆に祭りがなくなるときが共同体が死ぬ時ともいえるだろう。
日本の共同体の特徴のひとつは、その自治力の高さにあるという。江戸時代、検地や刀狩りで自治を無力化しようとしたが、領主支配の下で巧みに租税を軽減させて村を守り、多くの家で刀を隠しもっていた。私の訪ねた村でも「戦時中の金属供出までは太刀があった」という家がいくつもあった。それは江戸時代の自治力の証拠でもあったのだ。
幕府は、寺による戸籍管理で「共同体の寺社」を中央管理が可能な宗派の寺社に切り替えようとした。共同体の「お堂」を教団が奪い合って仏教は系列化された。幕府の「遊行禁止令」は修験者や遊行僧によって多くの共同体結ばれるシステムを壊そうとした。ところが民衆は「講」という新しい形態を創造した。遊行を禁じられた修験者が各地に定住し、住民を組織する形で講は広がった。それは外とつながるシステムだった。現代の過疎の集落は、勤め人が会社とつながる程度で、共同体としては「外」との交流がないことに気づかされる。
都市も、近世までは一度形成されるとゆっくりとしか変動しなかった。家業の社会は、信用を高めることを重視し、持続性が損なわれるような変動は好まなかった。共同体を生み出す時間を保証することができた。都市と農村は、近代の都市と農村ほどには距離が開いていなかった。
農村共同体を解体し、国家と人民の関係をつくるには、生と死、自然と人間を一体的にとらえる共同体の精神世界を解体する必要があった。武士がそう考えていたから、明治元年に神仏分離令が出された。神仏分離と廃仏毀釈によって、自然信仰と結んだ神仏習合の「修験道」が壊滅させられた。
人間を国民としてバラバラにし、国家の下に統合し、国家と国民が不可分の関係にあるという「共同幻想」を成立させる国家が「国民国家」だった。この転換は、日清・日露戦争によって国民意識が高揚することで実現した。全国にソメイヨシノが植えられたのもこのころだった。
伝統的共同体は、高度成長をへてほぼ解体された。
共同体は経済活動も含めた人間の生きる世界のすべてを包摂していた。近代社会に入ると、一体化されていた諸要素が、経済、社会、文化というように独自の論理で動き、なかでも経済が主導的役割を演じ、すべてが経済の従属物になっていった。自然や人間の営みは経済の手段となり、個人は交換可能な労働力や、GDPの寄与するだけの消費者や、記号化された国民でしかなくなった。
共同体研究は、過去の制度研究から未来における共同体のあり方を探る研究に変わってきた。
単なる利害の結びつきは共同体にはならない。ともに生きようとは感じられない世界は共同体ではない。ともに生きる世界があると感じられる小さな共同体をいかに積みかさねていくかが課題だという。
たとえば、かつての都市住民が講を通して遠隔地の自然とつながっていたように、今の時代も、村とともに生きる都市の暮らしを創造できるかもしれない。
もう一度、生命の営みが結びつき、自分たちはともに生きる生命だということが感じられる存在のかたちを創造し直さなければいけない--。
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▽20 都市化した社会におけるコミュニティをどう考え、創造していったらよいのかという課題。そのヒントをつかむには、江戸期の都市共同体がどのような形で形成されていたのかを知る必要性があるけど、このような研究も立ち後れている。
(道路がコミュニケの場だった〓子どもの遊び場)
▽30 共同体必要論を語る人は以前から存在していた。そのひとつは玉城哲に代表される農業水利の研究をしていた人々。もうひとつは森林の入会権を研究していた人々。森を国家が取り上げていく過程で各地で発生したのが入会権闘争。
(木原敬吉や田中正造〓)
▽32 近代化とは、国民国家の形成、市民社会の形成(個人を基礎とする社会)、資本主義的な市場経済の形成。これらを促進するには、歴史は進歩しつづけているという「共同幻想」を定着させる必要もあった。この変革にとって大きな壁になったのが、生の世界と死の世界を統合した共同体、自然信仰・神仏信仰と一体化された共同体の存在。
▽36 共同体の「束縛」から自由になれば、人々は個性豊かで生き生きとした個人になっていくと多くの人は思っていた。経済の発展が豊かな生活をもたらすとだれもが考えた。…60年代後半、近代化の負の部分がみえはじめた。公害や環境問題…近代化された社会における「存在の空洞化」が意識されはじめた。疎外論の流行を生んだ。
▽39 60年代は都市公害。悪い企業や行政の問題として把握された。行政が適切な手を打てば解決するととらえられた。
(公害が環境にかわるとき、責任逃れかと違和感を抱いた記憶。86年ごろ〓)
70年代以降の環境問題は、我々自身も加害者という認識が広がりはじめた。人間の暮らしを守るためには自然・環境を守らなければいけないという人間中心主義的な環境理論が支配的だった。これでは人間のための開発の必要性と同じ土俵に上がってしまうため、保護か開発かを巡る、同じ基盤に立った論争がおこってしまう。
「自然保護」から「持続可能な社会」へと問い自体を変更させた。
▽49 共同体の形は時代によって大きく異なるが…自然と人間が結び、人間が共有世界をもって生きていた精神が、共同体の古層に存在している。それが共同体の基層であり、それを土台にして時代に応じた、地域に応じた共同体のかたちがつくられる。ゆえに共同体が壊されていくというとき、その意味は、自然と人間が結び人間たちが共有世界を守りながら生きる精神が壊されていくことを意味する。共同体はその「かたち」に本質を求めるものではなく、その「精神」に本質をみいだす対象である。〓
共同体研究は、まず、今日の社会に残っている基層的な精神を探ることからはじめなければならない。〓
▽52 群馬県上野原村。お返し、を何度も繰り返す。野菜がよくできた人ができの悪い地区の人にもっていく。お返し、を繰り返すことで収量が平均化されていく。
当時は、冬野菜や豆類などを保存して冬を迎えるのが一般的だった。ダイコンの葉は乾燥させて保存。ダイコンや白菜は、暖かいところの地面を掘って藁を敷き、その上に重ねて藁をのせ、板をのせて土をかぶせて保存した。これが習慣だったから、晩秋の作物の「交換」は大事ないとなみだった。…この年は7回の「お返し」が妥当だと感じられたのである。
(〓輪島のお返し、は? 野菜と魚の交換、ミカンも…)
▽59 自然をシゼンと読んで人間の外に展開する自然の世界を指すようになったのは、外来語の翻訳から発生した。自然と人間をわけてとらえないそれまでの日本の発想では、自然界をまとめて外的対象としてとらえる言葉がなかった。…それ以前はジネン(おのずから)だった。シゼンと読む場合は「突然に」の意味で使われた。
▽64 修験道。人間は「私」をもているから、欲望を抱き…「私」をもっているとは、仏教的にいえば「煩悩」をもっていることと同義である。ヨーロッパの思想では、自己をもち、欲望を抱くからこそ文明が発展するというように、「私」があることを肯定的にとらえる。日本の伝統的な思想では、「私」があるからこそ人間はむごたらしく生きてしまうととらえる。
…だから人間を悲しき存在としてとらえる。
▽74 源氏物語でも枕草子でも、個の世界が展開している。自我の世界が記されている。日記という形式は欧州では18世紀からだが、日本では土佐日記の時代から一般的だ。日記は自分が自己を見つめるから書ける形式で、欧州では、近代的個人の形成とともに発生するのだが、日本では古代からありふれた形式だ。それなのに、なぜ日本人は個が確立していないというのか。
…欧米的な個の確立は水平的な人間関係のなかでなされる。日本の個の確立は垂直的で、自己が自己を掘り下げていくように個を確立しようとする。だから、個をみつめたときは水平的な、人間としての他者が消える。自己の内奥だけがみつめられているから。
…自分ならではの世界を極めることが個の確立である以上、精神世界を極めることも、技を極めることも「個の確立」。
…日本の伝統的精神では、人間たちという他者が無関係になるといいう点では孤独な個の形成であっても、自然という他者からは離れてはいない。ジネンのままに生きる自己を確立するということ。
▽77 亡くなることを自然に還るといった。成仏したとも、神になったともいった。そこに、すべてを飲み込むように支えてくれ、助け出してくれるジネンの世界への強い信頼があった。
…ジネンの世界に行くことができれば、自然と一体化して永遠の生をえることができると考えた。
…柳田国男は、こうして死後に自然と一体となった者たちを「祖霊」または「ご先祖様」と呼んだ。ご先祖様たちの姿を周囲の山々のなかに見た。…共同体とは、死の世界を含めて展開した世界である。
(〓能登半島のまつり、田の神様)
▽85 群馬県上野村の須郷集落。暮らしはじめたときは9軒。今は6軒
▽88 村のグループは、都市のグループとちがって、家族構成も収入もわかってしまう。たちまち共同体化してしまう。…村の活動は、ある程度継続することを、避けることのできない目的にすえる。村という共同体のなかで活動している以上、任意のグループであっても公的性格を帯びていく。
▽90 共同体のなかに、小さな共同体が多層的に積み重なっている「多層的共同体」
▽94 マッキーヴァ− コミュニティは共同の関心にもとづく組織体ではない。共有された世界として生まれた結合体。歴史貫通的に成立する。アソシエーションは、共同の関心を追求する組織。
…マッキーヴァーのアソシエーションは理由があるから結びついている組織である。ところが村では理由があるから結びついてできたはずの組織が、またたくまに、理由なく持続させる結びつきへと変容する。集落や村も同様。理由があるから守ろうとするのではなく、理由を問う必要もなく守らなければならない大事なものだから、この地域は共同体である。
共同体のなかにいると、自分の存在に納得できる。自分の存在と共同体が一体になっているから、共同体への諒解と自己の存在への諒解が同じこととして感じられる。…アソシエーションを積み上げても、共同体は生まれない。理由のある組織を積み上げても、理由のある社会がつくられるだけだ。それは共同体ではない。(内橋の有志共同体はアソシ?〓)
▽98「アメリカの民主政治」トクヴィルにとって健全な社会とは、さまざまな精神の習慣が併存する社会であり、ひとつの精神の習慣が覆っているような社会を危険な社会とみなした。アメリカでトクヴィルが見たものは、ひとつの精神の習慣が支配する社会だった。開拓民の精神の習慣を絶対的な正義にしてしまっていた。ここでは、制度は民主的でも、実態は強権的、抑圧的、全体主義的な社会が生まれる。それが彼が見たアメリカだった。
…トクヴィルの社会観は、コミュニティが多様に存在する社会こそが健全な社会をつくるという視点と結びつく
(内田樹はどう評価していたろう?)
▽102 多層共同体。小さな共同体が多様に展開する以上、くいちがいはたえず生まれる。そういう問題がおこるからこそ共同体の健全さも保証される。(〓石神集落の外とのつながりづくり)
…戦前的社会のなかで、小さな共同体までが国家の下に統合され、同一の精神の習慣が共同体全体を覆ったとき、共同体はむしろ危機に立たされていた。
▽105 日本の共同体の特徴のひとつは、その自治力の高さにあると考えている。
…「制度史」をとおして歴史を考察する方法から「民衆史」をとおして歴史をみる方法への転換(アナール派以降の歴史社会学)が一般的になり、民衆の実像をとらえる作業が進んだ。ここから江戸期の民衆の生き生きとした姿が描きだされるようになり…領主支配の下で巧みに租税を軽減させ、村を守っていた農民の姿がみえるようになってきた。
…秀吉が検地・刀狩りをしようとしたのも、武装した自治する共同体が統一国家を形成するうえでの壁になったから。だが成果はあげられなかった。
江戸時代、幕府は武士を農村から引き上げさせて武士と農民のつながりを絶ち、検地、刀狩りを実現することで、自治する共同体を支配する共同体に変えようとした。寺に戸籍を管理させ…共同体を1単位とする社会から、家族単位の社会に変えること。「共同体の寺社」を中央管理が可能な宗派の寺社に切り替えること。だがそれも不十分に終わった。
▽109 上野村。何処の家でも少なくとも以前は、刀を隠しもっていた。8本もの刀が屋根裏に隠してあった家もあった。刀狩りも十分できていなかった。(〓石神にも太刀があった。自治村の名残〓)
▽111 江戸時代は家業の社会。家業が傾いたときに持続できる基盤は信用だった。信用第一の家業気質をつくりだした。誠実な仕事が目標に置かれた。
▽112 日本の共同体は、自然と人間の共同体であり、生と死を総合した共同体。さらに中世以来の自治の精神がかたちを変えながら流れつづけ、江戸期以降は家業の精神が共同体に影響を与えた。それらが、日本に独特の共同体を展開させた。
▽115 アニミズムという言葉を使う気にはならない。タイラーが「原始文化」で用いた言葉で、すべてのものに霊魂が宿る信仰を指している。それはすべての信仰の基礎ではあるが、やがて多神教へ、さらには一神教に発展していく「発達史」をともなって語られた言葉であり、ヨーロッパから見た「原始文化」観。
▽116 神社には法印、別当などと呼ばれた僧侶がいることもあり、神仏習合の世界だった。
…昔の僧侶は、自留地をもち、田畑を自分で耕作しながら暮らしていた。このかたちが変化したのは、江戸幕府が寺の「領地」をとりあげ、寺を兵糧攻めにして、かわって寺に戸籍管理をさせ、過去帳を整備させながら檀家制度へと導き…寺を檀家が支えるという今日につながるかたちが生まれた。
▽119 共同体のなかの僧侶。「お堂」を教団がとりあうかたちで仏教の系列化は展開する。だから、寺の宗旨替えもめずらしくなかった。さらに、江戸時代、各地の修験道は、天台宗か真言宗のどちらかに加わることが義務づけられた。
…共同体の人々が自分たちの信仰をもちながら、その精神文化を含めて自治している体制を、幕府は繰り返し切り崩していこうとしていた。
▽127 共同体は、修行しながら訪れてくる専門の修験者と交流しながら、自分たちの信仰的世界を深めていた。…幕府の「遊行禁止令」は修験者や遊行僧によって人々が結ばれていくことを壊そうとしたのであり、同時に管理できるものに宗教を閉じ込める政策だった。ところがそれは「講」という新しい形態を民衆に創造させることにもなった。(共同体は外の風が不可欠だった〓遊行 遍路 〓)
▽128 近世までの都市は一度できてしまうと安定的に推移した。人々の暮らしぶりも急激に変わるものではなかった。さらに、家業の社会が、信用を高めることを第一としていたことも影響していた。家業は、持続性が保証できないような変動を好まない。拡大はしても、できてしまえばゆっくりしか変動しない都市が成立した。
ところが近代都市になると、急激な変化が都市のエネルギーを生み出すようになった。
…変動がエネルギーになる以上、落ち着いた文化も地域も生まれない。だから、近代都市では共同体が生まれにくい。
近世までの都市は、共同体を生み出す時間を保証することができた。
…近世までの都市と農村は、近代の都市と農村ほどにはその距離が開いていなかった。
▽131 職人や商人の結びつき、本家ー分家関係の共同体、長屋の共同体、氏子や檀家の共同体…出身地の人たちの共同体…小さな共同体が積み上がって、共同体社会が形成されていた。共同体はひとつのものだという思いこみから、解放されなければならない。
この小さな共同体とともに展開していたのが都市の「講」である。
▽132 秩父の人たちにとっての第一の霊山は武甲山。
▽135 江戸の町で一番多かったのは富士講だったらしい。二番目は善光寺講、三番目は伊勢講。
…「遊行」を禁じられた修験者が各地に定住し、住民を組織するかたちで講は広がった。…
…江戸時代の農村部で爆発的にはやった信仰に庚申信仰がある。庚申講によって営まれた。月に一度、庚申の日の夜、一晩中飲んだりして遊び、寝ないようにした。…娯楽の場と解釈する者もいたが、みな、本当に(寝るのが)怖くて夜をすごしたという。真剣な信仰だったようだ。日本の信仰が祈りと娯楽の同居として展開していることに、気づかない研究者がいたのだろう。
▽140 都市における助け合いは貨幣を用いることが多かった。仲間に融資する制度。「無尽」。講のメンバーであることじたいが「信用」の証。世界恐慌が広がった1930年ごろには、「無尽」「頼母子講」が全国に再び広がった。
金利前払い。そこにある30万円から27万円を借りていき、返すときは30万円返す。羽振りのよいものが低価格で落札して、たっぷり「利息」をはらう。京都の旦那衆などではこの金で祇園に繰り出した。返せないときは、みんなのかわりに信仰している霊山にのぼる。「代参」。それで借金は棒引きする。
信仰組織であり、娯楽組織であり、助け合い組織である講。お金を巧みに扱うことで、共同体としての役割を果たした。
▽145 都市の共同体が、遠隔地の自然、霊山と結ばれることによって成立するという一面をもっていた。日本の共同体は、地域外とも結ばれることによって成り立つ共同体として形成されていた。…農村でも外との結びつきをいろいろなかたちでもっていた。外との結びつきをもちながら共同体を維持した。講という小さな共同体は、遠方と結ばれながら展開するという性格をもっていた。
(〓外とつながるシステム、現在の過疎集落はそれを失っているのでは。「外」は会社だけになっているという一面もある。だから石神のように梅林を開く意義がある)
▽149 中国の儒教は、天地の世界あっての「私」であり、国家あっての「私」であるとする理論的特徴をもっていたが、その背景には、古くから統一国家が形成され、民衆の自律的な共同体が形成されていないという現実があった。(〓中国に共同体がなかった?)
…秀吉と江戸幕府。検地、刀狩りで共同体の武装解除をはかり、中央集権国家がめざされた。儒教的な中央集権国家と共同体の相克が、新しい展開をみせることになる。そこに思想史としての江戸時代があるといってもよい。
(儒教の意味は中央集権であり反共同体〓)
▽153 神仏分離令は、江戸期の支配者の悲願だったのでは。農村共同体を解体し、国家と人民の関係をつくりだすためには共同体の精神世界を壊してしまう必要があった。
生と死、自然と人間を一体的にとらえていく精神世界を破壊しない限り、共同体を解体し、人々を国家−国民のもとに統合することはできないことを、武士たちは学んでいた。
だから明治元年に分離令が出された。
神仏分離と廃仏毀釈によって最大の打撃を受けたのは修験道だった。自然信仰と結んだ神仏習合的なこの信仰は、解体すべき精神世界の象徴でもあった。白山では、山頂に3000体とも5000体ともいわれる仏像があったが、数体をのぞいてすべて破壊された。…修験道が公認されるのは、昭和21年に新憲法ができてから。
▽158 「ウサギ追いしかの山」は、日露戦争の兵士の防寒着のための毛皮を集めたころの歌。子どもたちは「お国のため」と競って野ウサギを捕まえた。
唱歌は、心は、故郷を思いながらも、その気持ちを振り切ってお国のために立身出世をめあす、というものだった。それはまさに国民の形成であり、共同体とともに暮らした人々の精神世界の破壊であった。
▽161 国民国家とは、人間を国民としてバラバラにし、その国民を国家の下に統合し、国家と国民が不可分の関係にあるという「共同幻想」を成立させながら、それを実態に変えていく国家のこと。天皇制の下に国民を統合し、「日本」という「共有された世界」を意識させることが必要になったのだ。近代の産物としての天皇制がうまれた。
だが、そう簡単には変化しなかった。転換は、日清戦争によって突然実現しはじめた。戦争が国民意識の形成を促した。本格的な国民意識の形成は、日露戦争による。兵士のために「征露丸」がつくられたのもこのとき。このとき、全国にソメイヨシノが植えられている。日本のサクラの代表がヤマザクラからソメイヨシノに変わったのもこのときだった〓(へぇ)
▽163 「○○家の墓」は基本的には明治以降の形式。日本の伝統的な墓は、一人一墓で「埋め墓」。
▽166 薪に関する共同体の取り決め。枯れたり折れたりして地面に落ちた枝は所有権がない。台風の翌日などは、山をもたない人たちが枝を集めに山に入った(〓すさみでも)
▽168 農村のいとなみを維持するために必要な共同体という伝統的な一面と、近代国家の細胞としての共同体とが重なりあう、二重の機能をもつ共同体が生まれることになった。かつて自由がないとか、家父長的だとか、相互監視機構的だとか批判されてきた共同体はこのような共同体だ。
▽169 伝統的共同体は、高度成長をへて20世紀終盤になると、ほぼ解体されたのではないか。残っているのは、残そうとする人たちが守っている共同体であり、社会が必然的につくりだす共同体ではない。
▽176 共同体のなかで民衆が以下に生きたのかをとらえ直すことによって、これからの社会における共同体のありかたをつかみ直す、それが今日の共同体論の課題。
…共同体研究は、過去の制度研究から未来に向けた研究に変わった。
▽177 社会主義は中心的な思想としては復活しないだろうと考えている。その理由は、生産力主義、経済発展主義という点では資本主義の亜種的な性格をもっているというところにもあるが、それ以上に歴史改革の方向性が「大きな転換」から「小さな積み上げ」へと変わってきているからである。…システムを変えれば世の中がよくなるという発想から、それぞれが生きる世界を再創造しながら世の中を変えていくという方向に。生きる世界の再創造を通してシステムの返還も求めるという方向に。
▽180 自然形成的な共同体から意図された共同体に移ってきているのであり、全員が結合されたかたちなど構想することもできない。ましてや都市では、全員結合型の町内会というものは、つくろうとしても不可能だし、作りたい人もそうはいないだろう。
…共同体と呼ぶには条件がある。それはそこに、ともに生きる世界があると感じられることだ。単なる利害の結びつきは共同体にはならない。群れてはいても、ともに生きようとは感じられない世界は共同体ではない。課題は、ともに生きる世界があると感じられる小さな共同体をいかに積みかさねていくかなのである。
(〓積みかさね)
▽182 かつて人々は講をとおして遠隔地の山と結ばれていた.自然とともに生きる我らが世界を感じとっていた。このかたちも復活するだろう。講をとおして、村と結びつくことなのかもしれない。村とともに生きる都市の暮らしを創造することかもしれない。
▽184 土着的信仰は死後の全員救済の思想。死後の平等観。生きている間の不平等は、再配分システムを生んだ。金持ちに応分の負担を負わせた。寺社の修理や橋の付け替え、祭りの費用…
…死後の平等観はいまでも定着している。だが、民衆自身のおこなう再配分システムはなくなった。…都市の共同体は「講」というかたちで、私有財産であるお金を他者のために使う仕組みをつくりだしていた。
▽188 市場経済や外在化されたシステムが支配権を確立し、自然や人間の生命の営みはその手段として利用されるようになった。私たちは、単なる交換可能な労働力であったり、GDPの拡大に寄与するだけの消費者、記号化された国民でしかないのである。
もう一度自然や人間の営みがこの世界をつくっているのだと宣言できるような社会をつくりなおさなければいけない。そのためには、生命の営みが結びつき、自分たちはともに生きる生命だということが感じられる存在のかたちを、創造し直さなければいけない。
▽190 共同体とはなにかを真正面に据えた研究は、…マッキーヴァーのコミュニティ論やパットナムの「ソーシャル・キャピタル」のとらえ方などを導入するだけで、共同体とは何か、とりわけ日本の共同体とは何かを全面的に考察する努力を私たちは欠いてきた。
…欧米的な「人間の共同体」では十分ではなく、「自然と人間の共同体」を考察対象に据えなければならない。
▽194 都市の共同体であれ、農村の共同体であれ、さまざまなかたちで経済との結びつきをもっていた。共同体が否定されなかったのは、経済活動が共同体の支えを必要としていたから。
共同体は経済活動とも関係していた、というのではなく、人間たちの生きる世界のすべてを包摂していたのが、かつての共同体だった。
…近代社会に入ると、一体化されていた諸要素が、経済、社会、文化というように独立して独自の論理で展開するようになる。なかでも経済が主導的な役割を演じるようになった。すべてのものが経済の従属物のようになっていった。
かつては一体的なものであった生きる世界の諸要素がバラバラになり、諸要素の対立が生じるようになった。
▽199 百姓一揆を起こしてしまえば、ほとんどのケースで百姓側の要求が通ったが、首謀者は死罪だった。個人的には一揆を起こす必要もないのが庄屋層だが、あえてこの役割を引き受けて死罪になった。そして村の神として祀られた。
▽201 明治に入ると日本の農村には、在地ブルジョアジーといわれる人々が発生してくる。彼らによって農村工業も生まれる。日本の電力ももとは在地ブルジョアジーたちが電力会社をおこした。その動機としては水のくみ上げがあった。農業用水確保。地域のために電力会社を設立した。
▽204 上野村。水力を使った電力会社がつくられ、農村歌舞伎の演舞場として座がたてられた。現在の村は思想的にこの時代にもどろうとしている。ただし、村には金持ちがいなくなってしまったから、その役割を村役場が引き受けている。2011年に木質系ペレットの生産工場が稼働、森林組合の製材工場も拡張され、その過程ででて来る端材や間伐材をペレットにするようになった。ストーブ燃料や温泉の加熱用に。2015年からはペレット発電も開始。
▽216 近代世界は、資本制市場経済と、国民国家、市民社会という3つのシステムが相互性を確立するかたちで形成されている。資本制市場経済は、労働力を商品として購入することで商品を生産し、資本の増殖をはかっていくしくみ。国民国家は、それまで地域などと結びながら暮らしていた人々を「国民」としてバラバラにし、国家のシステムで統合していく国家のかたち。市民社会は個人として市民が社会システムの下で暮らす社会。
3つとも、人間たちの活動を人間から外化されたシステムが統合・管理している。
▽224 外部化されたシステムに自然や人間が統合/管理され、いつの間にか自然も人間もシステムの手段にされるのではなく、世界システムに従属させられるのでもなく、自然や人間がその生命的世界を再創造していくことこそが、今日の私たちに求められている。
▽233 「私」をもっているから欲望を生む。煩悩が生じる。争いも発生する。「私」がある以上精神は穢れると、伝統的な日本人は考えた。ヨーロッパの発想は、「私」をもつから向上心をもち、文明を発展させていくことができる、ととらえる。「私」をもたずに生きるとは、「おのずから」のままに生きること、「自ずから然り」の世界で生きていくことが理想だった。それができないから、人間のあり方を「悲しきもの」としてつかむ。
▽242 社会デザイン ウェーバーが社会システムにおける人間の精神や知性の役割を重視した(モダニズム)のに対して、ニクラス・ルーマンは、システムがシステムをつくりだす社会のありかたを考察している。
村では、自然とともにある共有された精神文化が村をデザインする。人と人の結び合った社会が、村をデザインする。地域の歴史や文化、信仰が村をデザインする。
…共同体の役割、コミュニティの創造、里山のある暮らし…知性の力でデザインするのではなく、デザインすることのできる基盤をつくることが目的になってきた。基盤とは関係である。…関係は、つくれるものではないかもしれない。つくれるのはつきあいだけであって、それを重ねていくうちに生まれた、諒解できる共有された時空が、関係をつくりだしたのかもしれない。とすると、社会デザインの基盤でさえ、人間の主体的な行為によってはつくりだせない。ただしつきあいを重ねることによって、共有された時空が生まれる時間を早めることはできるが。
知性や個人の力に依存しない社会デザインとは何だろう。
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