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戦後日本の大衆文化史<鶴見俊輔>

■戦後日本の大衆文化史<鶴見俊輔>岩波現代文庫2001(1984) 20160208
1980年頃につくられた同時代史。柳田国男の「明治大正世相史篇」の戦後版だ。その時代にそこに住む人の目から、戦後という時代の変遷を描く。同時代を客観的に描くことは難しいが、柳田が憑依したかのようにそれをなしとげている。
そこから見えてくるのは、江戸時代から1960年代までつづいていたものの多くが、高度経済成長によって失われた、という現実だ。

□占領
戦争が永遠に続くように感じられたように、占領も限りなくつづくように感じられた。今から見ると、占領は一時的だったが、当時の人の受け止めはちがったのだ。
日本の指導者たちは、自らが法廷で裁かれるとは思っていなかった。戦争に対して自分たちに責任があると感じていなかった。ナチスドイツの指導者たちと大きく異なっていた。責任者のいない国家だった。国民も、占領軍によって死刑にされた7人を「生け贄」と受け止めた。
その時代の人の思いを再現していくと、後の世から歴史の善悪を判断するのとは異なる様相が見えてくる。
憲法についても、共産党は当初9条を批判した。ところが、憲法起草者の米国が、戦争放棄を棄てるように圧力をかけるのに抵抗するなかで、憲法の理念は国民のなかに根をおろした。そう解釈すると、日本人が憲法の理念を身体化してきたことがよくわかる。

□戦後日本の漫画
紙芝居は1929年の世界恐慌による失業者増で盛んになり、戦争で失業が減ると衰え、敗戦後はまた増えた。映画と大量生産の菓子会社によって紙芝居がなりたたなくなる1955年以後は、貸本屋のために描くようになった。
白土三平の漫画は、抑圧された人々を理想化せず、虚無主義と恨みがあらわれていた。それが、正統派である共産党から除名された学生運動の活動家たちに訴える力をもった。正統派の共産党系の文化人は漫画を卑下し、新左翼の文化人は好んだ。
水木しげるの漫画の主人公は、戦時中は上官の命令に対して「でも」と言い、GHQにも「でも」と言い、高度成長の時代の官僚にむかっても「でも」と言う。控えめでおずおずとだが、生活の立場から「でも」と言い続けた数少ない一人だった。
つげ義春は、占領軍と共産党の双方に支持されていた科学主義や正統の文化に対する反権力の代表となった。70年代「がきデカ」もその流れでとらえられるという。

□寄席の芸術
江戸時代の日本では大人が子どもを叱らなかった。その理由は、子どもの間に自治の習慣があり、大きい子が小さい子の面倒をみていたからだ。こうした都市生活のあり方は、高度経済成長期に、遊び場としての道路を失い、自由に遊べる時間を失うことで大きく変化してしまった。農村だけでなく都市部でも、高度成長は昔ながらの生き方を根っこから変えてしまったのだ。
古今亭志ん生は、根っこから切り離されることを嫌って、晩年でも銭湯に通いつづけた。失いつつある大事なものをきっちりと意識していたからなのだろう。
ミヤコ蝶々は字が読めなかった。漫才は、高等教育を受けていない人々を代弁する大衆芸術だった。そんな人たちにとって、与党指導者も、共産党や社会党、新左翼の指導者もまた、官僚とよく似た存在に思えた。そうした指導層への不信や大衆の欲望を表現したのが漫才だった。その傾向は、吉本や「たけちゃんマン」にもつながっているという。

□共通文化を育てる物語
占領のあいだに育った子は国旗がわからなくなり、君が代を「相撲の歌だね」と言っていた。国旗、国家、勅語、軍事教練にかわる団結の記号となったのが、紅白歌合戦や朝の連続放送劇だった。
画一性と過剰な団結を作るそれらに対抗して、漫画と漫才は、一種のずれをつくりだして、笑いを通して自己批判を呼びさます働きを担っているという。

□普通の市民と市民運動
「サークル」は戦前の共産党指導下につくられた。戦後になってサークルは自発的な活動をするものに変わって、日常語になった。
田中正造は、自ら草の根の被害者のなかに住むことを、国会議員として訴えるよりも大切だと考えた。その方法は、昔からの村の伝統によって、国家の権威や官僚を批判するという形をつくった。それが、そこに住む農民による砂川闘争や成田闘争に継承された。珠洲原発や和歌山の原発を追い出した共同体を基盤とした反対運動は、その流れをくんでいるのだろう。
ベ平連は、政党の支配に身をゆだねないという慎重さがあった。その慎重さは、サークルという形から起こった原水爆反対運動の時代にはなかった。政党から自立した大衆運動というあり方は実は新しいアイデアだった。
ベ平連の時代は、市民運動と普通の市民の意見が重なっていたが、60年から80年にむけてしだいに、普通の市民は、市民運動の理想に無関心になっていった。
サザエさんは1960年の安保や水俣病などの公害反対運動など、穏やかな抵抗への共感があった。普通の市民の正直な本音をあらわしていた。今描かれるサザエさんには市民運動は出てこないだろう。

□くらしぶりについて
柳田国男は、明治以前の以後の日本の文化の連続性を見失わず、日本民衆の文化伝統や習慣の側にたって明治の新政府を批判した。その保守主義のゆえに、戦前の急進主義者や進歩主義者が下した判断の失敗を避けられた。戦争の最中とその直後に進歩主義者や反動思想家の多くが経験した転向をも避けることができた。
敗戦による変化よりも高度経済成長が日本を大きく変容させた。労働人口の41.1%が1955年には農業に就いていたが、75年には13.8%になった。
柳田は1930年に、民衆の暮らしについての材料を新聞記事から集めて「明治大正史 世相篇」を書いた。鶴見らが1976年にはじめた現代風俗研究会は同様のとりくみを戦後社会で試みた。
1930年代の日本では、ごはん以外の料理は、ごはんを何杯も食べる手助けになる「おかず」と考えていた。おかずを先に食べて、ごはんを少ししか食べない「おかずっ食い」は不道徳とされた。60年代以降は、ごはんを必要としない若い世代が増え、昔の意味での「おかず」が消えてしまった。
「明治大正…」のなかで柳田は、自分たちの家の外も家とつながっているように感じてきた、と書いている。道路は人々の会話の場であり、子どもの遊び場だった。こういう暮らしぶりは、はるか昔に南の島々からもってきてスタイルらしい。いま、道路はそんな場ではなくなってしまった。
1929年に身寄りのない95歳の老人が保護されたとき、彼は45の位牌を持っていた。そのころには、自分の属する家の永続のために生きていく、という信仰があった。いまは仏壇さえもない家が増えている。
「形見」とは、死んでしまった人の見えない形をモノを頼りとして見るという意味だ。そういう力が社会にあったことを前提としていた。ところが、メディア機械が「ものを糸口に亡くなったものを見る力」を不要としてしまい、いまでは形見を持っている人は少なくなった。ある種の想像する能力を失ってしまった。
1920年代まで、日本人の多くは明治以前からの服装だった。戦争で身軽に動くため洋装化が進んだが、家では着物だった。60年代以後になると、家庭でも西洋風の服を着るようになった。
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□占領 押しつけられたものとしての…
▽4 占領軍GⅡの部局長となったウィロビー少将。諜報活動を受け持ち、戦時の日本の警察の反共思想に染まった情報を集めた。…情報は米国下院の反米活動委員会に送られ、赤狩りの指揮者として有力だったマッカーシー議員の利用するところとなった。占領の最初の段階で活躍したニューディール主義者たちを置きかえる上で役立てられた。
…ケーディスは農地改革、財閥解体、戦時指揮者の追放などをおしすすめた。こうした活動はウィロビー少将の憎しみを買うことになった。ウィロビーはケーディスと鳥尾子爵夫人との情事を暴いて、彼が日本にいられないようにした。
…日本人にとって、占領は限りなく続くもののように感じられた。ほんの少し前まで、戦争が限りなく続くように感じられたと同じだった。
…「敗戦」を「終戦」に、「占領」を「進駐」に。
…農地改革は、日本の農村の性格を大きく変え、戦後日本人の感性そのものにまで影響をもたらした。小所有者となった農民の大多数は、確信を持って保守党の支持者となった。
…占領軍は公衆衛生の問題と取り組む上で、みごとな手さばきを示した。当時の日本政府地震から日本国民が期待できないレベルのものだった。…1895年から1945年までのあいだ、日本人男性の平均寿命は42歳だったとされているが、51年に61歳に伸びた。女性は51.1から64.8に伸びた。
…戦争中には、男女が肩を並べて歩いていたら、交番で職務尋問にあって、いじめられたりした。

□占領と正義の感覚について
▽30 日本の指導者たちは、戦争犯罪人とは、戦時の捕虜に対して国際法を破るようなしかたで不当な扱いをした人たちを指すものであって、戦争に対して権力と影響力によって責任を持つ人たちを指すものではないと理解していた。外務省の専門家によって書かれた覚え書きを額面通りに信頼して、て、戦争指導者たちは、彼ら自身が国際法廷において裁判にかけられるという可能性については注意をはらわなかった。
▽34 戦勝者による裁判は、近代の法律の衣装を着て、内実は復讐であると、裁判進行当時、日本国民は広く感じていた。征服者が自分たち敗戦国民の上に押しつける肉体的刑罰として受け取っていた。
7人の指導者に対する死刑。7人が生け贄の羊として死んだという感じを日本国民はもった。
天皇が戦争裁判に呼ばれなかったということは、国民の大多数にとって安心感を与えた。同時に、この事実は、戦争責任に対する裁判をするという論理そのものの否定であるということをもカンジさせた。
(その時代の感覚を再現していく〓)
▽36 日本の軍事指導者たちは、戦争に対して自分たちに責任があると感じていなかった。個人としてその行動に責任を持つという人はきわめてまれだった。丸山真男によれば、ナチスドイツの指導者たちから区別する特徴だった。
▽38 戦争犯罪者として逮捕された日本人は1万人。死刑となったのは1068人。
▽42 左翼系の言論人は、死刑の指導者たちは当然の刑罰を受けたと判断した。
▽44 憲法の起草者であった米国からの圧力に抗して、戦争放棄の誓いを棄てるようにという米国からの誘いを斥けてきたあいだに、憲法は根をおろした。戦争放棄を誓った憲法9条を削除すべきであるという主張は、この30年、日本人の多数の意志となったことはない。
▽48 広田弘毅の妻は、夫の絞首刑の前に自殺した。結婚していなかったら、夫は死刑に処せられることはなかったろうという後悔があった。右翼の大物とつきあうようになったのは、妻との婚姻を通してだったから。
▽51 東条は、あの戦争が避けることができないものであり、また正当なものであったという信念を変えなかった。…何百万人もの中国人、朝鮮人、フィリピン人、ビルマ人、日本人…にどのような不幸をもたらしたのかをみつめることなく、終わりを迎えた。
▽54 天皇は、あるときにははっきりと戦争に反対であり、あるときははっきりと戦争拡大に賛成の意思を表している。
▽55 群馬県中之条。戦争中の指導者であるとして追放された人たちの集まり「あづま会」。1961年に記念碑を立てて「おろかものの碑」と刻んだ。(佐々木元「おろかものの碑」=「共同研究・集団」(平凡社1976年))

□戦後日本の漫画
▽67 米国の新聞連載漫画の真似からはじまった。…アサヒグラフというグラフ新聞からはじまる。「正チャンの冒険」という日本で最初の連載漫画物語。
▽72 もっとも古い漫画は、法隆寺の天井板の裏側から見つかった。
…鳥羽僧正(1053~1140)の「鳥獣戯画」と「信貴山縁起絵巻」
▽76 農業社会から工業社会としての日本に、1960年代にはっきり変わった。70年代になると、日本人の90%が中流に属していると答えるようになった。
▽78 紙芝居は1929年の世界恐慌で失業者が増えて盛んになった。戦争が激しくなると、失業が減るから紙芝居はおとろえる。敗戦後はまた増える。手描きの絵を描く絵描きも1日に14,5時間もかきつづけた。この仕事ぶりは職業画家や小説家のみにつけることのできない熟練を与えた。…映画と、大量生産の菓子会社におされて紙芝居がなりたたなくなる1955年以後は、絵描きさんたちは、貸本屋のためにかく仕事に変わった。
…白土三平。共産党から除名された学生運動の活動家たちに訴える力をもった。父親の岡本唐貴は、プロレタリア文化運動に参加していた絵描きだった。
白土は、抑圧された人々を理想化してて描くことをしないという意味で珍しかった。彼の歴史観の虚無主義と暗い恨みがあらわれており、それが、共産党や、新左翼にくみする官僚的歴史家や芸術家からはっきりと区別している。
水木しげるも紙芝居や貸本屋のために絵をかいていた。
…硫黄島を描いた「白い旗」。「でも」と上官の命令に対して言い続けた片眼の兵士は、「墓場の鬼太郎」の父親としてよみがえる。…水木の戦争物語の主人公は、「でも」と上官に向かっていい、占領下の支配者に対しても「でも」と言い、高度成長の時代の官僚にむかっても言う。水木は「でも」と言い続けた数少ない人の一人だった。
「河童の三平」
▽93 つげ義春 敗戦後の占領軍及び共産党の双方によって支持されていた科学主義の考え方に対する反動。正統派の文化に対抗する反権力の代表となった。
女流漫画家。
70年代の男性漫画家では、山上たつひこの「がきデカ」
▽98 稲葉三千男と津村喬。稲葉は漫画を否定、津村は支持。稲葉は共産党に近く、津村は新左翼に近い。(漫画=新左翼)
▽101 日本の物語漫画が米国の漫画と違う傾向をたどったのは、紙芝居や貸本文化の伝統、女性漫画家の集団としての登場という3つの条件によるものが大きいと思う。

□寄席の芸術
▽107 E・Sモースは、日本では大人が子どもをあまり叱らないことに驚いている。その理由は、江戸時代以来庁内では、子どもたいの間に自治の習慣ができていた。大きい少年少女は小さい弟妹の面倒をよくみていた。道路の上でのさまざまなつきあいにおいても、年上の少年少女は、年下の少年少女の世話をよくしていた。
こうした都市生活の構造は、1960年代の経済成長にいたって、大きな変化をとげる。大都会ではもはや遊ぶことのできる路を持っていない。自由に遊べる仲間も持っていない。遊び仲間とすごす自由時間を持っていない。(〓高度成長が都市部でも転機)
▽119 古今亭志ん生は、自分の話芸が育ってきた根から切り離されて枯れていくことを嫌って、成功の絶頂にあった晩年でも、若い者の背中にすがって、近くの銭湯に通うことをやめなかった。
▽127 ミヤコ蝶々は、字が読めなかった…漫才は、高い教育を受けられなかった人々を代弁する大衆芸術のひとつの様式として働いていた。そのような人たちにとって、与党の指導者だけでなく、共産党や社会党、新左翼を含む諸政党の指導者たちもまた、日本を支配する官僚ときわめてよく似たもうひとつの陰の官僚層のように見える.このような指導層に対する不信と、大衆の欲望のむきつけな表現とが、漫才という様式の特徴となってきた。
(吉本の生まれる経緯〓)たけちゃんマンまで。

□共通文化を育てる物語
▽135 テレビが政府に対する不満を高めていく道具として働いたのはただ1回だけ。1960年6月の抗議においてだった。
▽138 占領のあいだに育った子は、国旗がわからなくなっていた。君が代を「ああ、これは相撲の歌だね」と言ったりしていた。1980年には、祝祭日に国旗を出す習慣を守っている家庭は東京の人口の1割以下。戦後の日本は、お互いの団結を示す記号として国旗、国家、勅語、軍事教練以外のものに訴えることが必要となった。
…紅白歌合戦。朝の連続放送劇。大河ドラマ。
▽145 柳田国男が書いた槍の先生。立っているときでも、ちょっと腰を下ろして立っていた。明治前半には、物腰が変だと笑う人はいなかった。侍出身の人には珍しくなかったから。ところが、日清戦争以後になると、こういう物腰は笑いものになってきた。
大正時代に入ると、青年たちの足がまっすぐ伸びて、背筋を伸ばしているのを見て、ああ、新しい時代がきたと、柳田国男は感じた。…侍にとっての基本思想は、からだの下半身にしっかりと重心を保って、座るときも、立っているときも、歩いているときも、腹に力をこもらせるというものだった。いまはただまっすぐ、風が吹いたら飛んでしまうぐらい軽く立っている。それが青年たちにとって流行の身ごなしになってきた……と。
(〓身体も変化)
▽150 王貞治は中国人、張本は韓国人、都はるみも韓国系日本人。社会差別の壁が、スポーツと大衆娯楽の領域では崩れてきた。
…紅白歌合戦。日本人としての統一をつくりだす仕組みとして働いている。この画一性を作りだす傾向に対して、いくらかの異議申し立てをして批判するという様式が、漫画と漫才によって担われている。日本の過剰なまでのチームワークに対して、一種のずれとか、ちくはぐな感じをつくりだして、笑いを通して自己批判を呼びさますという働きを担っている(がきデカ)
▽152 朝の連続放送劇 ほとんどすべてが、はじめのころに関東大震災がおき、あとのほうの大事件として戦争がおきる。20世紀の日本で育った人にとっては、この二つの経験を放っておくというわけにはいかないから。
▽157 坂本龍馬は、共和主義を自分のなかに持っていた。…明治維新に向かっての運動のなかに、共和主義のタネが潜んでいたことを司馬遼太郎は差し出した。「花神」と「龍馬はゆく」
▽162 ジャーナリズムの時代の文学。松本清張と森村誠一。日本の推理小説は黒岩涙香にはじまる。翻訳小説による財力で「万朝報」をつくった。
…松本清張は、プロレタリア文学の理想を受け継ぐ。高度成長の時代に個人としてこの理想を追求した。

□60年代以後のはやり歌について
▽172 伊沢修二。教育制度を調べるために米国へ。音楽教育をつくりだした。…スペインからとってきたメロディーでつくらせたのが「蝶々」。旋律は5音階。日本人は5声音階(ファとシを省く)にもとづく旋律になれていたから歌いやすかった。スコットランド民謡などから旋律をとってきて、どんどん歌をつくっていった。
▽177 音楽学者小泉文夫によると、日本音楽の特徴は繰り返し、シメトリーを避ける。…日本の特徴的な作業歌は、二拍子で、これは朝鮮でも同じ。二本の足で地面の上を歩くことから、それが基礎になって二拍子になる。…日常生活から離れて楽しみとして歌うときは、芸能としては三拍子になる。…三拍子の歌が芸能の歌として日本よりも韓国に多いのは、中国系の騎馬民族の暮らしがあって、三拍子が入ってきたからだろう。小泉文夫の説。
▽180 相撲の大鵬の父はロシア人。
▽183 ピンクレディの「ペッパー警部」 「いっけん西洋音楽のテクニックが使われているようだが、旋律の一番骨組みのところは、わらべうたの音階と同じ二六抜き短音階」(歌謡曲の音楽構造)、10世紀のはやり歌が近衛家に音符が残っているが、それはキャンディーズの「春一番」の音階ときわめて似ているのだそうです。…レとソを省いた短音階で、平安時代のはやり歌の旋律の復活。

□普通の市民と市民運動
▽202 「サークル」の語源は、全日本無産者芸術連盟の機関紙「ナップ」に、ロシア語から借りてきて使ったことにはじまる。当時の日本共産党の指導下にあったナップという組織の傘下に集まっていたさまざまな芸術家の専門集団の、そのまた指導下に、工場内や労組内につくられた文学集団や芸術集団を指していた。共産党の監督のもとに置かれた芸術および科学のさまざまな集団を指すようになる。…集団転向と弾圧で、共産党の指令が届かなくなったサークルのうち、独立して活動をつづけた例も。そのなかで著しいのは京都の「世界文化」と「土曜日」のグループ。1936年から37年にかけて活動した。…弾圧でつぶれたときも、ほかの左翼刊行紙とちがって赤字ではなかった。喫茶店に置かれて、その常連が買ってその場で見るといいう流通の形式をとっていた。喫茶店の結びつきというのは、60年代の市民運動を先取りしていた。
▽208 終戦後、共産党がサークルに指令を出すようになるが、52年のメーデーのころからの党内の争いによって、サークルに対する把握を緩めた。サークルは独立した自発的な活動をするものに変わっていった。
「サークル」という言葉が、短いあいだに、日常語になった背景には、日本の村の伝統と結びついてきたということがある。
▽211 田中正造は、自ら草の根まで分け入って、被害を受けた人たちのあいだで住むことを、(国会での)政党活動を通して政府に訴えるよりも大切なことと考えた。その方法は、のちの世代によって受け継がれるべき運動の方法として理解されるようになった。昔からの村の伝統によって、国家の権威とその国家の行政をあずかる官僚を批判する見方をつくった。田中は、村が衰えるときに国家も衰えるという見方をもち…特定の一つの地域の特定のひとつの問題に対して自分を捧げるということが、国民全体に対して重要なことだという見方が、もともとは欧米渡りの理論から示唆を受けて発展してきた「市民運動」に新しい活力を与えた〓。(村の市民運動〓)
▽214 砂川闘争。特別の日常生活から離れた行動としてではなく、同じところを毎日耕しつづけ、住みつづけるという行為を主なよりどころとしてなされた。…成田空港も。
…自分の地域から離れてお互い連絡をとることgqあむずかしい。社会問題に取り組む自発的集団の連絡雑誌として京都で「地域闘争」という雑誌が出ています。…連合が大きくならないということは、この種の自発的な運動の弱点であり、それがこれらの運動が粘り強くつづけられる強さの源でもある。(〓共同体を基盤にした運動 珠洲原発も 紀州は?)
▽217 ベ平連。政党と結びつかない自発的なサークルの連合。連合させた絆は、ある特別の問題と取り組むという姿勢。そのために、連合の形は、ひとつの政党の支配に身をゆだねることなしに進むことができた。このような慎重さは、それより以前にサークルという形から起こった大衆運動である原水爆反対運動の場合には、まだ準備できませんでした。(政党から自立した大衆運動というのは新しい動きだった〓)
…争点中心の運動は、争点がなくなると蒸発してしまう。
▽219 ベトナム反戦では、市民運動と普通の市民の意見は重なるところが多かったが、60年から80年にむけて、年を追うにつれて、普通の市民は、市民運動と理想をともにしながらも、理想への無関心を深めた。

▽225 サザエさんを通して世相を描く 1960年安保に同情的。水俣病などの公害反対運動にも。穏やかな抵抗への共感であって、過激な革命運動への共感ではない。普通の市民の正直な本音でしょう。

□くらしぶりについて
▽232 柳田国男は、明治以前の日本と明治以後の日本との文化の連続性を見失うことのなかった数少ない人物。保守的な人だったが、この人は、同時代の学者で普通に「保守的」と呼ばれる人たちを、自分では、あれは保守ではなくて反動だ、と呼んでいた。彼特有の保守主義のゆえに、戦前の日本の急進主義者や進歩主義者が同時代に対して下した判断の失敗を避けることができ、戦争の最中とその直後とに急進主義者、進歩主義者、反動思想家の多くが通り抜けた転向をも避けることができた。柳田は、明治の新政府を、日本民衆の文化伝統の連続性の側から見て、日本の民衆の習慣の側に立って批判した。
…敗戦による変化は、それほど大きな変化ではない。それよりも、高度経済成長が日本の表面をすっかり変えた。労働人口の41.1%が1955年には農業に就いていたが、75年には13.8%に。…
…柳田は1930年に「明治大正史 世相篇」を書いた。民衆の暮らしについての材料を新聞記事から広く採っている。
▽236 1976年にはじまった現代風俗研究会。昔流の日本風朝飯を守っている者は全体の6%。
▽238 1930年代の日本では、ごはん以外の料理は、ごはんを茶碗に何杯もの度を通すための、手助けになるもの、つまり、おかずと考えていた。おかずを﨑に食べてしまって、ごはんを少ししか食べない子ども、つまり「おかずっ食い」は不道徳とみなされた。…60年代以降の日本では、ごはんを必要としない若い世代がふえてきた。「おかず」という考え方が日本で消えていっている。
▽240 労働力を農業から工業にうつすため、61年に農業基本法をつくった。保守党は、農家の現金収入を増やし、米の値段を高く保つことで、農家に利益をもたらした。このふたつによって、保守党は農地改革このかた、農家の堅い票をあてにすることができた。
…八郎潟の農民は、政府に対しては、先生に対する模範生みたいな役割をつとめ、間接には、米国政府に対して、そういう役割をつとめた。
▽242 高度経済成長の開始期に、くらしぶりの上で明治の伝統から日本人は相当程度まで切れた。「明治大正…」のなかで柳田は、私たちは自分たちの家の外も家とつながっているように感じてきた、と書いている.。道は大人が話をかわすところで、子どもが遊ぶところだった。こういうくらしぶりは、昔に南の島々からもってきて受けついだスタイルなのでしょう。
…1929年、だれひと身よりのいない95歳の老人が保護された。荷物は45の位牌だけだった。そのころには、日本人はそれぞれ一人ひとりが自分の属する家の永続のために生きていく、という信仰があった。…いまは位牌を置くところである仏壇のない家が増えている。
▽246 「形見」。見えないものをこのものを通して見る、形を見る、ということからきている。形見を持っているということは、死んでしまったある人の見えない形をこのものを頼りとして見る力が、広く日本社会にあるということを前提とする。それが60年代以来、衰えていく。メディア機械は、あるものをいとぐちとして亡くなったものを目の前に見る力を不要としてきた。…いまでは形見を持っている人は少ない。
…日本の着物は、別の服につくりなおされ、孫娘の寝間着になり、寝具になり、座布団になり、ぞうきんになった。素材とともに霊が動いていく、伝わっていく、というふうに考えられる。
…1920年代まで、日本人の多くは昔ながらの、というよりも明治以前からの日本人の服装をつづけていた。31年以後、戦争がすばやい動きを必要としたので、西洋化が進められた。でも家に帰ると、日本の着物を着ていた。60年代以後になると、日本人の大多数は、家庭でもだいたい西洋風の服を着るようになった。
▽251 人口が思想にもたらす意味。ホセ・オルテガ・イ・ガセット。

□旅行案内について
▽266 60年代と70年代の日本に繁栄をもたらしたのは、日本企業が、西洋技術の模倣をしてきたということにある。…鎖国性に由来する集団としての団結しやすさが、欧米先進諸国の工業との競争に成功する原動力ともなった。
▽274 漫才の原型は、中央の神と土地神とのこっけいな対話の寸劇の型からはじまったものだそうですが、…ときどきぽつんぽつんとへんなことを言う土地神のしぐさのなかに、中央の神様の雄弁で一貫した主張以上に重要な日本文化への手がかりがある。
▽278 公明党が1980年現在に第3勢力の位置を保っているのは、創始者である牧口常三郎が、戦争中に信仰を守って獄死したということにさかのぼることができる。…
▽ …汚染と歳時記、戦争と宗教という二つの対概念は、江戸時代の再検討というもうひとつの主題と結びつく。江戸時代は、汚染の少ない、戦争の恐れから自由だった低成長の社会のつづいた時代。戦後現在の高度に工業化された社会条件のもとで、江戸社会の理想のいくらかが、どのように再び定式化できるかということが、70年代、80年代を通して引き続いて議論される問題となるでしょう。
▽279 在日朝鮮人の存在は、憲法の価値を日本人に感じさせる一つの力になっている。
(日本人の入浴好きと贈り物交換の風習)

□解説 鷲田清一
▽288 歴史の周縁にいた人たちの口ごもり。水木しげるの「白い旗」で、上官の命令に否応なく従いながらも、「でも」とぽつりとつぶやく片目の下士官の、その口ごもりに、鶴見は注目する。すらすら語ることをしないひとたちの、その口ごもりにじっと眼を合わせることが大事だと鶴見は考えている。
▽291 「どんな人でも、家のなかでは有名人なんです。赤ん坊として生まれて、名前をつけられて、有名人なんですよ。家のなかで無名の人ってないです。それは、たいへんな満足感を与えるんです。私は、人間がそれ以上の有名というものを求めるのは間違いではないかと思いますね。そのときの『有名』が自分にとって大切なもので、この財産を大切にしようと思うことが重大なんじゃないですか」

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