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かくれ佛教<鶴見俊輔>

■かくれ佛教<鶴見俊輔>ダイヤモンド社2010 20160205
キリスト教の「あなたは間違っている」という態度は、「罪なき者、この女を打て」と言ったイエスの時代にはなかった。一神教的な不寛容さは、キリスト教が国家宗教になってからの性格ではないかと鶴見は考える。その不寛容さの中からマルクス主義やウーマンリブも生まれたという。
一方の仏教は一種のニヒリズムだった。自分が社会の常識に固まってしまったときに座禅をすると、左右も南北も分からなくなってくる。その境地を取り戻すことが重要だと、中国の馬祖道一や一休、良寛らは考えた。
「信心を得なければ二度と家に帰らない」と言った修行僧に対して、旅先で出会った老婆は「お前が信心を得られたと思う時が来たならば、仏陀との縁も切れるときだと思いなさい」と言った。疑いを全部切り捨てるような境地に行くのは狂信でしかないからだ。つねに人間は疑いを持って当然なんだ、という世界観が仏教にはあるという。
だから、一神教やマルクス主義とちがって、自分のなかに生じる疑いを押し殺さず、それと共に生きるという仏教思想は全体主義にあらがえる可能性があると鶴見は考える。

ガンジーは「自分が殺されそうになっても人を殺さない」と一点だった。だから、相手をけったり殴ったり、棒で殴るなんて平気だった。襲ってきた暴漢に息子が重傷を負わせて撃退した際、ガンジーは「もしおまえが黙って見ていたら、おまえはただの卑怯者なんだ」と息子の行動を肯定した。同じ問答を、内戦中のニカラグアで聞いた。「非暴力」を訴える日本山妙法寺の僧に対して、「コントラと米国の侵略に対して戦う我々はまちがっているのか」と人々が質問した。僧は、上記のガンジーの言葉を紹介した。そこにも「非暴力」という言葉にしばられないプラグマティズムがある。

鶴見は18歳のとき、ヘレン・ケラーに「大学を離れてから、unlearn(まなびほどく)しなければなりませんでした」と言われた。難しい用語ではなく日常の言葉で語れる知識人は「unlearn した人」という。良寛はまさにそうだった。
鶴見の姉の和子は、典型的な秀才だったが、自らが半身不随になって水俣病の立場からの視点を得て、「…柳田国男の遠野物語は東北の山の民アニミズムである。水俣は西南の海の民のアニミズムである」と書いた。私も少しだけ水俣病とかかわったが、「魅力的な被害者」にしか出会えていなかった。地域や人間についての知識不足だけでなく、わずかに持っていた知識さえも「学びほどく」ことができていなかったから、そこに住む人の豊かさを感じられなかったのだろう。

明治以降、仏教のなかで日蓮宗だけが活力を保ちつづけ、石原カンジや宮沢賢治を輩出し、立正こうせい会や創価学会、日本山妙法寺を生み出した。
日蓮宗は、シャカから日本人の日蓮に崇拝の対象を移し、日本の問題を宗教的関心の中心に据えた。国家をただすことを任務とした。近代の市民が自覚した政治的権利ときわめて近いものだった。
創価学会の牧口常三郎は、小学校で郷土科研究という授業方法を考案し、カントやジェームスの影響を受け、教育全体の体系をつくりなおそうとした。それが、価値創造のための教育「創価教育」だった。
敗戦後、不安に悩む人々のあいだに創価学会は急速に広まった。助け合いを促し、青少年を訓練する道場をつくり、戸田城聖は天皇のように白馬にまたがって観兵式をした。軍人勅諭のかわりにお経の暗誦をさせた。資本の独占化が進み、学歴がない人にとっては公平な昇進が望めなくなりつつあった時代に、身分や学歴にかかわらず、努力と才能に対して公平な昇進を約束した。
創価学会は、戦前の軍隊や青年団の思想から多くのものを受け継ぎ、敗戦直後、だれも利用しなかったそれらの遺物を活用した。さらに、牧口から戸田へ、さらに池田へのバトンタッチによって、天皇家や旧仏教などに残っている世襲制度も否定した。それは戦後民主主義を体現したものだった。

鶴見は、離婚が少なくて、年をとっても穏やかに家庭を保ち、神社や寺にお参りする……という日本社会の特徴に注目し、そういうぼんやりした風景そのものへの信頼が宗教ではないか…と考える。外の眼で日常を見直すなかで、日常のなかに潜む価値(=宗教)が見えてくる。それらはおそらく、日本のムラが数百年かけて培った豊かさ(=宗教)だった。それらを見直すことが、今の時代を希望に向けて一歩進ませることにつながるのではないかと思った。

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▽6 マルクス主義はキリスト教の一部だと思うんです。ウーマン・リブもそう。つまり、キリスト教は、つねに自分が正しいと思っていて、「あなたは間違っている」という。ところがイエスは、「罪なき者、この女を打て」と言っている。
…キリスト教が国家権力と戦うのをやめて、国家宗教になってからできた性格のような気がする。ことに神学の体系をつくってからそうなった。その中からマルクス主義が出てきた。スターリンなどは元神学生だから、まさに権力との相似がある。ウーマンリブも「あなたは間違っている」という傾向がある。

▽27 仏教は一種のニヒリズム。名声を無視する仏教は中国にはあった。馬祖道一はそういう禅家。…社会に生きていると、どうしても自分が社会の常識に固まってくる。その塊をどうにかして壊さなければいけない。そのためにときどき座禅をやる必要がある。座禅をすると、自分がどこにいるか分からなくなって、右も左も南も北も分からなくなってくる。その境地を取り戻すことが重要なんだ。…一休や良寛にはそういうところがある。破戒僧。
▽29 もし良寛が二等兵として戦争に引っぱられたらどうなったか。(こういう問題の立て方ができるすごみ。〓)
続木満那は、スパイを突き殺せ、と言われて、銃剣を持ったまま動かず、「おまえは狗のようなやつだから、でかい軍靴をくわえて兵舎の周りを一周しろ」と言われた。同じ中隊で同じことをやったのが、坊さんだった。(〓殺さない、という行動ができること。それは宗教の強み?)
▽38 武谷さんは…現代史に対して自分はどういう責任を持っているのか、それを外していないんだ。…日本の大学出の知識人の150年にわたる悪癖であるmssplaced objectivityの伝統はいまも残っている。大学教授の言うことは、だいたいmisplaced objectivityだよ。「アメリカにはこうなる以外に可能性はなかったんでしょうか」。そんなもの、misplaced objectivityだ。アメリカがなんだ。(個人に還元する〓)
▽50 優等生は世間、つまり先生を師とするようになっていくと、たいへん具合が悪い。…私は姉和子が脳出血前に倒れる前に出した者を批判しているんだよ。一番病だ。一番病というのは、世間を師としてしまうんだ。いま一番の人はだれだというところから引用してつくりあげてしまう。
…一番というのは世間に対して自分が頭がいいということを証明しようとするわけだ。
和子は、水俣病フィールドワークをやったといは健常者だったが、あとがきを書いたときは半身不随だった。そこから見ると、水俣病の立場から見ることになる。「…柳田国男の遠野物語は東北の山の民アニミズムである。これに対して、水俣は西南の海の民のアニミズムである」

▽56 ガンジーは、自分が殺されそうになっても人を殺すことはしない、その一点なんです。だから、相手をけったり殴ったり、棒でぶん殴るなんて平気なんです〓(意外、だけどそうだろうなあ)
サボタージュも座り込みも平気でやる。しないことというのは、自分を殺しにやって来た人間に対して、相手を殺すこと。でも最後、自分を殺しに来た人に殺された。
…ガンジーに暴漢が襲い、息子が暴漢に重傷を負わせて撃退した。これはやり過ぎか、と、おやじに聞くと、ガンジーは、あれでいいと言う。もしおまえが黙って見ていたら、おまえはただの卑怯者なんだと。
▽62  ヘレン・ケラーに18歳の時に出会った。「大学を離れてから、unlearnしなければなりませんでした」と言った。「まなびほどく」。知識人とつきあっていて、日常生活の言葉として言い当てる人は、unlearn した人。
…良寛の核心や芸術はunlearn。
▽64 ガンジーに対して疑問に持つ人。ジョージ・オーウェルは「相手がイギリスだったから勝ったのではないか、ナチスだったらどうか」…ガンジーの仕事は全体主義にならない。私にはマルクス主義よりも近い日とですね。
▽66 柳宗悦の伝記。息子の宗理に言ったら「ええっ、おやじってそんなに偉いんですか」と。それまで伝記がなかったから、読んでいないんだよ。
▽73 日露戦争が終わると、学習院のなかにいる将校の子どもたちが威張り返る。それが不愉快なんだ。それが「白樺」をつくる連中の共通感覚になる。
…「白樺」は成績の悪いやつの集まり。そこで柳は落第生たちと親密な関係になる。…白樺は、民芸運動のための準備段階として役にたった。
▽87 柳は、朝鮮で日本語を強制しようとするのと同じやり方を沖縄県民に押しつけようとしているのをはっきり見すえて、しかもその認識を伏せて、穏やかに批判した。しかし、危険思想の持ち主とみなされ、…防衛上の秘密区域を撮影したといういいがかりをつけて柳を拘引した。昭和15年1月のことです。
▽88 「あなたは信心を得なければ二度と家に帰らないといったね。それではお前が信心を得られたと思うときが来たならば、仏陀との縁も切れるときだと思いなさい」。最後まで知性のクレイドル(ゆりかご)は疑いなんだ。疑いを全部切り捨てるような境地に行くのは、ファナティシズム、狂信の境地。オウムのサリンみたいなことになる。つねに人間は疑いを持って当然なんだ。
▽94 柳は、婉曲にガンジーの思想に近いと、言っている。だけどそれを政治運動として唱えることはしなかった。その点が良寛とちょっと煮ている。だから、軍国主義も民芸運動をつぶしはしなかった。
▽104 1972年のアンデスでの飛行機墜落事故。27人が生き残った。人間の肉を食べるかどうか議論した。…最終的に残ったのは16人。「私は(人肉を)食っていいというほうに加担したと思う。しかし、実際には食わなかったと思う。私の体力といままでの経験からいって、食えないということが分かっているから
(〓そういう究極の状況を想像し、自分をそこにあてはめる想像力。)
▽106 奉天会戦のあと、児玉源太郎は隠密裏に抜け出して東京まで来て「いまがそのとき。どんな不利な条件でも講話してくれ」と。…ウィッテは本当にわずかな割譲を譲歩するだけの条件を出してきて、小村寿太郎はそれを飲んだ。…幕末、維新のリーダーはまだ生きていた。だから合議が成立した。さんざんうその宣伝をやっているから、国民は沸き立っちゃったんだ。その国民を沸き立たせた幻想は、1905年から今日までつづいている。…戦後も、自分たちは世界の中の窮乏国になった、という現実の把握はわずか数年した続かない。朝鮮戦争で「漁夫の利」を得て、もとの長くつづいた幻想へもどってしまった。日本は一流国だと思っちゃうわけ。
日本は経済統計だけみると世界の二流国。国民所得は18番から20番。これからアメリカにくっついていけばまた一流国になれると。目を開いてみれば、実はいまこそ末法なんです。でも、目を開いているやつがいないんだよ。
…121 アメリカの後にくっついて戦争をやったら一流国になれると思っていたら、モラルの点からいって末法じゃないの。…むしろ目を開いている人間がいるとすれば、日本はどういう三流国になったらいいのか、道筋を考えることだ。ベネルクスも北欧もみんな三流国でしょう。
▽112 橋本峰雄 日本の風呂が「蒸気浴から湯欲へ移行したことは、宗教的な心身浄化浴および医療のための湯治浴からレクリエーションとしての入浴へと転換した」のであり、それは「日本の宗教の世俗化の一面をも示すものではないか」という。
▽132 戦後の偉大な仏教徒。一人は無着成恭だし、もう一人は高史明だし…橋本峰雄。
…宗教があるとすれば、国民全部を敵とする。人間全部を敵とするというので、いいんじゃないの。そういう位置を少なくとも想像力でとらえることができなければ、なんの宗教か。
宗教の重大な礎というのは、人間に対する反動じゃないかなと思う。ヒューマニズムじゃないと思う。
▽134 親鸞。ものすごく勉強して、小さなことにこだわらなくなって、愚禿親鸞としてもうろくして死んでいくことを受け入れる。一遍は踊り念仏でしぐさというものを大切にした。文言というものだけに頼らない。しぐさのほうが重大なんだ。
…一神教に対して疑いを持っているんです。マルクス主義も。全体主義に対する抵抗の余地がない。…これに対して、法然/親鸞・一遍という流れは、自分のなかに生じる疑いを無理に押し殺さない。それと共に生きる。
▽137 明治以降、日蓮宗だけが活力を保ちつづけた。石原カンジ、宮沢賢治、北一輝、立正こうせい会、創価学会、日本山妙法寺。日蓮宗はほかの宗派と違って、外国人であるシャカから日本人である日蓮に崇拝の対象を移し、日本の問題を宗教的関心の中心に据えた。日本をどう救うかが重要な問題とされ、国家を諫めただすことを宗教の任務とし、それに命をかけたところに日蓮の本領があった。それは、近代の市民が自覚した政治的権利ときわめて近いものだった。
…創価学会の牧口常三郎。「人生地理学」。人生という言葉は、当時一般にようやく使われるようになった熟語。「人生」には「人の人生」と「人間の生活」という意味があるが…。
牧口は、独自の地理学をつくり、郷土科研究という小学校教育の新しい授業方法を興した。カントの哲学を独自の仕方で読んだ。そして、カントの価値論を修正して、真善美にもうひとつ利を加えて4つの価値とし、善美利が根本的な価値であるという考えに到達した。ジェームズのプラグマティズムの影響がある。…彼は教育全体の体系を、新しく発見した価値論に基づいてつくりなおそうと発心した。こうしてはじめたのが、価値創造のために捧げられた教育、すなわち創価教育だった。
…戸田城聖。戸田のつくった算術の教科書と国語の教科書をもとに、私は小学校に行かないで勉強したんです。受験勉強の書であるにもかかわらず、人生経験から勉強に入るよう仕組まれていた。…戸田の受験用参考書は、大ベストセラーに。
▽155 1942年、季刊紙「価値創造」の廃刊を命じ、牧口、戸田を含む21人の幹部を東国。国家が間違ったことをすれば、政府をいさめてそのあやまちを正させるという日蓮の教えを守り、各個人が自発的にそれぞれの善・美・利を開発することが人生の目的だという思想に立つ団体が、目の敵にされるのは当然だったでしょう。牧口は獄中で死亡。
…社会地理学と哲学研究にはじまったこの会の成り立ちは、「学会」という名のなかにいまも面影をとどめている。…カネ儲けの上手な人が、自分の懐にその儲けたカネを入れないという場合には、それはもはや聖者の資格を持っている。戸田城聖。
▽157 敗戦。会社がつぶれ、金の価値がなくなり、戦争中まで残っていた親類や隣近所の助け合いの習慣も薄れ…不安に悩む人々のあいだに、創価学会は急速にのびていった。仲間の助け合いの習慣をつくり、青少年を訓練する道場をつくった。天皇が観兵式をやめているその時期に、戸田城聖は白馬にまたがって観兵式をおこなった。…軍人勅諭のかわりに、与えられたお経のテキストの暗誦。求められる集団への参加。規則的な昇進。軍隊と同様、身分や富や学歴にかかわらず、努力と才能に対して公平な昇進が約束された。…まさにおなじ時に、資本の独占化が進み、会社は系列化され、…学歴ない人にとっては公平な昇進の希望は失われつつあった。
創価学会は、戦前の軍隊、在郷軍人会、青年団、大政翼賛運動の思想から多くのものを譲り受けた。…敗戦直後、だれも住もうとしない廃屋として、だれも利用しようとしないが、しかし依然として存在する国民的慣性としてそこにあった。その国民的遺産をそっくりそのまま、創価学会が譲り受けた。
天皇家や大本教、PL、旧仏教などに残っている世襲制度に、一顧だに与えず、これを越えた。牧口から戸田へ、さらに池田へのバトンタッチは、戦後日本の民主主義の思想に忠実なものといえよう。
(もうひとつの下剋上のあるピラミッドとしての軍隊と学会)
…創価学会は、キリスト教や道教などとひどくかけ離れていて、イスラム教にもっとも近い。…戦争と世襲制を除いた昔ながらの日本の働き主義の哲学で、二宮尊徳が代表者と考えられる農本主義(日本型プラグマティズム)のひとつのあらわれともいえる。
▽168 河合隼雄 占領軍は日本の封建制を破るために、日本の「イエ」制度を廃止してしまった。日本人は「自由」になった。ところが「イエ」を失っては、アイデンティティがなくなるおそれがある。そして「代理イエ」に所属することによって、そのアイデンティティの支えにした。日本人にとっては、どこに「所属」しているかが非常に大切なことになった。日本の男性は「代理イエ」の存続に全力をつくし、自分の家庭は顧みず、それは「家内」にまかせることにした。(心理療法入門)
▽175 内山節「共同体の基礎理論」
日本の土着的信仰は、全員救済の思想なのである。かつての人々にとっては、死後が切実な未来であったことを考えれば、この死後の平等館は、大事な共同体の精神であったといってもよいだろう。
▽193 日本でわりあい離婚が少なくて、年をとっても穏やかに家庭を保っている。神社にもお寺にもお参りする。夫婦お互いの猛烈な喧嘩というのも少ない。このぼんやりした風景そのものへの信頼が宗教といえないか。
▽194 米国に日本が負けて、一神教の考え方が、その一神教を取り入れないままに、日本の大学教育に入り、大学の知識人の思想となった、と思います。流派の細かいことにこだわる殺し合いも、まさにその一神教的な態度の現れです。相手に自分の態度を押しつけるやり方も、右左を問わず、日本の大学の知識人に共有するものです。
▽218 入矢義高(禅の研究家) 「迷うことは止めよ」という不動の境地に達することを、決して理想としない。つまり「迷人の如くあれ」、「自分はいったい何処にいるんだ」と辺りを見回すのが理想の境地。人生にはそれ以上なことはなにもないんだ、ということをしっかり説いた人。

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