■思い出袋<鶴見俊輔>岩波新書2010 20160203
ジョン万次郎や高杉晋作、坂本龍馬ら、幕末に活躍した人々は、時代を大きくとらえる力を持っていた。日露戦争で国民の反発を押し切ってでも講和できたのは、この世代の人々の冷静な判断力のおかげだった。
教育制度が普及するにつれ、指導者は受験エリートばかりになり、歴史を大づかみに判断する能力を失っていった。
幕末を経験した指導者が亡くなり、日露戦争に勝ったという幻と大国意識が国民のあいだいに残り、昭和の「必勝の精神」がつくられ、「もし負けたら」と想像したり、社会科学を自国に適用したりすることを禁じられた。
大卒エリートによる視野狭窄は、戦後もつづいている。「事故は起きるはずがないから対策はいらない」という原発をめぐる判断は「必勝の精神」と軌を一にしている。
鶴見は大学を「個人を時代のレベルになめすはたらきを担う機関」と位置づける。
そして、現代の教育者では、生徒の自問自答を養った無着成恭を評価する。だが、無着は教育現場を去り、生徒が自分で問題をつくる訓練の場はなくなってしまった。
教育制度がなかった時代にジョン万次郎らの人材をはぐくんだのは「村」だったが、それも大半が崩壊した。鶴見は今の日本を「末法」と位置づけ、日本の将来には悲観的だが、今よりもっと悲観的だった戦時中でさえも社会の片隅で異議を唱え続けた人がいたから、あきらめることはない。
自らが直面している「もうろく」のなかにも、抵抗の拠点を見いだす。「大臣や国会議員など、壮年のころの予測は、今年、来年のことに限られやすい。歴史の大きなうねりは見きわめにくい。早起き早飯という反射を植え付けられる軍人生活のなかで、遠い未来を予測することは思いもよらない」と書き、軍国に近づいている今こそ、ゆっくり歩くこと、ゆっくり食べることが現代批判につながると考える。スローフード運動や「村の時間」、あるいは世界農業遺産なども、現代批判の基盤になるということだ。
状況を冷静に見極めながら、日常の暮らしレベルでまだやれること、やるべきことがあるのだと気づかされる。
鶴見の魅力は、夢をも現実の一部としてとらえてしまう、子どものような感性にもある。
眠りからさめたとき、いくつもの層をとおって正気にもどる道筋をメモすると、眠りからあがってくる段階ごとにちがう世界が見えるという。
たとえば、ある日の起き抜けに心に残っている本をあげると、水木しげるの「河童の三平」や「寄生獣」「春と修羅」「鯨の腹の中で」(オーウェル)が浮かんだ。目が覚めて平常心に近くなると、魯迅の「故事新編」「行人」「カラマゾフの兄弟」「ハックルベリー・フィン」などを付け加えた。
眠りに近い状態は、子ども時代や老いて脳の力が弱まったときの思考に近いのかもしれない。人生の最期の瞬間の感覚とつながるのかもしれない。それを常時記録する作業は、子どもの感性を守り、老いの思考を先取りする意義があるのかもしれない。
子どものころ、自分の「ない」状態を想像してひたすら死をおそれていた、という記述にも、たしかにそうだった、と思った。もうろくしてくると「ない」という方向に行くには想像力が必要だから難しく、でくのぼうとしての自分がそこに「ある」のみという。「もうろくの中心に「ある」というこの感覚がある。昨日までできたことが、ひとつひとつできなくなる。その向こうに、「ある」という感覚が待っている。今、これを断念するということを、わびしいと感じない。…「ある」ことが、自分を終わりまで、ここで終わりと気づくことなく、支えるだろうと期待している」
自分が鶴見と同じ年齢になったとき、そこまで老いを受けとめられるのだろうか。
鶴見は革命的な空気が横溢していた戦後直後や60年代から、保守系文化人をも評価していた。今では桑原武夫や梅原猛のえらさはわかるのだが、私は学生時代、彼らを「保守」と位置づけて積極的に読もうとしなかったことを思い出した。いかに外部の空気に影響されて世界を狭めていたか。激動の時代にあって、鶴見はそういう視野狭窄に陥っていない。
それは戦争をくぐり、さまざまな「転向」を見つめ、非転向を純粋に貫く人以上に、転向と非転向のあわいに揺れる人々に豊かさを見ていた経験のなされるわざなのだろう。
戦時中、軍から離れてふつうの家に住む以外にはなんの望みはない、と痛感していたという。「2008年…今の私はその希望のなかにいる。生き残って、軍隊の外にいる。敗戦の日から63年、私は幸福を自分のものとした。そのことを忘れない。他のことは、つけたりだ」。戦時を生きたプラグマティスとの真骨頂だと思う。
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▽4 ジョン万次郎 万次郎の出現は、江戸時代の末に日本人が大きな未来をもっていたことを教える。1905年に、政府と国民とが共々にいつわりの大国意識の網にとらえられるまで、日本人は1853年から1905年まで、世界史のなかで創造的な道を歩んだ。
▽10 江戸川乱歩。1939年になると、執筆禁止に近い状態に。「悪夢」の全部の削除を警視庁検閲課が命じた。「探偵小説で創作小説の全編抹殺ということは左翼小説以外稀有のことである」(〓そういう時代をつくってしまった)
▽21 グレタ・ガルボ 晩年NYに隠れてすんだ。「名声と欲望が自分をほろぼした」と。自分の生涯をふりかえって、こんなふうに言える人はすばらしいと思った。(という鶴見の感性がすばらしい〓)
▽22無声映画時代の有名俳優のおおかたは、トーキーになってから沈んだ。…日本では、アメリカほどには俳優の凋落をまねかなかった。嵐寛寿郎、片岡千恵蔵…。歌舞伎劇出身で、せりふも立ちまわりも、トーキーによってくずれることがない。
▽24 村上春樹が「辺境・近境」(1998年)、「ねじまき鳥クロニクル」(94-95)を書いてはじめて、ノモンハンの大敗北は広く知れわたった。
▽32 水木しげるの「河童の三平」は私の古典である。そこに出てくる死神は愛嬌があって、ヨーロッパの親和に出てくるような荘厳な風格を持っていない。
▽35 アニミズム(物活論)という言葉は、文化人類学者タイラーの言葉で,…20代初めに出会った梅棹忠夫は、アニミズムというのは低い思想ではないという。私の学習してきたヨーロッパの学問の定義からあふれ出る、新しい定義だった。
▽43 眠りにおちるとき、いくつもの層をとおる。その途中で、自分をつねるかなにかして、おちてゆく段階を書きとめておく。エドガー・アラン・ポーの「ユリイカ」。…私は、眠りからさめたときに、いくつもの層をとおって正気にもどる道筋を記す。
…自分のこれまで読んだ本のうち、今、心に残っているものをあげる。眠りからあがってきたとき、自分にとって、なにがのこっているか。2003年10月18日朝は、水木しげる「河童の三平」、「寄生獣」「春と修羅」「鯨の腹の中で」(オーウェル)があがってきた。平常心に近くなったところで加えると、魯迅「故事新編」…「行人」「カラマゾフの兄弟」「ハックルベリー・フィン」。…(なるほど、ぼけたときに思い出すもの、を常時リストアップしておくという作業〓)
▽46 「尊皇攘夷」がはやらなくなって「尊皇」だけが残り、新しい政府の下に、西洋の習慣が取り入れられるようになった。それからのこと「□□はもう古い」というのが知識人の言葉づかいのなかに棲みついて、150年近くになる。「□□はもう古い」は、明治以来150年でもっとも長持ちしている文化遺産かもしれない。(〓なるほど)
▽49 日米開戦直前の1941年。都留重人さんは、アメリカ資本主義の代表と日本資本主義の代表がかくれて折衝しており、妥協が成立するだろうという推測を述べた。私の身元引受人だったアーサー・M・シュレジンガーは、黒船到来のとき、孤立した貧しい国だった日本が、列強の間にあって見事に舵取りをして、独立の国を築きあげた。それほど知恵のある指導者がいる国が、アメリカに対して、負けると決まった戦争に踏み切るとは思えないと言った。政治家の家に育った私は、(政治家が知恵のある人に思えなかったから)今の日本の政治家の習慣として、開戦を阻止できないとのべた。…(私の予測が当たったが)だが、今とりあげたいのは、当時、日本史研究者でないアメリカ史家の心にまだ残っていた、「日本の指導者は賢い」という90年前の歴史上の事実である。
…大臣や国会議員など、壮年のころの予測は、今年、来年のことに限られやすい。歴史の大きなうねりは、事業にもまれている者にとっては、たとえその頂点に立っても、見きわめにくい。早起き早飯という反射を植え付けられる軍人生活のなかで、遠い未来を予測することは思いも寄らない。
少しずつ軍国に近づいている今、時代にあらがって、ゆっくり歩くこと、ゆっくり食べることが、現代批判を確実に準備する。大岩圭之助たちによってスローフードの運動が起こったことは心強い。
(〓ムラの時間をとりもどすことが批判の拠点になりうる? GIAHSも抵抗基盤に?〓)
▽59 「ない」という方向に行くには、多少の想像力が必要なので、ぼけの底にいるときにはむずかしい。ただ「ある」のみ。ただでくのぼうとしての自分がそこにいる。
消滅に向かう老人のこの感慨は、子どものころ、自分の想像力を駆使して、自分のない状態を意識にひきよせ、ひたすら死をおそれていたのと、ちがう感慨だ。自分が死滅するときも、そういう感慨はあるだろう。もうろくの中心に「ある」というこの感覚がある。昨日までできたことが、ひとつひとつできなくなる。その向こうに、「ある」という感覚が待っている。今、これを断念するということを、わびしいと感じない。…「ある」ことが、自分を終わりまで、ここで終わりと気づくことなく、支えるだろうと期待している。
(子どものころの死の恐怖をこう説明するのか〓「ある」という肯定?)
▽80 大倉徹也「今は『転向』という言葉そのものが無意味になっている時代ではないだろうか。わたしがマスメディアを通じて知っている限りでも、敗戦後サヨクと思われていた人物も喜々として天皇から勲章をもらう時代になっている」。大学とは、私の定義によれば、個人を時代のレベルになめすはたらきを担う機関である。
…戦後の光背を失わずに、点数によって人を見ない運動をつづけている人は、現代のなかで私の知る限り、当時の小学校教師、現代の禅宗僧侶、無着成恭である。こうした姿勢を日本の教師は、小・中・高・大を通して失った。
145 無着の戦後教育には、生徒の自問自答を養う道があった。その道は、教育制度復興の中で失われた。小学校から大学まで18年間教室で過ごすなかで、生徒は自分で問題をつくる訓練の場を得ることはない。
「君が代」を敗戦後再開した時には、強制はしないと言ったのだが、今では立たない教師を証拠として写真に撮っておき、戒告するという。
▽85 戦争の記憶は、もうろくのなかに埋もれた燠火として、今も私をひそかにあたためている。
▽90 80歳を越えてふりかえると、早読みした本の記憶は失われて、繰り返し読みとおそ読みの本は残る。
▽100 小学1年からのつきあいがあった永井道雄が、三木内閣の閣僚になり…もとの朝日新聞にもどった。…河野義行がオウム真理教団に対して破防法適用に反対したおき、おなじ日本人として誇りに思った。
イラクに行って支援をした3人が人質になったとき、日本の内閣と与党から「自己責任」という言葉が出て、やがて「反日分子」という言葉まで、国会議員が使うようになった。米国のパウエル国務長官は、こういう人が日本人のなかから現れることが、あなたがたの誇りである、こういう人が社会を前に進めるのだ、と言った。
(〓自己責任、と言ったのはだれだったか〓)
▽103 私は60歳のとき韓国語を学んだ。この学習の失敗。自分が、これまで思っていたほどに頭がよくないという認識。この認識は、おくればせながら、これから残された人生に役にたつ。
▽109 日露戦争前夜の児玉源太郎 (ぎりぎりになったら)戦場から自分が信号を出す。それに応じてどのような条件であっても、講話に踏み切ってほしい、という意見だった。こうして1905年、小村寿太郎が、大きな譲歩をして講和条約を結んだ。国民に不満はあり、日比谷焼き討ちの抗議があった。しかし戦争をつづければ、日本は負けただろう。
日露戦争直後、児玉は死に、小村も死に、勝ったという幻は、国民のあいだに残り、後を継いだ指導者のあいだいに残った。
こうして、昭和の15年戦争下の必勝の精神がつくられ、国民は、もし負けたらという条件を想像することを禁じられた。社会科学を自国に適用することを禁じられた。国家が最高の権力をもち、真理の基準を定めるならば、国民は「もし」という条件的思考を禁じられる。
(〓原発の破滅も同様)
▽115 鶴見良行 フィリピン、インドネア…で、エビ、ナマコ、ヤシの取得と売り買いの現場を歩き、その日のうちに日記に書くことの積み重ねから、眼のつけどころが青年時代とかわり、文体も目線にあわせてかわっていく。…
▽122 池澤夏樹の「ハワイイ紀行」は前人未踏の試みだった。ハワイについての彼自身の見聞のなかに、同じく太平洋上の島である日本文化についての位置づけがあるから。
それに近いものをさぐると、大岡昇平の「俘虜記」と「レイテ戦記」。そこには日本軍兵士としての作法をこえて、人間にもどる作法がある。レイテ戦記は、戦争小説の書き落としてきた、フィリピン住民からアメリカと日本を見る方向へと踏み出している。
▽127 中学1年のとき、二二六事件と阿部定事件。…青年将校たちは国家の観念を純粋化する。純粋化への誘惑はどの政治の流派にもくりかえしおこる。阿部定は、自分の行為が自分にもたらした罰を受けとめて、悔いるところがない。国家純粋化とはちがう生き方を、自分の行為の帰結としてしっかり生きる火とに思われる。
▽130 大学出身の専門官僚は、150年200年の大まかな日本の位置づけを離れて、細かい情報処理のなかで舵取りをしているのではないか。大きな筋道を見つける力をなくしてしまっているのではないか。…200年前の渡辺崋山、高野長英、150年前の横井小楠、勝海舟、坂本龍馬、高杉晋作、100年前の児玉源太郎、高橋是清、夏目漱石、森鴎外、幸田露伴たちは、大づかみする力を、その後の人たちにくらべてもっていた。
▽134 「思想の科学」私の姉が「もう民主主義科学者協会の雑誌も出たんだから『思想の科学』を出す意味はなくなった」と言うと、武谷は「いや、共産党の言うままになるではない雑誌がひとつあっていい」と主張し、出す方向に踏み切った。
(そういう理性。桑原武夫や梅原猛を保守と位置づけ、評価していなかったことを思い出した〓)
▽137 友人をどう定義するか。その人に対する敬意をもっていることが第一の条件だが、それに加えて、その人と雑談することがもうひとつの条件としてあると思う。
▽140 憲法ができたとき、占領軍を背にした居丈高な発言が飛び交い、不満を隠した賛成の発言が、やがて米国の立場の変更に応じて、すこしずつ、あからさまな九条否定に変わっていった。内面のせめぎあいがあってはじめて、反戦の姿勢は逆風に対して保たれる。言葉に表現されない思想が、言葉に表現される思想との対立を保ちつつ、これを支えるとき、言葉に表現される表の思想は、持続力をもつのではないか。
▽165 軍隊から離れてあの家に住んでいるなら、私にはほかになにも望みはないという、痛いほどの感じがあった。…2008年…今の私はその希望のなかにいる。生き残って、軍隊の外にいる。敗戦の日から63年、私は幸福を自分のものとした。そのことを忘れない。他のことは、つけたりだ。(戦中の人の強さ〓)
▽192 チャールズ・ヤング「戦争がはじまった。これからお互いを憎むことになるだろうが、私たちがそれを越えることを望みたい」。私のほうには、彼に対する憎しみはわいてこなかった。彼が亡くなった現在まで、彼に対してなつかしい思い出だけがある。…彼はやがて妻を失った。その時、手紙をくれた。「住み慣れた家を去るときがきた。アニス(妻)はいない。人生はすばらしい」。おちこんだ語調から切れ目なしに、「ライフ・イズ・ワンダフル」へ移る。その移行にひきこまれた。
▽216 第一次大戦では、「武器よさらば」などが生まれた。それらと肩を並べる作品は第二次大戦後の米国にはない。世界を引っぱる主役となった米国には、ひっぱられる側から世界を見る力を身につけることができない。
大岡は、「俘虜記」以後の戦記の連作を書いてから、土地の人の立場に立っておなじ戦争を見ていなかったことに気がつき、せめて文献目録でもと思い立って「レイテ戦記」を書き、この本で多少とも価値のあるものは文献目録だろいうという述懐を残した。大岡は、大戦後フィリピン人に残された水牛の減少を統計として戦記に残した。(日ロ戦争では、戦場になった土地への言及はほとんどなかった)ここに半世紀をへた日本文学のかわりようがあり、重大なものだと感じる。国会には、おなじかわりようを私は見ない。
▽220 都留重人、多田道太郎、安田武。どの人とも、相手がひとりで飲み、私は飲まないで話をしていた。
▽221 東郷(元米大使)とのつきあい。葬儀に行くと、弔辞は、東郷さんとのおつきあいはこの数年のことですが、というものが多く、偉くなるというのはこういうことだなと思った。
▽222 ケネス・ヤング。最後に訪ねてきたとき、別れぎわに、今度来るときには中国大使になっているだろうと言うと、彼の答えは「アメリカを低く評価している君にそんなことを言われてもうれしくはないよ」というものだった。これが最後のやりとりになった。
東郷とのつきあいは、長くとだえていた。それとちがって、ケネス・ヤングと私のあいだにつきあいがつづいたのは、日本社会では身分がつきあいの底にあり、それが避けられないということだ。アメリカ人との間には、自分の身分を越えて、友人のつきあいはかわらない。
▽225 日米交換船に乗るとき 国家に対する無条件の忠誠を誓わずに生きる自分を国家の中に置く望み。
▽226 1950年代からキツネに化かされる日本人はいなくなった。これは進歩か、と、内山節は問う。仏教が伝わったとき、年月をかけて本地垂迹説があらわれ、山川草木悉皆成仏の基本が村の信仰となり、キツネはその一部である。そのキツネにばかされなくなるのは、それまでの信仰が消えたことだという。
…先住民の歴史の抹殺の上につくられた開拓民の国アメリカでは、「金もうけの楽しさ」は妨げるものをもたずに展開していくことになる。そのアメリカが世界の経済、政治、軍事の中心に座ったとき、伝統的なものと奥の方で結ばれているそれぞれの社会の抵抗する精神は、その力を弱体化させていった。
(村の解体として日本ではあらわれる。村はアメリカ的なものへの抵抗の基盤になりうる〓)、
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