■現代思想 総特集 鶴見俊輔 2015年10月臨時増刊号 青土社
鶴見は戦争中、敗戦を確信し、人を殺す場面に出くわしたら自殺しようと覚悟していた。だけど「戦争反対」とは言えなかった。鶴見と同様、先行きが見えていた知識人はいたが行動には移せなかった。いったいなぜなのか。そこから、鶴見の思索と行動がはじまった。
「アメリカの牢屋よりも日本の一般社会のほうがこわい。まして軍隊というのは非常にこわいところだったので、私は自分の反戦思想を口に出すこともできなかった」と書いたが、反戦を口にできなかったのは、怖さ以上に「肉体の反射がなかったから」と分析する。そこから、ある考えが妥当かどうかは行動を通して検証するしかないと考えた。いざというときに行動できるように、鶴見は戦後、ハンストやデモに率先して参加した。
戦前の共産主義者は「反戦」を唱えるどころか、極端な軍国主義者に転向する者も少なくなかった。戦後、軍国主義者がいきなり民主主義に転向した。なぜ多くの知識人が極端な「転向」を繰り返すのか。逆に、妥協を重ねながら極端な転向を避けた人や、自分のなかにこもることで良心を守ろうとした人もいる。その人たちはなぜそうできたのか。
極端な転向をした者は、「上」からの教育によって思想にめざめたインテリが多い。「上」から教えられた共産主義のインテリたちは、大衆とのつながりがなく孤立するしかなかった。「根っこ」の不在が極端な転向の原因になったという。
逆に、粘り腰の抵抗ができた人は、かえるべき「根っこ」があった人だった。未来がないと思われた戦時中、下村湖人は「煙仲間」という言葉をつくって良心を保つユニットをつくった。彼らは根っこと結びついていたから粘り腰だった。
「村」や「部落」こそがその根っこだった。戦時中も個人として戦争に抵抗した谷川雁は「日本が作り出した値打ちのあるものがあるとすれば、それは村だ」と言った。「村」は因習の場でもあるが、ナショナリズムなどに抵抗する拠点にもなりうるのだ。その指摘は、村が衰退してしまった今こそよく理解できる。村や労組といった中間団体の衰退が、マネー資本主義を蔓延させ、人々をバラバラにしてしまい、極端なナショナリズムが生じさせてしまったからだ。
鶴見は「民主主義とは個々の人間が生きていくための生活の原理である」と定義する。生活の原理としての民主主義を担うのは、伝統的には「村」であり、新しい時代では小集団・サークルだと考えた。
良質なサークルには、長い時間をかけてつきあうに足る相手だとおたがいに感じる、共有された直感がある、という。それは学生時代のサークルの体験から、実感としてよくわかる。小集団は、直接的な政治行動には向かないが、「公的領域で活動する手前に準備の場を提供する」という。人への信頼、人とのつながりを実感することは、活動しようという意欲の源になるからだ。
私は四国で、鶴見とつながりを持っていた小集団と接した。集落単位の「組集会」を基盤として、健康や生活の改善について考えていた。そこには土着の民主主義があった。
60年安保後は、「運動の波がひいてしまったあとで、運動のなかに残り、その中でつみかさねがおこるような場所」とは何かという問題意識を鶴見は抱いた。
そのなかで、政治的な行動する時につきまとう迷いやためらいに価値を置き、その上にに立つというスタンスが市民運動には必要だと考えた。
昨年盛り上がった「戦争法案反対」の大波がひいてしまった今の問題意識と同じだ。「ためらい」を基礎に置いたとき、どんな運動がありうるのか。鶴見は「サークル」に希望を見いだしていた。今もおそらく、サークルや「村」が希望の基盤になるのだろう。
鶴見は「九条を守れ」というスローガンを唱える運動に共感しつつも、「呪文(スローガン)はいっぺん破られてしまうと完全にだめになってしまう」と指摘することも忘れなかった。「鬼畜米英」などの呪文の末路を知っていたからだ。「九条を守れ」という呪文は、いったん改憲がされれば「呪力」を失ってしまう。個別的自衛権に基づく戦争開始に対しても「呪文」だけでは現状追認するしかないのだ。
この本を読んでいてふと思った。ジャーナリズムの未来にもサークルや小集団が欠かせないのではないか。新聞の情報をみなが共有することで政治運動の拠点となったイギリスのコーヒーハウスはまさに小集団だった草の根の小集団と連携するしか、ジャーナリズムが生き残る道はないのではないか。それは具体的にどんな形なのか。考えていかなければならないと思った。
鶴見俊輔とジョージ・オーウェルがにているという指摘も、なるほど、と思った。
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▽10 私の根にかえって、各種の公的組織のプログラムをつくりかえることなしに、本格的改革はなされない。…
民主主義とは個々の人間が生きていくための生活の原理である。「革新ナショナリズム」というまじない言葉が入りこむ余地はない。〓(草の芽、よりよく生きるための小集団)
▽19 (脱走兵をかくまう)ジャテックに、海軍の諜報部員が脱走兵を名乗って潜入。出国直前に姿を消し、本物の脱走兵が逮捕されてしまった。(弟子屈事件)この怪しいと思われていた諜報部員を追い出さなかったことについて、鶴見さんは痛く自己批判をしたらしい…。戦前の左翼組織に潜入してきたと思われる「スパイ」を切り捨てたことから、その組織の劣化が始まるという教訓をかたく守っておられた。…p28「確証がないのだから匿いつづけよう」「もしスパイだったとしても、われわれJATECが壊滅すればいいだけのことです」と(吉岡忍)
▽21 米軍基地 有刺鉄線の外から働きかける方法。ひとつは反戦放送局であり、もう一つはたこ揚げだった。タコをあげると、航空機が飛行をとめるのは大発見だった。
▽31 戦争中、「戦争反対」と言えなかったのは、なぜなのか。勇気がなかったからでも、怠け者だったからでもない、「肉体の反射」がなかったからだと考える。態度の問題だった。…態度の思想は、その人が何を考えているか、何をいっているかよりも、ある状況下でどのような行動をとるかということに、その人の思想は顕れると考える。
…人々が暮らしのなかで示した態度をギュッとつかみ出し、そこに重大な思想があるのだと紹介する。
▽35 「谷根千には国家のことをしっちゃいない。自分のこの横町、この路地のことしかわからないという人がいる。それで生きていけるというのがいい」といわれたのは心にのこっている。
…鶴見さんの「グアダルーペの聖母」〓という本を読んだ。「これからの世界で大切なのはエクストリムリー・ローカルということですよ」と言われた。…ものごとを国を単位に考えるのではなく、いつも自分の町を軸に考えたい(森まゆみ)
▽43 「限界芸術論」
…思想の科学を1946年に創刊して以来96年に休刊するまで50年間ずっと無給の編集者。
▽49 プラグマティズムとは。概念とは行動を通して検証されるものであって、ある考えが妥当なものであるかどうかは、実際に検証してみないとわからない、ということです。
…中央公論が「思想の科学」を受け入れたのは、社長の嶋中鵬二が小学校の同級生だったから。「風流無譚」事件がおきて、そこから波及して、「思想の科学」の天皇制特集号を中央公論社側が無断で断裁して出版中止にしてしまう。これが1961年暮れ。
▽54 鶴見さんがおもしろがる漫画が「ガロ」的なもんだけじゃなくて、「がきデカ」とか「寄生獣」とかを評価していた。…鶴見さんは本当に打ち込んで漫画を読んでいたんです。
▽58 鶴見さんは、嫌いな人のことはあまり書かない。…書評でも、鶴見さんはいいところを見つけてくる書評。…攻撃もしません。
…鶴見さんが80歳を迎えるころになってから編集グループ「SURE」というグループをつくった。(黒川創)〓〓
▽62「新しい哲学」の提言。具体的事物と抽象原理を行きつ戻りつするこつを心得たものこそ、新時代の哲学者。水陸両生のこの技術を人々に植え付けるものこそ、新時代の哲学教授法。
…戦中の日本思想への批判だけでなく、硬直したまるく主主義批判でもあり、冷戦国家への批判でもあった。知識人の理論偏重に対する「ひとびと」の生活思考の復権でもあった。
…プラグマティズムの国際的な体系化のために重要なのは、各国に存在するばくぜんとした民衆の「ネイティブ・プラグマティズム」の比較研究。この構想は残念ながら断念された。
▽64 「思想の科学」での、大衆芸術研究と、ひとびとの「不幸」を分析する「身の上相談」研究。「生活記録」。…「中央公論」において「小集団の可能性」を探る連載企画がはじまった。「日本の地下水」と名づけられ、のちに中央公論社版「思想の科学」に受け継がれた。それは「サークル」研究のスタートだった。…この時期、鶴見さんは全国のサークル運動の現場を走り回っていたと推測される。〓(稲葉との出会い)
▽65 (安保後)鶴見さんの問いは「運動の波がひいてしまったあとで、運動のなかにのこり、その中でつみかさねがおこるような場所」とは何かということだった。(〓今の問題意識と同じ)「政治的無関心、と、いつか未来のどこかで交流することが市民運動の理想である」
…「選言命題を大切にする政治運動」。選言命題とは、行動するときに必ずつきまとう迷いやためらいを大事なものと考え、どんな正しい目的であっても行動との間には、隙間や溝や留保が存在する。これを消してしまうのではなく、その上にたつ運動のあり方が市民運動には必要だという原則。〓(ためらいの大切さ)
▽67 「デューイ」(1984)〓「戦時期日本の精神史」(1982)。「デューイ」という本は、「前半生への反省の結果」と位置づけられている。「凡庸な人の偉大さ」の発見〓。デューイは92歳で死ぬまで、老年にも可能な哲学を考えつづけた。日常の経験から出発して行動によって意味を確かめるデューイの方法は、個人と社会の習慣の再建、子どもの関心を育てる教育、教団とは区別された「宗教的なもの」にむかって深められていった。〓
▽76 デューイの哲学は、文化人類学がアメリカで盛んになるための下地をつくったが、文化人類学に相当する仕事を日本で続けたのは柳田学派の民俗学であって、その発想点となった柳田国男の哲学は、ひとつの有力なプラグマティズムであった。柳田は、思想を言語にむすびつけて把握し、さらにそれを社会行動の枠のなかにおいて考察しているからである。
…国語科で字引と結びつけずに、生活と虫ぶつけて言葉の意味を教えた生活綴り方運動家、国分一太郎の「概念くだき」の方法は、日本で生まれた独自のプラグマティズムである。
▽78 「集団ーーサークルの戦後思想史」(平凡社)唯一のまとまったサークル研究〓〓。
▽79 黒船が来たとき、将軍はアンケートを藩に出す。答えは「よろしいように、なさってください」。そうとうバカ殿様が多かった。…考える力を持っている人を登用している藩は、薩摩と長州とあとわずかです。テレビで安倍内閣をみていると、ああこれはバカ殿様だなあと思う。絆創膏をはって出てきた赤城大臣とか、漫画を読むので有名な麻生太郎とか。
…最小の集団の単位というのは、日本全体からみると部落なんですよ。2,3戸である場合もあるでしょ。家族ぐるみみんな知っている。
▽80 学徒出陣のときの東大社会学のグループの餞別会で、一人が立ち上がって「たとえ奴隷の言葉でも何か言い続けようではないか。イソップは奴隷だった」。これは、当時を考えるとすごい言い方ですよ。それが谷川雁です。彼は兵隊になってもはっきりものを言って、重営倉に入れられる。…
彼は「日本が作り出した値打ちのあるものがあるとすれば、それは村だ」と言った。きだ・みのるは「部落」、谷川雁は「村」。それが日本の根底にある文化の単位です。これが数千年かけて日本の創造したものだ。そう谷川は考えた。
▽82 下村湖人。田沢義鋪が同級生で彼に師事する。田沢は大政翼賛会というもののオリジン。翼賛会は彼がつくったものが軍部にのっとられた。田沢は四国で「この戦争はまちがっている」と演説してぶっ倒れて死んだ。
下村は、部落単位から日本を興さなくてはという考え方をもっていたけど、軍国主義だから難しい。だから戦中に「煙仲間」という言葉を作って、煙仲間運動をはじめる。マスコミも国家も知らないけど、それはあった。…これは、幕府が倒れる前の蘭学の運動に似ている。弾圧を恐れて人の目を引かないようにと、高野長英や渡辺崋山がグループをつくって、地方の名産とか飢饉を救うために強い植物は何かとか、…小さなパンフレットを作っていた。「尚歯会」という敬老精神に富んだ穏健な名前をつけていた。
谷川雁「エネルギーのあるところに組織なく、組織あるところにエネルギーがない」。大組織は全然エネルギーがない。組織がないところで、組合の後の飲み会で雑談会に行くと、ある。国鉄のサークルから詩人が出てきたでしょ。
▽84 群馬県の「おろかものの碑」 大東亜戦争のときに町の人が役員をやっていて、占領軍に追放される。おれたちがあんなに努力したのは、ほんとにおろかものだった。それを形に残そうとつくった。被追放者の団体「あずま会」。はじめは1961年に中之条町内の英霊殿のわきにたてられた。地元遺族会と神社本庁から講義を受けて、今は林昌寺山門脇にある〓
佐々木元さんがその話をルポにしている。〓〓
▽88 戦時中の日本から送られてくる新聞。読むに耐えない。ふたつだけ読んだ。ひとつは相撲の記事。これは嘘がない。もう一つは俳句の欄。五七五だからそのなかに「大東亜戦争万歳」なんて盛り込めないんだよ。だから詠むに耐える。
▽89 日本の社会は創造的な力を消していくね。これは大学の影響じゃないか。日本の文化というのは、大学出の人がつくったものじゃない。それは雁のいうように、村だ。きだみのるが言うように、部落だ。〓。
断じて日本は終わる。自分のなかの目利きによると、未来はない。しかし、未来がないと思われたなかでも下村湖人は「煙仲間」という言葉をつくってユニットをつくりだした。高野長英は「尚歯会」をつくった。それを考えると、やることはできるでしょう。負ける闘いに賭けるということだな。(〓清川の可能性〓)
▽100 世界のどの国のどの時代にいても、思想がはっきりと急カーブをとる場合に、これを転向と呼ぶ仕方をとり、思想史の普遍的な項目のひとつとしてこれを新しく建てたい。(転向、の普遍性)
…国家が各個人に強いている支配服従のたての人間関係倫理にたいして、家は少なくとも国家よりは各個人の人間性を大切にするという意味で人間関係の倫理の芽生えをもっていたわけだが、普遍的な倫理の形にまで一般化されることはなかった。サークルは、家のなかでなり立っている相互扶助を広げていく過程で、横の倫理を自覚的につかむことができるようにする。
…集団の原初としてのサークルとその辺か自在の能力に期待し、サークルが既存の諸集団とつねに交流しながらも、別々の形として、新たな独創性ある思想を育む場となることを期待した。
▽102 戦後価値ある思想として君臨してきたのが「最高の正しさ」と結び合わせてできる「非転向の思想の系列」であった。(共産党)だがこれこそが日本の思想史を実り少ないものとしてきたのではないかと鶴見は問う。
…前代の転向体験を追体験することは、この国の思想的伝統のもっとも深いところからエネルギーをくみとることとなる。
…この追体験は、自らを非転向の立場においてなされるものであってはならず、まずは転向と非転向の間にその身を置いてみることからはじまる。(みのりある転向。迷いやあわいに豊かさ)
▽106 2001年「転向再論」。ソ連からの「無謬の規準」と占領軍政策という「二つの転向を測る規準」が消失するなか、転向研究の動機であった「憎悪と自己嫌悪」が現代の転向研究から失われていること、「グローバルな学問」(アメリカの学術用語と仮説をただ日本に適用したもの)の浸透が、転向を研究する手がかりを失わせていると鶴見は言う。この学術用語のひとつとして彼があげるのが「アイデンティティー」である。
…アイデンティティより「イテグリティ」という規範が近代の日本社会にもっと普及していれば、転向もまた違った形がありえたのではないかと述べる。「非転向への不毛な固執を避けて、しかしまともな人間として現代に生きてゆこうという考え方」
▽108 「根本からの民主主義」を1960年の状況で唱えた。「日本の公的政策が日本人の思想の私的な根そのものからあたらしくそだてられる」なかから生まれる。「思想の私的な根」を脅かすのは、「国家機構の次々につくりだす既成事実」
▽110 1963年、「集団」に関する研究グループ「集団の会」を組織。旅行や文学、演劇、子育てなどの小集団に注目。「共同研究 集団」
…国家権力の強制が迫るなか、彼らが大衆との隔絶を自覚したとき、転向が起きたというのが彼の理解であった。生活綴り方運動のなかには、このもろさを克服する鍵があると考えていた。起点が「自我」にあるので、理論を持ち出してそれと人々の暮らしの現実との接点を見出せないという罠を回避できるからだ。彼の集団に対する関心は、表現する小集団に向けられていた(稲葉〓)
…サークルでの討論の主たるねらいは、多数決でひとつを選ぶことではない。決めることより大事なのは、異なる見解をぶつけあうなかで、各人がその問題についての理解を深めていくこと。小集団の討論は、人々が学び、考えを形成するプロセスであるというわけだ。学習のプロセスが重視される。
「活気のあるサークルには、その底に、長い時間をかけてつきあうに足る相手だとおたがいに感じる、共有された直感がある」(ボ〓)
▽112 サークルは、政策や法律の策定過程に直接的な影響を及ぼすのにはたいして有用ではない。
…サークルは家族のような集団とも区別される。自発的に選んで参加することこそが、サークルの条件だと考えていたからだ。
▽117 小集団は、公的領域で活動する手前に準備の場を提供する。
▽125 自分が生きたいように生きることを計画し、その果てにさりげなくあらわれる正義の原則を問題にするべきではないか。自分が生きたいように生きると言うことのなかに、不可避的に、人間にとって何をしたらよいかという原則がまざってあらわれる。まず正義の原則から教えるという旧来の哲学の教授法そのものが、もう、うたがわれてよい時だ。
「君たちはどう生きるか」
▽130 学徒兵世代は、自由主義やマルクス主義にふれる機会が乏しく、数多の思想にふれ得た年長世代の教養体験との大きな隔絶があった。彼らは年長知識人たちに「事変後の学生」と呼ばれ、その「無教養」を蔑まれがちだった。「わだつみ」批判も、戦前派知識人である学徒兵世代に対するこうした認識に通じるものであった。
▽131 吉川勇一「若い人々の批判を聞いていると、『自分も自己批判した上で』という一言をいっただけで、あたかも自分が在日朝鮮人の立場や被差別部落民の立場に立ち得たかのように、他の人々への告発や糾弾を開始する傾向」があったことを指摘している。小田実も「重い口をひらいて被爆者がようやく過去の苦しい体験を話し出そうとすると『おまえは加害者の自分を忘れている』と声高にくってかかる若者の精神のありよう」に批判的だった。「加害」を問うことは、一面では、それを語る自己を批判が及ばない安逸な位置に置くことでもあった。
(安易だった加害告発の若者〓小田実とのちがい)
▽「アメリカの牢屋よりも日本の一般社会のほうがこわい。まして軍隊というのは非常にこわいところだったので、私は自分の反戦思想を口に出すこともできなかった」
「勤勉にはたらく自分がバカらしくて仕方がなかった。その勤勉なはたらきが、政府の命令にそむく行動の方向には、むかないのだった。そういう行動の機動力となる精神のバネが欠けていた」 鶴見の「わだつみ」批判は「勤勉なはたらきが、政府の命令にそむく行動にはむかな」かったことの悔恨に根ざすものであり、批判の矛先は自らにも向けられていた。
▽133 旧制高校 教養主義者やその影響圏にあった学生たちは「優等生」であることには否定的な身振りをとっていた。教養は「点取り虫」ではないことを印象づけようとするための衣装だった。
▽135 アメリカ大使館や首相官邸に座り込み。「すわることによって、ある仕組みで育ってきた自分の順法感覚というものを、ときどきこわしていく。それが必要な気がする。順法の反射をつねに新しくこわすために、そういうことをやりたい」(身体性、反射)
▽140 「私はずっと靖国参拝に行ってますよ。戦争はまずいと思ってはいますが、理由もなく死んでいった人に鞭打つような真似はできない。靖国神社で私は頭を下げます。…死んだ人間に対する敬意ですよ」
「(戦争中)病気で死なせてほしいというのが、日夜の祈りでした。…自分が殺しそうになったら自分を殺す。自殺する権利があるんだということを最後の砦としたんです。…薬をくすねていつでもポケットに入れていて、最後には便所に鍵かけてやろうと思っていたんだけれど、致死量がわからなくてうまくできるかどうかわらないし、すごく怖かった」
「知識をもち、状況についての見通しをもつ人が、かならずしも状況打開のための行動をおこすものでないことを、まず確認したい。…そのことを自分について確認する」
▽144 「呪文」は「いっぺん破られてしまうと完全にだめになってしまう」と鶴見はその弱さを指摘する。中身の吟味を欠いた「九条を守れ」というスローガンは、もしいったん改憲がなされれば、たちどころにその「呪力」を失ってしまう。個別的自衛権に基づく戦争の開始に対しても「呪文」だけでは現状追認以外になすすべもない。…しかしそうであっても、鶴見は「呪文」を排したりしない。「呪文のもろさを考えますけれども、そういう呪文をつづけて唱える立場には共感をもちますね」
…一人で戦争反対と銀座なんかにつったって捕まる、そのことはそれで意味があったんだ。…効果というのは二義的なものですよ。何が正しいかということに対して自分はそれに賭けるかどうかということですよ。効果はね、つねに権力をもっている方が効果ありますよ。効果のことを問題にすると、結局権力についていくということでね、価値判断しないということになっちゃうんだ。
▽174「アメノウズメ伝」 信者による、かたくなな読み方を防ぐことができているのは、私の著作では「アメノウズメ伝」だけじゃないでしょうか。この本だけは、これが真のアメノウズメだ、おまえの解釈はなっておらんといわれたことはないし、いいんじゃないかな。…これは、私なりに書いた一条さゆりの伝記なんです。
▽191 竹内好が大学を辞任した数日後に、鶴見も東工大に辞表を提出。「竹内さんは辞めるのか、じゃあもちろん私も辞めなきゃいけない、と自動的に考えた」 やくざの仁義で結ばれた人。
▽196 この憲法を守ろうという運動方法によってはこの憲法を守ることはできない。この憲法をつくった精神にかえってでなければできない。ところがこの憲法は、自力でつくったのではないとすればどうなるか。…実質的には、われわれにはいまから、この憲法をつくることしかない。現在の運動がひとつの革命としての性格をもっているのは、それが実際には、この憲法をつくる運動だからだ。(1960年安保→現在の運動にもつながる。25条の問題も)
▽212 根津朝彦(〓ジャーナリズム史、1977年生まれ)桑原武夫の知的コーディネーターとしての人間像に興味を持った。…20代後半の鶴見さんは進々堂の喫茶店で梅棹忠夫の聞き役を買っていたという。
(ジャーナリズムとコミュニティ、あるいはサークルの関係)〓
▽217 塩沢由典 アルチュセールは早くから構造主義者であることを否定したが、わたしはながく構造主義に期待をもっていた。…人類学の構造主義は、あまりにも単純な構造に遊んでおり、それはおもちゃ問題に満足する経済学者と大差ないように見える。
▽232 鶴見さんは、さまざまな集団のなかでさまざまな機会に語り直していた。それが聞くものにとって、驚くほどの記憶力と映ったのだろう。鶴見さんは、多くの小集団を作り、そこに参加し語り継ぐことにより、記憶を維持するという方法を身につけていた。それは同時に、小集団のなかに語りの文法を作りだすことでもあった。
…鶴見俊輔と政治との関係に近縁の人を求めるならば、それはジョージ・オーウェルだろう。
オーウェル 「自分の仕事を振り返ってみると、政治的な目的を欠いているときは、たいがい血の通っていない本を書くことになる」
▽236 1950年代後半、開発経済学ののなかにマルクス経済学の影響を受けた従属理論というものが影響力を増してくる。…貿易政策においては輸入代替工業化を提唱した。
1980年以降になると、国家主導の経済発展計画と輸入代替工業化は多くの国で行き詰まりを見せるようになる。一方、韓国・台湾…の経済が発展する。このため、開発経済学では、構造主義と従属理論から、市場経済親和的な政策が中心を占める。これを新古典派革命と呼ぶ。
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