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新聞記者 疋田桂一郎とその仕事 <柴田鉄治・外岡秀俊>

朝日新聞社 20071004

体言止めという文体を創造し、かつ、それをみずから捨てた人であり、希代の名文家で知られる。本多勝一氏らの本でしばしばとりあげられ、いくつかの作品は読んでいたつもりだったが、実際に彼の代表的な記事をあつめてならべられて驚いた。分野はちがうけれど、本多氏のルポさえも色あせてみえる。
北アルプスの遭難事故の記事は社会面の3分の2を占めたという。紅葉の情景描写からして個性的であり、上高地の風景を思い出してしまう。それから一転、死者の遺体をかこんでいたむ学生や遺族を描写する。ここまではほかの記者でも描けるが、彼はさらに、犠牲者に鞭打つかのように、学生たちの無謀さや、山男たちの「常識」のおかしさを指摘していく。遺体を収容する山奥の現場で収容した遺体のそばで談笑していた山男たちが、ふもとまでもどると、深い悲しみを演じる様子を淡々とえがくのが圧巻だ。
伊勢湾台風のルポもすごい。水没した貧困層や工場労働者の住宅と、高台にある工場群を対比し、貧富の差が犠牲の多寡にむすびついていることを鮮やかに描写してみせる。阪神の震災のときも、貧富の格差による被災格差は問題になったが、はるか昔の疋田氏の記事ほどあざやかに描ききったルポはついぞ見たことがない。残念ながら、阪神大震災関連の記事の9割はお涙頂戴のレベルをこえなかった。
貧富の差が天災の被害の格差をうむことをはるか昔に指摘されていながら、その教訓を生かせなかった日本。そういう視点を生かしのばすことができなかったマスコミ。進歩していないどころか退行しているのではないかと思う。
文章のどれもが型破りである。「無色透明」な文章をめざしたといいながら、どれもが独自の視点で切りとられ、今の新聞ではデスクにボツにされそうな文章がつづられている。
インタビュー取材をする際は事前に資料を徹底的にあらい、質問項目を50項目ほど用意し分類し、同じ質問を角度をかえて何度もといかける。なによりすごいのは、「勉強する前のなにも知らない自分」の感覚を保持するため、取材する前の思いや疑問などもきちんとノートに書きとめておくことだ。知らない、という状態、初心にかえるようにするためだという。そういう謙虚さをもちつづけるのはすさまじいエネルギーを要する。「新聞社にはいって自分の文章は枯れてしまって魅力がなくなってしまったのではないか」という若手記者の質問に「私もそうかもしれないといつも思っている。だから、新聞以外の文章をかくようにしている」といった趣旨の回答をしていた。
嬰児殺しを疑われた銀行支店長の自殺報道を検証する際には、みずから警察まわりをやりなおしたという。
それだけの感性をもつ彼は、当然のことながら、物静かで知ったかぶりをしない謙虚な人であり、権力をふりかざす人間には徹底して冷笑を浴びせたという。そんな繊細さと反骨精神をもちながら、新聞社という巨大組織を泳ぎ切ったというのが今となっては信じ難い。
サラリーマン化、というよりも官僚化した今のマスコミをおもう。「上」のご機嫌をとるために自分たちのクビをしめるように仕事を増やしていく。その結果、自由をうしない、硬直化する……。
「個」が躍動する会社・社会をつくっていかなければ、いずれその集団は腐っていくだろう。言論の自由より「自由な言論」が大切だ、という所以である。
————-覚え書き—————
▽「この位置関係だと、路上に立つロダンのバルザック像はどう見えましたか」……指摘の多くは事実関係の確認で、文章については句読点の位置にかかわる疑問が大半だった。情報の出処進退には自他ともに対して苛烈なほどきびしく、うけとめかたや表現の幅に対しては驚くほど寛容だった。自分のスタイルからの逸脱や違いをおもしろがった。
▽取材の準備は徹底していた。ピカソを書くときは書棚はスペイン市民戦争の関連書で埋まり……そのつど、専門家顔負けの知識を仕入れ、取材相手と対等に会話を交わし、のち知識をすっかり捨て去り素人の立場にもどって原稿を書いたのだろう。……武威を張る者、権威をかさに力押しにする者、序列をおしつけたり、権力に擦り寄ったりする者に対しては、容赦のない侮蔑のまなざしを向け、口をきこうとしなかった。
▽洞爺丸台風
▽南極 越冬断念の不安
▽伊勢湾台風 名古屋駅前はケロッとしている。が、ビル街から15分もいくと、大都会が整然として水没している。黒い水は鼻がツンツンするほどくさい。……高校生・中学生がある日つれだってオカに遊びに行った。ショーウィンドーに、なべ、かま、バケツが飾りつけてあった。が、買う金はない。買えても「ぬくといご飯」をたく火が、水のなかにはない。クソッと思って、また、黒いくさい水のなかに逃げてかえった──…… すごい観察力。貧富の差をしっかり描ききる
▽東大生の遭難 河原の石でおかんを打って、むせびながら山のうたをうたう山男。という風景から始まり、その正反対の風景をえがく。……死に顔がきれいだったということは、「お粗末な遭難」のあかし。……遺体収容作業でひつぎの先導をつとめた青年が、から身でピッケルを構えていたが、「ああいう場面でもピッケルは必要なのだろうか。どうもわからないことが多い」
……凍死体をノシモチでもまるめるように折りまげ、寝袋につめてショイコにくくりつける。……驚いたことに山男たち、小屋につくとガヤガヤ、はなうたばじりなのである。おい、新聞みろ、おれたちの記事が出てる。名文だねえ、ウフフ。……山では感傷は「まずいもの」なのだ、と山男たちはいう。それが、上でははなうたまじりだったのに、下界におりるにつれて事態を美化し、ウエットになり、ついに上高地では自分も泣き出してしまう。……(証言の食い違いを)追及すると、それ以上は聞いてくれるなとまわりの先輩がいう。……一線をひいて、ここから上はおれたちの世界だ。文句をつけないでほしい。そういっているみたいである。山男の思い上がりを感じないわけにはいかない。
……山の遭難でも責任の追及を。
(登山の素人だったのに)
▽三井三池争議  「資本主義の矛盾」「それが安保体制さ」「総資本と総労働の対決」。だが待てよ。この追いつめられた炭鉱労働者ひとりひとりに、果たして、そういう明快な使命感があるか、どうか──。この種の「すべてか無か」といった原則論では、もはや、あの暗さを救えないのではないか。
あの暗さそれじたいが、実は中央の進歩派たちが仕立てた、妥協のない原則論によって追いつめられた結果なのではあるまいいか。
職場闘争にしても、「組合の職場闘争のおかげで、職場も暮らしも明るくなってきた」「一種の人間解放運動だった」……という評価がある一方で、要求を通すためのあまりに行き過ぎた怠業もあった。
……炭労大会で「組織の欠陥を克服」というが、組合にすべてをかけていた活動家たちにとっては、「ダイナマイトを抱いて会社を消してしまう」と思い詰めている。やりきれない……
(あの時代に、これだけ「人間」にかえる観察眼をもつ。宮本常一的な視点。系譜学的な想像力。歴史の進歩、という枠組みで歴史をとらえてしまう罠に私たちははまりがちだ。それは実は1人の当事者にとっては冷たい認識枠組みでもある)
▽ローマオリンピック
▽新・人国記
▽ソ連・アブハージア 長寿の里
コルホーズからの分配金のほか、個人所有の果樹園や茶畑の売り上げを合わせると、年間3万ルーブル(日本円で1200万円)ほどの収入になるという。……夜の宴会の席に婦人たちがすわらない。奥さんも娘たちももっぱら給仕役。(〓今は?)
……「1杯で10年」のグラスに手を付けつけた。アルコール分90度。……きまりの悪い話だけれども、この一撃で私はぶっ倒れた。翌朝までの記憶はなにもない。
(こんな記事が書かれていた)
▽「罪と罰」ラスコールニコフ。昔、あたりは職人、職工、大道芸人、乞食、売春婦なんかが、かたまって住んでいる地区だった。今は、おそらく労働者、勤め人のアパート街なのだろう。かどに、赤旗と労働英雄の顔写真が飾ってあった。(〓ソ連崩壊後の今はどうかわっているのだろう?)
▽自衛隊連載
▽天声人語
▽「人間はどこまで残虐になりうるか」 回答をまちがえたら電気ショックをあたえる実験。1000人に。死ぬ危険がある、と事前に知られされていた450ボルトまで電圧をあげた。平時の実験室でも人はこうなれる。まして戦場ではどうなるか。ソンミ虐殺、原爆投下、南京大虐殺……。
▽憲法記念日。昭和22年。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という憲法の条文を、しらじらしい思いで読んだのを覚えている。……ひもじくはあったが、不思議に気持ちは明るかった。これでもう、二度と銃を手にとることはないだろう……
満6年目から政府は5月3日の憲法記念行事をやめてしまった。まるで不義の子のように、その後、この憲法は公式に誕生日を祝ってもらえない。
▽オリンピック 本当はその人の栄誉をたたえるための儀式の小道具が、へんに主人顔をしだす。日本勝った、日の丸ばんざいになる。70メートル級表彰式の時の放送の感涙絶叫調に、それがあった。。……一転して今度は敗者にむち打つことにならなければいいが。(〓いまこんなことを書けるか)
▽「『営倉』の二字をみて、いまでも戦中派はぞっとするに違いない。たたかれて半殺しにされても初年兵は黙っているほかなかった。あの陰惨さを忘れることができない」
▽ある事件記事の間違い (30年以上も前に報道被害の問題を先取り)
みずからサツ回りをやりなおして検証する。警察発表をうのみにして書いたことが、無実を信じていた元銀行支店長が自殺した。その経緯を検証する。
警察発表は疑いながら聞くべきものであり、疑わないほうが記者の怠慢だともいえる。事件記者とは、たんなる警察情報速報記者ではないはずである。
記事の一部について正直に「わからない」と書き、情報の正確さを限定することによって、記事全体の信頼度を高めることができるのでは。……話の筋とは矛盾した情報、筆者の気に入らない情報のなかに、しばしば宝石が落ちているものだ。話を「わからな」くする情報をかんたんに捨ててしまうから、話が違ってくる。
頭のなかでこうなれば面白いと決めて事実を選別することで、かえって面白い事実の細部を見落としてしまい、話をつまらなくしているのではないか。本当のおもしろさは、警察官や記者の頭のなかの尺度や予断を裏切るような事実のなかにある。
(今も、同じ問題が継続している。だれも疑問を差し挟まなくなってしまった。)

▽記事審査部 朝日新聞に創設されたのは大正11年。手紙で審査の請求を受け、調査の結果、訂正するか、続報で誤りをフォローするか、話し合いで解決するか……の措置をとる。月々の審査結果を「記事審査部報告」として紙面で発表した。……今日の訂正のやり方に比べて、当時の記事審査は読者に対してより一層親切であった。
(戦前のほうが進んでいる部分があった。自由な言論、の効果だろうか〓官僚制度ができていなかったためか。ウェーバーを思う)
▽「新聞不信」を76年にすでに指摘している。
▽ノートには、最初にその主題をねらった時、あるいは資料を集めながら、頭に浮かんだ疑問点とか興味をもった事項を書きとめておく。 それは、調べるにつれて私自身が、にわか当事者になっていき、記事を書くときになって初心を忘れてしまう恐れがあるからである。……問題や事件について常識的な市井の実生活者が持っているはずの関心度と知識の範囲、という意味の初心を取材者が持ちつづけること。
▽インタビュー 主題について、、毎回平均して50問前後の質問を用意する。質問内容を細かく分類しておく。……この作業をすることで、頭のなかの整理をし、より正確に主題を考えておくという意味がある。同じ内容の質問を三通りも四通りも言葉をかえて質問する。(〓事前に枠組みをしっかり構築し、しかもそれを越えるものを期待する)
▽約束した時刻の15分前には着いて待たせてもらう。礼儀である以上に、万一遅刻して遅刻をわびることから取材を始めなければならなくなった場合の気持ちの負担を考える。……新聞記者は行儀が悪い、勝手だ、といった世間の目がある。……それを恥じる気持ちが、私は近年ますます強い。
▽自分の文章の先生をさがす。ほれて読む。……自分の同業者を先生にしない方がいいんじゃないか。……自分で新聞記事以外の文章を書く習慣をつける。記事の約束から離れた文章の遊びをすることが、取材力や人間観察眼を養うことになるのでは。
▽陳腐化し定型化した文章を捨てていく。……物事をわかったような顔して書きすぎているんじゃないか。レッテルばり、予断が多い。さっと割り切った、気持ちよさそうに断定的に書かれている記事というのは、それだけで疑わしいという感じがしてならない。
▽いったい何がニュースなのかということを、もっと疑ってみたらどうか。トップが何を思おうがかまわずに、デスクの目を盗んでもいい。いろいろ爆薬を仕掛けた変わった記事の作り方を試してみるということはできませんか。
▽30年もサラリーマン・ジャーナリストをしたために、表現能力は枯れてしまった、と。自分でもうまく書けた原稿があるとは思ってません。……短い行数のなかで、たとえば事件の雑報にしても、人間の心の動きを示すような材料を盛り込んだらいい。……制約が多いから革命がおこる。
▽自分が書いた記事の善しあしというのは、およさ筆者本人には分からないものなのだ。……身近な同僚の感想よりも、遠くから聞こえてくる社外の市井の人の反応のほうに、おおむねより確かな手ごたえを感じさせてもらった。
▽「月着陸は、これだという技術突破があって実現したものではない。強いて挙げれば、不良品が紛れ込まないようにチェックに次ぐチェックを繰り返す品質管理の技術によって実現したものだ」と報じた。
▽疋田さんは、天声人語の筆者を3年間ほぼ1000回書いたところで自ら交代を申し出た。続けてほしいという社内の声にも頑として耳をかさなかった。

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