■あの戦争と日本人<半藤一利>文春文庫 20150102
▽17 敗戦後の大人たちの変わり身の早さ早さには肝をつぶしました。「この悲惨な戦争は軍部と政治家によって引き起こされたものであって、われわれには悪いところは一つもない」「われわれは、罪深い戦争を呪いながらも、一生懸命に戦った。われわれはそのため被害を蒙った犠牲者である」…まわりにはそんなことをいう大人がいっぱいでした。
…呆れかえるほかはない転向でした。一億玉砕の旗をふっていた軍国おじさんが、赤旗を風になびかせて「民主化」絶叫です。(〓敗戦から20年しかたっていなかった)
▽17 坂口安吾
「日本書紀」には、日本の歴史について書かれてある重要な書籍は、蝦夷の屋敷が燃えたときに消滅した」とある。天皇家のほうにそれがないのはおかしい…
飛鳥時代には、いわゆる天皇家の祖先がいて、さらに蘇我大王家があった。二つの王家が存在していて、拮抗しながら国家が運営されていたと思えばいい。「大化の改新」は、政権奪取のクーデターだったんだ。…と(坂口は)言うんです。
▽24 司馬さんのいう「統帥権=魔法の杖」 さかのぼると、明治22年の憲法制定の時点にはすでに統帥権は確立していたことがわかる。さらにさかのぼったら西南戦争後の明治11年までいっちゃった。
…山県有朋が、臨機を要する作戦をいちいち政府の認可を求めなくてはならなかったことに、不便を感じていた。そこで明治11年12月5日に「参謀本部条例」を制定。これによって参謀本部は完全に独立独歩した軍令機関になりました。さらに、参謀本部長は陸軍卿(大臣)に優越する地位が与えられた。
▽26 維新だって、暴力革命の気味がある。それを「維新」と格好をつけてね。この言葉だって明治10年代に見つけだされたんですよ。
…天皇という機軸ができる前に、薩長の中軸が統帥権を手に入れていて、それがいつのまにか、国家の中心、機軸の天皇と結ぶついたんですね。(天皇制が先ではない〓)
▽29 西郷と大久保の緊張感が明治10年間を何とかもたせて、2人が相次いで死ぬ。木戸孝允も死ぬ。その後から伊藤博文と山県有朋という幕末では小物だった2人が出てきて、明治をつくっていく。
▽32 明治の精神 断絶と向き合って、古いものと新しいものを何とか調和させようという人、古い殻を叩き破って新しいほうへ突っ込もうという人、古い殻を大事にしながら何とか生きていく人。それぞれが、自分の考えに忠実に、誠実に生きていた。
その緊張感が、慎ましやかで、まじめで、一生懸命に自分のことのみにならず、国全体を考えるような人間を次から次へと生んだと思うんですよ〓。…断崖と向き合って、さあどうしようかと考えた人たちがぶつかりあって火花が出た結果、人間的に優れた人を作り出しました。
終戦後も、昭和の戦前から戦後を生きた人たちは皆が、本気になって断絶を向き合って考えたんですよ。
太宰は、人間の変わり身の早さと対決したんだけど、ついに戦後を認めることができませんでした。大岡昇平は戦争を描くことで人間をつきつめ、本気でそこを乗り越えた、潔くて慎ましい、よく昭和人。松本清張は戦後の精神を全肯定しながらも本気で戦後の体制を批判しました。(3人は同じ歳)
…一番の典型は昭和天皇。日本のやった悪いことも骨身にしみてわかっていて、その上で戦後の日本人はどうあるべきか、どうすれば世界のためになるかということを、身をもってきちっとやった人じゃないでしょうか。
(〓、平成は?)
▽34 大きな断絶が目の前に近づくと、日本人の特性というか、心情というか、往々にしてナショナリズムにいっちゃう。幕末の攘夷も太平洋戦争の直前も簡単に熱狂してしまった。…日本人の心のなかを一尺も掘れば、いつだってたちまち攘夷の精神が芽を出します。…真珠湾の奇襲の大戦果にほとんどの日本人の大人が遠くなるような痛快感を抱いた。
日本人は外圧によってナショナリストになりやすいようです。いいかえれば、時代の空気にたちまち順応する。状況の変化につれて、どうにでも変貌できる。戦争の悲惨の記憶が失われて、時間が悲惨を濾過し美化していくと、再び殺戮に熱中する人間に変貌する可能性があるのじゃないでしょうか。 〓(「成長」が幻とわかった平成も)
□日露戦争と日本人
▽40 我々日本人は、…連戦連勝の「無敵陸海軍」と信じこんだ。いや、信じこまされた。
日清戦争勝利後、三国干渉によって、…ロシアは遼東半島をそっくり占拠した。
…国家予算を軍事費にとられて、国民生活は悲惨でした。明治30年から日露戦争まで、毎年のように、国家予算のほぼ半分が軍事費にとられている。…国を守らなければ東南アジアの国々と同じになってしまうという恐怖。当時は「恐露病」という流行語までできていました。
▽44 当時のロシアの国力は日本の10倍。太平洋戦争直前のアメリカ対日本の国力の差と同じ。でも昭和の軍部は動じなかった。なぜなら、日露戦争はそれでも勝ったんだ…というのが太平洋戦争直前の日本陸海軍でした。
▽50 「戦争はやってみなきゃわからないんだ」(永野修身・軍令部総長)
なんて判断は、日露のときはしていない。ルーズベルトの友人をアメリカへ送って工作を始めるとか、ロシアに明石元二郎を送って、革命勢力を助けるとか、打てる手をすべて打った。その上でなお、満州総司令官大山巖は、海軍大臣に「刀を鞘におさめる時機をを忘れないでいただきます」と。…太平洋戦争の日本人は、残念ながら終結の方法なんて一切考えなかった。「ドイツが勝ったらアメリカも戦意を失う、終戦できるだろう」と他人のフンドシをあてにした。…昭和になって実に安易であった。無責任であった。
▽54 203高地だけとればいいつもりだったのが、乃木は、旅順城を落とすことをやめない。軍隊とは、一度走り出したらやまらない。しかも、戦死者がたくさんであとは弔い合戦の気運も高まります。
…だが、いざ203高地を占領して旅順港を見下ろすと、港の敵艦隊はとうにつぶれていた。…海軍陸戦重砲隊が山越に砲弾を撃ち込んでいた。乃木が203高地攻撃を決断したとき、旅順艦隊はすでに廃物だった。では2万人も及ぶ兵士は何のために死んだのでしょうか。
…この歴史的事実を隠した。いや、つい最近まで秘されていた。まずい話は陸海軍ともにみんな隠された。
▽57 日露戦争は、連戦連勝…ではない。惨憺たる戦いでした。前線の指揮官たちがみんな死傷してしまって、これ以上戦えない状況だった。…なんとして戦争を終わりにしなければいけない状況に日本軍は追い込まれていた。
▽62 日露戦争は、実は幸運の連続でやっとこさっとこ乗り切った。それ以上つづける余力は全くなくなったとき、アメリカが仲介になってくれたから和平を結ぶことができた。…という本当のことを日本人は長い間学びませんでした。
…「極秘明治三十七八年海戦史」にすべてのっている150巻もある大冊。2010年の春になってそれが存在することが確認された。…そうした正確な戦史をつくったのはよかったが、門外不出でだれも見なかったみたい。まずいところはすべてオミットしてしまい、誰もが見られる格好のよい官修戦史をつくった。そしてそれを正史として公開した。(〓言論の自由の大切さ、本人たちでさえもだまされる)
…203高地が無効であったこと、密封命令のこと、「東郷ターン」などで有名な丁字戦法は、一般に信じられているものとまったくちがっていたなんて話も…
…戦争前から続く国民的熱狂というものが、事実の隠蔽を後押しした。一等国家の「大国民」としての誇りと、さらなる報国・献身とを国民に訴えつづけることにした。
…軍人の叙勲。華々しい連戦連勝の戦史をつくるしかなかったし、それをひっくり返すような話は持ち出せなかった。偉くなるためには事実をないものとせざるをえなかった。
…日露戦争は、教訓にすべきところがたくさんあったのに、勝ったという一点によってそれらを全部消してしまった。なにも学ばないまま、リアリズムを失い、太平洋戦争に突き進んでいった。
…防衛研究所図書館では、150冊をだれでも見られる。
□日露戦争後と日本人
▽73 官製の勇ましい戦史しか知らされなかった国民は、「勝った」という事実に熱狂した。
▽80 賠償金を一銭もとれないとはなんということかと、新聞各紙はいっせいに、激しく政府を責めたてます。日比谷焼き打ち事件。
頭山満「十万の英霊と二十億の国費とを犠牲にしたる戦勝の結果は、千載ぬぐうべからざる屈辱と、列強四囲の嘲笑のみである。だれの責任か」
「十万の英霊と二十億の国費」このスローガンが、満州という広野をめぐっての列強との鬩ぎ合いのときに使われて、昭和の陸軍軍人の頭の中にたたき込まれていくわけなんです。満州問題の根っこは、日露戦争のちのこの時にできたんです。
▽84 日露戦争勝利は、アジアの人々に勇気を与えた。中国やベトナムなどから多くの留学生が来た。…ところが、アジアの人々の独立心をたたきつぶすような存在になっていく。…アジアの国々を下に見たがる。差別意識をもつんです。…アジア諸国から大変に期待されていた。にもかかわらず日本が選んだのは、アジアの人たちを無視して上に上にと進んでいく…遅れてきた帝国主義でした。
…戦争に勝ったことが…日本人を狂わせた。…身分不相応ともいえそうな大国主義・強国主義を選択した。
▽91 日露戦後、日本はどんな国に変わっていたのか。一つには、出世主義、学歴偏重主義の世になりました。軍人は勝てば華族になれるんだから、戦争して勝つに限るという考え方になったし、…
二番目は金権主義の時代が来た。「成功」という言葉が流行し、むちゃくちゃに憧れる風潮があらわになった。(カネが万能という気分=平成
▽94 日露戦後のナショナリズム 明治20年代ぐらいからはじまった官製の教育が日露戦争後に結実したともいえます。
「虞美人草」のヒロインの藤尾は、出世主義、贅沢三昧で享楽主義。
□統帥権と日本人
▽100 憲法ができたとき、すでに統帥権は独立していましたから、軍隊に関する憲法の条項は二条しかありません。国家の基本骨格ができる前に、日本は軍事優先国家の道を選択していた。
▽107 明治14年には憲兵をつくり、自分たちで自分たちを取り締まるようになり、軍隊はますます完璧に独立。明治15年には「軍人勅諭」ができた。
▽110 統帥権だけでは足りない。魔法の杖になるには、あと二つ必要。一つが「帷幄上奏権」(陸軍の参謀本部長と海軍の軍令部長は、直接、天皇に意見具申ができる)、もうひとつが、「軍大臣現役武官制」。この3つを使い分けることで、日本陸軍は昭和史の真ん中にぐんぐん割って入ってくる。
…昭和戦前期がおかしな国家となっていったのは、必ずしも統帥権のせいだけではなかったのです。
▽116 支那「事変」である理由。宣戦布告をしなかった。アメリカ中立法があり、戦争状態にあると認定された国家に対し、石油・兵器・弾薬などの輸出禁止…を宣言していた。日本も中国も宣戦布告をすれば、アメリカが中立法を発動することはわかっていた。とくに石油をアメリカに依存していた日本にとってはその禁輸は致命的なmのとなる。だから、軍隊の単なる衝突である「事変」
▽118 ドイツ仲介の日中和平トラウトマン工作が進んでいたのに、南京が陥落して、近衛内閣は強硬になって、出していた条件よりさらに強い条件につりあげた。軍の参謀本部側は和平をまとめる方向だったのに、内閣の強気が勝って新たな条件をつくってしまう。…大本営政府連絡会議で陸海の統帥部は和平を主張するが、強硬派の広田外相、杉山陸軍元陸軍大臣は交渉を打ち切るべき、と主張する。…そのころ世論は提灯行列で「勝った勝った」とやっている。新聞も威勢のよいことを書いて国民をあおる。…結局…
…統帥部は、まさか内閣がそんなに戦争狂とは思っていなかった。
▽128 昭和20年11月28日、陸海軍省が全部なくなるとき、斉藤隆夫さんが演説をぶちまして「今日の戦争の根本責任を負う者は、東条大将と近衛公爵、この二人であると私は思うのであります」とおっしゃいましたが、わたしも同感です。これにもう一人、海軍の軍令部総長伏見宮殿下、と、三人目を付け加えておきたいのですが。
…()多田さんをはじめ、参謀本部の参謀たちはこのあと、みんな外へ出されます。徹底抗戦と決まって、武藤章とかそういう強いメンバーに替わりまして、太平洋戦争への道を突き進むんです。そして「帷幄上奏権」は、戦争が始まってからもうひっきりなしに使われます。
□八紘一宇と日本人
▽132 「政権交代」「郵政改革」「公武合体」「尊皇攘夷」「富国強兵」「国体明徴」「天壌無窮」みんな4文字7音。「一億一心」。朝鮮民族とか台湾民族とか満州族とか、全部勘定のなかに入れて1億ぐらいになる。「七生報国」。なかでも昭和の日本人に強い影響を与えたのが「八紘一宇」。
▽139 日蓮宗は、新しい時代、新しい世界、新しい現実をつくるのが大事という考え方。現世を改革する。戦闘的。…石原莞爾も宮沢賢治も国柱会。「私の世界最終戦争に対する考えはかくて、日蓮聖人によって示された世界統一のための大戦争」
…雨ニモマケズの詩は手帳に書き留められていたものが死後見つかったんですが、最後の「サウイフモノニワタシハナリタイ」のあとに実は「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経…」といくつもお題目が書いてあるんです。…あれは、日蓮宗の、一つの理想に向かって、現実を変えていきたいという大きな働きの根本精神なんです。
▽152 対米英戦争がはじまる前から、マスコミの大宣伝のほかに、直接的な対人接触によってある種の雰囲気が日本全体に生まれていましたね。戦争を望む心理、あるいは好戦的な風潮といっていい。まわりには勇ましい軍国おじさんばかりがいましたからね。(〓民の責任)
…そんな国民感情と無縁だったのが永井荷風さん。「八紘一宇などいふ言葉はどこを押せば出るものならむ。お臍が茶をわかすはなしなり」
…昭和の初期のころは、「王道楽土」「五族共和」だったのが、どんどんでかくなってきて、東亜新秩序、ついには「大東亜共栄圏」になるわけです。
▽158 日中戦争に反対していた石原莞爾は、戦線の拡大に反対するものだから、じゃまになって満州国へ飛ばされます。行ってみたら、満州という国は自分の描いていた「王道楽土」でもないし「五族共和」でもないというんで絶望的になる。満州へ移っていった日本人はまるで王侯貴族のようで、征服者そのものです。
…スローガンのおそろしさ。何度も何度も同じ言葉を繰り返しているうちに、それが唯一の正しい政治ないし外交目的のようになる。武田泰淳さんの「政治家の文章」「政治用の言語が、目的のための手段の一つにすぎないことを忘れてしまい、かえって固定した「名文句」を押しつけ、ゆきわたらせることに、政治の目的を発見したりする怪しげな事態が、しばしば起こっている」…四文字七音にだまされていはいけません。
□鬼畜米英と日本人
▽162 戦前の日本人はたぶん、アメリカよりもイギリスをずっと嫌っていたような気がします。…中学生のころのわたしが憧れていた外国といえば、とにかくドイツでした。アメリカに対してはむしろ映画やジャズを通してかなり親しみを持っていた人が多いんじゃないでしょうか。…開戦の日の昭和16年12月8日も、新宿武蔵野館では「スミス都へ行く」というアメリカ映画を上映していた。これ、民主主義をうたいあげた、まさにアメリカのすばらしさを伝える映画です。アメリカ映画は、ずっと日本人に親しまれていた。なのにいつから「鬼畜」と呼ぶようになったのか。
調べてみると昭和19年8月4日の新聞だったんです。「見よ鬼畜米兵の残忍性」と朝日新聞がやった。読売も毎日もしかり。…これ以来、イギリスもアメリカも一蓮托生ということで「鬼畜米英」という言葉がはやったようです。
▽173 日英同盟がないと、日露戦争には勝てなかったかもしれません。イギリスはバルチック艦隊にスエズ運河を簡単に通させなかった。駆逐隊がロシア艦隊の後を追って、その動勢をいちいち日本に報告してくれる。新造の艦船はどんどん売ってくれる。…アメリカも、仲裁・講和会議を斡旋してくれた。
▽177 明治40年に山県が「帝国国防方針」をきめる。そのときに仮想敵国を定める。陸軍はロシア、海軍はアメリカとした。あくまでも予算を取るための「仮想」だった。でも、敵国敵国といっているうちに、だんだん仮想でなくなってくる。仮想が「真性」となるまでにそれほど時間はかからなくなった。
▽178 第一次大戦で、対華二十一カ条の要求や南洋群島への進出やらのどさくさまぎれの日本の行動に対して、アメリカがかんかんに怒りはじめる。
…1919年のパリの講和会議では、戦争の分け前の奪取に熱心な日本の態度は、世界各国の顰蹙を買ったらしいのです。パリにいた近衛文麿が「或外国人は日本人を評して、彼らは利己一点張りの国民なり、世界と共に憂をわかつべき熱心も親切もなき国民なりと申したり」と書いている。
▽181 ワシントン軍縮会議。このとき、明治35年から20年続いた日英同盟が消滅する。同盟が結ばれていると、大西洋方面でイギリスと何か起きたときに、太平洋では日本が出てくるわけですよ。これはアメリカにとっては都合の悪いことなので、早いところ手を切らせる必要があった。アメリカの提案にイギリスも乗っかった。
▽184 なぜドイツになびいたのか…ドイツ留学した日本の30代の若手のエリート士官たちは、ヒトラー・ドイツの宣伝戦にしてやられたんだと。…次から次へとドイツ人の女を抱かされ、サービスを徹底的に受けて、骨抜きにされて「ドイツはいい」なんて言いながら帰ってくるんだと。ドイツが国家意志をもって女を使ったんです。ハニートラップ作戦です。
…ヒトラーの「我が闘争」は15年に刊行されると十万部が売れるベストセラーに。
▽200 国際的強調よりもナショナリズムを優先する政策のいいはずはありません。日露戦争後にしっかりとした国家観と世界観を持てなかったという過去をくり返さないようにしないといけません。歴史を知ることでこれからの日本が進むべき道を、みんなして真剣に考えましょう。
□戦艦大和と日本人
▽204 日露戦争に勝ったことで、明治の終わりの軍人は国民全体の憧れの存在だった。とくに海軍軍人は実にモテた。
▽207 明治41年ごろ日本海軍がもっていたのは、日露戦争をたたかった旧式おんぼろが大半だった。大砲を両舷につけていたから、船ごとぐるっと回らないともう一方の大砲は使えなかった。とおろが明治39年にイギリスで竣工された戦艦ドレッドノートを見習った新型の戦艦は、船体の中心線に大砲を並べ両舷のどちらででも戦うことができる。日露戦争からわずか数年で各国の海軍は一変に様相を変じた。
▽209 「アメリカ海軍の七割」という数字はクラウセビッツの「戦争論」から導きだされた。それにのっている「防衛側は敵の七割を持たなくてはならない」という数値目標を日本の海軍はガバッと信じこんだ。
▽212 新鋭戦艦8隻を建造しなければならなくなった。大正7年の国家総予算のうち、陸海軍予算はその33.7%。大正9年は42%、大正10年は48.1%。当然、国民の生活は苦しいものになっていった。
…ワシントン海軍軍縮会議 加藤友三郎 日本海海戦のときの参謀長が「六割海軍」をのんだ。
条約反対派のトップに東郷平八郎元帥がいた。条約賛成派を次から次へと首を切る。
海軍が真っ二つに割れた背景には、二大政党の権力争いがあった。野党の政友会は、政権奪取のために議会で統帥権干犯をガンガン叫んで民政党の濱口内閣を揺さぶる。この時から、政党は政権をとるために軍部と結託して与党を揺さぶることを覚えるんですよ。結果として軍部の政治進出を許すことになった。
▽218 パナマ運河を通れない巨大戦艦はアメリカはつくれない。だから日本は巨大戦艦をつくろう、となる。貧乏海軍ゆえの発想。国力がないゆえ、ありえない不沈の大艦を夢想する。敵の弾丸の届かないところから巨砲を撃ちたい、と。
▽222 昭和16年12月現在、保有する艦艇の総数はアメリカの70.6%に達していた。しかも大和がある。ただし、艦艇生産力はアメリカは日本の4.5倍、飛行機は6倍で、このままずるずるといくと昭和18年になると5割まで落ちこんでしまうことが予想された。…だから「いま! ただちに」ということなんです。
…大和は連合艦隊の旗艦になったが、ふだんはせいぜい20ノットぐらいでしか走れない。全速で走り続けたらたちまち油がなくなってしまう。実戦では遅くて使い物にならないんです。スピード化した海空戦には不向きもいいところでした。
▽226 第二艦隊の伊藤司令長官は、大和の特攻作戦をなかなか納得しなかった。「一億総特攻のさきがけになってもらいたいのだ」という説明で、それならわかった、と即座に納得された。それでも伊藤中将は「大和が行動不能になったときの判断は私にまかせてもらうがいいか」と言い、草鹿さんはやむなくOKを出した。あとになってこの一言が、多くの命を救うことになる。
…伊藤長官は、もはやこれまでと思ったとき、作戦中止命令を出した。生き残った駆逐艦は内地に帰投せよという長官命令。残った駆逐艦4隻は生存者を救助した。長官命令がなければ、そのまま沖縄に突っ込んで全滅でした。大和と他の艦で4317人が戦死した。これは飛行機の特攻隊の陸海合計の死者数4615人に近い。それもたった1日で。
▽230 大和があったからこそ、海軍は開戦に踏み切ったといえるかもしれません。日本海海戦の栄光があったゆえに、あるいは大艦巨砲・艦隊決戦の夢を追ったゆえの開戦でもあったでしょう。
□特攻隊と日本人
▽235 アラブの「自爆テロ」とは中身がまったくちがう。
日本の特別攻撃隊は、組織の命令でやったというところに悲劇がある。なぜ日本人は十死零生という作戦を生みだしたのか、それは命令だったのか、志願だったのか。日本人の死生観がそこにどんな影響を与えていたのか。
▽239 日本は明治38年式の銃で、日中戦争はおろか、太平洋戦争まで戦った。
40年間も同じ銃で戦うなんて姑息なことをほかの国はしません。中国軍でも弾がよく飛ぶドイツ製のモーゼル銃でしたり、アメリカ軍は機関銃、自動小銃。日本軍は口径が小さくて弾の飛ばない三八銃。3発うつと時間のかかる新しい弾込めをしなければならない。…40年間に1千万挺もつくった。弾丸もくさるほどつくっちゃったから、それを使い切るまでは、という貧乏陸軍らしいバカな理由なんです。
▽248 まだ戦況がそこまで悪化していない昭和18年の半ばすぎぐらいから、前線の声に押されるようにして、軍の中心で特攻作戦が論議されはじめ、昭和19年の春頃には具体的な兵器づくりの研究をスタートさせるにいたった。
戦後、大西中将が特攻隊の発案者だとされ有名になり、すべてが彼の責任のようにも言われていますが、かならずしもそうではないことが明らか。
▽259 昭和20年1月18日、最高戦争指導会議がひらかれ、「全軍特攻」が正式に決定された。もう志願も強制もへちまもない。日本陸海軍のいちばん骨幹の作戦となったわけです。4月、沖縄攻防戦がはじまると、もう志願にして志願にあらず、諾否を許さない非情の作戦命令として、一丸となって特攻の組織化を急いだ。
▽261 人間はただ方向を定めるだけ。リアリズムにもどれば、成功すると思えない兵器なんですよ。
▽262 大西中将は、「特攻隊の英霊に」と感謝の遺書を残し、8月15日の晩に腹を切って死にました。
…大岡昇平さんは「レイテ戦記」のなかで、「悠久の大義の美名の下に、若者に無益の死を強いたところに、神風特攻の最も醜悪な部分があると思われる。(しかし)想像を絶する精神的苦痛と動揺を乗り越えて目標に達した人間が、われわれの中にいたのである。これは当時の指導者の愚劣と腐敗とはなんの関係もないことである。今日では全く消滅してしまった強い意志が、あの荒廃の中から生まれる余地があったことが、われわれの希望でなければならない」
(〓慰霊すること認めること)
□原子爆弾と日本人
▽269 核分裂の実験を世界ではじめてやってのけたのが、1938年のドイツの科学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマン。これにショックを受けたのがアメリカの科学者
▽276 「原子物理学はユダヤ的物理学だ」というふうに頭から思い込んでいるヒトラーは、アメリカが原子爆弾の研究について優位に立っている、なんていうことを全然認めない。「原爆製造はやるに及ばず」と結論を出した。
▽292 ルーズベルトが急死。副大統領から昇格したトルーマンは、国家的規模で原爆をつくっている、などという事実をそれまでまったく知らなかった。予算をむちゃくちゃ使っている大実験工場があったり、訓練所があったりするが、これは一体何なのか? と副大統領のトルーマンは猛烈な疑問を抱いていたそうです。
▽298 日本の中のどこに落とすか。京都・横浜・広島・小倉・新潟の5つの都市にしぼった。山に囲まれていて箱庭のようになっているところに落とすと原爆の効果が上がるという観点で選ばれた。京都と広島が第一候補。ところが原爆のことを知らない第一線は、5月29日に横浜を一斉攻撃して壊滅させてしまった。それで7月3日に、残り4都市の爆撃を禁止するという命令が出た。
京都が目標からはずれたのは「京都を爆撃したら日本国民を怒らせてしまって、永劫にアメリカを恨むようになるから外したほうがいい」といってはずした。そのかわり長崎が入った。
□8月15日と日本人
▽330 太平洋戦争の戦闘員の戦死者は陸軍165万人、海軍47万人とされている。このうち広義の飢餓による死者の比率は? 70%。
このうち海軍の海没者は18万人、陸軍は? 18万人。
□昭和天皇と日本人
▽339 日露戦争という国難の際には、明治天皇をかこむ政治家・軍人・外交官には、すばらしいい識見と能力と責任感をもった人たちがいた。昭和の国難においては、軍部の名将も、暴走する軍人を抑えきる名政治家も外交官もまわりにいなかった。
たとえば若槻礼次郎は、事変がどんどん拡大していったときに、いかなる政治力を発揮したか。まことに情けないくらい無能無力であった。
▽343 三国同盟。自分の努力がお上に認められたとひとりで興奮する外相(松岡)と、天皇を何とか説得することができたことに胸を張る首相(近衛)。いずれも国家の運命を賭した大事を決定したことへの恐れも洞察も責任も希薄な指導者である、と評するほかはない。
…近衛は、このあと政策遂行に行き詰まると、あっさりと政権をほうりだし逃げた。ましてや、大言壮語で自己陶酔型の松岡においておや、です。
▽345 昭和の御前会議 「アメリカと戦争となったならば、陸軍としては、どのくらいの期間で片付ける確信があるのか」 杉山「南洋方面だけは3カ月くらいで片付けるつもりであります」 「杉山は支那事変勃発当時の陸相である。あのとき、事変は1カ月くらいで片づくと申したが4カ年の長きにわたっても片づかんではないか」 杉山「支那は奥地が広いものですから」 天皇「ナニ、支那の奥地が広いというなら太平洋はもっと広いではないか。いかなる確信があって3カ月と申すのか」
書き写しても情けなくなる杉山の出任せの答弁。天皇の厳しい叱責に、杉山は「また天ちゃんに叱られちゃったよ」とペロリと舌をだした話が伝えられているくらいです。
▽348 ベルツ博士の日記「新聞紙や政論家の主張に任せていたら、日本はとっくの昔に宣戦を布告せざるを得なかった筈だ。だが、幸い、政府は傑出した桂内閣の下にあってすこぶる冷静である。政府は日本が海陸共に勝った場合ですら、得るところはほとんど失うところに等しいことを見抜いているようだ」
▽352 伊藤・山県らの明治の指導者の優れたところ。戦端を開く、と同時に、いかにしてこの戦いを早期に和平へもちこむか、その困難な道の打開へもいちはやく手を打つことを、誰もが考えていた。かれらはまた列強の勢力バランスへの目配りもよく、国際情勢への認識も確かでした。
▽362 大酒飲みの明治天皇。「明治天皇の御日常」。昭和天皇は酒はいっさい口にせず。鉱物は「お芋やかぼちゃのほか、魚ではいわゆる背の青い魚、さんま、いわし、あじがお好きで…」質素な食事。われら民衆なみ。昭和天皇は歴代天皇のうち幼年期から軍人として育てられたたったひとりの天皇です。
…昭和天皇はまれにみる「無私」の人格者であったとだれもが口をそろえます。
▽368 昭和天皇が、軍部のいう本土決戦計画などは砂上の楼閣だとほんとうのことを知ったのはやっと20年6月12日のことでした。14日に倒れ、16日に健康を回復したとき、和平を決意していた。天皇の強い意思があって、やっと鈴木貫太郎内閣は和平への動きをみせるようになった。
▽369 明治の栄光の後に、国家建設の苦闘も悲惨も知らずに、その栄光だけを後光に背負った人たちが、昭和の指導者となった。…「たたきのめされた経験で自らを鍛える」こともなく、戦後の右肩上がりの繁栄のみを謳歌し、つまるところ戦争に負けるというつらさや廃墟からの再生の苦闘の経験をまったくしない人たちばかりがリーダーとなっているこれからの日本は大丈夫なのか、と。
「戦いに敗けた以上はキッパリと潔く軍をして有終の美をなさしめて、軍備を撤廃した上、今度は世界の輿論に吾こそ平和の先進国である位の誇りを以て対したい。…世界は、猫額大の島国が剛健優雅な民族精神を以て、世界の平和に寄与することになったら、どんなにか驚くであろう。こんな美しい偉大な仕事はあるまい」。石原莞爾元陸軍中将の戦後の決意です。わたしもまた、日本よ、平和の先進国たれ、とことさらに胴間声をはりあげたいと思うのです。
□新聞と日本人
▽375 軍縮賛成の論に立ち満蒙問題に関して軍部にたいして厳しい論調を展開していた。なのに、満州事変が勃発するとあっというまに主張をひっくり返した。…いつの世でも外交がうまくいかず、戦争のきな臭い匂いがしてくると、威勢のよいタカ派の声のほうが高くなるようなのです。とくにマスメディアにおいては、主戦論が、非戦論を押しつぶしてしまうというのが、これまでの日本の歴史の示すところであるらしいのです。
▽376 日露戦争前、主戦論は東京・大阪の朝日新聞、時事新報、大阪毎日新聞など。非戦論は万朝報。ところが、ロシアの第三期満州撤兵期限の無視をみせつけられると、論調は一致してしまう。堺枯川や幸徳秋水は万朝報を退社し、内村鑑三も退社してしまう。
10万部という大台に乗っていた「万朝報」は、主戦の大勢に抗しているうちに8万台に落ちていた。
昭和6年の満州事変の際の大阪朝日新聞とぴったり重なる。
在郷軍人会や主戦強硬派による非買運動。奈良県では1部も売れなくなったといわれています。その結果、屈服する。部数激減には勝てなかった。
…「攘夷の精神は死なず」なのでしょうか。
言葉の危なさ、大切さ。
人間というものが歴史を作るんで、人間に対する理解がなければほんとの歴史はわからない。(基本姿勢)
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