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作業中)戦う石橋湛山昭和史に異彩を放つ屈服なき言論<半藤一利>

■戦う石橋湛山昭和史に異彩を放つ屈服なき言論<半藤一利> 20140208
軍部が力をつけ、大新聞がナショナリズムをあおり、さらには太平洋戦争開戦とともに雑誌も屈服するなか、最後まで粘り腰で自由主義的立場を維持した。
言論の自由とは、命をかけなければ守れないことなのだ。逆に当時の大新聞などは、ぎりぎりまで抵抗したのに最終的に軍部に屈して翼賛記事を書くようになったわけではなく、みずからナショナリズムの潮流に身を投じ、みずから軍部を後押しし、弱腰の政府をたたく役割を果たした。
〓から満州事変、国際連盟脱退に至る情勢とメディアの状況を追い、知力をふりしぼって孤軍奮闘する湛山の戦いを記すことで、当時のメディアの罪を浮き彫りにしていく。
当時の大メディアである朝日と毎日が中心になり、軍部に抵抗していたら、あの戦争は起きなかったのはないか、と思える。事実、〓のころは二大紙もその他のメディアも軍部の突出をあざわらい、軍縮の旗を振っていた。軍の地位はたいして高くなかったのだ。
言論のために命をかけられるないメディア。それは今も同じだ。時代の転換点をしっかり見据えなければならない。どこで気づき、どこまで戦えるのだろうか。

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▽12 昭和15年の斎藤隆夫の反軍演説事件では、猛威をふるう軍部をばい菌よばわりして、斎藤に絶大な援軍をさしむけた。
▽14 戦後積極財政理論を日本再建に役立てようと考えた。近代日本の軍国主義化の一因を昭和初期のデフレーション政策に求めた。「インフレーションがよいというのではない。デフレが悪いのだ」昭和21年に吉田内閣の大蔵大臣に。しかし、石橋の拡大均衡論は、GHQと真っ向から衝突。そのために公職追放処分を受ける。
▽18 明治天皇崩御ののち、明治神宮建設に湛山は猛反対した。もし、先帝陛下の威徳を記念せんとするなら、神社などではなく、広く世界民衆へむけての、ノーベル賞級の「明治賞金」を設定せよと提唱した。
▽20 太平洋戦争がはじまり、社内からも同調すべきではないかという声が出たとき「伝統も主義も捨て、いわゆる軍部に迎合し、ただ新報の形骸だけを残したとて無意味である。そんな醜態を演ずるなら、いっそ自爆して滅んだほうがはるかに世のためになる」
▽体を壊し、みごとに首相を辞める。浜口雄幸が撃たれたあと、すぐに辞意を表明しなかったことを批判していた。言行一致を貫いた。昭和6年に浜口を裁いたように、昭和32年の自分を裁いた。
▽39 対支21カ条の要求(大正4年)が一挙に全中国人の反日排日感情を呼び起こした。その結果として、大正8年の五四運動などの現実に直面し、もはや中国人の強力を得ながら満州を開発することの不可能を覚悟しないわけにはいかなくなった。
「満蒙の危機」
▽43 湛山は、満州はまちろん、「朝鮮・台湾・樺太も棄てる覚悟」をせよ、と論じた。
経済貿易を重視するならば、3植民地よりも、米英インドの3国のほうが欠くべからざる国である。中国やシベリアへの干渉政策が、反感をいっそう高め、経済的発展の障害となっている。(数字で説明)
▽46 アメリカが侵略してきて日本のどこをとろうというのか。日本の本土のごときは、ただでやるといってもだれももらい手はないであろう。むしろ侵略の恐れのあるとすれば、わが海外領土にたいしてであろう。戦争勃発の危険のもっとも多いのは、中国またはシベリアなのである。
…これらの土地を我が領土とし…国防上必要だというが、実はこれらの土地をかくして置こうとすればこそ、国防の必要が起こるのである。それらは軍備を必要とする原因であって、軍備の必要から起こった結果ではない。
▽51 大日本主義はいかに利益があるにしても、永く維持し得ぬのである。…どうせ棄てねばならぬ運命にあるものならば、早くこれを棄てるが賢明である。
…賢明なる策はただ、何らかの形で速やかに朝鮮・台湾を解放し、支那・露国に対して平和主義をとるにある。
▽55 大正10年、37歳。「資本はぼた餅で土地は重箱だ。入れるぼた餅がなくて重箱だけを集めるは愚であろう。ぼた餅さえたくさんにできれば、重箱は隣家から、喜んで貸してくれよう。しかしてその資本を豊富にするの道は、ただ平和主義により、国民の全力を学問技術の研究と産業の進歩とに注ぐにある。兵営のかわりに学校を建て、…。」 その説くところは、直輸入のイデオロギーや社会科学の法則といった借り物ではない。
▽61 大正11年のワシントン軍縮会議。主力艦の保有比率を対英米6割と譲歩した。加藤友三郎大将の決断。軍備競争は国家的財政破綻をきたし、総力戦に耐え得ないことになるという卓抜した戦略観によるものだった。
このとき「7割以上の兵力が必要」とする強硬派が結成され、加藤が大正12年に死ぬと、表面に踊り出した。
対英米強硬派と協調派の対立。昭和5年のロンドン海軍軍縮会議で火がついた。
ワシントン会議の譲歩の一因として、新聞との意思が通じていなかったからと考えた。そこで、海軍は新聞社の代表を招いて宴をひらき後援をこうた。
大新聞はいっせいに会議の成功をのぞみ、かつ7割7割7万8500トンが国防の最低限度であるとの主張を掲げた。
7割の主張は通らず、大新聞は引っ込みの着かない立場に追い込まれた。湛山の新報のみが会議の成立をさっそうと主張した。
▽75 ロンドン会議による軍縮がなければ年平均1億2,3000万円多い海軍費がかかっていた、として、軍縮会議は我が財政の救い主となった、と。
▽79 統帥権干犯 国防兵力量の決定はそもそも統帥事項である。…それを浜口内閣は直接の輔弼機関たる軍令部の同意を得ずして勝手に兵力量を決定した、これは明らかに統帥権をないがしろにしたものだ、と雄弁家たちが論じた。…深刻な経済不況や政治の混迷、またくすぶりはじめた満蒙問題などの世相を背景に…政府が強引に統帥権を干犯して兵力量を決したかのような事実が巧妙に形成されていった。
これに対し、新聞や雑誌が冷静に政府を支持しての論陣を張った。マスコミは一致して健全さを保って、世論をリードした。…軍令部長は憲法上の機関ではない。それを国務大臣あるいはそれと同等以上の職責があるかのごとくとりあつかい、軍令部の反対意見無視を統帥権干犯とみなすがごときは「途方のない謬論である」といいきった。そしてこのような意見がでること自体が、「明治以来の歴史が事実上、必要以上の勢力を軍閥に持たせたためである」
「憲政の癌といわるる軍部の不相当なる権限に向かって、真摯なる戦いの開かれんことをわれらは切望する」と軍部を「癌」とまできめつけている。
▽86 軍部が主張する統帥権が「許すべからざる怪物」と湛山が正確にとらえていることであった。
…のちに昭和史をあらぬ方向に動かしていく統帥権という「怪物」のことを考えると、このときの言論界の一致した軍部にたいする批判と忠告は、まことにあっぱれなものであった。
…この良識があと何年もったか。そこに昭和史の悲劇があった。
▽90 ロンドン軍縮会議は、ジャーナリズムの一致した応援をうけつつ…批准は終わった。それはまさに世論の勝利というものであった。…政府が軍の横車に屈しなかった唯一の例を、昭和史のなかに残すこととなった。しかし、支払わねばならない代償がだれにも想像できないほどに高くついたのである。軍縮問題をめぐって急激に高められた国防の危機感が、いよいよ軍部や民間の急進派に緊迫感を抱かせることになる。
…新聞の編集局長がアメリカ大使から300万円を受け取った…という奇怪な噂 「キャッスル事件」 それほどまでに軍部は国防の危機感にいらだち、心をかりたてられていた。
▽95 ロンドン条約に由来する危機意識のもと、…浜口雄幸首相が東京駅において撃たれたのが昭和5年11月14日、調印から5カ月後。
▽96 ロンドン海軍軍縮条約をめぐっての統帥権干犯問題が、その後の日本の歩みをなんと大いにねじまげることになったことか。
統帥権干犯問題は、軍部に右翼や政党と結びついた下克上的傾向を残し、のちに血盟団の「一人一殺」となり、5.15事件や2.26事件の一因をなしたばかりでなく…。直接には、その統帥権を勝手に解釈し駆使した翌6年の満州事変にそのままつながっていった。
▽102 満州事変は割り箸からはじまったといわれている。…昭和陸軍特有の、動機を重んじ手段を問わない精神構造。動機さえ純粋であれば手段と行動がかりに軍の統帥を乱し、暴力をともなうものであっても、それは正当化されるような空気が、陸軍の中枢にひろく流れていた。(戦後の新左翼〓)
▽105 「国防の危機」的状況を前にしながら、腐敗した政党政治によって軍縮が強行されるようなことがあったら、と陸軍軍人はひとしくいらだちを隠さず憤激をおさえかねていた。
第一次大戦後に形成された新しい戦争観「総力戦」。大戦の圏外にあった日本は、総力戦国家としては劣弱なものとなっていた。イギリスが20万、ドイツが50万挺も有した機関銃を、日本陸軍はわずか1200を有するのみ。自動車は英仏軍35万輛、ドイツ軍6万輛にたいし300輛にすぎず…日本陸軍の火力や機動力は、列強陸軍の数百分の1にすぎないのである。
国家の近代化とは、高度の国防国家の建設である。戦争の規模の拡大と長期化に耐えうるよう国防国家を軍の手によってつくらねばならない。陸軍省・参謀本部の中堅将校たちはそう確信した。
▽108 満州事変は、日本陸軍の国家観・戦争観つまり戦略思想を、歴史的にはじめて具体化するものであった。日本軍部の抱いた国防国家構想の根本となる極秘計画であった。
▽112 前年にあれほど軍の統帥権乱用に反対し一致して戦った世論というものがわずか1年にして逆転するとは。…
▽113 満州事変 軍部にとっては「新聞が一緒になって抵抗しないか、ということが、終始大きな脅威であった」と緒方竹虎は書いている。
…ロンドン条約後の国際協調を大事にする天皇と、天皇を中心とする宮中重臣への思惑もあるが、軍部がより恐れたのは、「輿論が沸騰して」硬化することであった。
昭和3年に同じように戦火を満州におこそうと謀略して実行された張作霖爆殺事件が、うまく予定どおりに運ばなかったのも、世論が「乱」を好まなかったからである。中国側の発表をすすんでのせ、「満州某重大事件」として新聞はしきりに陸軍の陰謀を匂わせ、世論はしだいにそっぽを向いた。
関東軍も陸軍もそれを教訓とした。強力な宣伝と媒体の後援が必要であることを…。
▽115「出版法」(明治26年)「新聞紙法」(明治42年)による言論の制限。…満州事変勃発後から2.26事件にかけて、言論の自由にきびしい枠がはめられ、…とはいえ、事変勃発以前の新聞や雑誌にあっては、その主張する論調は各社の自主的判断によるものであり、なんら指導されたものではなかった。勇気をもってすればまだ自由になんでも書けたのである。(〓翼賛することで自らの首をしめた。戦争体制になれば言論の自由は消える)
▽117 「満蒙問題解決方策ノ大綱」ジャーナリズムに満州の実情を承知させること、「事前工作」することが重要だと明記した。
▽121 スパイとして中国軍にとらえられ殺害された、中村大尉事件が表面化。新聞は一気に日本の権威擁護にまわった。「…支那兵が鬼畜の振る舞い」。
朝日は「一種の対日宣戦布告を発したというも過言でなく、…これが解決は平和裏には期待されぬかもしれない」…この社説は「陸軍の強硬派をひどく喜ばせた」。毎日にも「外交交渉が駄目なら 軍部の手で」。新聞において奇妙なぐらい満蒙問題にかんする強硬論が日を追って盛り上がりをみせてきたため、比較的冷淡であった雑誌が、ようやく危険な兆候を見るようになった。新聞を批判。湛山も当然批判。
▽136 陸軍はのちの軍部独裁となってからふるったような絶大な政治権力を、まだこのときはもっていなかった。…まだ宮廷ならび元老政治の絶対性を重んじていた。
▽138 雑誌はともかく、新聞はもう戦争を予測させる記事をさかんにのせている。いわば事がおこるのをのぞんでいる。「内地は心配に及ばず」と橋本大佐が自信をもって書いたのは、それほどに新聞にみちびかれる世論のハッスルぶりがあってのことであった。
(〓弾圧されたから論調が変わったのではない。満州事変までは自由に書ける余地があった)
▽141 柳条湖事件のおかしさを、奉天の林総領事は「事件は全く軍部の計画的行動に出たるものと想像せらる」と外相に打電している。事件の本質と進展の意図とを容易に見破っていた。
▽143 天皇が不拡大を望み、政府も閣議一致でそれを決めた。陸軍中央もしぶしぶながらこれに従ったとあって、関東軍の参謀たちは沈みこんだ。…歴史を逆転させるべきチャンスがあったとすれば、おそらくこの19日夜を起点とする24時間にあったと思われる。すなわちそのカギは、日本本土における世論がどう動くかであった。
…日本放送史上初の臨時ニュースに。
▽146 報道戦はいわば号外戦となり、のちに写真の号外戦となり、大資本の朝毎両紙の独占となった。
▽新聞は、柳条湖事件の謀略を見抜いていたのに書かなかった。
朝日新聞の70年小史には「柳条溝の爆発で一挙に準戦時状態に入るとともに、新聞紙はすべて沈黙を余儀なくされた」と説いているが、余儀なくされたのではなく、積極的に笛を吹き太鼓をたたいたのである。
▽156 陸軍は、大元帥の認可をえない朝鮮軍の越境は統帥権干犯行動ではないか、と攻撃されたら弁解もできぬ致命傷をさらしていたが、閣僚のなかに捨て身でこれにくいついてくるもののいないことに、心から安堵した。…軍の独断専行は、許されざる統帥権干犯行為なのである。犯罪なのである。あれほど前年に「統帥権干犯問題」が論議されたにもかかわらず、すっかり忘れ去ったかのように、この認識がまったくない。
▽162 事態がどう転回するかわからない微妙な時点で、新聞と放送はひとしく満州の権益擁護の絶対性を根拠に、事変の全面的肯定論を主張しつづけたのである。戦争突入をてことして、政治・外交の主導権を握った軍にとって、必要なのは下からの力、大衆的支持であった。
▽166 湛山と「東洋経済新報」は異を唱える。社員66人。
「内閣の好まず、意図せざる兵が動かされるということになったらば国家の危険このうえもない」「日本には同時に二つの政府がある」
▽173 日本国民は、日本国民以外の者の支配を受くるを快しとせざるがごとく、支那国民にもまた同様の感情の存することを許さねばならぬ。…
▽175 満蒙が生命線、とされる理由の一つ一つに反論を加える。
・人口問題 台湾・朝鮮・樺太を領土に加え…しかし、その結果は全くなんら人口問題の解決に役立っていない。
・資源問題 平和の経済関係、商売関係で目的を達しうる。かえってその方がよりよく目的を達しうる。
・国防の第一線
▽180 陸軍少将を揶揄する記事。「ああいう男が兵を動かし、しかもその経費がすべて民衆の肩にかかってくるのだと思うと憤激に耐えない」
▽184 満州国独立案、欽州爆撃、国際連盟からのはげしい抗議など新局面がひらかれるたびに、新聞は軍部の動きを全面的にバックアップしていった。朝日・毎日の大資本による全国紙は、報道戦の名のもとに、地方紙や群小紙を圧倒した。近代戦はまさに大資本の絶好の活躍舞台であった。
新聞は、戦争とともに繁栄し、黄金時代を迎える…ニュースの最重要な特性である客観性が、センセーショナリズムに侵され、…
▽190 皇軍兵士を激励するために慰問品「小学生諸君よりの慰問状を募る 満州駐屯軍へ本社が取次ぎ」…朝日は小学生あで国策に動員することを開始した。(昭和7年)
荒木貞夫陸相「各新聞が満蒙の重大性を経とし、皇道精神を緯とし、能く、国民的世論を内に統制し外に顕揚したることは、日露戦争以来稀に見る壮観であって…」
▽193 当時の日本人が新聞や放送にあおられて「挙国一致の国民」と化した事実を考えると、戦争とはまさしく国民的熱狂の産物であり、それ以外のものではないというほかない。そして同時に、事変によって軍需景気となり、零細企業群は一気に息を吹き返した。…いわゆる「15年戦争」はこうして絶大なる世論の支持のもとにはじまった。
(アベノミクス 憲法改正で半分で発議に。あおられる世論のおそろしさ)
▽197 戦後になって「軍部の横暴」ということですべてを説明してしまう傾向が一般的になっている。ところが、新聞に攻撃されて閉口するなど、軍縮時代の軍人の地位はきわめて低かったのである。
…幣原は満州事変について「軍人に対する整理首切り、俸給の減額、それらに伴う不平不満が直接の原因であったと私は思う」
▽199 「新聞記者を操る点でも平生から陸軍のやり方はなまなかの政治家や官吏などより数歩上手だった。…わざわざ新聞班なるものをもうけ…」
▽201 日本新聞協会は声明書。中国の排日の「横暴きわまるところが、満州事変担った」と断定し…日本の撤兵を強要する国際連盟を非難した。
▽205 昭和6年から7年にかけて、町には軍歌がしきりに流れ、子供の遊びで戦争ごっこが主たるものとなり、…日本人はひとしく熱に浮かされたようになった。
(戦火を望んだ民衆〓)
▽206 湛山の抵抗。
記者は特別税を国民に課するが可なりと主張する。…国家のために身命を捧げつつある兵士に対し些末の慰問袋や、慰問金を拠出して、もって我が責任を尽くせりなどと考うるは、国民として実に不心得千万なると同時に、かかる慰問品を受けて、ようやく軍の給養を補足し得べしと喜ぶ政府ま全くその職責を反省せざる者と評するほかはない。
戦死者について、日清日露の戦死者や廃兵への待遇がひどかったことを示し、今回もまた同じことを繰り返し「我が国民はここに重ねて忘恩の罪を犯すのではないか」と説く。
(すごい発想力)
▽216 大恐慌下に深刻化していた国民生活の不安と不満と息苦しさとが、事変で一挙に解決された。それが熱狂的な軍部支援となり…
▽220 湛山の警鐘など、景気回復の期待で高揚している日本人の耳に入らなかった。…どしどし海を渡っていく。満州は「赤い夕陽」のユートピアになっていきつつあった。
▽222 中国本土で抗日をあおることで衝突がおきれば、国際世論の目を満州からそらすことができる、と軍部は考えた。中国人群衆が日本人僧を襲撃するという事件を謀略でつくりだす。「上海で事を起こして列国の注意をそっちへそらせてほしい。その間に(満州)独立まで漕ぎつけたいたいのだ」
▽226 上海事変がはじまる。
▽233 世界戦前のドイツは、列国を甘く見過ぎてあの過失をあえてなした。個人としても国家としても、増上慢ほど恐ろしいものはない。…戦争は時にあるいは不景気一掃策としても利用せられる。
▽235
▽247 満州国の前途を危惧して批判。 我が軍隊の息がかかり、その保護ないし干渉によって、辛くも生まれ出でたる急造の国家である。記者はかようの国家が、にわかにその独自の力にて、今後の満蒙を健全に経営し得べしとは信じ得ない。
▽248 独立を認めざるをえなくなり、湛山は「日本軍の全面的撤退」を主張する。
▽257 柳条湖事件から半年にして、突然アジア大陸の一角に新国家が誕生したということは、世界的驚異といえばいえた。大戦略家の石原。
▽260 新聞の独走。そしてそれを国民は信じていく。
▽261 満州は、鉄・石炭以外の資源はなはだ乏しい」と。満州は日本の生命線にして資源の宝庫と思っている人びとには、ショッキングな内容の文章であったろう。事実、石油が皆無であることに軍部はがっかりしていた。
▽263 リットン調査団 昭和7年2月29日に日本到着。軍部は激しい敵意をもった。一行にコレラ菌をつけた果物を差しだして、ひそかに病気にして殺そうという恐るべき謀略を実行したものもあったという。…当時の軍部がいかに国際政治を無視して狂気に走っていたか、非文明的であったかが想像されて、背筋に冷たいものが走る。

▽272 日本国内には、建国した満州国を国際連盟の動きとは関係なしに、早期承認すべきか否かの論議でゆれつづけていた。
…政府は調査団を迎えて、さしあたり列強との正面衝突をさけ小康状態を利用しようとした。この間隙をぬって軍部にたいするコントロールを回復しようとはかった。
しかし新聞はそんな政府の弱腰を認めようとはしなかった。軍部の強硬論に同調してぐんぐんと早期承認論を鼓吹することで、世論を引っぱっていった。毎日新聞は連盟脱退論を展開。国民の熱狂に油をそそいだ。
▽276 確たる自信をもてない国民は、外にたいしてはむやみに敏感に反応し、内にたいしては不平不満、そして革新への期待をいよいよつのらせていた。

▽277 5.15事件。政党政治の息の根をとめたばかりでなく、「言論の上に暴力が君臨する恐怖時代の幕開けとなった」。満州事変いらい「排外熱、軍国熱を熱狂的にあおり、政府の満蒙政策の弱腰を責め、軍部の独走を支持した結果のあまりにも重いツケ」がマスコミにまわってきたともいえる。
「その純情は諒する」と「動機の純なる」ことを評価する新聞。もっともきびしく弾劾したといわれているのは大阪朝日の社説。…
新聞の「条件つき」の批判は、事件に対する軍部および民間右翼らを力づけた。陸軍大臣の荒木貞夫大将は「…これら純真なる青年がかくのごとき挙措に出でたその心情について考えてみれば涙なきを得ない。…」
満州事変、上海事変と軍事行動がつづき、一般国民の軍人に寄せる期待と信頼が高まってきつつあるときだったから、彼らの「蹶起」にも比較的好意が寄せられていた。
湛山の東洋経済新報は、大新聞にあるような腰の引けたような論旨はまったくみられなかった。
▽290 新聞にたたかれて勇みたったかのように、政友会・民政党両党による満州国即時承認決議が、衆議院で満場一致で可決された。それでもなお斎藤内閣はねばりぬいた。承認は、国際連盟の動きに挑戦し、列強との正面衝突となることが明瞭であったからである。
▽296 「…国を焦土にしてもこの主張を徹することにおいては一歩も譲らないという決心をもっているといわねばならぬ」(内田外相)。日本の満州国承認は国土が「焦土」となろうとも断行すべき、公然たる国家の方針となった。
朝日新聞の社説は外相の悲壮な決意を援護射撃した。
▽299 かくなった以上は満州国をあくまで独立国と確認し、日本人は無用な干渉や厚かましき注文などするなということを強く主張した。(湛山の粘り腰)
「日本軍の撤退」 そうならなければ、「外国との紛争」「ロシアとの戦争」「匪賊討伐」という不安はどこまでも存続する。為替の激動により無用の損傷をわが財界に与える。国内の政治不安、ファッショとかなんとか煩わしき問題もそこから発生する。…
昭和史は、湛山の危惧がそのまま実現する方向に進んだ。
国際協調の空洞化も、日本国内の政治的不安も、極端な軍事国家化も、すべて摩周国をめぐって発生した。
▽306 リットン報告 日本の新聞は、例外なくヒステリカルに反発した。
▽310 満州事変→満州国建国→日本の承認→リットン報告拒否という一直線の論理は、そのまま国際連盟脱退という必然の道をとることになっていく。
…「国民の心の中に、列国あるいは国際連盟の力をあまく見くびっている気持ちがある。それは危険な兆候だ、かつてのドイツは列国をあまく見すぎて大きな過失を犯した、と湛山は訴えた。「国民よ驕るなかれ」と。
▽326 日本の国連脱退を回避する動きも。日本がうけいれることができるようリットン報告の修正など、連盟の態度が軟化しようとしていた。
ちょうどその直後、全国新聞132社は連盟で、国際連盟に向けて共同宣言を発表した。満州国を世界に承認させよ、妥協を断固拒否せよと、新聞が政府に要求したにひとしい。新聞によってリードされる日本の輿論が、完全に国連脱退への強硬論が固まってしまうことになるのは、これまた目に見えている。
新聞は「脱退」を主張する。
脱退反対という閣僚の多かった内閣もぐらぐらしはじめる。
このとき、時事新報が、脱退論に抗して、「連盟脱退前に外交あり」という社説をかかげた。湛山も。
これらの良識の言は、陸軍中央の耳にはもうとどかなかった。荒木陸相は…「国際連盟にとどまっているから、日本は思うとおりの軍事行動ができぬ。…北京・天津にまで兵を出さねばならぬともかぎらない。そういう場合、連盟の一員でいることは、いろいろな拘束をうけるだけで、日本の利益になることは一つもない」と閣議で公言。
▽344 内大臣牧野伸顕の日記は、新聞の熱狂ぶりをにがにがしく記している。「脱退があたかも目的なるが如く思いこみ、その目的達成に狂奔の言論界の現状、…前途のため憂慮に堪えず」
▽350 言論界からは言論の自由を守っての殉難者はひとりもいない。
小林多喜二の死にたいし「文藝春秋」は見識を示す一文を乗せている。「噂につたえられるような暗黒手段の横行することは絶対にないことであろう。ないならないで、なぜ当局者はその一切を白日の下に明かしてみて、一般良民の疑惑をとこうとはしないのか…」
(文春は新聞よりも遅くまでリベラルだった。湛山らは戦後自民党に入った。それだけリベラルな人間が自民党には多かった。時流にのって左翼なる人は、戦前ならば「革新派」になびく人たちだったかもしれない)
▽355 日本の連盟脱退は、巨視的にみれば、世界史の流れを変えた出来事となった。この2日前、ドイツ国会で可決されてヒトラーの独裁体制が成立。もし日本が脱退をしなかったならば、できあがったばかりのナチス・ドイツも連盟を脱退しなかったであろう。
▽357 大新聞が一丸となって脱退に向かって邁進していく。のみならず、やがて全権松岡を時代の英雄児に仕立てていく。松岡は「日本に帰っても顔向けはなるまい」「連盟脱退は我が輩の失敗である。帰国の上は郷里に引き上げて謹慎するつもりだ」と思っていたのに。
▽363 湛山の提案はことごとく政府や軍部や言論によって踏みにじられた。一城一城と抜かれ、追いまくられながらも、湛山は次善に踏みとどまって、また提案を試みる。それも効果なく、現実は憂えたとおりのところへと突き進む。そこで湛山は次々善の提案をする。…
その真摯な持続力は類例をみないものであり、エネルギーは超人的とすらいえる。
連盟脱退後は「言論の自由」を強調し、「日英提携論」を積極的にとらえる。それをまたあざ笑うかのように言論はギリギリと締めつけられ、反イギリス論調が世論の主流となっていく。
▽368 言論の自由を守るとは、湛山のように、命がけにならなければ駄目ということである。
▽371 昭和16年に太平洋戦争がはじまる。総合雑誌4誌の編集者を中心とする日本編集者協会は、直後に「決議」を一致して決めた。「…吾等日本編集社会は謹て聖旨を奉体し、聖戦の本義に徹し 誓って皇国将兵の忠誠勇武に応え…」 この決議をうけて、各社の「神がかり」的編集者がいっせいに踊りだした。
…石橋湛山と「新報」は、天晴れなくらいに時世時節に乗ろうとしなかった。
社内にも、私にやめてもらって、軍部に強力する態勢を取ろうではないかと主張するものが現れた。
私はこの主張に断固として反対した。…東洋経済新報には伝統もあり、主義もある。その伝統も、主義も捨て、いわゆる軍部に迎合し、ただ東洋経済新報の形だけを残したとて、無意味である。そんな醜態を演ずるなら、いっそ自爆して滅びた方が、はるかに世のためにもなり…
▽376 戦争中も決してひるむことなく、そのときそのときにおいて最善をつくしての言論戦を展開していたのである。昭和19年7月29日号の「東条内閣辞職の理由」「このくらいの大戦争をするのに、官僚や、一部の半官機関に言論指導の権力が掌握され、はなはだしい場合には個々の出版や個人の憂国的言論までを抑圧する始末では、公明正大な堂々たる国民の戦争はできない。東条内閣は、いわば国民の口を塞ぎ、眼を閉じ、耳に蓋をした。…明朗闊達たる公議公論が、国民の間から生まれ出づるようにしなければならぬ。戦局に対する批判さえも、記者はこれを許すをよしと考える」
…どこの会社でも、社内を「小東条」ともいえる神がかり的跳ね上がり編集者が、肩で風を切って歩いていた。…少しでもリベラルな考え方をもつものは敗者として追われて姿を消してた。
当時の官憲は、ただちにこの社論の「全文削除」を厳命しこれに報いてきた。
▽381 昭和20年4月末に秋田県横手町に東洋経済新報社の編集局の一部と工場とを疎開させた。その地で、湛山は次善三善の策を求めて社論を書きつづけた。ドイツ降伏後の6月23日号「ベルリン最後の光景」
▽383 「…私はかねて自由主義者であるために軍部およびその一味の者から迫害を受け、東洋経済新報も常に風前の灯の如き危険にさらされている。しかしその私が今や一人の愛児を軍隊に捧げて殺した。私は自由主義者ではあるが、国家に対する反逆者ではないからである」
私も、私の死んだ子供も、戦争には反対であった。しかし、…もし私にして子供を軍隊に差し出すことを拒んだら、おそらく子供も私も刑罰に処せられ、殺されたであろう。諸君はそこまで私が頑張らなければ、私を戦争支持者と見なされるであろうか。(戦後)

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