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グローバル市場原理に対抗する 静かなるレボリューション 自然循環型共生社会への道<小貫雅男 伊藤恵子>

■グローバル市場原理に対抗する 静かなるレボリューション 自然循環型共生社会への道<小貫雅男 伊藤恵子> 御茶ノ水書房 20130827
産業革命以来の資本主義の発展によって大地から引き離され、農業や職人の仕事といった生産手段を失ってしまった現代賃金労働者の家族に自給用の田畑をあてがうことで、生きるために最低限必要な生産手段を再び取り戻すことを訴える。現代賃金労働者と生産手段との「再結合」によってつくられた「菜園家族」を社会の基礎単位とすることで、家族と地域に重層的な協同関係を成立させる主体的条件が育まれる−−と説く。
京都・綾部の塩見直紀さんが唱える「半農半X」や、神奈川でサラリーマンの就農活動をしている人たちの「兼農サラリーマン」などと同じ系列の考えた方だが、農という生産手段とサラリーマンを結ぶことで成立する「菜園家族」が、資本主義を超克する革命の基礎になりうると位置づけているところにユニークさと壮大さがある。
イギリス産業革命以降、人間は農地や生産用具など必要最小限の生産手段も奪われ、自立の基盤を失い、根無し草になってしまった。オーエンやその後のマルクスの「協同」の思想は、そういった近代を克服するために生まれた。
では、それらの理想主義はなぜ失敗したのか。
マルクスの生産手段の「共同所有」は、生産手段が論理上は「自分のもの」だったとしても、組織が巨大であるため分業の一部しか担えず、自分が主人公(生産手段を所有している)と実感できにくい。その結果、官僚化が進んでしまう。
私も革命政権下の中米ニカラグアの「国営農場」や「協同農場」を見てきたからその指摘はよくわかる。生産手段は共有化されたはずなのに、「農業労働者(賃金労働者)」という意識と位置づけは変わらず、その後に保守政権が誕生し財政支援がなくなると、大半が瓦解し、多くの餓死者を出すことになった。
一方で、個人の力でさまざまな自給作物といっしょにコーヒーを栽培していた「百姓」は、経済危機をも乗り越えることができた。生産手段を家族単位でもっていたからだ。
この本の筆者は、同様の現実を社会主義下のモンゴルで見ていた。そして「百姓」のかわりに「菜園家族」を社会の基本単位と位置づける。
生産手段をもつ家族小経営の強さは、農家だけではない。妹尾河童の「少年H」では、すべてを空襲で焼かれた主人公の父がミシンを修理することで仕立て屋を再開して立ち直り、時計屋だった元軍人は修理の仕事で食いつないだ。自らの手に生産手段をもつ自営業の強みも見直されるべきなのだろう。

19世紀のユートピア的な共産主義やマルクス主義とともに、一向一揆や安藤昌益の思想などを紹介し、平等や協同を求める思想は前近代から繰り返してあらわれてきたと指摘する。
そうした「善」の思想を受け継ぐものとして「菜園家族」の思想を位置づけ、その根拠を人間の生物学的条件にも求めている。
人間は、人の世話がなければ生存できない状態で生まれる。長期にわたる養護が必要だから、人間に特有の「家族」が生まれる。人間に固有のものは「家族」「言語」「直立二足歩行」「道具」があげられるが、「家族」はほかの3つの事象の根っこにあり、人間が人間になるための基礎になったという。
モースやレヴィストロースは人間を人間たらしめたのは「贈与」であると位置づけている。報酬があるから与えるのではなく、与えたいから与える、というところに「愛」とか「善」とかの根源がある−−と私は漠然と考えてきた。そのへんが菜園家族の思想とどうかかわるのか知りたいと思った。
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▽市場原理至上主義アメリカ型「拡大経済」の延長線上に、経済発展を際限なく追い求めてきた。その結果、長い歴史のなかで培われた人間の絆は分断され、地域コミュニティは衰退し、「無縁社会」という異常事態を現出させた。農山漁村の衰退。
▽33 効率的であるからといって、周縁の広大な農山漁村と切り離した形で都市機能を中心部に集約し、快適なコンパクトシティーを急ごしらえする発想は、農林漁業のなりわいやその多様な機能・意義を知らない都市のエリートによる思いつきでしかない。
▽34 ニュータウンの高齢化、孤独死、……地域の自然に根ざした生業とは隔絶した形で人工的に急ごしらえする都市開発がいかに危険きわまりないか
(「限界集落」は限界ではない。本当の「限界集落」は都市にある。〓)

□近代の思想を振り返る
▽48 終戦を青少年期にむかえた世代は、何かに突き動かされるように、学校教育や独学に励み、精神的にも何か手応えのあるものを求めて学んできた。一国にしか通用しないあの偏狭な思想の呪縛からの脱却であり、普遍的な知の遺産を、戦後日本の歴史学や経済額研究が引き継ごうとしたものであったかもしれない。(学ぶ理由がある世代 過去に学ばなくなった今)
▽63 マルクス 資本主義社会になってはじめて、人間労働と生産手段との分離が決定的になった。人類全史から見れば、資本主義社会は極めて特異な社会。
オウエン 産業革命以前は、最も貧しい親でさえ、労働をはじめる年齢は14歳であると考えていた。産業革命によって、7,8歳の子まで、朝から夜中まで工場で働かされるようになった。
コミュニティ構想 分業と協業を前提とする機械は、人間労働を細分化されたどれか一つに限定することによって、人間に一面的な発達しかもたらさない結果となる、と懸念した。生産手段を共同所有化し、その基礎の上に共同運営するおとによって実現しようとした。自主管理のコミュニティづくり。最初の本格的な資本主義超克の実践。
市場経済という大海のなかの小島でそこだけ共有社会に移行していくことがいかに至難な道であるかを、ソ連崩壊を待つまでもなく、オウエンの実験は先取りしていた。(程原の例〓、70年代のコミューンの数々)
▽96 空想的社会主義、社会主義、共産主義などの思想は、近代に限られた産物ではない。人間の協同と調和と自由に彩られた生活を理想とする人類の根源的悲願。それゆえに繰り返し生まれてくる思潮。一向一揆などの一揆を支える思想も。安藤昌益は、世界史的にも先駆的で独創的な共産主義思想。自然権的共産主義思想は、人類始原の自然状態における、差別や抑圧のない共同的で平等な生活を理想とする見地に立っていた。人間の根源に根ざす普遍的な思想であるだけに、これからも今後も繰り返しあらわれるにちがいない。
▽118 一国の社会的規模での共同管理・共同運営では……自立の基盤を失い、自己鍛錬と自己形成の小経営的基盤を失った人間は、個性の多様な発達の条件をも奪われ、長期的に見れば人間の画一化の傾向をたどらざるをえない。したがって、ピラミッドの下部の社会的土台は、中央集権的専制支配を許す土壌に転化する危険性を当初からはらんでいたことになる。
……生産手段の社会的規模での共同所有に基礎をおく未来社会では、人間の画一化が進行し、国家権力んお強大化が進行する。
……未来を長い目で見るならば、人格の発達を保障する基本は家族小経営。
▽132 「家族」や「地域」から出発して、それを基軸に社会を全一体的に考察する「新しい地域研究」としての地域未来学。
▽138 産業革命以後、社会の分業化がすすむなかで、不可分一体のものだった「農業」「工業」は分離し、まずは「工業」が、次いで「農業」も家族の外へと追い出された。(生産要素が家から消え、消費だけに〓)
▽144 人体と細胞の関係を、社会と家族になぞらえる。家族は細胞。細胞は最低限必要な自然と生産手段を内包している。家族から自然や生産手段を奪うことは、細胞から細胞質を抜き取るようなもの。細胞核と細胞膜だけからなる「干からびた細胞」になってしまう。=賃金労働者家族
▽162 生産手段と「家族」の分離が決定的になったのは、イギリス産業革命にはじまる近代資本主義の成立期からのことであり、わが国であれば、戦後の1955年からおよそ20年間の高度経済成長期でのことであった。生産手段からの完全な乖離によって、家族はその機能を急速に吸いたいさせてきた。
▽167 生産手段と現代賃金労働者との「再結合」によって、家族が自給自足度を高め、グローバル市場原理に抗する免疫力を身につけること。
▽184「攻めの農業」のおかしさ 日本には大規模経営体はそぐわない。中規模専業農家を育成すべき。そして、小規模家族経営である週休5日制の「菜園家族」10家族ほどが、中規模専業農家の周囲を囲む、「群落」の形成を追求する。
▽186 (大地から切り離され、都市で世代を重ね、「帰省」できない世代に。〓)
▽195 菜園家族 その上位に、自己の力量不足を補完するための協同組織を形成する。これを「なりわいとも」と呼ぶ。自立した農的家族小経営が基礎単位になり、その家族が生産や流通、生活、すなわち「なりわい」の上で、自主的主体的に相互に協力しあう「とも」を想定する。(中間団体の必要性 農協とのちがいは〓)さらにその上位に、30-50家族の「村なりわいとも」。合議制にもとづく全構成員参加の運営。郷土を点検、調査、立案し、未来を描く。(島根の橋波の例〓)
基本的には近世の「村」の系譜を引き継ぐとともに、資本主義の横暴から自己を防衛する組織体として現れた近代の協同組合の性格をもあわせもつ、新しいタイプの地域共同の組織。
「菜園家族」からはじまり「くになりわいとも」(県レベル)にいたる、一次元から六次元までの多重・重層的な地域団粒構造が形成される。
▽202 (「生産」要素をもつ人々があつまった中間団体を形成することでファシズムを防ぐことに〓中間団体の意味、情報の翻訳と勢いを弱める働き)
▽210 家畜のなかでもヤギは、体も小さく扱いやすく、お年寄りでも簡単に世話ができる。あぜ道や屋敷などの除草の役割も果たす。搾乳も。乳牛に比べるとずっと簡単。
▽233 「匠商家族のなりわいとも」 前近代の中世ギルド的な「共同性」に加え、資本主義に対抗して登場した近代的協同組合の性格をもあわせもつ、新しいタイプの都市型協同組織としてあらわれてくる。
▽242 近世の「村」のような前近代的な伝統の基盤の上に「協同の思想」という近代の成果をよみがえらせ融合させることによって、新たな「地域の思想」を構築する。
(〓基盤としての前近代の「結」の大切さ。協同農場・集団農場などが失敗するのはそういった基盤に根ざしていないから。程原の失敗と布施・橋波の成功)
▽245 「苦海浄土」三部作 日本の近代化を具体的な1地域において克明かつ多面的に辿ることのできる、すぐれた地域史・地域研究になっている。「椿の海の記」は、「海と山と川と暮らしが、不可分のものとして」とけあっていた頃のふるさとの様子や、「歳時記とは暦の上のことではなくて、家々の暮らしの中身が、大自然の摂理とともにある」ような家族のなりわいと地域の人々の姿が……描かれている。(石牟礼を「民俗」の視点で読み返したら……見えてくるもの〓)
▽252 「アベノミクス」 なりふりかまわず露骨に市場原理至上主義「拡大経済」を推し進めるもの。
▽262 「CO₂削減と菜園家族創出の促進機構(CSSK)」 CSSK特定財源による、「菜園家族」創出のための新しい「公共的事業」。菜園家族インフラへの投資。地場の資源を生かした地域密着型の中間技術による細やかな仕事が生まれる。
▽272 現代の科学技術は、資本の自己増殖運動の奉仕者としての役割を担わされていく。科学の対象は、極大の極小の方向にとめどもなく深化していく。
(一方で、生きるための技術・知恵は失われていく〓技術のブラックボックス化)「資本の蓄積・集中・集積過程」からの訣別と、それにかわるべき「資本の自然遡行的分散過程」
▽297 都市に出てきた団塊世代の息子や娘の世代は、農村生活の経験がない。このような若者たちには、今のライフスタイルが永遠不変のように映るのは不思議ではない。
家族や地域を崩壊に導いたのは、高度成長期のたかだか20年の出来事だ。それを修復できないと言うのであれば、それこそ諦念に陥るほかないであろう。
▽304 地域がめざす未来像を明確にするために、子どもや若者やお年寄りを含め、世代を超えた住民・市民が、郷土の「点検・調査・立案」という認識と実践の連続らせん円環運動に加わること。
▽309 一時のはやりにすぎない上滑りのイベントなどの「成功事例」をその都度追い求めるのではなく、むしろ共通の悩みや困難を抱えながら地域再生への道を見出しあぐね、懸命に試行錯誤している地域の本当の姿を深く知り、互いに学びあい切磋琢磨しあうことこそが大切なのではないか(〓成功モデルを追い求めるのは×。)
▽318 量子エネルギーの場は、エネルギーだけでなく情報も伝達しているといわれている。宇宙は記憶を持っているということになる。「過去」は宇宙の量子エネルギーの場に保存され、そこから情報を得て、新しい世界をたえず構築していくということ。……量子エネルギーの場にあって、すべての存在には、何らかの首尾一貫した統一的な「力」が貫かれていると考えられる。自然の摂理ともいうべきこの「力」こそが、「適応・調整」の普遍的な原理なのである。
……生産力の飛躍的上昇で、剰余労働の収奪という悪習をおぼえ、人間社会の生成・発展を規定する原理は、「適応・調整」の普遍的原理から、きわめて人為的な「指揮・統制・支配」の原理へと大きく変質を遂げていった〓。
▽337 大地から分離され、根流し草同然の暮らしとなり、個性的で多様な幸福感は、次第に画一化されていった。

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