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私家版ユダヤ文化論  <内田樹>

  文春新書 200710

「ユダヤ人」の定義さえあやふやだ。ユダヤ人というのは結局「○○ではない」「○○ではない」という消去法によって定義するしかない。
西欧の始祖であり、キリスト教の起源である。でも、だからこそ、恨まれつづける、という。
サルトルは非ユダヤ人の差別こそが「ユダヤ人」をうみだしたと主張したが、それだけではない、ユダヤ人独特の特質があるのだと筆者は説く。
創造的であり、ノーベル賞の割合も高く……という特質は、「神に選ばれた民」であるがゆえに、非ユダヤ人よりも世界の不幸について多くの責任を引き受けなければならないと信ずることに起因するという。苛烈で理不尽な不条理を引き受け、それを「呑み込む」ために彼らは、「自分が現在用いている判断枠組みそのものを懐疑する力と『私はついに私でしかない』という自己緊縛性を不快に感じる感受性」をもった。それが、イノベーションを得意とするユダヤの特質の起源になり、それゆえに迫害されたのではないのか……といった論を筆者は展開する。
一方、ヨーロッパ世界は、ユダヤという永遠の敵をつくったからこそできあがった、とも指摘する。まさにソシュールの言語学のような論理展開だ。
一方、戦前の日本にはやったユダヤ・日本人同祖論は、極東の異教国という不名誉な地位であることを認めたうえで、その異教国が「基督教を奉ずる欧米諸国を眼下に見下ろす」ような起死回生の理説を探し求め、ユダヤがキリスト教徒に対する霊的な尊属であるがゆえにユダヤ人への差別が創出されたという論にいきついた結果、と筆者は説く。
逆にこの同祖論は、「ユダヤ人世界支配の陰謀」という物語を日本が受け入れるための思想的風土を準備し、ヨーロッパ起源の反ユダヤ主義が大正時代に輸入されたという。
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▽ナチスのニュルンベルク法は、1215年のユダヤ人規定をよみがえらせた。「祖父母の代に3人以上ユダヤ教徒を含む者」が「ユダヤ人」。「祖父母の2人がユダヤ教徒」が「第1種混血者」、祖父母のうち1人がユダヤ教徒が「第二種混血」とされた。
▽ユダヤ人は何でないかの消去法。ユダヤ人はユダヤ教徒のことではない。近代以前はそうだったが。……ユダヤの歴史はほぼ全編が迫害によって覆われている。キリスト教への改宗の要求をユダヤ人が拒絶するたびに暴力がふるわれた。それだけ改宗させることは困難だった。
改宗を拒み、それゆえに差別的な待遇を受けて苦しんでいるという事実そのものが「まむしの末裔たち」に神の呪いが下っていることの動かぬ証拠であり、キリスト教の教えの真理性を証明しているという説明がなされた。障害者も貧者も、神の罰の可視的表現とされる限り、キリスト教世界では逆説的な意味で「神聖なもの」とされた。ユダヤ人も同様のロジックで正当化される。=近代以前
が、ユダヤ教徒の「解放」は、狂人がその聖性を失う歴史的趨勢とほぼシンクロしている。「悪魔の眷属」ではなく、社会システムのトラブルとして処理されることに。
ユダヤ人は「ユダヤ人を否定しようとするもの」に媒介されて存在しつづけてきた。
▽ユダヤ人が高利貸しという呪われた職業(キリスト教徒は利息をつけて金を貸してはならないという制約が課せられていた)のは、ユダヤ人が賤民として扱われ、土地所有や農業への従事を禁じられていたから。(在日や部落問題と相似形)サルトルが言うように「ユダヤ人を創造したのはキリスト教徒である」と言っても言い過ぎではない。しかし……
▽「ユダヤ人」という定義もはっきりしないのに人口統計がある。〓「民族」の定義とは?
「女性というカテゴリーを構築したのは、それによって社会的リソースを独占しようとする男性たちである」という命題。だが、性差は社会の性化の原因なのか、それとも結果なのか。性差が幻想であることは認めるが、性化されていない人間というものを想像することができない。ユダヤ人も同様。ユダヤ人というのは、すでに私たちがそれなしには社会を分節できないような種類のカテゴリーなのである。……「男と女」も「昼と夜」も厳密には区別できない。昼を「夜でないもの」、夜を「昼でないもの」として差異化する因習。「ユダヤ人」と「否ユダヤ人」という対立のスキームを構想したことによって、ヨーロッパはヨーロッパとして組織化された。ヨーロッパがユダヤ人を生み出したのではなく、ユダヤ人というシニフィアンを得たことで、ヨーロッパは今のような世界になった。
▽日本にユダヤ人を存在させたのは、スコットランド人の宣教師。1875年に日本人はユダヤの「失われた10部族」の末裔という説を発表した。
▽ユダヤと日本人の同祖論は、極東の一異教国なる不名誉な地位であることを認めたうえで、その異教国が「基督教を奉ずる欧米諸国を眼下に見下ろす」ような起死回生の理説を探し求めた。……ユダヤがキリスト教徒に対する霊的な尊属であるという事実のうちにユダヤ人への差別の理由が存するということを同祖論者は直感していた。欧米諸国が日本を軽侮するのは、日本が欧米諸国を眼下に見下ろすべき「神州帝国」だからという、尊属故の受難という物語を成り立たせた。日本に「ユダヤ人世界支配の陰謀」という物語を受け入れるための思想的風土は、同祖論という独創的な妄想によって準備された。その風土にヨーロッパ起源の反ユダヤ主義が大正に輸入される。
▽普通選挙、婦人参政権、言論の自由、集会結社の自由、無産政党の登場……といった権利請求が、都市化と伝統的農村共同体の解体と足並みをそろえて登場してきた。「共同体の危機」を覚えた人が、社会秩序の崩壊の責任を転嫁する「張本人」を名指すことがキンキツの課題だった。
昭和になると、スターリン、蒋介石、ルーズベルト、チャーチルはすべて「国際ユダヤ人のピエロ」という説が戦中の大新聞で唱えられる。
▽「反ユダヤ主義者のなかには善意の人間が多数含まれていた」という前提を平明な事実として受け入れて、そこから「善意の人間が大量虐殺に同意することになるのはどういう理路をたどってか」を問うほうが生産的。東条英機らを「極悪人」と決めつけて終わりにする人々に私は与しない。「立派な人物だったのだから、その霊は顕彰されて当然」という人々にも与しない。
▽ダーウィンは、自分の理論に合致しない事実は必ずノートに記録しておくルールを課していたが、それは、自説に合致しない事実は長くとどめることができないことを彼が知っていたからだ。帰納法的推理の最大の欠点は、かりに過去のすべての事例に当てはまる法則があったとしても、それが未来の事例にも当てはまるかどうかを権利的に言うことはできないということにある。「未知のファクターの関与」や「既知のファクターの未知のふるまい」を想定していない。19世紀には帰納法推理が説得力をもっていた。
▽フランス大衆の目に、ユダヤ系市民が「変化の象徴」にうつった。理由は簡単。中世的なギルドのメンタリティが残る業界はどこもユダヤ人を組織的に排除したから。ユダヤ人は新たな産業をおこすしか、生計の道がなかった。
▽フランスのモレス盟友団。綱領の整合性や党派の組織性よりもむしろ、活動形態の情緒的・審美的喚起力に大衆動員に必要なインパクトがあると洞察していた。団員たちに制服の統一を厳命した。近代の政治扇動家のなかで「制服」と「筋肉」のインパクトを利用することを着想した点で、モレスは最初の人である。ムッソリーニとヒトラーの先駆者である。
▽ファシズムは、人間は永遠に変化しない生得的なカテゴリーに釘付けされている、という前提にたってはじめて成り立つ。違う階級が融合してひとつになるのではなく、本来まじりあうはずがない階級がであう。ファシストになることによって、貴族はますます貴族的になり、労働者はますます労働者的になる。
ローマの奴隷制は、市民は奴隷なしには生きられず、奴隷は市民なしには生きられない。完全な分業のうちにモレスは社会の理想を見た。騎士と労働者は、ちがう仕方でフランスの栄光に奉仕していると。社会的機能が互換不能であるがゆえにこそ「階級を超えた同志的連帯」が要請される。
▽イデオロギーは社会構築的であると信じている人は、歴史的現実とかかわりなく生成し棲息する幻想的な憎悪や恐怖のあることを認めたがらない。日本における反ユダヤ主義でみるように、「そこに存在しない社会集団に対する幻想的な同一化と恐怖」が政治的に機能することはありうる。「そこに存在しないもの」を関知し、恐怖し、欲望し、憎悪することができる。
▽ユダヤ人たちが民族的な規模で開発することに成功したのは「自分が現在用いている判断枠組みそのものを懐疑する力と『私はついに私でしかない』という自己緊縛性を深いに感じる感受性」である。イノベーションとは、そういうことができる人がなしとげるもの。
……ユダヤ人が例外的に知性的なのではなく、ユダヤ人において標準的な思考傾向を私たちは因習的に「知性的」と呼んでいるのである。

▽ユダヤ人の「例外的知性」なるものは、民族に固有の聖史的宿命ゆえに彼らが習得し、涵養せざるをえなかった特異な思考の仕方の効果だ。
▽ユダヤ人は非ユダヤ人よりも世界の不幸について多くの責任を引き受けなければならない。……自らを「神に選ばれた民」とみなす宗教はどこにでもある。が、「救い」における優先権を保証せず、むしろ他者にかわって「万人の死を死ぬ」ことを求める神を信じる集団は希有である。ユダヤ的知性は、この苛烈で理不尽な要求、不条理を引き受け、それを「呑み込む」ために彼らはある種の知的誠実を余儀なくされた。

P189

▽サルトル的な社会構築主義の立場を採るにせよ、レヴィナス的な「選び」の解釈を採るにせよ、ユダヤ人の側には「ユダヤ人であること」を主体的決意に基づいて選ぶ権利がなかったという点では変わらない。サルトルによれば「ユダヤ人とは他の人びとが『ユダヤ人』だと思っている人間」であり、レヴィナスによれば、「神が『私の民』だと思っている人間のことである。双方とも、ユダヤ人とはある種の遅れの効果だとみなす。すでに名指され、すでに呼びかけられたもの=「始原の遅れ」。そのつどすでに遅れて世界に登場するもの。それがユダヤ的知性の起源にある。
▽「反ユダヤ主義者にとっては、知性はユダヤ的なものである。だから彼は知性を心静かに軽蔑することができる。ユダヤ人が彼らに欠けているバランスのとれた凡庸さの代用品として用いるまがい物にすぎない。父祖の叡智を豊かに受け継ぎ……真のフランス人には知性など必要としないのである」=バランスのとれた凡庸さのうちに自足した人間=サルトルが描いた反ユダヤ主義者の肖像。=人間はおのれの属性のすべてを状況に身を投じることを通じて主体的に構築しなければならない、というサルトルの実存主義に反する。反ユダヤ主義者とは実存主義的にゼロであることを主体的に選択した人間ということになるだろう。その逆に、ユダヤ人こそ、「実存主義者」ということになる。おのれの自己同一性を実存的努力によって構築せねばならず、にもかかわらず、そうやって獲得したものはそのつど無価値なものという宣告を受け、あらたな獲得目標に向けての競争に駆りたてられるから。
▽「ユダヤ人が知識をむさぼるように吸収するのは、人間に関するあらゆる知識をかき集め、宇宙に対する人間的視座を獲得することによって、普遍的な『人間』になろうとしているからだ。教養を身につけるのは、彼らのうちなるユダヤ人を破壊するためである」(サルトル) 個別的・歴史的なエスにシティやナショナリティを脱ぎ捨て「端的に人間的であること」を目指すのは諸国民のうちただユダヤ人だけである。だから、「端的に人間であろうとする」みぶりによって、彼がユダヤ人であることを満天下に明らかにしてしまう。
▽対立や葛藤は、対立し葛藤しているものを相殺するのではなく、むしろ強化する。単なる殺意よりも「有責感を帯同する殺意」のほうが、殺意の根が深い。だからほとんどの殺人事件が家庭内や恋人同士、友人同士のあいだでおこる。
「親しい人間に対して、私たちはつねに無意識の殺意を抱く」というより、愛する人間に対してさらに強い愛を感じたいと望むときに無意識の殺意との葛藤を要請する。葛藤がある方が、葛藤がないときよりも欲望が亢進するから。……自分は愛情深い人間だと思っており、かつその愛情の深さを絶えず確認したいと望む人間ほど危険な存在はない。
反ユダヤ主義者はどうして「特別の憎しみ」をユダヤ人に向けたのか。「反ユダヤ主義者はユダヤ人をあまりに激しく欲望していたから」
▽フロイト 暴力的な父を殺した兄弟が、罪悪感を緩和し、父をなだめる試みとしてトーテミズムが発祥する。父殺害への自責から「(父の記号である)トーテムを殺してはならない」という宗教的禁令を導きだし、父の運命の反復を避けるために「(父の複製である)兄弟を殺してはならない」という社会的禁令を導き出した。それが「汝殺すなかれ」という戒律にかたちを変えて宗教が成立する。……「神とは要するに高められた父にほかならない」 すべての宗教の起源を「原父殺害」に帰す仮説。
「原父の物語」を拒絶する人びと、ちがうしかたで「時間」「主体」「神」を基礎づけようとしたのがユダヤ人の父祖なのでは。「罪深い行為をなしたがゆえに有責意識を持つ」という因果関係を否定する。不正をおかすより先にすでに不正について有責なのである。この逆転のうちに、私たち非ユダヤ人は自分には真似のできない種類の知性の運動を感知し、それが私たちのユダヤ人に対する激しい欲望を喚起し、その欲望を維持するために無意識的な殺意が道具的に要請される。

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