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権力に迎合する学者たち  <早川和男>

 20070922

研究テーマは本質的であるか
時代の課題に応えているか
研究は主体的か
研究の方法は科学的・論理的であるか
時代をリードする先頭に立っているか
研究体制は十分か

研究者のよってたつべきこうした原則に、研究者の世界でもマスコミの世界同様、逸脱しているという。
流行する分野ばかりに集中し、「最先端」ばかりをつまみぐいする人が多い。
「格差社会」の報道に違和感をかんじるのもそこだ。格差に焦点をあてることじたいは必要だし、はやくから指摘していた斎藤貴男らはすばらしいが、皆が皆、よってたかってかぶりつく雰囲気にはなじめない。
筆者はグループ研究に埋没し、短期的な成果ばかりをおう研究者のありかたを批判する。集団主義から脱すれば研究生活における孤独・孤立をしいられるが、それを覚悟しなければ、創造的な研究などできないと指摘する。
流行からはなれようとすると、テーマをさがすのも、切り口を見さだめるのも大変だ。先がみえない不安がつのり、わかりにくい分野だけに周囲の評価もえられない。
新規採用の若い教員は3年契約の任期制が多く、3年以内に成果をあげなければポストは更新されない可能性がある。だから、プロジェクトのメンバーになり、企業や行政に組みこまれ、論文の量産化がはかられるという。
「場」を失う恐怖によって「上」に従属するという意味ではテレビなどの現場が最先端をはしっている。表現する「場」をなくすのが怖いから、上司の言いなりになる。小器用でよくできるイイコチャン記者が量産される。そういう流れが研究者の世界にもおよんできた、ということだ。ますます「善人」が体制にとりこまれていく。
自分の研究に対する使命感や愛着、好奇心をどう育てるのかがわからない研究者が多いという指摘もメディアと同じだ。命を守るため、戦争を防ぐため、といった単純だけど実感に裏打ちされた感情の基盤をもつ記者がどれだけいるだろうか。今はたぶん「中立」「公正」という標語をあがめ、そのくせ「公正」のためにたたかう意思もない連中が多数を占めるのではないか。
いい子ちゃん製造工場となりつつある状況のなかでどうしたらいいのか?
「現場にでかけていって、苦しんだり悩んだりしている現場の人の中に放りこんで、そこでいろんな人から直接声を聞くことから始めるしかないんじゃないか」「住民の住生活の実態や困っていることなどに密着して研究していないと、とんでもない方向にいってしまう。人間はちやほやされたりといった安易に流れがちだから、相当意識してやらないとだめになっていく」
いろいろな学会誌に掲載される、ちょっとおもしろいけど心に残らない論文。大切だしそれなりにおもしろいけど中二階にとどまっているような社会保障関連の新聞報道……。それらの「中途半端さ」はたぶん現場におりきっていないためのものなのだろう。

「格差社会」ブームに対して筆者は、「格差」の指摘がもっぱら個人の収入や資産などの貨幣ベースで、生活基盤としての居住保障の視点が抜けていると指摘する。収入に左右されないで暮らせる条件が必要であり、「安心できる住居」はその土台だと主張する。
たしかに「家」という生活基盤がしっかりしている田舎では、都会の野宿者が稼ぐ程度の月4,5万円の年金でそれなりに普通に暮らす年寄りがいる。でも、大切なのは「住居」だけではないような気がする。「畑」という生産の要素が生活の場にあることが住居という基盤にくわえて大事なのではないか。生産という要素が年寄りの尊厳を支えているのではないか。
ひとりでも自らの意思で山村に住みつづる老人と、立派な家にすんでいても生きる気力を失っている都会の老人を比較すると、そう思えてならない。

-------抜粋・要約----------

▽九条の会への不満 国公立大学の独立法人化、教育再生三法などの「教育改革」は、憲法23条の「学問の自由は、これを保障する」を著しく損ない、研究・教育の自由を奪う危険に直面している。教育の国家管理によって、国民世論を憲法改正に誘導する基盤づくりの役割を担わせようとしている、と。こうした事態に正面から立ち向かうことで、九条擁護の実体的可能性が開けるのでは。……知識人にリードされた市民が九条擁護にエネルギーを注入している間に、アメリカ型市場原理主義競争社会に追いこみ……。
25条の生存権、23条の学問・教育の自由などなどと、平和憲法を有機的に結びつけた取り組みが、いま必要なのではないか。
(「自立、とは、自立を求める過程である」。それだけではない。民主主義を求める過程そのもののなかに民主主義がある。平和を求める過程に平和主義がある。「過程」がなければなんの意味もない)
▽国公有地のデベロッパーへの払い下げ。それにつづく地代・家賃統制令の廃止、借地・借家法の改正等々。これらが実施されたら、大都市の地下は急上昇して住宅問題は深刻になり、住民は居住権を奪われて都市内部から追い払われ、生活空間の貧困化に……。
こうした動きに専門分野の学者はほとんど反対せず、沈黙を守っている。とくに東京の学者……。
▽ドイツのイェーリング 「権利のための闘争は、権利者の自分自身に対する義務である」(〓求め続ける過程こそが権利)
「国民の力は権利感覚の力にほかならず、国民の権利感覚の涵養が国家の健康と力の涵養を意味する」
▽ハンナ・アーレント「ヒットラーの政権掌握は民主主義的な憲法のすべての規定に照らして合法的であった。(彼の)人気は、大衆の愚かさや無知を利用した巧妙な欺瞞的なプロパガンダの産物では決してない。全体主義運動のプロパガンダは確かに嘘だらけにはちがいないが、決して秘密めかしてはいない」
「スターリンはまず共産党内の諸分派を壊滅させてしまうと、党の方針を右に左に猫の目のように変えることで党綱領を有名無実なものにした」
▽国立大学法人の「研究評価委員会」 評価の基準のなかに、学外委員(国、自治体など)をやってるかいないか、講演・研修活動をしているか、が入っている。独立法人化は、審議会委員などを業績とみなし評価することでオーソライズ化した。
▽「日本の平壌・神戸市」と表現したのは田中康夫氏。私は「スターリン・チャウシェスク体制」と形容していた。市民は網の目のようにはりめぐらされた翼賛組織によって絶えず監視される。「進歩的」学者・知識人も一切批判せず、むしろ称賛し、「先進自治体」として全国に発信した。
私の神戸市政批判に対して、震災前、左翼系大学人は「国のほうがもっと悪い」と反論し、免罪した。しかし国が神戸空港をつくれ、と言っているわけではなかった。……全党による超翼賛体制がいかに市民の安全や福祉や生活環境や防災に手抜きしてきたか。
兵庫県自治体問題研究所は1997年3月25日、「戦後神戸市市政の歴史的検証」で神戸市の都市経営・開発行政を評価したうえで、「震災を人災としてすべての行政の、しかも自治体の責任にする論調には納得しがたい。人災をいうなら国の制度の問題はじめ検討すべき課題は多い。市民の側も、神戸に地震はない、との思いこみと防災を求める運動もなかった。なにゆえ震度5の予想でしか、防災計画はたてられなかったのか」

▽兵庫県の委託調査「兵庫県震災対策調査報告書ーー兵庫県下における地震災害の潜在危険度」(1979年)担当した神戸大理学部の三東哲夫教授は、活断層の地震の危険を指摘し、警告していた。
▽震災前まで神戸市政をサポートする大学教授がいたが、所属政党が野党にまわると市政批判派に転じた。〓日本には「独立した個人」である学者・知識人が保守・革新を問わず少ないのである。
▽サイードはアマチュアリズムを主張する。「利害に、もしくは狭量な専門的観点にしばられることなく、社会のなかで思考し憂慮する人間」。権力・集団思考でそれは困難である。
▽独立法人化 尾池・京大総長「予算が急激に削減される中で、病院の先端医療をやるように言われたりしますが、毎年1%ずつ経費が削減されて先端医療は進みません。法人化で大学がよくなるわけがありません。
……経営協議会が置かれ企業の方など外部役員が入って、人減らし案が出されます。……法人化してどこが変わったかといえば、運営がしんどくなった、ということです」
▽新規に採用される若い教員は3年契約の任期制の雇用が多い。3年以内に成果を上げなければポストは更新されない可能性がある。プロジェクトのメンバーになり、企業や行政に組み込まれ、論文の量産化が図られる。
▽共同研究の陥穽。研究者としての主体性を持たぬままにとりくんでいると、一番大切な問題意識や思考力が流行に流される。
……集団主義の社会では、異論をはさめば居心地の悪いことになってしまう。そしてその集団の思考方式から外れた見解に対しては口をきわめて非難する。
▽日本人学者の多くは孤独に耐えうる強靱な精神をもっていないから、革命的な新しい領域を開く研究テーマが浮かんでこない。孤独に耐えられないから、学問のはやりすたり、流行に遅れまいとする。……高齢者福祉や格差社会論などの調査研究も、一種の流行であり、主体的な研究体系に位置づけることなくその中に身を沈めていると、本質的な研究への道筋はつくれない。
▽サイードのいうアマチュアリズムとは、「専門家のように利益や褒賞によって動かされるのではなく、抑えがたい興味によってつきうごかされ、よりおおきな俯瞰図を手に入れたり、境界や障害を乗り越えてさまざまなつながりをつけたり、また特定の専門分野にしばられずに、専門職という制限から自由になって、観念や価値を追求する」こと。
▽流行の戦線にはたくさんの研究者たちが集まっているが……大多数の研究者は、研究資金が豊富に出てくる部門かレポートがどんどん書けるような部門にしか、集まらない。食えそうもない研究や、どこからどう切り込んでよいのか手がかりの見当もつかないような研究は、敬遠される。……たとえ漠然たるものであっても、科学や技術の全戦線を展望し、おぼろげながらにでも、その構造をおさえ、そこから自己のテーマを発見し、全戦線の中に位置づけることが重要だ。それを可能にするには、専門も資質も違えた人たちとの学際的な討議を重ねて、現代社会の主要な研究課題の戦線を見定め、その中に自己のテーマを位置づける必要がある。……西山先生の学会発表などでの質問の第一声は、つねにといっていいほど「あなたはその研究を何のためにやっているのですか」というものであった。
……インフォメーションの洪水に引きずりまわされると、研究の対象がぼやけてしまったり、どこからどのように切り込んでよいか見当もつかなくなる。……だから、若くて経験も少なく、既成のインフォメーションにわずらわされないほうが、よい構想をたてるのに有利な場合がある。
「テーマ追求の過程で、新たな問題点があらわれ、新たなテーマが生じてきて、最初の構想の内容が、一段とゆたかになるようでなければ、だめである。新たな問題の方向に枝分かれしていき、その過程でふたたびつぎつぎの問題点が生じ、仕事がしだいに体系化されることが、望ましい仕事のすすめかたである」
私の場合は、はじめから間口を広げた構想のもとにいくつものテーマを設定し、それが一つずつ解決されていくにつれて仕事が体系化されるというような研究の進め方をしてきた。
▽境界領域で仮説をたて、体系的に構想し、固有の論理の創造を目指す。
現実・現地から学ぶことは「想像力・創造力」の原点である。
情報取得は自己の課題に必要最小限にとどめる〓。
発表テーマが細分化された学会、行政・業界主導の学会に深入りするな。
音楽・歌劇・絵画……なんでもよいから感動できるものとの接触を。
暇があれば借金をしてでも旅行する。
▽日本では、権力にかぎらず、企業、学校、メディアなどで批判的発言をすると人間関係が気まずくなって、世の中住みづらくなる。だけど仕方ないことなのです。
▽私のゼミでは、社会科学、哲学など他分野で時代に残る仕事をした内外の人の著作も読んで、その発想、論理構成、方法論や学問としてのありかたなどをディスカッション。「矛盾論」も。
▽流行っているテーマを系統性なしに個別に次々と追いかけているだけの人が多い。
▽あるテーマにアプローチするにはどんな方法が良いかを、自分だけでなく、これまで蓄積されてきた研究成果や方法とつなぎあわせて探る地道な努力が不可欠。
(〓場を失う怖さによって、統率される。かなり弱い。)
▽方法論に関する本 学者・研究者の間で学問の方法を論じあうことが稀になて衰退している。……方法や目的を議論している間は、方法と主体のかかわりは密接だから、まだ主体が生きている。それがいまはない。道具になってしまっているから学問の方法など必要を感じない。

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