岩波書店 佐高信 990319
丸山真男を読みたくなった。「知識人だけでなく、ジャーナリズムや学会に蔓延している自分の言動にたいする無責任さ。昨日言ったことをきょう翻して平然としている」という指摘。コメの自由化にしても規制緩和にしても、一時の流行、財界がつくりだした流行にながされて万歳をとなえる浅はかさ。立場性がなくなるとこうも弱くなるものなのだ。
私自身をふりかえっても「地方分権」をめぐって苦い記憶がある。地方分権は原則賛成だが、はちゃめちゃな環境破壊をつづける愛媛県の行政をみているときには、こんな県に分権されたら、環境もなにもめちゃくちゃになると思った。分権は原則賛成、各論反対という立場だった。
でももうすこし視野を広げるとちょっと甘かったことに気づく。各論に移る前に原則でとおさなければ、既成権力に利用されるだけ、ということがあるのだと後から知った。介護保険の評価についても、今でも批判的ではあるものの、なにかちがう面もあるのでは、とも思いはじめた。まだ見えないけれど。
▽埴谷雄高氏は、個人的自由人の連合であるアナキズムと、階級廃絶と国家死滅を意図するマルクス主義を統一しようと考えていた。新左翼の思想家だったようだ。戦前の独房生活で思索し、出獄するときに「考えていることをつめる必要があるからもうしばらくここにいたい」と答えたという。すさまじい精神力だ。遊びの旅行記の原稿ごときで、ウダウダ考えて書くことさえできない自分が情けない。
加藤周一の「羊の歌」を読んだときのことも思いだした。あの戦時下で、自分の良心を、たもちつづけた理性の力はどこからくるのか。
▽戦前は、恐慌による危機意識があるなかで、疑獄事件をきっかけに、若手将校が下からの戦争開始による軍の改革を決意することになった。下克上的な世直しだった。もちろん、戦争開始の理由はほかにもあろうが、汚職ー戦争の動きは今と似たものがあるのではないか。政治の汚職と堕落、そこに北朝鮮の船がきて自衛隊が出動する。こわい一致だ。
▽ソクラテスの弟子にプラトンとキニクがいた。プラトンとキニクは正反対だった。かたや理論の一貫性、かたや実践の首尾一貫性。現代においてはプラトンが多く、キニクがあまりに少ない。
ただ、アメリカのジーパン・Tシャツは、繊維消費量を激減させ、経済の方向転換のシグナルをしめしたという。新しい文化スタイルを創出して、自覚的に着用し、それによって土台の経済をかえ、やがては政治もかえる行動様式。商品ボイコットといった運動形態よりもより積極的な抵抗の形になる。
▽生産者と消費者が貨幣に仲立ちされていることの意味は、逆に生産者と消費者を見えない壁によってへだててしまうことだ、と久野は書く。商品と貨幣の支配をより人間的な交換制度に高めていく必要があるという。私も、生産者と消費者をわける考えかたはおかしい、と以前から思ってきた。では「より人間的な交換」とは何なのか。産地直送ならよいのか、都会の人も畑を耕すしかないのか、具体的な形がみえてこない。抽象的な論述はできるが、具体的な行動が思いつかない。
▽社会組織に拘束された自分、人類の一員に気づいた自分、エゴの自分、という3つがないまぜになっている。社会組織を支配する側は、親子、夫婦、消費者ー生産者といった壁を、「運命」としてうけいれさせようとする。あるいは「必要悪」といってもよい。文化がそうした隔たり、エゴの自分と人類意識の自分という葛藤からつくりだされるかぎり、文化活動は、支配する側にとっては、好ましいものではなくなる。
だが、文化も体系になってしまえば、ひとつの制度として、人間をおさえる組織になってしまう。社会組織が文化の創作・表現活動を紋切り型にしてしまう。エゴと人類意識の側面を破壊してしまう。愛媛で行政が音頭をとって賞揚する「文化」などはその典型だろう。○○協会という縦割り組織をつくり、統合する。だからつまらないものしか生まれない。例外はロックかなあ。
▽社会組織に属するマスク人間としての生活は、できるだけ私的領域を広げ深めることでやわらげなければならない。文化活動とは、あらゆるマスク・肩書きをとったプライベートな人間が、プライベートな活動でつくりだすものであるから人類的な意味をもっている。特殊な社会集団への帰属を自らゆるめていくことが必要だ。
▽日本人にはユーモアの精神が足りない。ゲタゲタニタニタの知力のない笑いしかない。「阿Q正伝」などはその逆だ。土壇場のユーモア、当然あるはずの信仰と実際のずれ、よじれ、裏返しなどからでてくる意味喪失のおもしろさ。
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