■日本文学史序説 上 加藤周一 ちくま学芸文庫990603
抽象的な哲学の体系が作られなかったかわりに、具体的な文学で思想を表現してきた。抽象的・体系的・理性的な秩序よりも、具体的・非体系的・感情的なものに即して言葉をもちいてきた。抽象的な音楽の独創的な発展は少なく、具体的な造形美術に感覚的な世界を表現し、発展させた。すなわち、文化の中心には文学と美術があったといえる。
普遍原理から具体へ、という中国文化。日本は、部分から全体に至ろうとする。
中国では、新しいものと古いものが激しく対決して、古い者は破れるが、にほんでは、旧に新を付け加える形だった。極端な保守性と極端な新しもの好きとはおそらく盾の両面であろう。同じ日本文化の発展の型を示している。
日本語じたいが、修飾語から名刺、動詞の語順が、部分から全体、という構造になっている。大名屋敷のつくりも、部屋をつないでいくうちにいつの間にかできあがった、という作り方である。
日本の文学者は、状況の特殊性の叙述に力を入れる。細かいところに力を入れ、全体の構造を考慮することが少ない。
地理的にも、作者も読者も大都会の人間で、
元禄は町人文化ではない。武士階層が自ら文学を作り出した。武家出身の作家のなかに、武士のために書く者と上層町人のために書く者とがわかれはじめた時代である。化政期には、町人出身者が作者のなかに名を連ねるようになる。明治以後は、都市中産階級、江戸以来の町人・士族と地方の中小地主層に大別できる。
支配体制への文学の組み込まれ、も特徴だ。集団に組み込まれ。
古今集から新古今集まで、驚くべき素材の一致があった。春は花、秋は紅葉であって、範疇以外のものはなにもでてこない。平安の物語は、貴族社会の外へけっして出ようとしなかった。今昔物語は偉大な例外だった。
鎌倉・室町も、僧侶は僧院の外に出ない。狂言だけが例外だ。
戦前、文壇が作り出した私小説にいたっては、文学の素材を江戸の戯作小説より狭く限定する。自分の日常生活以外になにも書かない。
社会に組み込まれた作家は、価値体系を批判できず、超越もできない。が、所与の価値のなかで感覚をとぎすまし、表現を洗練することはできる。枕草子の伝統は、いまでも日本文学の特徴の一つだ。
抽象的・理論的ではなく、具体的・実際的への傾向。そこには超越的な絶対者はない。だが、特定集団の首長がその成員にとってしばしば絶対的な権威となった。他の集団にはその権威は通用しない。集団に超越する価値を信じなければ独立することはできない。逆に成員を強く組み込む集団内部には、集団を超える価値観の育つことは困難だ。
仏教もまた、超越的な面は忘れ去られ、現世利益の面を強調された。鎌倉仏教だけが超越的絶対者を置く例外である。
浦島の話は、起承転結の構成があり、2つの世界が物語りのなかで釣り合い、時間の速さのちがいががある。これは抽象的な思想である。他の風土記の民話とはかけはなれ、大陸の影響を思わせる。
万葉集は、叙情詩を私的・個人的な感情の表現とした。古代歌謡の肉感性のかわりに、「自然」を発見し、題材とする。広大な自然ではなく、小さな優しい身の回りの「自然」。その自然に託した恋の歌、それが大部分だ。万葉集は恋の歌集である。
古今集から「日本的季節感・自然愛」ははじまる。「自然」一般を愛するわけではない。都の花、都の雨、竜田山のもみじ…だった。自然ではなく、言葉を愛した。だから、見たこともない「名所」を描くことになる。
最初の転換期。9世紀。班田収受がされなくなり、土地私有化、自作農の発生がある。
荘園制による大土地私有がはじまる。
天台・真言。天台は理論を洗練。真言は加持祈祷へ。どちらも現世利益的になり、権力との対立はあり得なかった。
道真や紀貫之は、政治・経済支配層と知識人層の分離を示し、その傾向は時代を追って強まる。
道真になってはじめて、漢詩は心の表現となった。庶民の飢えと寒さをうたったのは山上憶良以後彼だけだ。政治社会と自分の運命を結びつけてうたう詩人は、おそらく道真が最初である。
竹取物語は緊密な構成、伊勢物語は微妙な状況の多様性。前者が道真型、後者がツラユキ型で、両者が出会うときに源氏と今昔物語が成立する。
鎌倉の転換期
旧秩序の崩壊の不安のイデオロギーは末法思想だった。現世での救済の可能性を否定し、「浄土」に救済を求める。
超越的な鎌倉仏教が生まれる。権力に抵抗して、地方下級武士、農民上層に広がる。いちはやく武士支配層と結びついたのが禅宗だ。武士階級のイデオロギーの道具となった。
親鸞「とにかく信じろ。自力に頼むうちは信じ方が足りないぞ」という意味か。
法然・親鸞は教義で旧仏教と鋭く対立。日蓮は教義はほとんど天台宗により、自己主張の激しさで対立した。
日蓮は、「法」があらゆる権力に超越する、とした。国のための仏教から、仏教のための国へ、という変化だ。
室町
御家人支配の鎌倉よりもはるかに地方の自律性を許容した。封建制とよぶにふさわしい体制が成立した。
一揆にイデオロギー的背景を与えたのが本願寺派の蓮如だった。現世利益的。後生の救いはみな平等。
専門の芸術家が輩出されるようになる。
禅宗の制度化と権力との癒着。寺院建築や造園にも特色。同性愛詩文も発達させる。大規模な出版事業もはじまる。茶道も禅宗寺院ではじまった。
商業の発達と下剋上。以前とはまったくちがう層から芸術家があらわれるようになった。能狂言の作者はほとんど知られていない。とうことは、身分の低い人だったことを想像させる。大衆演芸を貴族化するという上昇・洗練の過程だ。支配階級と大衆が同じ場所で同じ娯楽に興じたのは最近の大衆社会をのぞけば、この時期だけだった。
室町の大衆文化は、江戸に入り、支配層と大衆の文化の二重構造に変容する。権力集中を背景とする身分制社会の影響だ。
宗門改め、本末制度、檀家制度により、寺院を中央集権的な行政機構に組み入れた。政治・倫理教育は儒教。
宗教生活と芸術は分離した。仏教寺院が行政組織に組み込まれた時期が、イデオロギーとしての無力化と芸術的想像力の源泉をやめた時期と同じだった。
益軒は、博物学的自然学で、宋学を非体系化し、仁齋は倫理学で、朱子学を非形而上学化した。
オギュウソライは、歴史的接近法に特徴がある。白石は、思考の合理性と歴史的事実の追求を押し進めた。それによって国学と洋学への道を準備した。
武士支配層からの押しつけの価値観が「義理」であり、町人層の内在的価値が「人情」。現実の世界では「義理」が優先した。近松。西鶴。17世紀後半に日本語の表現に新しい局面をひらいた作家たちは、すべて連歌の世界から出てきたことになる。
芭蕉は、自分の眼で耳で自然を感じた。これは画期的なことで、「自然の発見」というべきものだった。彼が自然の句を作ったから、日本人が自然を好むとみずから信じるようになった。
【社会学の「枠組み」。「自然」という枠組みを古来日本人にはなかった。芭蕉が提供してはじめて広範な自然を対象とできるようになった】
■日本文学史序説 下 ちくま学芸文庫 990625
忠臣蔵の人気の秘密は「忠義」ではない。与えられた「忠義」という枠内において、武士官僚が象徴する公的秩序に、私的感情が挑んだ。馬鹿殿の敵討ちのために敵味方何十人が死ぬという目的・結果は問わない。団結と所属感の素晴らしさに感動した。日本人が目的を問わず団結する能力があるかぎり、人気が続くだろう。日本社会の基本構造である。
本居宣長が古事記を研究したのは、日本人の源流・大和心を知るためだった。「めめしくはかなきこと」が本音であり、「ををしくさかしげなる」部分はうわべにすぎないと、外来イデオロギーと土着世界観の関係を記した。彼は「あるがまま」というが、ここから道徳意識を導き出すのは難しい。彼が儒仏イデオロギーを廃することで見つけた大和心には、儒仏に匹敵する規範意識がなかったことと深く関わっていた。その意味でも宣長の「大和心」の理解は正確だった。
宣長が日本の神話を絶対化したのに対し、上田秋成は、各国のものと同列に見て相対化していた。ナショナリズムを批判し、毒舌を駆使し、反権威主義に徹した。「雨月物語」
福沢と兆民
福沢は1歩距離を置いて政府を支持し、兆民は反対した。
福沢は、国家に超越する個人の自由独立という価値を信じ、愛国心を「人間の私情」にすぎないと指摘した。が、国の劣勢なるが故に妥協として、富国強兵を支持した。ただ、労働者農民には冷たかった。「富豪の経営は立国の必要で農民の反抗は無知の結果」と断じた。西洋中産階級の手本に忠実だった。
兆民にとっての自由民権は国境を越える普遍的価値だった。したがって欧米帝国主義も批判できた。一揆の貧農について、福沢とは正反対の対応をとる。彼に続くのが幸徳秋水だ。「三酔人経論問答」、自らのガン進行の様子を記した「一年有半」。自己の病苦さえも、世界の全体を理解しよう記述しようという意志。
2人の西洋には「神」はなかった。世俗的立場を貫いた。
柳田国男は、「西洋化」のなかでだれも注意しなかった「常民」に目を向ける。変化する日本社会の根底を支えるものは何か、という問題意識だった。指導者の歴史にたいして常民の歴史。生活史を追った。「海上の道」「先祖の話」随筆の傑作「雪国の春」
鴎外は、西洋語の散文の緻密さ・正確さに学びながら、漢文を基礎にして緻密な文体を完成させた。実生活上の妥協を、文学的創造力に転化する生き方。
漱石は、日常生活のなかに心理や価値観、個性を描き出して人間のあり方一般に及ぼうとする形式を西洋文学に借りて日本語小説を完成させた。個人主義のてってい。1世代前とはちがい、彼らは西洋の技術ではなく、精神に関心を抱いていた。「明暗」は心理小説の最高傑作。
プロテスタントが、天皇制国家に超越する立場に道を開いた。初期の社会主義運動の多くはプロテスタントだった。
「自然主義」の誤解。フランスの自然主義は生物学的方法をふまえ、社会的視野をそなえ、作者その人を主人公としなかった。日本の自然主義はまったくこうした特徴を欠く。主題は身辺雑事に限られていた。
啄木の小説。論文。「時代閉塞の現状」
茂吉や菊池寛、高村光太郎、武者小路実篤らが戦争肯定した。政治の側から個人を組み込もうとする力が強まったとき、政治哲学の上で無防備な世代が、国との自己同定の潜在的欲求を顕在化させたのでは。政治社会現象を分析し、それに対して意識的な立場をとる習慣も概念的な道具もなかった。〓現代の無関心・シラケに近いものではないか。
一方、転向したマルクス主義者も、積極的軍国支持者になったものもいる。政治社会現象に目が向いているからこそだろう。
芥川 反軍国、反国家、自由主義が徹底.多様な文体をかきわけ、叙述も鮮明だった。
井伏は柳田をつぐ。常民の世界を微妙に描ききった。ユーモアも特徴だった。
時代の流れに抵抗し、極端な少数派を貫くには、徹底した個人主義的信念が必要だ。永井荷風もそうだ。知的距離(相対化)
宮沢賢治 方言、仏教用語、科学技術用語、すべてを飲み込む豊富な語彙。想像力の雄大さ。
もの人が死ぬということに喝采を与えたのだろう
■日本文学史序説 まとめ
日本文学のみならず、日本の思想・文化全般の大きな流れを、「日本の土着文化vs.海外からの文化」という枠組みで記す。この葛藤の結果は、一部の例外をのぞいて、海外文化の「土着化」という結果をもたらしてきた、というのが著者の主張である。
まず、土着文化の特徴を指摘する。
○絶対的な存在としてのキリスト教などの神や、現実を抽象的に体系づける世界観など、私たちが今現に住んでいる現世を超越する存在を認めない。
日本の神々は山や海など私たちの生活圏の延長線上に住むことになり、本来超越的な仏教は、鎮護国家や現世利益を目的とするようになる。
自分が属する集団を超越する価値を認めないことになるから、集団への帰属意識が高く、保守的になる。明治から昭和にかけての国家主義の起源も著者はここに求める。
例外は、鎌倉仏教とキリスト教、マルクス主義であるという。集団・国家を超越する価値を信じるからこそ、現世の権威を権威と思わないですむことになる。
○文化面では、西洋では文化の中心であった抽象的な哲学は発展せず、「いま」「ここ」の描写に優れた文学が日本では柱になった。
その文学も、中国の三国志のように綿密に構想されたものは例外で、細部の寄せ集めという形を取る。すなわち、普遍原理から具体へ、という思考パターンではなく、細部が集まり全体を作るという形である。
ひとつの演目でありながら、各部分がバラバラに上演される歌舞伎(浄瑠璃?)はその典型であり、平安期の日記文学ももちろんそうだ。竹取物語や浦島伝説などは緻密な構成と、抽象的な思考(浦島の場合は「時間」)が駆使されるが、これは大陸や朝鮮半島の影響を示している。「いま・ここ」の細部の優れた描写という特徴をつきつめると俳句に行き着く。
流れを記述するとともに、それぞれの作家の特徴と意義を端的に示してくれる。
たとえば柳田国男は、「西洋化」のなかでだれも注意しなかった「常民」の生活史に目を向け、日本社会の根底を支えるものを探求したという。すなわち、指導者の歴史にたいして常民の歴史を対置した。
鴎外は、西洋語の散文の論理性と正確さに学びながら、漢文を基礎にして緻密な文体を完成させた。官僚としての実生活上の妥協を、文学的創造力に転化する生き方を通した。
漱石は、日常生活のなかに心理や価値観、個性を描き出して「人間」に及ぼうとする形式を西洋文学に借りて完成させた。
もっと文学を読みたい、という気にさせてくれる本である。
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