MENU

現代思想のパフォーマンス  <難波江和英 内田樹>

 松柏社 200708
現代思想の概説書ではなく、現代思想をツールとして使いこなす技法を実演する……という「まえがき」にみせられた。
とりあげている思想家もソシュール、バルト、フーコー、ラカン、サイードといった、理解したいけど難解な人ばかり。内田樹の入門書はわかりやすかったし、これはちょうどよい、と思って買った。

--------------------
□ソシュール

・「言葉はモノの名前である」という言語命名論を否定
・歴史的方法(通時言語学)と区分して、同時代の言語現象を研究する非歴史的方法(共時的言語学)を導入
・ランガージュ(人間に特有なシンボル化能力)が社会制度としてあらわれたのがラング(各共同体でつかわれる国語体)。ラングが個人の発話としてあらわれたのがパロール(実際に発話する音声の連続)
・言語は、相互に関係した要素から構成されている価値の体系
▽シーニュ(記号)=シニフィエ(概念)+シニフィアン(音響イメージ)
記号で動物や雪を区分したり、細分化したりするからこそ、それに応じて、それぞれの「モノ」が存在しはじめる。言葉とは、世界を区分する記号としての語であり、記号の相互の関係から構成される体系。
▽語の「意味」(シーニュを構成するシニフィエとシニフィアンの関係から起きる)
語の「価値」(あるシーニュとほかのシーニュの相互関係から生まれる):それぞれのシーニュは、それ以外のシーニュではないことにより、独自の存在根拠をもつから。意味も価値も、その内部には存在せず、記号にまつわる関係性から発生する。従来の実体論ではなく関係論の視点から考察。だから、人間の知性や事物の存在を最優先した19世紀までの主知主義や物質主義はもとより、人間の主体を中心にすえた20世紀の実存主義に対してもアンチテーゼとして働いた。
▽語より先にモノはない。語とは世界を区分する記号である。言語とは差異の体系。

□ロラン・バルト 記号学
▽「私は私がいま語っている言葉の主人ではない」という確信→
・記号を操作するとき、私たちは「見えない」コードに規制されている(構造主義)。
・記号を操作するとき、私たちは「他者」になっている(ポスト構造主義)。
▽文章を「書く」行為は、頭の中にある「言いたいこと」を「言葉」に変換するという単純な行程ではなく、「言いたいこと」がせきとめられ、「言う気のなかったこと」が紛れこむシステム。
▽「零度のエクリュール」
ラング(日本語etcという外からの規制) スティル(こだわり:個人的な言語感覚:内側からの規制) ラングとスティルの結節点に第3レベルの「エクリチュール」を想定。ラングやスティルは主体的には選べない。エクリチュールは選択できる(語調やモードやエートス)のようなもの。「ぼく」から「俺」へ、「ママ」から「おふくろ」へ、「主体的」に変更する。この人称の変化は、彼の言語運用の全域に影響をおよぼす。
「反抗的中学生のエクリチュール」「営業マンのエクリチュール」……
自由意思にもとづく選択ではあっても、その選択に今度は縛られる。髪型、表情、服装、生活習慣にいたるまで、彼の選んだエクリチュールは固有の「因習」への従属を彼に要求する。エクリチュールを選ぶことは、ある種の社会的な態度を選ぶことであり、ある地方神を奉じるローカルな信仰に帰依することににている。
「一度は選択されるが、ただちに惰性化する」エクリチュールを「ソシオレクト」(社会集団方言)とも呼ぶ。
あるソシオレクト(たとえば明治期の山の手方言)が覇権をにぎり標準的な語法となる。その「方言」を語ること自体が1つの党派的世界観への同意表明であるのに、その事実を組織的に忘却しているエクリチュールが「覇権を握った語法」
▽白い(無垢の)エクリチュール いずれの主張や判断にも与しない中立的なエクリチュール。「異邦人」や「俳句」
白いエクリチュールの反対が「神話」「ドクサ(臆断)」

▽ある記号について、それが潜在的に含む複数の「読み」のうちのただ1つの「読み」を強迫的に選択し続ける、という仕方で私たちは神話にからめとられている。「神話」的記号解釈とは、オブジェとしての記号のもつ豊かなカオス性を貧困化、一義化するプロセス。
「神話の檻」から脱出するには、1つの記号が可能性として含んでいるカオス性・多義性をいかにフカツするか、といいう課題としてたてられることになる。
古典的「文芸批評」(=究極的・一義的な意味をさぐりあてる=作者の真意の探求=書物の意味を限定する)の正反対の方向。文学テキストに作者はいない、起源はない、「単一の入力源」は存在しない=「作者の死」
「テキストは、文化の無数の発信地から送り届けられる引用の織物である。「表現する」と称している内的な「何か」は、できあいの辞典のようなものにすぎない」
「作者」ではなく「書き込む人」(集合的なテクスト生成への参加者の1人)という術語を提案。ネット文書は、まさにその具現化。「テクストの起源」を探し求めることはほとんど不可能。
ひとたび「作者」が排除されると、あるテクストを「解読する」という企ては無意味になる。
▽言語の営みが生産的でありうるには、定型を破壊する程度にはカオティックで、意味を持つ程度には秩序的であるという均衡点を進まなければならない。……システムが活力を維持できる程度には革新性を宿し、無秩序に陥らない程度には安定性を維持。「カオスの縁」においてのみ、複雑なシステム(=文学)は繁栄することができる。==新聞の文体も
▽人間の知覚は「中枢的」。私たちにとって「有意なモノ」だけに焦点をあわせ、残りを意識野から排除していきる。映画の知覚はそれとは逆に「非中枢的」。有意な記号にも「有意でない記号」にもひとしく焦点があっている。無意識的なものもふくまれる。映画の「向こう側」(作者の意図など)に突き抜けるのではなく、その無限の深みを味わうべき。

□フーコー
▽歴史学というよりニーチェの系譜学に基礎をおく。 歴史学は「歴史=連続体」を解明する。系譜学は、歴史学が発達してきた過程そのものを問題にする。だから、歴史を含めて、対象物の本質とは何かを解明するのではなく、その「本質」が対象物の「真理」と認められるにいたったプロセスを問題にする。
……世界には事象に先行する本質も、形而上のフィクションも、真理もないということである。プラトンのイデアやアリストテレスのデュナミス(始動因)に対する反論になっている。
▽マルクスやフロイトと似ている部分も。上部構造と下部構造の関係を「意識」と「無意識」におきかえればフロイトの思想。フーコーの場合は、上部構造が「私たちの思考パターン、下部構造が「その基盤にある既存の思考パターン」。
ソシュールの言語論も。〓語がモノより先にある。語の存在がモノの存在を規定する。
フーコーは、私たちの「現実」とその「意味」は、社会集団や社会関係に浸透している思考表現のモード(言説)を私たちが無自覚に身体に組み込んだ結果。私たちの現実とその意味は、社会における無自覚の構造によって編成されている。(レヴィ=ストロースの構造主義と同じ)
▽「監獄の誕生」
らい病=共同体から病人を排除して隔離し、集団単位で対処
ペスト=共同体の空間を厳密に分割して家に閉じこめる。
=区分のない状態から区分のある状態(生者と病人と死者を分類)を生成する。
ベンサムの一望監視施設には、両者の対処法の原理が、人間に規律を教え込むための建物の構造として凝縮されている。その建物を存立させている作用をフーコーは「権力」★とよぶ。(特定の個人にあたえられるモノではない)既存の制度や思考パターンのなかで働いて、人間の言動を規制したり拘束したりする効果のこと。

▽ライ病の対処法が、社会を混乱させる人間たちを管理するマニュアルとして利用されはじめる。17,8世紀のヨーロッパで「乞食、浮浪者、狂人、無法者」などを強制収容する制度がおきたのは、ライ病の症状を社会の混乱の象徴として受け止める感覚が無意識に働いていたから。
ライ病対処法=「純粋な共同体の夢」
ペスト対処法=「規律で訓練された社会の夢」
ペスト患者は訓練をとおして更正させるべき人間像の原型。
▽ベンサムの一望監視施設の構造そのものが、人間を教育・管理する方法を起動させている。「充分な光と看守の視線は、暗闇より人を拘束する」……従来の土牢が囚人を暗闇で隠したのと正反対。
▽人間が現実を形成するのではなく、現実を編成する仕組みもしくは権力によって人間が形成される。

□レヴィ=ストロース
▽音韻論と構造主義
・意識的な境域ではなく無意識的な境域に注意をむける。
・「実体」ではなく「関係」を分析の基礎とする。
・システムという観念を導入
・一般的法則の発見をめざす
▽親族の基本構造 社会構造が「人間」という概念を作り出してきたのであり、人間性とよびならわしているものは構造の「効果」にすぎない。
▽人間社会のコミュニケーションは3つの水準で展開する
・財貨サービスの交換(経済活動)
・メッセージの交換(言語活動)
・女の交換(親族システム)
「私たちが欲するものは、他者から与えられ、他者に与えるという仕方で、私たちの手元を通り抜け、運動しつづける」
▽物理的暴力→経済力→情報
社会的威信を構築する基幹的財貨が変遷し、そのシフトはあきらかに社会関係の流動化をよりはやめる方向にむかっている。
政治活動・経済活動を含むコミュニケーションの本義は、社会を同一の状態にとどめおかないことにある。「驕れる者は久しからず」
……貨幣を蓄財するだけでは「社会的威信」を構成しない。貨幣が呪術的威信を発揮するのは、それが無意味な仕方で蕩尽されるとき。つまり高い社会的威信を享受するほど、早く欠乏へと転落する。
これは、独裁的な権力者が、理不尽な暴政を行うほどに呪術的威信を帯びるメカニズムと似ている。理不尽さ故に畏怖され、憎まれる。もっとも独裁的な権力者とは、その没落を彼以外の全員が切望するような権力者のこと。
古代社会における政治権力と近代社会における貨幣は類比的な機能を果たしている。これは高度情報化社会においても当てはまる。情報とは実体ではなく、「知っているもの」と「知らないもの」とのあいだの水位差にすぎない。情報伝達がその水位差の解消である以上、情報所有者の社会的威信はその情報を失うことでしか獲得されない。
▽神話 「過大評価された親族関係/過小評価された親族関係」といった二項対立。人間の精神は複雑な情報を表現するために、二項対立を重ねてゆくほかに方法を知らない。
□ジャック・ラカン これは難しい!

▽感情や思考といった「私の内部」がまずあって、それが表情にあらわれるのではなく、表情パターンの取りこみをつうじて「私の感情や思考」が事後的に分節される。
(〓タテマエの大切さ)
(探偵が)自分の顔の表情をできるだけぴったりと相手の表情に似せる。そういうふうにして待ちながら、自分の心のなかに、表情にふさわしいどんな考え、どんな気持ちが湧いてくるのかをみる。

▽分析的な知とそうでない知の違い 自分の思考を不当に中枢化して「私が思考するように他人も思考しているだろう」と臆断する知は非分析的。分析的な知性は、自我の中心性を不用意に前提にしたりはしない。
(自分の一番大事なものをあげたら、相手は喜ぶ、と考える浅はかさ)
▽フロイト 心的過程は原則的に不快を避け、快をめざして行動する=「快感原則」。だが、外傷性神経症では、災害の夢を執拗に再帰させる「反復強迫」。何度も離婚を繰り返す人。快感原則とは正反対だ。快感原則をおいだしてしまうほど強力。
変化と発展を求める「生の衝動」「性的本能」「エロス」。その反対は、「死の衝動」で、「無生物の原状に帰還すること」「変化を欲せず、たえず同一の生活経路を反復する」=均衡と恒常性の永遠の静寂の「ニルヴァーナ」をめざす。
反復強迫という奇妙なふるまいのうちに、生物を律する太古的・根源的な力の痕跡を見出した。
▽サルトルの実存 「人間はおのれの本質を創造しなければならない」主体が「状況に進んで巻きこまれる」という仕方で、状況によって主体自身が変成しつつ、かつ状況を変化させるという相互規定的・弁証法的な関係(デカルトの主体を否定)
「私」とは内部と外部の臨界に発生する。「私」にもし起源があるとすれば、それは「外部」を指向するある種の運動生という機能のうちに求めるしかない。〓

▽鏡像段階 赤ん坊が鏡に映った自分の像を自分であると認識して、強烈な喜悦を経験すること。そのとき「私」を手に入れる。「主体がある像を引き受けるとき主体の内部に生じる変容」
▽サルトルの「宿命」=「たたかうことを宿命づけられた」民族解放の闘士
ラカンの「宿命」=狂人 狂気を病むことが人間の本質的な営み
サルトルは歴史の審判や人間の善性への素朴な信念があり、ラカンは、歴史の無意義性や人間の根源的邪悪さのほうにリアリティを感じている。ラカンは歴史の審判力を信じず、パラノイヤたちに領導された政治革命がよりよき社会をつくりだすという幻想をもつこともない。
▽こぶとりじいさんの物語 鬼が爺さんたちを差別化した物語、ではなく、差別化の説明のために、鬼の存在が呼びだされた物語。私よりはるかに強大なものがまず起源に存在しており、それが私と私の鏡像を私には理解できない基準に基づいて区別している。そういう考え方をすりこむのがこの童話の説話的機能。
「権力を持つ者はどのような理不尽でも許される」と合理的に説明すると、話が見えなくなる。事実は逆で、「理不尽な決定を下す者に人は畏れを抱く」……日本の家庭では、父親が「理不尽」にふるまう権利を独占していた。(理不尽であるほど顔色をみなければならない どこの家の話?)
私の外部に神話的に作り出された「私の十全な自己認識と自己実現を抑止する強大なもの」のことを精神分析は「父」と呼ぶ。
こぶの切断(去勢のメタファー)という行為を通じて、鬼は「似たもの」爺さん2人を強制的に切り離す。その切り離しが「こぶのあるもの/ないもの」という世界の記号的分節を開始する。だから、爺さんたちが鬼の不条理な威嚇に屈服したとき、彼らは「父」という物語を受け入れ、エディプスを通過した。物語の説話的メッセージは「エディプスを通過し、象徴界へ参入せよ」である。
▽「私」は2度「命がけの跳躍」をする。1度目は、鏡像段階において、「私の外部にあるもの=母」を「私」と同化することによって。2度目は、エディプスにおいて、「私の外部にあるもの=父」の威嚇の下に、「母の不在」を「母の不在の記号」と置き換える術を学ぶことによって。どちらも「あるものを別のあるものとすり替える」ことによって「私」はそのつど危機を逃れ次のポジションに進む、ということ。これが人間の存在論的構造。
レヴィ=ストロースは、この存在論的宿命を「コミュニケーション」という言葉で表現した。「女の交換」「財貨サービスの交換」「メッセージの交換」は人間であるかぎり構造的に課された責務である。何かを受け取ったら、それを別のものに「すり替えて」次に送る。それが人間の宿命なのだ。
「女」「財貨サービス」「メッセージ」のどれかのレベルで「すり替え」に失敗したものを私たちは「心を病む人」と呼ぶ。それゆえ「治療する」とは、「受け取ったものをすり替えて、次の人に手渡す」というラインのなかに再びその人を巻きこむことを意味する。(精神分析のする側は、だから、金銭を受け取らなければならない)
精神分析では、治療者はひたすら患者の言葉に耳を傾ける。患者の言説以外のデータを排し、患者の言説の内部にとどまる。重要なのは患者の言説を理解しているかどうかではない。精神分析の目的は、患者の無意識に「正しい解釈」を与えることではなく、問いかけと応答の往還の運動のうちに患者を引きずりこむこと。
「メッセージの交換」と「エロス的交流」を果たした患者は最後に分析家によって「経済活動」のうちに巻きこまれる。セッションの終わりに治療費を請求する。無料で治療してはいけない、というのは、精神分析の原則である。
分析医と患者は、言葉を交換し、愛を交わし、貨幣を取り交わす。こうして、言葉・愛・貨幣という3つの水準においてコミュニケーションを達成したことになる。

▽カミュ「異邦人」の母の死 失われたものを「失われたもの」として表象すること、母の死を「母の死の記号」にすり替えることによって、はじめて人間は想像界から象徴界へのテイクオフを果たしうる。その置き換えを拒絶することは、象徴界の原理、すなわち「父の否=父の名」を拒絶すること。
「存在しないものは「存在しないもの」として存在する。だから「存在しないもの」という名前をつけろ」と「父」は命じる。「象徴的な去勢=名付け得ぬものの記号化」
▽カミュ 自分より上位にある存在「父」を認めない。「二項関係の哲学」。二項関係を三項関係に変換しようとするエディプスに死力を振り絞ってあらがい続ける。
「私は人間になりたくない」と。
オイディプス神話が「第三者の介入による二項的世界の崩壊の神話的縮約」異邦人も似ている。最後は「父」に去勢=斬首 される。

□サイード
▽言説 フーコーから借りた。まだ具体的なかたちを与えられていない対象(オリエント)をさまざまな角度から語ったり書いたりすることで、それを「対象」として構成し、現実の「もの」として表現するシステム。ある西洋人がオリエントについて書くとき、オリエンタリズムの言説が必ず働いてその人間を何を書くか書かないかまで規定する。オリエンタリズムの言説が蓄えてきたオリエントのイメージをなぞりつづける。

▽オリエントを理解するときは、それを最初から存在しているものと見るのではなく、西洋と東洋の「(フーコー的な意味で)権力関係、支配関係、さまざまな程度の複雑なヘゲモニー関係」に働く権力から編成されたものと見る必要がある。
▽西洋人のオリエントに対する姿勢=「テクスチュアルな姿勢」 本に書いてある内容をそのまま現実にあてはめる態度。=ドンキホーテ マニュアル本の類 = 本の権威を便りにして、その体験をシミュレーション(疑似体験)する態度。「生身の人間と直面して混乱するより、テクストの組織的な権威を好むのは、人間に共通の弱点と思われる」
▽オリエントについて書く著者と読者は、一種の共犯関係を結びながら、オリエントに関する知識をつくりあげ、ついには、オリエントに関する知識が、実際のオリエントになる。こうして「創造」されたオリエントの現実が、ミシェル=フーコーの「言説」(=語ったり書いたりすることで、それを対象として構成し、現実のモノとして表現するシステム)を生む。
それ以降、オリエントについて表現する人間は、そのシステムに基づいてしかオリエントを表現できなくなる。
▽オリエンタリズムが、19世紀から20世紀にかけて、学問の分野から政治の戦略へ、さらに帝国主義の制度へと変貌をとげた。「オリエントを単にテクスチュアルに理解し、定式化し、規定するレベルから、これらをオリエントで実践するレベルへの移行が起きた」

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次