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マックス・ウェーバーと近代  <姜尚中>

 20070920
姜尚中だから買ったけど、やけに難しい。でもところどころなるほどと思うところもあった。
宗教が、呪術的な宗教から倫理的な宗教へと脱魔術化する。ユダヤ教はそうした役割をはたした。さらに、倫理的な宗教がプロテスタントにすすむと、脱組織化する。働くこと、金をもうけることが神への道となる。これが資本主義の基盤になった。「プロ倫」は読んだことがあったが、その前段階の脱魔術化にはたしたユダヤ教の役割についての説明は興味深かった。
プロテスタントは、それまでの共同体を破壊し、人間を孤立化させるカルトだった。
グアテマラではここ20年ほど、アメリカ系のプロテスタントが伸長しているが、これも「功利主義的に働くことが神の道」という考え方にもとづき、カトリックや伝統文化による共同体を破壊することにつながっている。カルト的なプロテスタントと市場原理主義とは親和性が高いようだ。
プロテスタントによって資本主義が勃興した後はどうなるのか。プロテスタントは、専門化とたこつぼに入ることを正当化したから、社会の官僚化をうながす。全体像のみえない視野の狭い専門技術者をうみだす。それが第一次大戦という未曾有の悲劇をうみだした。その反省からウェーバー的「近代」が否定され、「全体像」をみる潮流がいきおいをます。それが現象学的立場だったという。そんな逆風のなかでウェーバーは死ぬ。
だが実はウェーバー自身、アメリカを見るなかで近代の陥穽と危うさに気づいていたという。
内田樹の本でユダヤ教の倫理的側面をしり、現象学などの表面をなぞり、サイードやフーコーの本でディスコース(言説)という考え方にふれていたから、多少は理解できたのだろう。

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▽西洋合理化の起源としての古代ユダヤ教
▽「職業=召命」を基本的価値とする近代的専門文化のなかでは、人間性の調和的発展を断念せざるをえない職業人としての専門人。
▽科学・技術「進歩教」こそ、カルビニズム的禁欲のなれの果てであり、功利主義的現世主義に残された唯一の「宗教性」である。しかしそれは「生の貧困性」以外の何ものでもなく、「われら何をなすべきか」という究極問題に何ら解答を与えるものではなかった。「意味の喪失」という空虚が……
▽カルバンは、「人間のために神があるのではなく、神のために人間が存在する」=「人間のために経営があるのではなく、経営のために人間が存在する」。人間の到達可能な目標としての救済を断念した「壮大な排他性」。神は、柔和で慈愛に満ちあふれた相貌をかなぐり捨て、過酷な専制君主のように振る舞う「恐るべき神」である。「生きる喜び」とは全く別個のものであった。
▽カルビニズムの内面的孤独。隣人愛は、神の栄光への奉仕でなければならないから、なによりも職業の任務を履行することのうちに現れ、社会的秩序の合理的構成に役立つべきっものという性格を帯びる。
★プロテスタントはカルトだった。人間を孤立化させる…… グアテマラのプロテスタントの伸長
▽「隣人愛」の没人間化と神の意志の絶対性のゆえに、他者はその価値によってではなく、神の栄光という目的に対する有用の見地から判断され、目的ー手段分析に偏った功利主義的思考が胚胎することになる。
▽労働能力のない者、不具者や孤児に対する事前は、あくまでも神の栄光を増すという目的のためにひとつの合理的な「経営」でなければならず、礼拝へと強制的につれていかれる孤児たちの光景や、労働を忌避する者への「見せしめ」の見地からおこなわれたピューリタンの「貧民救済」も、むしろ篤信のあらわれと思われた。
財の分配の不平等も神の摂理のわざとして正当化。
ピューリタンの禁欲。激しい憎悪は、教会の行事ばかりでなく、クリスマス祭をも迫害した。(イギリス)
このような「抑圧」によってはじめて家産制的な保護関係からの個人の「解放」が可能であったことは否めないが、同時に、生活様式の画一化の傾向をうながした。
▽「職業としての学問」 青年たちは、新しい戦争を引き起こす国家・社会秩序からの離反によって老人たちと断絶していた。……大学を拠点として再生産される専門的な知とそれを支える「価値自由」のエートスは、表現主義的な原始性への憧憬にとらわれた青年たちに嫌われる。ウェーバーらの「古い学問」は、技術的な関心につかえるだけの道具的理性に堕してしまったようにみえた。
……新カント派の理性主義に対抗して、生の全体性を求める表現主義や生の哲学などがでてくる。
▽フッサール 「物理的ならびに精神的世界が、事実上何であるかを確定すること」だけに腐心する狭隘な合理性への反逆。
フッサールは、哲学的近代の路線を、「客観主義的な哲学の理念」と「絶対的、超越論的主観性を基盤とする哲学の理念」との闘いとして描き、後者の理念の徹底化の果てに超越論的主観主義への「究極的な展開」を構想する。
▽専門への努力をうながすウェーバーはディレッタンティズムの流行に対する警鐘(森嶋の主張)。
▽ピューリタニズムの影響を受けた「精密自然科学」にあっては、学問は「神への道」であった。神の意志を自然科学によってあとづけうると信じられた。自然という書物を読解すれば、神を読解できるということは自明の理であった。カントによって神の証明が批判されるまで、自然に関する学問が「神への道」であるという信念は学問の内的意味を支え続けた。
「真の実在」「真の芸術」「真の自然」「真の神」へ至る道として正当化された学問の前提が棄却された後で、逃げ道として残されているのは、学問を「真の幸福」への道のように賛美する功利主義的な理想だけ。
▽アメリカをウェーバーは「慈恵的封建制」と皮肉る。「産業王」を頂点とする、所有資産によて身分制が形成され、底辺労働者たちへの福利・厚生がほどこされる「慈悲深い」「封建的」支配。

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