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「羊の歌」余聞 加藤周一

■「羊の歌」余聞 加藤周一 鷲巣力編 ちくま文庫 20120717

 47歳から48歳にかけて、40歳までの半生を顧みてつづられた自伝的な著書「羊の歌」のその後と、「羊」に描かれなかったエピソードを書いた文章をまとめている。
 以下、読みながら感じたこと。

□未来予測を
 真珠湾の日に敗北を予測できたが、戦後の経済的発展は予測できなかった。東欧諸国のソ連支配から離脱は驚かなかったが、ソ連の崩壊は予想外だった。プラハの春では、ソ連介入はないと知識人は信じたが、地方の庶民は「彼らがこんなことを許すはずがない……」と語っていた。
 その場その場で世の中の今後を予測し、それが当たったか否かを検証する大切さよ。1989年の僕は「ニカラグア人も日本人も、一度手にした自由や権利を人々が手放すわけがない」と思い、ニカラグア民衆をすさまじい貧困が襲い、日本にこれほどの格差社会が来るとは予想できなかった。これからも社会の今後を予測し記録していこうと思わされた。

□教養とヨコ糸の大切さ
 中国を侵略していたときに、青年男女はジッドの「狭き門」やロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」を愛読していた。「大正教養主義」を通過した1930年代の読者の知的好奇心は、あの時代にあっても衰えていなかった。
 久野収や渡辺一夫、矢内原らは、フランス語を読みこなし、「日本の外に一歩出れば自分たちは多数意見なんだ」と知っていたから反戦の気持ちを維持できた。
 白井健三郎は「きみ、それでも日本人か」と言われて「いや、まず人間だよ」と答えた。「まず人間とは何だい。ぼくたち、まず日本人じゃあないか」「違うねえ、どこの国民でも、まず人間だよ」「何て非国民! まず日本人だぞ」という議論をあの時代にした。
 渡辺一夫は日記に「芳枝が悲しい諦めた口調で言う、兄弟も親も友だちも信用できない、と。そして、遅かれ早かれ、きっと子どもたちにも背かれるだろう、と。……しかし芳枝は1つの真実を隠している、夫婦の仲でさえも、時に相手を裏切るものだということを」と書いた。
 すさまじい孤独にさいなまれながら、冷静に記録し良心を保ちつづける知性の強さに圧倒される。
 あの戦争中でさえも、実はあちこちに反戦の気持ちをもつ小さなグループがあった。
 細川内閣で批判的野党がなくなった状況は、戦時の「翼賛体制」に似ていると加藤は記す。民主党が凋落し右派勢力が国会の多数を占める一方で、市民運動が弱体化している今はさらに危機的だ。
 政府に批判的なグループはあったが、その横の連絡がないという構造も似ている。
 分散した個人や小グループの少数意見が多数意見になるための条件のひとつは、横のつながりをつくりだすことだと加藤は言う。
 だがヨコにつながることは難しい。パレスチナ、慰安婦問題、人権問題……と各テーマにかかわる人はそれぞれの活動で手いっぱいだ。心情的には共感しても、ヨコにつながる具体的な方法や活動が見えてこない。
 でも何らかの糸が通ったとき、想像以上に勇気をもらえる、ということを、京都の「いま・ここネット」の経験が僕に教えてくれた。出会うこと、心をつなぐことの大切さ。多数派にはなれなくても、逆風の時代に「あきらめない力」を養ってくれるのではないかと実感できた。
 専門化が進むほど、専門の境界を越えて動ける精神の能力(=教養)が大事になるという。福島の原発事故は、専門分化が極度に進み、それに携わる人が極度に無教養だったことから起きたともいえるだろう。
 望ましい教養とは、他人の立場に立ってみることだとも言う。
 たとえば北朝鮮を危険だと思ったら、「絶対悪」だと決めつけるのではなく、北朝鮮の少女の日記や北朝鮮の少年を主人公にした小説を読んで感情移入してみることだ。相手の内在の論理を体感する「教養」は、政策的にもとても大切なのだ。

□みるみる「戦時下」に
 久野や丸山の学生時代には学内に左翼がいたが、5年後には左翼は消えた。30年代の後半になると言論の自由は奪われ、民主主義、個人主義は悪ということが常識化された。
 1980年代の僕の大学は立て看板が並んでいた。「産官学共同」が悪というのは学生の間では常識の範囲内だった。今では産学共同は当然視され、「大学の独立」は形骸化してしまった。
 そうした変化をきちんと記録し把握し、歴史のなかに同様の経験がなかったか学ばなければならない。

□ナショナリズム
 福沢諭吉は、議会を開いて民衆が政治過程に参加する仕組みつくることで「われわれの国」という意識で戦える国民をつくろうと考えた。「国権」を強化するためには「民権」が必要という議論だった。自由民権派もナショナリストだった、と、だれかが書いていたのを思い出した。
 参加型ナショナリズムは、必ずしも反外国人主義ではない。だが自然的ナショナリズムは根本的に反外国人となるという。外国人を自分たちと平等と考えず、必ず上か下かに見る。しかも同じ国民が、「鬼畜米英→アメリカ崇拝・英語公用語化」というように、歴史的状況によって上になったり下になったりする。

□全会一致の強さと弱さ
 日露戦争まで驚くべき能力を発揮した日本はその後、誇大妄想に陥り1945年に自滅した。
 45年以降は目標を「富国」に切り替えた。60年代に大成功したが、「21世紀の太平洋は日本の時代」などと「無敵皇軍」と同じ病的な幻想にとらわれた末にバブルが崩壊した。
 日本のような「全会一致」集団は、課題を与えられたときには力を発揮するが、目的が誤っている際に方向転換をする能力がない。少数意見がなければ、方向転換は起こりようがないからだ。民主集中制をとり、異論を外に出そうとしない共産党のつまらなさと弱さはここにある。

□二枚腰の思想
 鷗外は、「信じることのできる哲学にはついに出会わなかった」と言い、世間の価値をあたかも動かすことのできない「かのように」尊敬して暮らすしかない、と結論した。
 加藤は前段の価値相対主義には賛成し、後段は拒否する。「すべての価値が相対的であるとすれば、生きてゆくためには何らかの基準を価値である『かのように』みなす必要があるだろう。しかしその基準が、『世間に行われている価値』でなければならぬという理屈は出てこない。生きてゆくかぎり私は、成立の事情の明らかでない私自身の信念から、出発するほかはない」。徹底した価値相対主義だ。
「私ははじめから私自身に多くを期待しないから、世の中が私の念願とは逆の方向に動いても、格別の挫折感は覚えない。念願の方向に動くよう、何万分の1かの貢献をつづけるだけである」
 「展望があるから闘うのではない」と言った魯迅を彷彿とさせる「二枚腰の思想」だ。

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□「羊の歌」その後
▽14 長い外国暮らし 社会の周辺に暮らせば、影響力を失う。しかし精神の自由を最大にすることができる。周辺の位置は、観察し、分析し、理解するために便利である。
 ……軍国日本の私の理解は、少なくとも真珠湾の日に敗北を予測できる程度には、正確であった。しかし、戦後の経済的発展を全く予測できなかった。東ヨーロッパの国々がソ連支配から離脱したときは驚かなかったが、ソ連の崩壊は予想外のできごとだった。
(絶えず世の中の流れを予測し、それが当たったかどうか後で検証することで、自分の目を点検する大切さ〓たとえば自分は……格差社会を予想できなかった。一度得た権利をそう簡単に手放すとは)
▽29 ドゥプチェックによるプラハの春 「自由」謳歌し、知識人は楽観的だった。ソ連は介入しないと信じていた。だが、地方の庶民は「自由化は早く進みすぎる。彼らがこんなことを許すはずがない……」
 数日後、オーストリアの音楽祭で、ソ連軍のプラハ進駐を知る。
▽38 「現存する作家のなかで、誰の文章をあなたは評価しますか」 私は石川淳と中野重治をあげた。「全く同感。それに井伏鱒二を加えてもいいと思う」とエドウィン・マックレラン教授。
□日本の叙情詩
▽69 日本の散文は著しく叙情詩によって浸透されている。平安朝の物語から私小説まで。「私小説」は分析しないし、推論しないし、構成もしない。ただ正確で細かい観察と、一種の叙情的な雰囲気によってすぐれている。
 日本でははじめに、ことばではなく、自然があった。城ではなく、季節があった。「万葉集」の特質は、独特の自然感情と季節の感覚である。外国の詞華集をよんだとき「万葉集」の自然がどこにでもあるものではないということを理解した。……造園と風景画の領域で、日本人ほど変化に富んだ、日本人ほどの完璧さに到達した国民はないと思う。……確かなことは、その世界がまた同時に日本の叙情詩の、「万葉」の「新古今」の「奥の細道」の世界だということ。
□読書の想い出
▽73 「万葉集」は、私が今日本の詩歌を愛するもっとも大きな理由であり……
 芥川のなかに読み取ったのは、反軍国主義・日本歴史の偶像破壊・道徳談義への反抗・大勢に順応しない批判的で精神であったようだ。吉野作造ではなく、芥川を通じて「大正デモクラシー」の遺産を受けとったともいえるだろう。
□フランスから遠く、しかし……
▽81 大日本帝国が中国を侵略していたときに、国内では青年男女がジッドの「狭き門」やロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」を愛読していた。前者は戦時中の10年間に15万部、後者は第一冊で4万3000部に達する。1880年代の読者が「椿の俤(おもかげ)」に見出したものを1930年代の読者は「狭き門」に見出していた。1880年代の読者がフランス革命に関心を示したのは、それが明治維新の後だったからであり、50年後の読者が芸術家の生長の過程に興味をもったのは、それが「大正教養主義」を通ってきた後の時期だったからである。知的好奇心は50年間を通じて衰えなかった。
▽84 渡辺一夫 遠い国の文学を読むことによって私自身の周囲の見方を変えるような外国文学の読み方があり得るということを学んだ。

□1940年の想出
「翼賛体制」が成立。軍部の専横を抑えうるかもしれないという自由主義者を含めての公民の期待をになって成立し、たちまちその期待を裏切ることになったのが、第二次近衛内閣。日本労働総同盟、大日本の農民組合が解散。文学芸術の世界でも、批判的な言論は一掃。新協劇団と新築地劇団の強制的解散がその典型。学問の自由が奪われ……
 細川内閣と批判的野党の消滅に至る事情は当時と似ている。
 しかし今は、無数の分散した小市民グループがあり……それらのグループの間に、全国的な、横の連絡はほとんどない。したがって影響力は限られる。しかしそのことは、同時に、彼らの強い抵抗力をも意味する。分散した無数の個人や小グループは、極端な警察国家でないかぎり、いかなる権力も一掃することができないだろう。
□タゴール再見
▽103 日本ではタゴールは、誰知らぬ人もないほど有名だった。そういう熱は日中戦争拡大につれ急速に冷えた。
 タゴールは、西洋では「東洋からの偉大な神秘家」とみなされ、現実のインドが、彼らの作りだした「イメージ」の通りではないことがわかると、怒り、批判し、拒絶した。「オリエンタリズム」の典型だろう。
 タゴールは、日本の「近代化」の成功に好意を寄せていた。アジア解放の旗手という日本像が、中国侵略で裏切られると、彼の日本賛美は一転して激しい批判と拒否に変わった。
 ……ガンディーは、諸悪の根源の英国支配を断つために手段を選ばなかった。ナショナリズムと伝統的手動紡績と偶像崇拝を主張し、非暴力主義的な抵抗を組織した。タゴールは、ナショナリズムが容易に他文化への閉鎖性に傾く危険を見抜き、外国支配に反対すると同時に、英国文化の受容の必要を説きつづけた。チャルカーではなく紡績工場であり、偶像崇拝ではなく理性的教育である。
 ……強者が開いての文化から学ぶことはほとんどない。しかるに弱者は、すべての他文化から学ぶことができる。もし弱者が従属的立場に甘んじながら、文化的鎖国に傾くとすれば、それは自己欺瞞にすぎないだろう。

□サライェヴォと南京
 ボスニアではなぜ戦争がおきたか。最近まで人種や宗教を異にする多様な人々が平和に共生していた。大量虐殺は、人種対立や宗教的不寛容のためにおこったのではなく、ナショナリズムから生じたのでもない。政治権力がそういう要因のすべてをそれ自身の目的のために利用したからおこったのであり、外部の権力とメディアがそれに応じたからいつまでもつづいた。
 南京 当時の日本における外国人差別、人権無視、戦争における捕虜の否認。……しかし日本軍は常に戦時国際法を無視し、残虐を極めていたわけではない。1937年の南京で、日本軍は1904-5年の日露戦争では行わなかったことを行ったのである。……「南京虐殺」の理由も、ボスニアの殺戮と同様、多くの要因の組み合わせとしてしか説明できないものであろう。
□中村真一郎、白井健三郎、そして駒場
▽118 万葉集 死に向き合うと、神に祈るか、「クロスワードパズル」を解くほかにすることがなくなる。われわれは神をもたなかったから、韻の組み合わせを工夫して、時を過ごしていたのだろう。残り少ないと思われた人生の最後の時を。
 いま駒場の往時を顧みれば、私の友人たちは、その後半世紀以上の間に、根本的には変わらなかった、と思う。(ボヘ)

□フランス人の見た日本
▽124 ロベール・ギラン「アジア特電1937-1985 過激なる極東」〓〓
「この国民は<インスタント族>であって、いわば<振り子のように動く>のだ。自分に罪があったことを日本人はまともに認めはしないだろう」 「風流と鬼」 「羊と虎」日本人の2面性。
□「敗戦日記」抄
▽131 「渡辺一夫 敗戦日記」〓8月15日以前は主としてフランス語で、それ以降は日本語。「芳枝(筆者夫人)が悲しい諦めた口調で言う、兄弟も親も友だちも信用できない、と。そして、遅かれ早かれ、きっと子どもたちにも背かれるだろう、と。……しかし芳枝は1つの真実を隠している、夫婦の仲でさえも、時に相手を裏切るものだということを。何たる孤独! 何たる孤独!」
□「それでもお前は日本人か」
▽136 白井健三郎 「きみ、それでも日本人か」。白井は落ち着いて「いや、まず人間だよ」と答えたという。「まず人間とは何だい。ぼくたち、まず日本人じゃあないか」「違うねえ、どこの国民でも、まず人間だよ」「何て非国民! まず日本人だぞ」……
国民の多数が「それでも日本人か」と言うかわりに「それでも人間か」と言いだすであろうときにはじめて、憲法は活かされ、人権は尊重され、この国は平和と民主主義への確かな道を見出すだろう。
□戦時下のある風景(対談者・江藤文夫)
▽168 久野さんや丸山さんの学生時代には学内に左翼が存在していた。5ねんご、左翼というものがいない学校に入った最初の世代が私たち。さらに5年たつと、そういう運動の影も形もないので、遠い昔のことになってしまっていた。……今から見ると2・26事件が境だと思います。
 最後に残ったのは、劇団と高校、大学じゃないかな。その後になると、劇団はつぶされ、俳優は逮捕され……私が高校生活を送るのはちょうどその境目の時期だった。
 30年代の後半になると、次第に言論の自由を奪われ、民主主義、個人主義は悪だとうことが常識化されていく。
▽179 太平洋戦争開始の日に沸き立っていたのは日本国内だけではない。ロンドンもモスクワも重慶も延安も
他のナチ占領下の諸地域も、この日を歓喜で迎えたに違いない。戦争の見通しを失っていたのは、日本政府とその国内だけだったでしょうね。「鎖国」の怖さがそこにある。
▽181 辰野隆 天皇崇拝者でしたが、本当に崇拝していたかどうかわからない。強い芯があって、一種の文化人ですね。漱石からずっとつながっているものがあった。漱石も落語が好きだったけど、辰野さんにも落語的ユーモアがあった。そういう人がなくなりましたね。・・・中野好夫、渡辺一夫 反戦の思いを口にすること、そのことを外にもらさぬ人。
▽190 戦争体験の風化 ……ある年齢以上の日本人の大部分には、戦争でひどい目にあったという体験がある。それがだんだん、それほど悪くなかったということになる。それが一歩進めば戦争体験の美化になり、戦争の美化になる。
▽192 厭戦気分がみなぎっていたから、武装解除を歓迎した。問題はその厭戦気分が、正義の観念と結びついていないということ。戦争は厭だ、と言うけれども、それだけでは戦争が正義ではないという主張としては弱い。「正義の戦争」という議論が出てきたときに、戦争は厭だと個人的・感情的に対応したんでは、議論がかみ合わない。その戦争は正しくないという論理で立ち向かわないと、議論が食い違ったままで、解決に向かわない。
 ……戦後日本の反戦主義には、正義の戦争があり得るかあり得ないかという観点が抜け落ちている。
▽200 民主的改革に抵抗した勢力とその系譜につらなる人たちは、冷戦下に転換したアメリカの戦略に、一部の反米主義者を除いてひたすら追随し、占領軍による改革に共鳴した勢力は、必ずしもそうではない。(ねじれ)
▽203 
ナショナリズム nationとは市民の集まり。市民の定義は、政治過程に参加するという意味をもち、国を考える時にも、われわれの国だという感覚になる。福沢諭吉はそのことに気づき、明治政府が富国強兵をモットーにしたときにそれを認めながら、強兵と言っても、自分の国だという意識がなければ勇敢に戦わないだろう。そのためには選挙をやり、議会を開いて、民衆が政治過程に参加していく仕組みを作らなければならない、と考えた。「国権」を強化するためには「民権」が必要という議論。(ナショナリストの訳の難しさ。ナショナリストとしての民権派)
 参加型ナショナリズムには、常に反外国人主義があるとはかぎらない。ほかの条件が必要。ところが自然的ナショナリズムだと、これは根本的に反外国人。英語嫌いであって、同時に英語学校があれだけ流行する。……よそ者を排除する、というより自分たちと平等に扱わない、必ず上か下かに見る。ここでは外国人は上か下に見る。しかも同じ国民が歴史的状況によって上になったり下になったりする。鬼畜米英→アメリカ崇拝・英語公用語化。

□世界の大学で(対談者・江藤文夫)
▽210 コレヒオ・デ・メヒコで86年に講義。親切な人間が多いから、メキシコ人社会に入ることは容易でした。
 ……1940年までは日本の大学にはマルクス主義の文化がかなりの程度あった。それが45年に復活するから、マルクス主義空白時代は、5年間にすぎない。ドイツではヒトラーが1933年に政権をとってすぐ焚書を始めた。それから10年以上の空白。さらに戦後もアメリカがつくったベルリン自由大学では空白がつづく。
 ……世の中の出来事を全体として一括理解するためには、何らかの知的枠組みが必要。マルクスを忘れてそのかわりを見つけることは、今のところ難しい。
 経済学は「賃労働と資本」、哲学は「フォイエルバッハ論」と「ドイツ・イデオロギー」。歴史分析は「フランスにおける階級闘争」〓
▽227 イェールでは、助教授として2年間仕事をして博士論文が出版されるところまでいかなければクビを切るでしょう。……エールやハーバードなどの一流大学と二流大学の格差は決定的。
▽230 博士号をとるには、本質的な問題を考えているとなかなか書けない。何か他人がやっていない、新しいことを探して、それをやる。他人がやっていないのは、しばしばあまりにつまらないことだからで、そういうのを探し出して調べるということになる傾向がある。文学研究でも、かなりの研究がつまらないことの発見です。夏目漱石の貸家の家賃がいくらだった、とか。

□私と戦後55年
▽235 高度成長が環境ばかりでなく倫理的価値も破壊した。京都は、歴史的な木造建築の都会としては世界最大だったでしょう。しかし、経済成長と同時に破壊が進む。破壊をとどめたいということで「京都見立て会」をつくって参加している。
▽238 日本の学生運動 若い人が「生き甲斐」を求めた運動。日本的な主観主義、生き甲斐主義。その行動がどういう影響を与えたかということをあまり考えない。
▽242 社会科学の機能。たとえば戦争の起きた原因、必然性を明らかにする。成功すればするほど、戦争は必然的にみえる。必然的なら、反対してもしょうがない。だから戦争反対と戦争の社会科学的理解が矛盾する。学問自体のなかにそういう構造が含まれているのではないか。
 社会科学はいかにして戦争反対と結びつき得るか。
 社会学が、厳密に実証的学問であって、同時にある価値へのコミットメントを含むということはいかにして成立するか。マックス・ウェーバーの知的行動のかなりの部分はその方向を示唆していた。
▽249 日露戦争まで、驚くべき能力を日本は発揮した。しかしその後は、信ずべからざるほどの誇大妄想に陥り1945年に自滅した。無敵海軍、無敵陸軍、皇軍の行くところ敵なし。……中国側の抵抗をどうしてもコントロールできなくて埒があかないから、やけっぱちで英米と戦争することに。
 45年以降はそれまで強兵だった目標を富国に切り替えた。60年代に大成功した。しかし大成功するとまた気が大きくなる。21世紀の太平洋はアメリカではなく日本のじだいになるだろう、などと途方もないことを新聞や雑誌に書き出した。無敵皇軍とまったく同じ。ほとんど病的な幻想。はたしてバブルがはじけると会社がつぶれはじめる。
 強兵でだめ、富国で失敗、残っているのは文化活動でしょう。文化の分野のほかに道はない。……政府・大企業主導から、民間個人主導に移るという点が、軍事力や経済力と文化力の違いだと思います。
 東アジアの3国間で、政治からではなく、文化面から歩み寄り、漢字文化の再評価と現代化を進めることが可能だろう。

□教養に何ができるか(対談者・徐京植)
▽259 近代日本では宗教の影響は限られていた。寺請け制度によって世俗化し、強い信仰をもつ仏教の信者はだんだん減った。儒教にはもともと神様がいない。日本の知識人の大部分は宗教的束縛も背景ももっていなかった。
 日本には強い排他的な信仰体系がなかったから、近代科学的実証主義や合理主義みたいなものが抵抗なく入ったという面もある。
 ……明治のある種のエリートには、自分たちが近代日本をつくったという感じがある。そういう彼らの中心が明治天皇。仲間の中心人物という感じで、ある種の親しみ、尊敬、評価というものがくっついていた。「神がかりの天皇」というのと、天皇を「天子様」と言って支持の立場をとるというのとは、かならずしも不可分なものではなく、分離できる。私の父は、神がかりの要素はなかったけれども、天子様と言って尊敬していた。(密教と顕教)
▽263 2.26事件の直後、矢内原先生は事件の話をした。軍部大臣現役制という法律がいかに陸軍の独裁、政治を左右する力を助長したかを説明した。「陸軍と意見の違う大臣を出し続けたら……?」「制度的には可能だけれども、もしそれを続ければ陸軍は、機関銃をもって議会を囲むでしょう」
▽264 矢内原ら反戦の気持ちを持ち続けた人の支えは 「京都の久野収さんや、渡辺一夫先生、矢内原先生たちは、日本の外に一歩出れば自分たちの言っていることは多数意見なんだということを知っていた……それを知っていたのはフランス語を読めたから……必要が生じたら、フランス語でもラテン語でも読めなきゃだめですよ」
▽267 戦後になって、久野さんらと出会って、いろいろなところにそういう小さな友人同士の仲間があったのだということを知りました。ただ、その横の連絡がなかった。
 政府に批判的なグループの横の連絡がないという構造は、その当時の状態と似てきた。(横糸)
▽271 教養の形成 資産や財産というものが、教養を身につけ、教養ある人々の世界で生きることを可能にした。……そこから得たものを、いわば普遍的な理性とか人権とか人道という方向に支出するという、その観念も生む。
 極端な差別の暴力による強制である戦争。そういう戦争を批判するのに役立たない教養だったら、そんなものは紙くずだと思ったな。
▽275 雑誌にものを書くのでも、ゲラを陸軍に見せなければ印刷できないというところまで行ったわけですから。政府は狂っていた。
▽277 45年8月を解放だと感じなかった人は、現在の憲法を軽々しく変えようと考える。前の軍国主義の体制に対して、根本的に批判的でないということ。その意味で、歴史観をはっきりさせなくては本当に友好関係を築けないと中国や韓国の人が主張するのは、言い分が大ありだと思いますね。それは現在につながっている。
▽278 日本は、意見の一致を非常に重んじる。全会一致にしようと努力する。それでも意見を変えない人がいた場合は、逮捕したり、村八分にするわけ。
 全会一致集団は、困難な問題を与えられたとき、それを実現するためには非常に有効に働く。ところが、目的がまずかったり方向転換しなくてはならないときには、その能力がない。方向転換は、ある集団の内部で少数意見が多数意見になっておこる。はじめからその少数意見がなければ、方向転換のおこりようがない。無残な無能力性を暴露する。坂を下りだしたら滅亡するまで、すなわち無条件降伏です。
(ボヘ意見形成〓)
▽284 学生運動でまずかったのは暴力。暴力のエスカレーションが起これば、国家予算で装備を改良する警察に勝てるわけがない。
▽286 ベルリンでは、大学のありかたが改革された。日本の医学部のように権威主義だったのが、教授会の代表、学生の代表、大学職員の代表でつくる委員会で重要な決定をするようになった。
▽289 サルトル サルトルは弱い側にたえず加担した。
 歴史・社会・人間の現実を理解するには2つの原則が必要。ひとつはヘーゲルに象徴されるような全体を大きくみた客観的な枠組み。それと、個人は歴史の段階であり社会の部分であるというのではなくて、それ自身が自己目的で完結した世界をつくっているという考え。そこに深みがあり、高さがある、しかし社会的歴史的な広がりはない。キルケゴールに代表されている実存主義。ヘーゲル的歴史哲学の普遍性と、キルケゴール的実存主義の深さとの特殊性、その交わるところに現実があると言っている。
 ヘーゲル的枠組みと実存主義的個人の経験との両方が交わるところに人間が位置する、ということですが、体系的に解決し、叙述することに彼は成功しなかった。ほかの誰も成功しなかった。
 哲学者として、20世紀でいちばん大事な問題をサルトルは語った。
▽292 専門化が進むほど、専門の境界を越えて動ける精神の能力が大事になってくる。その能力を与える唯一のものが、教養。だから、科学的な知識と技術、教育が進むほど教養が必要になってくる。
▽296 ソ連のプラス面の評価。ヒトラーを倒したことも。中央集権的計画経済の能率の悪さによってソ連経済は崩壊。
▽300 ユーゴスラビアの分解 チトーという国民的英雄が結びつける力が強大だった。ソ連の援助なしで、ただひとりチトーが戦ってヒトラーに抵抗し追い出したのですから。フランスにおけるドゴールのようなもの。
▽303 サイード「オリエンタリズム」 ほんのちょっとした言葉やイメージ、文学作品の評価などでも、細かいところに差別意識が絡んでいるのだということを明らかにした。
 フーコーは、微分化されたあらゆる段階に権力支配というものがあるのであって、男女間にも、会社にも、階級にも……あらゆるところにあって小数の典型に還元できない、と説いた。
 だから、政府を倒しても人種差別はなくならなかった。権力の濫用、暴力の濫用はなくならない。あらゆるレベルに浸透しているからです。ではどうするか。すべてのレベルで日常的に闘わなければならない。(教養の役割)
▽305 望ましい教養。他人の立場に立ってみること。たとえば北朝鮮を危険だと思ったら、北朝鮮の少女の日記を読むとか、北朝鮮の少年を主人公にした小説を読んで感情移入してみることです。(相手の内在の論理を体感する〓)
 訓練された自由な精神であれば、北朝鮮にとっていちばん危ないのは日本なのだから、日本の脅威にいかに対抗したら北東アジアの平和が保たれるか、ということを思考実験として考えてみたらどうか。それを考える能力が必要。
 北朝鮮を絶対悪だと決めつけて、どう対応するのかと騒いでもらちがあかない。立場を変えて見ることは、政策上も致命的に大事。そのためには教養が大いに役立つでしょう。
 テクノロジーに対抗する教養の積み重ね
□私の立場さしあたり
▽316 鷗外は、生涯を通じて、信じることのできる哲学にはついに出会わなかった、といった。そこまでは鷗外に賛成する。人は常に、合理的に基礎づけることのできない信念から出発する。その信念は、歴史的・社会的・生理的・心理的諸条件の複雑な相互作用から生まれたmのである。多くの変数を含む関数のようなものである。

 そこで鷗外は、世間に行われている価値を、あたかもそれが動かすことのできない価値である「かのように」、尊敬して暮らしていくほかに、さしあたり生き方はなかろう、と結論した。その結論には私は賛成できない。もしすべての価値が相対的であるとすれば、生きてゆくためには、何らかの基準を、価値である「かのように」みなす必要があるだろう。しかしその基準が、「世間に行われている価値」でなければならぬという理屈は出てこない。
 生きてゆくかぎり、私は、成立の事情の明らかでない私自身の信念から、出発するほかはない。
▽319 完全な陶酔の状態は、ただ2つの機会しか私にはおこらなかった。1つはある瞬間の女の顔。もうひとつは、ある特定の時に聞くある種の音楽。
▽324 私の民主主義の定義は……強きを挫き、弱きを援く。できるだけ支配層の権力を制限し、人民の権利そのもの、その行使の範囲を拡大すること。国際的には、工業先進国による後進社会支配の現状を破ること。
 ……私ははじめから私自身に多くを期待しないから、世の中が私の念願とは逆の方向に動いても、格別の「挫折感」は覚えない。念願の方向に動くよう、何万分の1かの貢献をつづけるだけである。……貢献のしかたは、人によってちがうのがあたりまえだ、という立場をとるから、陣頭に立つ人々に感心はするが、みずからそうでないことに、ほとんど全く後ろめたさを感じない。
▽327 「羊の歌」は加藤周一の半生記。47歳から48歳にかけて、40歳までの半生を顧みてつづられた。
▽332 「日本文学史序説」「日本 その心とかたち」となって実を結ぶ日本文学史と日本美術史研究。
▽341 分散した個人や小グループの少数意見は、いつ多数意見になるのだろうか。それはわからない。しかしそのための必要条件の一つは、分散した批判的市民活動の、少なくとも情報の交換という面での、横のつながりをつくりだすことである。同じようなことを考えたり、したりしている人々が、他にもいるということの知識ほど、信念や活動を勇気づけるものはない。そのために「パソコン」は利用することができる(〓いま・ここネット)
▽346 「純粋に美的な世界は、社会において、保守反動を正当化する根拠ともなりうる」ことを加藤は知っている。「その人にとっての一つの小さな花の価値は、地上のどんなものと比較しても測り知ることができない。したがってひとびとがそういう時間をもつ可能性を破壊すること、たとえば死刑や戦争に、私は賛成しないのである」
 加藤にとって「美」は、きわめて高い価値を与えられてはいたが、他のすべての価値に優って、至上の価値をもつものとは位置づけられていない。
▽347 「人は常に、合理的に基礎づけることのできない信念から出発する」しか方法がない。「生きてゆくかぎり、私は、成立の事情の明らかでない私自身の信念から、出発するほかはない……」 徹底した価値相対主義が加藤の「二枚腰の思想」をつくりだした。
詩的である加藤

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