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民俗のふるさと 宮本常一

■民俗のふるさと 宮本常一 河出文庫 20120618

 昭和30年代の作品。そのころまでは江戸時代から継続するものが多かった。それが高度成長によって急速に消えてしまったことが、この本の記述と今と比較するとよくわかる。
 農業人口は明治初年も昭和35年もほぼ変わらず3000万人ほど。昭和35年ごろ、東北・北海道と富山・石川は人口が増えていた。共同体結合のつよい村は、対馬でも南西諸島でも下北半島でも、その結合がこわれた後でも人口はふえていた。そういうところでは年中行事なども比較的盛んだった。
 入浴習慣の早くから発達していた西日本の人は、銭湯で下半身を洗って入り、中部・関東は洗わない人が多かった。瀬戸内海や四国、山形・秋田では裸で寝る習慣が長く残っていた。
 高度経済成長によって田舎は例外なく人口減に転じ、農業人口は激減し、地域ごとの特色も一気に薄まったが、田舎から出てきた第一世代が多いころは都市には田舎らしさが残っていた。新興住宅地や団地の盆踊りなどもその現れだった。
 かつて年中行事や祭りを担う主体は自作農だった。大地主への使役など、人に使われるる人が多く主従関係が生じているところでは「ムラの文化」は育ちにくかった。(田部家などの)大山林地主との主従意識が今も残る島根のムラはおそらくその典型だった。昔の小作農以上に他者への依存度が高いサラリーマン社会は、文化の生まれない砂漠なのかもしれない。
 今の都市は、田舎を知らない世代が大半を占める。都市から「田舎」が消え、いずれは「帰省」という現象も風化するのではないか。「田舎」の要素が消えたとき、盆踊りや初詣はどうなるのか。都市独特の文化は生まれるのだろうか。

 日本における都市は、ムラから落伍した者が河原や村境に住み、それが南北朝のころから町に発達することで生まれた。大阪の堺は、摂津・河内・和泉の「境」だった。
 山城の国一揆で京都が平和になって祇園祭が復興し、官祭から町衆を中心にした市民祭になった。長崎のオクンチや博多の祇園山笠、天神祭りなどの市民参加の祭りは、東京や名古屋など城下町には少ない。城下町には「城を町のシンボルにしなえればならないような市民意識の低さ」が見られるという。
 自立した町衆がいる都市には独特の都市文化が生まれる。
 「東京の電車では席をゆずろうとする者はほとんどいないが、京都の市電では、若い者はあまりすわろうとしない」というヨーロッパ的なモラルが京都や東京の下町にはあった。私も1980年ごろに目にして驚いた覚えがある。
 そんな町衆のモラルや文化はなぜ衰えたのか。おそらく、グローバリゼーションによる金もうけ至上主義が「非効率的な」文化やモラルを吹き飛ばしたのだろう。都市におけるコモンズ的なものの喪失と言えようか〓。

 一般に共同作業は、ムラがひとつの同業者集団だから維持され、そういうムラは古い習俗を多く残しているという。同業者以外がムラに住むようになると共同作業は崩れ始める。戦後の兼業化は「結」を崩壊させ住民の会話を減らしムラを崩す原因となった。
 能登では、集落がいっせいに海藻をとったり、ため池を管理したりする作業が今も細々と残っている。「結」を成り立たせた経済的条件が崩壊するなかで、今も共同作業が残っているのは、古い祭りや習俗があるから、と言えるかもしれない。祭りがなくなったときムラも崩壊するのだろう。
(北九州には海人のムラがいくつも見られた。鐘ケ崎の場合は、壱岐小崎・対馬曲・長門大浦・能登輪島などに枝村をつくっている。それらは今日も親村のおもかげを多分に残している。海人のムラの意識を継承させる舞台装置=構造=はいったい何だろう? 祭り? 海女漁?)

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▽13 明治初年に人口10万人以上は東京・京都・大阪のみ。
農業人口は明治初年も昭和35年もほぼ
変わらず3000万人ほど。
今日人口のふえつつある府県は8つしかない。農業地帯では、東北・北海道と北陸の富山・石川(そんな時代があったのか。)。
▽17 銭湯で下半身を洗わないで湯にはいるのが少ないのは、入浴習慣の早くから発達していた西日本。多いのは、中部・関東。
土地によって裸体で寝るところがある。瀬戸内海から四国、東北の山形・秋田でその習慣が長く残っていた。
▽26
▽28 大企業に入って事務員として勤めるようになると、年末年始をのぞいて帰省休暇をとることがむずかしくなる。盆の帰省者はずっとへる。
・・・よりよい就職口を見つけるためには盆正月の帰省を断念する・・・これから都会の中の田舎らしさをしだいにうすいものにしていくであろうが、国全体がそうなっていくにはまだ当分時日を要するものと思われる(親世代はまだ田舎らしさがあったが、今はすでにそうなってしまった)
▽31 民衆は、行事を官公庁の決めた行事にあわせつつ生かしていこうと努力している。そういう努力のあるうちは、都会に住む田舎出身の者の田舎との縁は容易にきれないであろう。都会の中に地方的な雰囲気が消えないでのこっていくであろう。(「帰省」じたいがなくなりつつある〓)
▽34 幕府が倒れ、城下町の士族の生活が苦しくなると、東京へでるものがきわめて多かった。ひとつの城下町のうちの武士のほとんどが東京へ出て行った津和野。士族町は、町の西郊の水田になっているところだ。その水田のなかに森鴎外の家がたった1軒残っている。だがその森鴎外すらが東京へ出た。
東京へ出た藩士の子弟。寮をもって共同生活を営んだ。その典型は愛媛県。南予明倫館、常盤寮(中予学舎)、肱水舎、西条学舎。これらの寮を拠点として、地方の城下町と東京は結ばれた。
遊学生を中心に、グループがつくられ、県人会に成長する。県人会に入るのは一般に成功したとみられる人々。郡人会、町人会となると、一般の労働者もまじっていた。
▽40 大阪の豊後町、備後町、薩摩堀、伏見町、堺筋・・・それぞれの地方の者が出てきてつくった町。
▽42 武蔵野の古い村の若者たちは、盆になると月の夜に村から村の踊り場を踊りあるく。よい娘を見つけるため。
▽46 地方からきた者の大半は、(都市部の)祭りに無関心。彼らには別にふるさとに神があるから。
・・・町に住み、周囲のすべてが他人となると、郊外の住宅地には塀をめぐらした家が建ちすすんでいく。
▽50 東京の電車では席をゆずろうとする者はほとんどいない。ところが京都の市電に乗ると、若い者や学生はあまりすわろうとしない。
古い伝統を持つ町には、町のモラルがあり、秩序があった。江戸の下町もそれがあった。
▽54 堺や大阪は商人の町で、町名は道についていた。江戸では、地名が道を主体につけられたものはほとんどなく、たいていは地域名。これは村里における地名の付け方をそのまま採用したもの。農村的な性格。
上方では町内を自分の町と感じる意識が強かったが、江戸では町内意識はそれほどつよくない。
▽56 長崎のオクンチ、博多の祇園の山笠、祇園祭り、天神祭りなどは、市民全体が参加しておこなう祭り。ところが東京や名古屋にはそれがない。東京の神田祭りも山王祭りも市民全体の祭りではない。
よく見ると、城下町であったところには市民祭的なものがきわめて少ない。(松江のドウ行列はどうか?〓)
(城の復活)城を町のシンボルにしなえればならないような市民意識の低さ。
▽60 山城の国一揆によって京都の平和は回復され、祇園祭も復興する。官祭から町衆を中心にした市民祭になってきた。
▽65 中国地方 だいたい12キロくらいの間隔で人家の密集した集落があり、そこに町の名がついている。
▽69 貸鍬の制度。鍛冶屋が百姓に。能登では、製塩をする人たちは、釜を中居の釜師から借りていた。
1石だきの釜で年間米1石の料金をとったから・・・釜師たちは田もつくらないのに大きな米蔵をいくつも持っていた。
▽73 落伍した者たちは、河原や村境などに住んだ。大阪の堺おその例で、摂津・河内・和泉の境だった。南北朝のころから自然発生的に町が発達した。西宮も、武庫郡と菟原郡の境界。・・・
▽76 乞食の多かったのは明治・大正まで見られた。応永年間1420年ごろ、海賊に悩まされ、京都の治安も不安定で、・・・15世紀のはじめごろまでは市民的秩序がまだ十分に生まれてなかった。女は食べるために男の相手をした。
▽81 落伍者が商人に。
▽89 加茂の四条河原だけでなく、芸能人には四宮河原が関係が深かった。四宮はシクを漢字に当てたもので、夙とも書いている。夙の者といえば特殊民をさしているが、もともとは村はずれをさす地名だった。
▽89 武士のつくる町は規模が小さい。鎌倉も。
岩見の津和野でも、尼子の出雲富田でも、みな共通した地形。武士の住んだところが、町として成長した例は、13世紀から15世紀にかけてはきわめてまれ。
▽104 宿場町 街道にのぞむところには一定の距離をおいて、交通・運送を主体とした町や村が発達し、それらの宿場は村とよばれていても一般の農村とは性質がちがい、定住性は少なかった(柳谷の旭、穴水の中居?)
▽110 堺は西欧の都市のような活気があり、納屋衆とよぶ倉庫業者が船ももって富を築いた。
キリシタン弾圧で、海外渡航禁止。1000石以上の船はつくられなくなり、2本マストの船もみとめられなくなった。1本マストでは、追い風以外は前進しようがなく、風待ち潮待ちのため海岸にそって航走することが多かった。
▽112 港には女。飯盛女や湯女が相手をした。農家の娘の出稼ぎが多かった。結婚までの間を男を相手に働く。貞操についてはそれほどこだわらなかった。
瀬戸内で遊女屋があったのは、大阪、尼崎、兵庫、明石、室津、牛窓、高松、丸亀・・・今治・三津浜・・・
▽127 油の原料はエゴマ。焼き畑などでつくった。戦国の終わりごろには美濃あたりまでエゴマを買いに出かける。斉藤道三はもとは大山崎の油神人。
後に菜種油が使用されるようになって大山崎の油は凋落する。
大山崎は1業1集団だったが、この形は、社会経済的な変動に弱い。
▽133 条理制 大化の改新で実施。1町四方を1区画として耕地整理し、さらに1、2反にわけて班田収受んい便利にした。その水田は935年ごろには83万町歩。昭和33年現在の水田面積は337万町歩。
条理田の集落に住む良民は、平等の権利をもち、耕地の割り当てをうけていた。ムラになっていた。
▽136 荘園は私領だから、全国的な統制がなくなる。鎌倉時代になると、武士が荘園のなかに住み着く。領家と武士のあいだにはたえずいさかいが繰り返される。
武士は開拓をすすめ、自分の名をつける。名田はそうしてできる。三河・能登・安芸など。
▽139 白山一帯の山間の焼畑定住のムラは、おなじような大きさの家で構成されている。バラバラに散在。
▽143
▽144 ムラの格式。格式の低いムラの人からののしられ、暴力事件に。大正終わりまで和泉地方にはきわめて多かった。
和泉地方はムラの格式の段階が多すぎる。未解放部落にもいろいろな段階があった。複雑な通婚階級があった。ムラの成立の歴史が古く、複雑であるところほどその傾向がつよい。
▽152 大きな町の周辺には未解放部落。これらのムラは耕地を持たず、農業以外の職業で生計をたてた。農業だとしてもムラの地主の土地を借りて小作した。
▽159 山形県飛島 海産物を対岸の農家で売りつける。お金のかわりに米をもらってくる。貧しい農家は飛島に「もらい子」にだした。なのに飛島を一段低い者だと考えていた。
▽163 市になるために町村合併をした。蔑視された世界からぬけだそうとし、名目だけでも市民であることを誇りたい気持ちが多くの市をつくりあげた。
▽178 ムラの家の数が50戸にたらないところでは適当な結婚相手がなかなかいない。・・・最近では農家で嫁をさがす範囲がたいへん広くなっている。
下北では、魚をひものや塩物にして津軽に売って米と交換した。魚を売りに行った人たちが、津軽の農家で嫁を見つけてきてくれる。結婚まで奥さんと「顔を合わせたことがない」という。
会ったこともない家にいきなり身一つで嫁にいく女性。
▽187 四国の山中は、ばらばらに家が散っているが、そううなったのは江戸中頃から。世の中が平和になってから。以前は3戸5戸が集まり住んでいた。集って住むことで、外敵や害獣を防ぐこともできた。
▽192 村落共同体 牛のまぐさ刈り。海藻をとるのも日をきめて出て行った。もっとも多いのが肥料藻・・・ひじき、カジメ、わかめ・・・とる日はみなきまっている。その日を「口アケといっているが、たいてい1戸から1人は出て行く(門前の深見)
共有地が発達しているところでは、ムラじゅうでいっしょに働かなければあんらない。みなが同じような職業をもっているからそれができる。
1年の半分以上は一斉作業や共同作業につかわれている。
古い習俗を多くのこしているところほどこの傾向はつよいようだ。
▽196 ムラ全体が歩調をあわせて生きてきたのは、ひとつの同業者集団だったから。同業者以外がムラに住むようになると崩れ始める。
▽198 ムラの中に親方とよばれる家があり、それが大きな権利を持ち……というところでは親方の家へ夫役として年に何日か使われる。それもいそがしいときに使われる。そのためいよいよ貧しさからぬけ出られない。(〓田部家の君臨するムラ)
▽200 中国地方の山林地主は、一般小作とちがって家をたててやり、草を刈り薪をとることもみとめたかわりに、小作料のほかに夫役をとって親方の仕事をさせた。鉄山経営が明治に入って衰えても、林業家になったものが多く、小作人はそれらの林業労務にしたがったり、親方の雑木山を払いさげてもらって炭焼きをおこなうものが多く、依然として古い関係が維持されているところがすくなくない。
▽201  白山南麓の白峰村。熊本県五家荘などとよく似ている。大きな親方の家が山地の大半を所有しており、他の者はその山を借りて焼畑づくりをおこない……ほとんどは山小屋で暮らすので年中行事らしいものもあまりない。
岩手県北上山中。農地は解放したが山林はそのままで、最近までは子方の者に木炭の原木を払いさげて生計の資にあてていた。
親方が広大な山林を持ち、一般のムラ人がそれを利用させてもらうことによって主従関係が生じているようなところでは年中行事などもそれほど厳重におこなわれてはいない。
若者組が発達したところにははなやかな年中行事もある。しかし、貧しい家の子が地主や自作の家へワカゼ(下男)として奉公にいくようなところでは、若者の発言力が弱い。正月や盆以外では、親方の家の行事を中心に動いていくようになる。
▽203 農地解放。大山林地主のいるムラでは大きな変化をおこしていない。
……昭和10年の国勢調査のとき山村の人口は急速に減り始めていた。養蚕・伐採林業など、新しい生産事業がふえてきて古い秩序がこわれていく過程で、離村者が増していった。
しかし、村共同体結合のつよい村は、その結合がこわれても人口はむしろふえていっている。対馬でも南西諸島でも下北半島でもふえている。そういうところでは年中行事なども比較的多くおこなわれている。
▽208 昔は養子が多かった。多いところでは3分の2までが養子という例がある。半分から3分の1程度ということになるとザラにある。
……次男三男の養子のくちのないものは、嫁もとってやらず、分家もさせない。下男下女同様の生活をつづけて生涯を終わる。これをオジとかオバとかいった。能登半島の北岸、佐渡島の北岸などでは、自作農家の家ならばたいていオジ・オバがいたという。
▽211 新田村の年中行事は本田村にくらべて華やかな年中行事はすくなく、それだけ生活の低さが目につく。人につかわれている日が多いと、自主的に自分たちの休む日をきめたり、作業の手順をきめたりすることができなくなる。ムラじゅうが統一ある行動をとることも困難になってくる。(〓サラリーマン)
▽212 同業者の集団であったムラがしだいに解体して単なる地域集団にかわっていきはじめ、ムラの強い結束がすこしずつとけてくる。
▽224 中世以来の親方の家が早くおとろえ、かわって落人の家とか、新興の家が勢力をもってきて、しかも古くからのムラの制度に大きな変化のないところでは、名主や庄屋をつとめる家の旦那と烏帽子親・烏帽子子の契約を結ぶふうがすくなくない。
もともとは武士の間に多く見られたのであろうが、落人などのムラ定住が原因になって、広がったのでは。
……今日の保守政党の中にもそういう雰囲気が多分にのこっている。政治家の中にはやくざの世界につながっている者もある。
……ムラの結合がゆるんでくるか、または主従結合のつよいようなムラではムラの結合にたよるのでなく、ムラの中の力ある者の力にたよらざるをえなくなってくる。それほど1戸1戸の自活する力は弱かったのである。そしてほんとうの社会保障制度の確立されぬ限りは、こうした関係はなおのこっていくのではないか。(〓現在も。だが親方になれる人もいなくなって……英雄待望へ)
▽231 朝日新聞「ひととき」 社宅住まいが封建的といわれるムラの生活とどれほど差があるだろうか。同一の職業をもち、同一の場所で働き、同一の場所に住めば、それが同志的な結合を持った人々であればともかく、単なる地縁集団的なものであれば、ムラ以上の窮屈さが生まれてくる。
(地縁集団から同志集団へ、変革をはかるのが話し合い〓)
▽234 一軒の家が財をつくる裏にはその他の家の没落があった。共同体の結合の弱まるにつれて、土地を集積する者が増してきた。村人はいつまでもその家をひそかに軽蔑し疎外した。(〓狐つき)
ムラのなかで他者をしのいでいくことをのぞまないならば、立身しようとする者はムラを出ていくよりほかに方法がない。
▽234 神社や寺の玉垣・鳥居・石段などの寄付の名を見ることにしている。……能登は早くから江戸へ出稼ぎにいく者が多かった。風呂屋の三助が主要な仕事だったが、自立して風呂屋を経営するものが多い。
▽238 北九州には海人のムラがいくつも見られた。鐘ケ崎の場合は、壱岐小崎・対馬曲・長門大浦・能登輪島などに枝村をつくっている。それらは今日も親村のおもかげを多分に残している。
▽244 日支事変がはじまって統制経済がおこなわれるまで、民間の大半は旧暦を用いて日曜に休むというようなことは考えてもみなかった。旧正月。五月節句も新暦では菖蒲の芽がのびていない。盆踊りは美しい月光の下で踊ってこそ味わいがあった。
▽250 瀬戸内海。畑につくられるものが昔ながらのイモ・ムギのところは、若い者が少ない島か、男が漁業にしたがっている島。若い者が多い島ならばミカンが多くつくられている。
▽251 明治初年、人口は3300万人。農業人口は3000万人だった。
▽252 都市人口の大半が田舎出身者に占められるようになると、卑屈を感じる者はなくなっていった。……とくに田舎人に自信をもたせたのは「素人のど自慢コンクール」
▽ 団体の観光旅行の流行は、古くからの社寺への団体参拝旅行の流れをくむものではなかろうか。伊勢や出雲、金比羅の前には大きな宿がたちならんでいたばかりでなく、その道中にも大きな宿があった。(そう考えると大事な文化に思えて来る〓)
代参の団体がムラをでていくとき、村じゅうの者がムラ境まで見送っていくのも古い習俗でデタチといった。戦時中の出征兵士の見送り、戦後は修学旅行や卒業生の集団就職に、送られる者より送るものの方がはるかに多く、駅頭や埠頭をにぎわしている。(〓それもなくなった)
▽254 中元や歳暮は、もとは親方・子方・本分家・師弟の間に見られたもの。(歳暮は減っている?〓)
古い伝統を持たない新興都市にまで盆踊りや夏祭り、秋祭りがおこなわれるようになっている。商魂によるものも多いが、それについていく民衆のあることを忘れてはならない。(〓団地の盆踊り)
▽256 大晦日の明治神宮の驚異的な人出。参拝者の若者には、田舎から出て来た人が多い。ふるさとにいたころの年夜参りを東京へ延長させたものが多いようだ。……農村国家としての要素を失わず、農民の持つ素朴な感覚が一方で新しいものを求めつつも、たえずたましいのふるさとに郷愁を持ってきたことにあるのだろう(〓郷愁がなくなった第3世代は?)
(昭和39年ごろに書かれた原稿)

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