角川文庫 20070819
知性とは、自分の知っていることをどれくらい疑っているか、自分が見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意にまぎれこんでいる欲望をどれくらい意識化できるかを基準に判断する力だという。
言われてみればそりゃそうだ、と思う。だけどそれは、かなり深い意味をもっており、実行するのはとても難しいことが見えてくる。
たとえばニカラグアのFSLNの政権が善か悪か、支持されているのか否か、10人や20人の人の話を聞いたところで判断できない。なのに、世論調査をしたわけでもないのに「絶対支持されている」「絶対支持されていない」と断言する人がいた。「支持されていてほしい」という「欲望」が、「支持されているにちがいない」という判断に転換してしまうのだ。
それを防ぐためには、「あれもこれも知っている」というように水平的に知識を広げても意味がない。自分の都合のよいデータを無意識のうちに集めてしまうからだ。「この部分は知らないかもしれない」と意識することによって、「自分がわかってない」ってことがわかってくる。ただ、「この部分がわかってない」と意識するには、自分とは異なる他者の視点、上からの視点をもたなければならない。
以上のようなひねった発想があちこちにでてくる。
記憶というのはその出来事「そのもの」の強度によって記憶されるのではない。その出来事が「そのあと」の時間のなかでもつことになる「意味」の強度によって選択される--という記述も、常識とは正反対の考え方だ。
ふつうは「すっごい悲しかった」「すっごい楽しかった」という体験を強力に記憶する、と考えがちだが、実際はそうではない。その後にどれだけの意味をもつか、によって記憶は強められ、あるいは創造される。記憶(=歴史)は不変のものではなく、その後の情勢によって変化しうる、ということになる。
まず「国」があるのではなく、戦争があって「国」を意識する、という記述。ジェノサイドは、権力者の積極的な選択によるのではなく、恐怖に駆られた自己防衛として発現するから、「だれが」起こしたかという問いは無効である、という指摘……。構造主義的な考え方は、常識を逆さまにするような発想がおもしろい。
だからこそ、「善を為す」ことよりも「悪いことをこれ以上しない」ことを考える倫理的態度が必要とされるのだという。
———抜粋・要約————-
▽ソンタグはミロシェビッチが戦争を起こしていると思っている。だが、ミロシェビッチ自身は「別のだれか」がおこした戦争に対して防衛的・報復的に対応してるにすぎないと信じている。ジェノサイドは、「めざわりだから排除する」ような「積極的・主体的選択」ではない。その異物によって占拠され破壊されるという切迫した恐怖と焦りに駆られたとき、自己防衛として発現する。だから「だれ」がそれを起こしたかという問いは無効である。暴力の培地は悪意ではない。おのれは無垢であるという信憑である。
▽どこの国も恥部や暗部がある。が、「仮に大量虐殺があったとしても、そういう知識は無用に子供を害するから教科書に書くべきではない」とドイツの教育者が主張したら、藤岡もそれには賛成しないだろう。暗部について「恥辱」の気持ちをもつことは、「誇り」をもつことと同じく大事なこと。無知にもとづく誇りはただの夜郎自大にすぎない。
▽ 信の回復とは、「外傷経験」が「何を言おうとしているのか」を聞き取るということである。それは「真相究明」が要求するような検察官的なものではなく、もっと忍耐強い、開放的でぬくもりのある仕事のように思う。高橋哲哉を「審問の語法」と批判。
グアテマラの「和解」プロセスは?〓
▽優等生・学生運動家 査定されることが大好きな連中。受験勉強を通して学んだのは、「査定」型のトレーニングというのは、「どういう答えをすれば、誰がどういうふうに喜ぶか」を「見透かせる」能力の涵養に役立つだけということ。
▽国旗国歌 県教委も県教組も、国家と国民の関係は「すっきりした一義的なもの」でありうるし、あらねばならない、と考えるところでこの2つの言説はすでに「双生児」であり、すでにつまずいている。国家と国民の関係は「ねじれ」て当たり前。国歌や国旗に対しては愛着と反感を誇りと恥を同時に感じてしまうというのが、近代国家の国民の自然な実感なのである。愚行と蛮行と偉業の数々。君が代をうたうときの、どっちつかずの気まずさ。この気まずさの実感に言葉を与え、市民権をあたえ、それを国家への態度の基本として鍛えあげてゆくことが必要。(★敗戦後論)
▽国民国家 国民が主体的に戦争の当事者たらんと決意したとき、戦争は人間のコンロールを離れた。そのとき、戦争はその「本性」を露呈し、その「絶対的形態」を顕現する。戦争主体は、「国民」「将帥とその軍」「政府」という3つの構成要素があり、軍は「勇気と才能」がもとめられ、政府は「打算的知性」が求められ、国民は「憎悪と敵意の供給」を求められる。
▽国民共同体 共同体が成立した「後になって」場合によっては戦争が始められた「後になって」はじめて「護るべき共同体がそこにあったこと」が回顧的・事後的に承認されるような仕方で、私たちは共同体を成り立たせる。
戦争について分析的に語る言説じたいから戦争が生じることがある。言説が国民国家という「想像の共同体」に濃密な「リアリティ」を与え、敵意と憎悪のエネルギーを備給してしまう可能性
▽加藤典洋の本★ 死者の顔がいま、ここで目に浮かぶように、具体的に出来事を語ることこそ、おそらくは古代から伝えられた正しい鎮魂の作法なのである。
村上春樹の「アンダーグラウンド」もそれに近いのでは。★正義と悪の二元論ですべてを片づけて思考停止に陥っているメディアと、「ほんとは何がが起こったのか」を具体的に公開することに圧力をかける「システム」の共犯的関係。
靖国の遺影 ニカラグアの識字博物館の遺影……公式的でしかない説明は、大岡と対照的 汚れ部分の有無。
▽加藤らが望んでいるのは、南京の虐殺者たち慰安婦を性の奴隷とした兵士たちが、具体的にどのようなかたちでその行為を生きたかを「その内側から」、つまり「われわれの体験として」もう一度はじめから語り直すことでは……。
▽レヴィナスが求めているのは、「裁き」と「赦し」のめまぐるしい交代である。正義が峻厳すぎないように、赦しが邪悪さを野放しにしないように。
▽カミュの異邦人「無意味な死者をその無意味さのうちで哀悼する」
▽有事法制 日本がほんとうに危機的な状況とは、どこかの国が日本を侵略することについてアメリカがOKを与えた場合とアメリカ自身が日本を侵略する場合の2つしかない。賛成派も反対派も、国家主権が危機的な状況 は「絶対こない」ということを気楽に信じている。……4つの選択肢 アメリカの「強い味方」「弱い味方」「弱い敵」「強い敵」
▽フェミニズム批判 男らしさ
▽宮台批判
▽支配的イデオロギー 自分自身がその中に組み込まれている思考と経験の装置の構造と機能を反省的に吟味する仕事。そのうちの1つは「何を見ているか」ではなく「何を見ていないか」を「できること」ではなく「できないこと」を前景化せよという経験則。
▽デリダのレヴィナス批判 「人の言葉遣いにひそむ自己否認の構造のえぐりだし」という戦略をひとつの「体系」にしてしまった。それが、最強の論争用ウェポンとなった「デコンストラクション」なるものである。
▽(息子を犠牲に差し出したアブラハム) 何が正しいのかを決定する審級が存在しないところで、なお「決断しうる者」 おのれの責任において他者(神)の言葉を解釈し、その責任のひきうけによって「主体」としてのおのれを立てたことによって、他者との対話の地位に一歩を進めた。そうして構築された主体だけが「家郷を棄てる」ことができる。おのれのものではない語法で、なおおのれの歩みを語りうるような言語運動の生成の場をつくりだしていくこと。「私」の感覚に激しく抵抗するものを「私の言葉」で引き受け、「私」のものでない語彙を用いて、なお「私の言葉」を語りうること。こうした言語の錬磨を通じて、誰にも代わってもらうことのできない自分の責務を果たすように、こつこつと自分の言葉を鍛えあげていくこと。
▽「とほほ主義」 「善を為す」ことよりも「悪いことをこれ以上しない」ことを優先的な課題として自己省察する倫理的態度。……夏目漱石らを祖として、内田百閒、深沢七郎、赤瀬川原平……「〈システム〉が悪で、私が無垢だ」という「父」権制イデオロギーによりかかって世界の成り立ちを説明することを自制した人。「父になること」に失敗した人。
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