せりか書房 20070606
レヴィナスの本はこれまでほとんど理解できなかった。「入門」という題の新書も理解できなかった。この本も難しい。でもさすが内田樹氏だけあって、ところどころわかるし、なんとなくこんなことを言ってるんだな、という輪郭は見えてくる。
たとえば「私は……ができない」ことを知ることが「知」だという指摘は、「なるほど、ソクラテスの一緒なのね」とは思うのだが、「…ができない」と断言するためには、自分の今いる位置を上から俯瞰し、把握しないといけない。そういう俯瞰する位置こそが「師」であり、そういう視点がないと、「……ができる」という部分をひたすら水平に広げるだけで、いきづまってしまう。だから、師弟関係とは、他者との出会いの源基的な形態、と、説く。
「他者」もふつうの意味での「他人」ではない。「この人を認識することも和解することもできない」という存在をさす。「神」もそのひとつだ。そういう「他者」の存在をみとめ、だれかに頼ることも既存の知識に頼ることもできない絶対的な無根拠に耐えてなんらかの決断することで「主体性」が獲得されるという。
ぼんやりとしか理解できないが、少なくとも、「知る」「知りうる」対象だけとつきあうよりは、「絶対的にわからない」存在があることを知っていたほうが豊かだとは思し、「自分にとって大切なものは、あの人にとっても大切なはず」という押しつけがましい短絡的な優しさから脱することにつながるだろう。
「テクスト」論もこれに関連してくる。聖書やタルムードのような名作は、読者を安心させるためでなく、不安にさせるために書かれる。自分がいろいろ経験したあとにようやく「なるほど、この言葉の意味はこうだったのか」と理解する。読み手の数だけ解釈が存在する。豊かなテストは「師」であり「他者」でもある。わかりやすい「説明」(=理解できる対象)では、そういう豊かさは包含できない。
「謎を解くためではなく、謎を深めるためのエクリチュール」
これは自分が講演したり文章を書いたりするときも考えなくてはならないことだろう。
経験主義と懐疑論と現象学のちがいについての説明もわかりやすかった。
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▽自分が、自分を含む世界の中でどこへ向かう道筋のどの点にいるのかを「俯瞰的」に把握できないものは「私は…ができない」ということを適切な仕方で言語化することができない。教育を受ける意味は、かかる「俯瞰的な視座」を想像的に獲得することにある。この視座のことを「師」と呼ぶ。師とは「弟子をマップする視座」。師をもてない人々が、「学級崩壊」「知的崩壊」の主人公だ。「自分の目線の高さ」を水平方向に延長するという形でしか構想することができない。彼らは「私は…ができる」という言明を量的に拡大する以外に知性を行使する仕方を知らない。
▽師という名の持つ「他者」のうちに無限の叡智がひそんでおり、その一挙手一投足すべてが叡智の記号であるという「物語」を受け入れたものの前にはじめてテクストが開かれる。だから「師につかえる」ことができないものは「テクストを読むことができない」「他者」のうちに無限を見出すという「命がけの跳躍」をよく果たしえないものは、テクストのうちに無限を見出すという「命がけの跳躍」もよく果たすことはできない。
▽テクストを精読するためのいちばんよい方法は翻訳すること。
▽テクストは読者を安心させるためでなく、不安にさせるために書かれる。なぜなら「説明」ではなく「運動」のうちに至高のものは住まっているから。謎を解くためではなく「謎を深める」ためのエクリチュール。
▽テクストを注解する、とは「文書を自分に都合のよいように解釈する」ということ。具体的で固有で、解釈者の現実に即して進められる。それゆえにユニークであり、「代替不可能」
▽「他者」 オデュッセウスの冒険は「未知なもの」を絶えず「既知」に還元する。「自己」にとって「他なるもの」とは、経験され、征服され、所有されるためにのみ存在する。自己は「他なるもの」を「享受」する。
アブラハム的な「主体」が出会うのは「他なるもの」ではなく「絶対的に他なるもの」すなわち「他者」。「私はこの人を認識することも和解することもできない」という無能の覚知に至るときにはじめて「他者」は私の前に姿を現す。
オデュッセウス的主体は、自分があらかじめ事物に授与しておいた意味を発見してみせるという仕方でしか意味に出会えない。「光の孤独」
アブラハム的主体の孤独 「あなたの愛しているひとり子を、全焼のいけにえとしてわたしにささげなさい」と文脈なしに命令される。アブラハムは主の言葉の意味が理解できない。「行為の意味や適否を教えてくれるはずの決疑論的な判断枠組みが存在しない」ことを知らせるためにこそ主は語る。その言葉の意味を彼はただ1人で、おのれの全責任において解釈する他ない。この決断に対してアブラハムは絶対的な仕方で有責である。主の告げた謎の言葉を解釈し、決断したのはアブラハム自身なのだから。……この孤独と決断が主体性を基礎づける。「代替不能な有責性の引き受け」。何ものも彼の行動を根拠づけてくれないという絶対的な無根拠に耐えたことによって、獲得された主体性。
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▽経験主義と懐疑論と現象学
「ここに鉛筆がある」と素直に信じる素朴な経験主義。><世界の実相には絶対的に確実な仕方では触れ得ない、という懐疑論。
鉛筆があると思ってる私は妄想を見ているかもしれないけれど、そう思っている私は確実に存在する、と言ったのがデカルトのコギト。★
眼前にあるものが存在するのか仮象にすぎないかはわからないが、「私に対する現象」はたしかに「私にとって」存在する。その現れ方の様態や構造や法則性を考えるのが現象学の立場。
素朴実在論は夢中になって舞台を見ている観客。懐疑論者は「しらけた観客」。現象学者は「演出家」:しらけたまなざしで演技をチェックしつつ、同時に、観客が舞台の上に「ほんとうに見ているもの」を見逃さないよう没入する。
▽フッサール現象学
ものの本質は、いくつかの事例に共通するものを抽出して帰納的に推論して把持さえっるのではない。「直観的」に把持される。家の前面しか見ていなくても、その裏面を想起的に表象する。「間接的呈示(現前)」。……凡庸な画家は一面からしか対象を見ないが、すぐれた画家は見えないはずの対象の裏側まで視線が回り込んでいる。
ノエマ的成素は「同じ対象」についてそのつどいつも別個のものとなるが、しかし常に本質的にその下図を描かれたものである。
>> テクストも同様。「おのれに固有の読み方」を通じても、テクストの意味の統一は揺らぐことはない。テクストが読み手に開示する意味の相は「同じ」字句についてつねに別個のものだが、つねに本質的に下図を描かれたものである。
>> これこそタルムード解釈学の原理そのもの
▽フッサール批判
フッサールは「見ること」 事物を「単にもの」として凝視する観想。
非分節的な対象、包摂しえぬ対象との、生き生きとした交わりは「見る」ことではなく、「聞き」「語りかける」ことによって成就する。
見ることより聴くことの優先は、ユダヤ教的。……神を表象(偶像化)してはならない。目で見ることができるものに矮小化してはならない。
>聴く=…にむかう
>見る=確保・所有
▽フッサール批判
フッサールにとって他我は、自我の変様態(過去の私、のようなもの)としてあらわれる。「間主観性」の基層にまで到達しうるならば、自我は他我のうちに生起していることを原理的にはことごとく創造的に経験できることになる。つまりフッサールの「他我」は、レヴィナス的な意味での「他者」ではない。レヴィナスの「他者」は、想像も共感も絶した「見知らぬ人」
そういう他者とのあいだにも、コミュニケーションの隘路がある……
▽男性と女性
「身を引く」ことで自我が誕生する……
▽ボーヴォワール
構造主義の反主体主義の絶頂において「主体性の復権」を論じたのと同様、「女性的本質なるものは存在しない」というボーヴォワールの女性論の絶頂期に、「女性的なるものの復権」を論じた。
実存主義では、感情移入によって、あるいは間主観的領域を分かちあうことによって、私は「他我」の内面で生起していることを想像的に追体験できる。他者は私の同類であること、それがボーヴォワールの倫理を基礎づけている。2人の論争は、因習的な「他我」論と、過激な「他者」論の対立を表す。
▽たとえ神が「平等」を命じた場合でさえ、有責性を引き受ける優先権だけは譲らないという「不平等」へのこだわり。それが「人間的公正」を基礎づける。「道徳性は平等生のうちに生まれるのではない」
▽「男性的主体」は、私としての同一性を保ち続ける。だが、それは、私は私でしかなく、私自身に釘付けされているということ。いわば男性的な私はすみからすみまで私で充満させられている。私のこの自己窒息状態からの解放はエロスによってもたらされる。エロス的主体を根本において維持しているのは、私のイニシアチブではなく「愛されている」という受動的事況である。愉悦は「他者の愉悦を愉悦する」という仕方で享受されている。
▽正義と慈愛、「語ること」と「語られること」、全体性と無限、超越と内在、男性と女性……人間性の条件とは、「一でありつつ二である」こと。引き裂かれていることによって、知性と自由を確保する困難な選択のうちに存する。
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