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新しい風土記へ 鶴見俊輔座談

■新しい風土記へ 鶴見俊輔座談 朝日新書 20120512

 鶴見俊輔の幅の広さと現場への近さがわかる対談集。
 姜尚中や中村哲とはナショナリズムや「外の目」の大切さを語り合う。
 国家を超える、民衆に根っこのあるナショナリズムがイスラム圏にはあり、アフガン人はアジア人という言葉を好んで使う。日本でも明治国家をつくった人たちの中にはそれがあった。
 アフガンの用水路づくりで使った蛇籠は、日本では昔は当たり前の技術だった。戦争中の兵士は農家出身が多かったから植物を育てる技能があった。そうした、意識せずに人が共有できる何かが「有根のナショナリズム」の根になり得る。
 地方の草の根から出発して日本に元気を与えようという戦前の青年団運動は、根っこから離れた大政翼賛に流れ込んで変質した。敗戦後の無着成恭の取り組みも、子どもたちのそれぞれの暮らしから学ぶことで「有根のナショナリズム」を目指す動きだった。だが無着も、根っこから切り離された戦後の教育体系の中で居場所をなくしてしまった。

 徳永進とは「死」について語り合う。死を前にした患者は「たんぼの土を踏みたい」「焼き肉を食べたい」「空を見たい」と望む。元気なときは理想や主義主張、仕事が大事だが、死を前にするとありふれた日常の暮らしが生命の根本だとわかるのだという。だが死を受け入れるためには、精いっぱい生きていなければならない。
 例えば好きな山登りを存分にやった人は「死の野郎がもうちょっと遅く来たらいいのに。でも山登りもいっぱいしたし、しょうがないかな」と、どこかで手を打てる。だがベルトコンベア人生では取引できるものがなく、死を受け入れられない。「新しい治療法はありがたいが、逆に「あきらめていく力」が減っているように感じる」という指摘も新鮮だ。「老いが死の恐怖を弱めるのは確かでしょう。それだけで長寿は値打ちがある」という鶴見の言葉にもホッとさせられる。

 日本では明治以前は言葉の前に物があったが、西洋の影響で「言葉」偏重になっていく。小学校に入る前の6年間にすでに暮らしや知恵があることが150年間で忘れられてしまっている、と指摘する。
 学校ができる前に育った夏目漱石や、森鴎外、柳田国男は、言葉の前に物や文化があることを知っていた。その状態がもう一度返ってきたのが戦後の無着成恭らの取り組みだった。だが、戦後の教育体系の中で「言葉」偏重にもどってしまい、今の勉強は、用語の操作になり、用語の後ろに具体物・生活がなくなってしまった。
 言葉以前のしぐさから始まり、そこから言葉をつむぎだすのが無着の綴り方であり、フレイレの識字教育だった。言葉によって人を型にはめてしまうのは、レヴィストロースの指摘する「識字」の弊害のひとつかもしれない。

「反乱するメキシコ」は、マルクス主義者になる前だから「世界を震撼させた・・・」よりずっといい。ただメキシコに入って、革命戦争の間、暮らした。実感から彼の最初の歴史の本が売れた。(ニカラグア〓)

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□姜尚中
▽12 この60年間、被爆とは何かをアメリカにわからせるのが、日本の責任でした。今もわかっていないということの延長線上に、北朝鮮をはじめとする核拡散の問題がある。
▽19 島を見る目が島の内部に育たないとき、内部に住む自分は何をすべきか、何ができるか。それは、どの島国の思想史にも回帰的に起こる課題だ。日本では、鎖国時代、日露戦争終結後、米国にいだかれた安心した経済復興後の現在。戦う力を失っている日本人の上に、原爆を2発、それぞれの種類の効果を確かめるために落とした米国人に、日本の位置を決める宿題を託してはならない。
日本人に寄り添って生き、日本人に長く苦しめられてきた在日が、日本と日本人の位置を見通す糸口をつくる。この本「在日」はその出発点になる。
□中村哲
▽27 鶴見 国家を超える、民衆に根っこのあるナショナリズム。それがイスラム圏にはある。ところが欧米は、近代国家の型をイスラム圏に押しつけてみて誤解している。
日本にもかつて「有根のナショナリズム」があった。明治国家をつくった人たちの中にはそれが見られる。明治国家を作った力が偉大なのであって、これを明治が偉大だとすりかえると問題が生じる。
中村 アフガン人はアジア人という言葉を好んで使う。日本人もそうじゃないかという期待がアフガン人にはあるが、・・・
▽29 中 用水路づくりは日本の伝統的技術を参考にした。蛇籠。郷土史にはどうやってつくったかといいうのはあまり書かれていない。記載する必要がないくらい、誰もが身につけていた、あたりまえの技術があったんでしょう。
鶴見 日本兵士は農家出身が多かったから、植物をちゃんと育てる技能を共有していた。
中村 根っこのあるナショナリズムもそれに近い何かがあるんでしょう。意識せずに人が共有できる何かが。
鶴見 大切なのは、「しぐさ」「作法」を共有し、伝承すること。日本の国としての民主主義が崩れることがあっても、小さな、数十人の集団の中だけでも民主主義を守り続けたい。最後まで妥協せず、民主主義を維持する。そういうしぐさの人間として生きていきたいと思う。
戦前、地方の草の根から出発して日本に元気を与えようという下村湖人、田沢義はるの発想に基づく青年団の運動があった。やがて大政翼賛に流れ込み、当初の理想は変質した。大東亜戦争中の中国研究者の中江丑吉ー鈴江言一のつきあい、ダンテ翻訳者の寿岳文章・作家のしづ夫妻からその子どもたち、プロレタリア画家の岡本唐貴ー漫画家の白土三平父子を考えると、個人を超える小さい集まりには、始まりの希望が今もある。(いま・ここネット、レコム〓)

□徳永進
▽41 死を前にした患者。「たんぼの土を踏みたい」「焼き肉を食べたい」「空を見たい」 生きているときは、日常の暮らしより理想や主義主張、仕事、金もうけが大事ですが、死を前にすると価値が逆転する。ありふれた日常の暮らしが生命の根本だとわかる。
・・・例えば好きな山登りを存分にやったという人は「死の野郎がもうちょっと遅く来たらいいのに。でも山登りもいっぱいしたし、しょうがないかな」と、どこかで手を打つ。死と取り引きできたりする。だけど、ベルトコンベア人生では取引できるものがないので、死んではならない、死は悪で、遠くにおくもの、となる。新しい治療法はありがたいが、逆に「あきらめていく力」が減っているように感じる。〓〓
(安藤の場合)
▽47 鶴見 老いが死の恐怖を弱めるのは確かでしょう。それだけで長寿は値打ちがある。私は自宅で一人で死ぬのがいいかな。最後の一息まで不良少年として生きたいですね。

□アーサー・ビナード
▽60 ナンシー関 金子文子の獄中手記「何が私をかうさせたか」「人生で自分が経験したことは、どこかに残る。そのことを自分は信じる」
▽65 「国家社会のために」国家が社会に優先するというような、歴史上あり得ない転倒に気づくことのない、近代の中に今日を迎えている。

□上野千鶴子
▽70 鶴見 私がもうろくを自覚したのは70歳のころでさう。今はもうろくを濾過器として使っています。細かいものは通してしまい、重みのあるものだけが残る。それを中心に考える。
上野 介護保険は家族革命。私事とされていた介護が、家族の責任だけではない、公のものという合意ができたから。

□四方田犬彦
▽85 四方田さんは高校のとき、いっぺん学校を離れてるでしょう。それと、最初に行った外国が韓国だった。この2つが大きな財産になっている気がしますね。(自分の変化と経験を振り返る大切さ。意外と自分を知らない)
▽92 日本の新聞は、大正末以来、大学を卒業した者を中心にとるようになった。このことが同時代の映画製作者、漫画、とくに貸本漫画製作者にくらべて、自由な動きを失わせた。小刻みに入学試験を越えてゆく競争の準備に左右されて、仕入れたばかりの知識の要約に心を奪われる心性を用意した。
戦後早く、新聞は漫画の隆盛を憂え、もうすぐ衰えるという警告を何度にもわたって発し、そのたびにはずれた。
これは、新聞人が大づかみにつかむ力を失っていることからくる。
日本の漫画は、・・・1000年あまりの文化史を背景にもつことを思って、軽々しく大学出の知識人のおごりから考えることを控えてほしい。

□中島岳志
▽103 インドの詩人タゴール 日本の帝国主義を批判すると、タゴールをおとしめるようになる。この変化はガンジーに対する態度と同じ。イギリス帝国主義への抵抗だけをずっと前面に出すが、ガンジーの日本帝国批判は全然出さない。ガンジーは賀川豊彦に「あなたは日本帝国に立ち向かって死ぬほかはない」といっている。
▽105 魯迅の日本人への優しさがどこから来ているかを考えないで、ただ「魯迅は偉い」。ガンジーに対してもただ「ガンジーは偉い」だけ。
日ロ戦争後、成績と学力が同じものと考えられるようになってしまった。「学校の成績で一番偉い」となった。そこに立っている限り、パールの東京裁判の判決書は読めないでしょう。読む学力がないんだ。だから「パール判決書=日本無罪論」といったへんなことになってきている。
▽108 パールは、遡及法は
やってはならないというのが、ヨーロッパの法の伝統ではないのか、と問う。「遡及法、事後法は、近代法の原則からの逸脱だ」と。
パールは、南京虐殺の存在自体は疑うことはできないと断言する。だが、それらが司令官の命令によるかどうかは証拠がないとつづけている。容疑者たちが具体的に南京虐殺を指示したのか、許可したのか、といいう事実をパールは追及する。
鶴見 日本人でも「同盟通信」の松本重治は、南京虐殺についてはっきり打電している。
中島 パールが世界連邦主義者だった点やガンジー主義に基づく絶対的平和論者だったことも・・・パールの議論を利用したい一部の「右派」にとっては都合が悪かったのでしょう。
▽115 明治以後の知識人 明治以前にあった文化や暮らしぶりと切れちゃっている。
▽121 中島 イギリスによるインド支配と戦うために、ボーズは日本とつながっているけれど、同時に親友の祖国を迫害している国でもある。日本の軍人たちが、インドにとってのイギリスのような存在であるわけ。その矛盾に出会ったとき、ボーズは泣くしかないんですかね。
鶴見 負けっぷりの伝統を維持した人は少ない。石橋湛山、高橋是清くらい。ボーズを近代日本に位置づけると、竹内好と橋川文三をその側にいる人間として考えざるを得ない。
▽122 1952年に再来日したパールは、当時の日本政府が進めようとしていた再軍備を厳しく批判し、非武装中立に徹するべきことを訴えた。平和憲法を護持すべきことを強調し・・・アジア主義者と連帯し、アジアの側からの世界連邦運動を推進した。

□孫歌 竹内好の広がり
▽129 実存的歴史哲学 竹内好の方法。キルケゴール。マンハイム「歴史を洞察する力」「時代の構成的な意味を考察する力」
▽139 丸山は、日常生活的には大胆な人間ではなくて、臆病といえるかもしれないが、学問の世界ではかなり大胆なことをやり遂げた。
▽148 竹内「8・15をアホウのようにふぬけて迎えた」ことが、たまらなく恥ずかしいと書いている。・・・
戦争の中で起こり得る抵抗というのは、敗戦の瞬間だけ、唯一の抵抗のチャンスがあった。でも逃されてしまった。
▽153 竹内の「評伝毛沢東」が成功していないのは、毛沢東が成功したから。成功者の伝記を書くのは貝塚茂樹のほうがいい。貝塚は、文化大革命で弟子が「毛派」になって自分を突き上げてきても動かない。それは4000年の歴史を見ているから。だいたいにおいて革命の指導者は、できあがった社会のよき指導者であったためしがないんだ。貝塚は歴史家として一度も文化大革命を支持したことがないんだよ。そこはすごみがある。
▽157 いつの時代でも努力しなければならないが、そのことは個人から始まる。でも、いつの時代にも歴史につぶされる。だけれどもやらなきゃいけない。それこそ実存主義だね。(グローバル化した世界では、人間の努力はもっとも「実存」的になるかもしれない。)
▽162 ジョンリード「反乱するメキシコ」は、マルクス主義者になる前だから「世界を震撼させた・・・」よりずっといい。ただメキシコに入って、革命戦争の間、暮らした。実感から彼の最初の歴史の本が売れた。(ニカラグア〓)

□池澤夏樹 母は詩人・原篠あき子
▽171 池澤「静かな大地」という作品で僕は北海道人になった。(淡路から北海道にわたった先祖の物語) 「虹の彼方に」 アイヌに対する暴虐、沖縄の少女暴行。沖縄や北海道はそのことが起きた「現地」。それらは辺境で起こる。……といって単なる怒りではない。怒りで感情に流されてしまっては、結局はどこにもいかず、最終的に自分の中にむなしさが残る。「なぜ、ここではこういうことが起こるのか」「なぜ、あちらではなくここなのか」ということを考えざるを得ない。
▽177「マシアス・ギリの失脚」は、ガルシア・マルケスのマジックリアリズムを意識していた。なんとかなぞってやりたいと思ったけど、ガルシア・マルケスと比べると悪が浅い。カトリックがない土地には悪がない。太平洋地域には、スペインから中南米におけるような強いカトリックのあの闇がない。
インパッションドな文体ということでいえば、一番強烈にやったのが、イラクに行ったとき。特派員はサダム・フセインしか見ていなかった。だけど僕は、開戦の4カ月前に行って、2週間ぐらい歩き回った。彼らがいかにおいしいものを食べているかとか。アラブには何度か行っているけど、実はイラク人が一番好きでした。大変勤勉で頭がいい。(〓イラクの本)
▽182 インターチェンジャブルな視点を持った作家 中島敦
(横光は)鴎外のころからいうと、転移の能力が落ちていた
▽184 明治以前の日本人のしぐさや動作は、今も続いているけど、そのことを想像する力が低下してしまった。
終戦の詔勅。沈黙する人々。ギランは「能みたいだな」という。ラジオを聴いている人たちも感情を抑えている。それを「日本人の微笑」(「日本人と戦争」朝日文庫)という題で書き残している。だけど、私たちは、そのことに気がつかなかった。それを解き明かすメカニズムを明治の教育が奪ってしまった。
明治以前のしぐさは、私たちの中に生きている。同じ肉体を持ち、同じ反射がある。だが、そのことを自分で読み解くことができなくなっているという問題なんです(鶴見)
▽194 鶴見 言葉から始まるのか、しぐさから始まるのか、というのが、大変な問題。ヨーロッパ人ははじめに言葉ありき。……ヨーロッパ語の学術大系を日本語に移した。言葉による支配ですね。西周が中心になってすごい速さでヨーロッパ語に漢語をあてはめていった。しかし、逆にそれにとらわれちゃった。
言葉の前に物があった。小学校に入る前の、生まれてからの6年間にすでに暮らしがあり、知恵があるでしょう。そのことが、この150年間で忘れられてしまっている。
だけど、学校ができる前に育った人たちは違う。言葉の前に物があり、文化があることを知っていた。夏目漱石も、森鴎外も、長岡半太郎も。柳田国男は、ほんの少しかぶさっている。
その状態がもう一度返ってきたのは敗戦後。無着成恭と子どもたちとの関係はそうだった。言葉の前に物がある。子どもたちがそれぞれ持っている暮らしから、無着は巧みに学んでいく。子どもの方が家業に携わっていて、生活者なんだね。その無着も、戦後の教育体系の中でいる場所をなくしてしまった。
今は勉強ということが、用語の操作になってしまっている。用語の後ろに具体物、生活がない。
(言葉以前のしぐさから始まり、言葉をつむぎだすのが無着のやり方でありフレイレの識字。言葉によって人を型にはめてしまうのは、レヴィストロースの指摘する言葉の弊害なのかも〓)
▽200 思想の科学研究会 武谷が「多元主義」を打ち出した。60年以上、1度もメンバーを除名したことがなかった。脱会も自由、参加も自由。
▽202 「土曜日」を京都市内の喫茶店に置いた。「フランソワ」や「れんこんや」に置いてもらい、広告を取って自立採算だった。斎藤雷太郎はえらい。大学出がやると、最後はみんな赤字で身銭になるでしょ。戦後、斎藤に会ったら「私はいい顔しているでしょう。戦争中にこれだけやったからと、戦後に共産党に迎えられて役員をやったら、こういう顔つきではいられません」といっていた。
京都は職人の町、時代劇のおこった町。大衆に対する信頼というのは「世界文化」「土曜日」の中にはありました。
▽206

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