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驚きの介護民俗学 <六車由美>

 ■驚きの介護民俗学 <六車由美> 医学書院 20120511
 著者は気鋭の民俗学者として一時脚光を浴びたが、しばらく表に出てこなかった。大学教師をやめ介護の現場にいたとは驚かされた。何が彼女をそうさせたのか。介護現場の何が魅力なのか--。
 民俗学の調査対象は、伝統的な社会規範のなかで生きてきた人が多い。そんな人たちから「なぜ結婚しないんだ」と問われつづけ、筆者は「私の生き方は間違っているのか」と心が不安定になっていた。
 ところが介護の現場には、看護婦、電話交換手、旅館の仲居、布団の技術者、蚕の鑑別嬢など、仕事に生きてきた女性、民俗学の対象とされなかった「一般コース」ではない女性がたくさんいた。それが救いになったという。
 民俗学は農村の文化が対象であることが多いが、介護現場では、高度成長時代に飯場を渡り歩いた人や、村に電線をひくため家族とともに各村に1週間から10日滞在して仕事をした現代の漂泊民……といった「忘れられた日本人」に出会えるという。
 逆に介護現場にとって民俗学の聞き書きの手法は、今までの「傾聴法」「回想法」とは異なる効果をもたらす可能性がある。
 傾聴法は、専門家であるスタッフが「利用者」の話を聞いている態度を示すことで、生活やコミュニケーションのレベルを引き上げるという、上からの目線がある。それに対して民俗学の聞き書きは、お年寄りが「先生」であり、「聞かせていただく」という立場の逆転がおこる。上下という権力関係にある施設の人間関係を一時的にせよ逆転し、お年寄りがその場の主人公になれる。
 また傾聴法は「聞いている」という身振りが大事で、老人も身振りや様子で満足感を示すとされるが、聞き書きはあくまで「言葉」にこだわる。認知症のお年寄りでも、断片の言葉をつなぐことでその人の人生を再生することができるという。
 回想法は、だれもが活用できるように方法論化が進んでしまったがゆえに、利用者の複雑な人生を見据えるまなざしを曇らせてしまった。個々人の「顔」に向き合わなくなり一般化することで、個々の人生への「驚き」が失われてしまった。民俗学は、1人の人間総体をまるごととらえる目を介護現場にもたらしてくれるのだ。

 認知症の老人の幻覚や幻聴の位置づけかたも興味深い。
 認知症の女性が語る架空の物語と、カッパや狐が出てくる「遠野物語」などの民話と何がちがうのか、と筆者は疑問を呈する。
 遠野の老人たちは、かっぱや狐も含めた世界のなかで生きてきた。「昔はそういう狐がいたもんだ。今はいなくなったな」と語る。そうした人々と、死者の声がきこえるという認知症の老婆との間に差があるのだろうか。昔から、子どもと老人は死者(神)の世界に近いとされてきた。「大人」には見えない幻想や物語とともに生きてきた。
 ユークリッド幾何学や近代哲学が否定されつつあ状況を踏まえると、物理的な現象だけを信じる「大人」の世界だけを「現実」とする世界観に疑問を突きつける必要もあるように思える。

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▽GeNii 国内のあらゆる学術研究について検索できる国立情報学研究所のサイト
▽24 村に電線をひく労働者。各村に1週間から10日滞在して仕事をする。村々を家族とともに渡りつづけ、定住の家をもつことがなかった。現代の漂泊民。
▽32 都市部のサラリーマン家庭に嫁ぐことをきらう時代。「味噌漉し奥さん」という言葉。食べ物を自分でつくらないサラリーマン家庭の生活は農家に比べて不安定だった。
▽41 村々の魅力的なおばあちゃんの人生にふれるほど、私の心は不安定になっていくばかりだった。そうした伝統的な社会規範から逸脱して生きてきた女としての自分の人生とのあいだに、埋めがたい深い溝があることを意識せざるを得なかった。村を訪れるたびに浴びせられる「なぜ結婚しないんだ」という言葉が、さらに私を追いつめていった。私の生き方は間違っているのだろうか・・・。
▽42 介護現場には、看護婦、電話交換手、旅館の仲居、布団の技術者、蚕の鑑別嬢など、仕事に生きてきた女性たちがたくさんいることを知った。(〓民俗学の対象にならなかった人々、一般コースじゃない女性たち〓それが救い)
電話交換手はエリート女性の仕事だった。
▽62 トイレットペーパーを便器に捨てようとしない認知症の女性。推薦トイレに紙を流せなかった時代があったから? 糞尿を肥やしにつかうときに紙が入っていると、乾いた紙が風にあおられて舞ってしまい近所に迷惑をかけてしまうから、ペーパーを便器に落とさなかった。都市部の農家ではそういう気遣いがあった。
▽74 立ちしょん用のトイレに腰を屈めて用を足す女性。昔の農家の女性は畑で立ちしょんをしていた。大正一桁生まれで農家で育った女性たちは、今ではすたれてしまった立ちしょんの経験者。
▽91 「不穏」な問題老人、とレッテルがはられていた女性。実は家族思いで、心配性で、ユーモアあふれるおばあちゃんだった。「介護していると思っていたら、私のほうがハルさんに面倒をみられる立場になっていた」
▽105 認知症で、何を言っているか理解できないと思いこんでいた言葉が、こちらが興味を持ってじっくりと耳を傾けてみると、実はその人なりに脈絡があることが見えてきた。
メリヤス編み機を全国に売り歩いた人。現代の「忘れられた日本人」
(能登からの出稼ぎの人たちは〓)
▽110 「思い出の記」としてまとめる。・・・認知症でも、民俗学における聞き書きのように、それにつきあう根気強さと偶然の展開を楽しむゆとりをもって、語られる言葉にしっかりと向き合えば、その人なりの文脈が見えてきて、ちりばめられたたくさんの言葉が一本の糸につながれていき、その人の生きてきた歴史や社会を織りなす布が形づくられていく。
▽114 柳田国男は晩年認知症に。何度も出身地を尋ねた。若いころの柳田は、はじめて会った人に決まって出身地を尋ねていた。どんな地名を言われても、そこにはこんな神社があるとか、史料があるとか、蓄積してきた知識を披露した。
柳田は、膨大な知識と経験を分類し、新たな知識と関連づけて記憶するために、地名を索引にしていた。老いによって単純化された柳田の頭脳に最終的に残ったのは、その学問を体系づける知の方法=地名による索引だった。晩年の柳田の老いの症状について、民俗学者たちが不問に付してきたなかで、佐藤健二「読書空間の近代ー方法としての柳田国男」が注目し、「知の方法への回帰」として積極的に研究対象として論じた。
認知症の「同じ問いの繰り返し」も、彼ら彼女らの人生の基層にある「生きる方法」につながる言動として理解できるのではないか。
▽123 認知症の方の「同じ問いの繰り返し」には「同じ答えの繰り返し」が求められている。やりとりが繰り返されることで、ショートステイという未知なる場所において自分の立ち位置をみつけ、ひとときの安心感を確保できるのだろう。予定調和を演じることで安定が確保される。これはある意味で民俗儀礼に似ている。豊年を祈る小正月の儀礼など。
▽129 「同じ問いの繰り返し」は、安定や安心を確保する一方で、普段は奥に眠っている悲しい記憶を呼び起こし、追体験することに結びついてしまうこともある。問答を繰り返すたびに、安定と不安定、安心と不安、喜びと悲しみのあいだをお、さまよい、生きている。
▽137 幻覚や幻聴。声の主の死者たちが生き生きとこの世を闊歩している様子を、美智子さんが推理小説家か昔話の語り部のように雄弁に言葉豊かに語ってくれる。ときに翻弄されながらも彼らとともに物語世界を生きることが美智子さんの日常になっている。
(遠野物語などの民話も、土地の人は信じている。かっぱや狐の話なども。幻覚とか幻聴の一種かもしれないが、そういうものも含めて世界を形成している。そもそも人間の記憶なんて時間とともに変化して何が本当かわからなくなるものだ。幻覚とか幻聴をも含めた世界が現実だという捉え方も必要じゃないのか、と)
▽138 「昔はそういう狐がいたもんだ。今はいなくなったな」 この老夫婦は「狐が人を騙す」という物語の世界を生きてきた人たちだ。
▽139 物語世界を共有するのが、老人と子ども。民俗学では、老人も子どもも神に近い存在として説明される。両方ともあの世に近い。世俗的な説明など必要とせずに、語られる物語世界をそのまま素直に受け入れることができる。
「人を騙す狐」の物語世界に生きる老夫婦と、死者の声がきこえる(認知症の)美智子さんとのあいだには、決定的な違いなどあるのだろうか。一方は民俗学の調査対象になり、一方は認知症の治療の対象になると分ける根拠も曖昧になってこないか。
▽145 回想法への疑問。
▽「テーマから逸れたら、なるべく話をテーマに沿うように戻しましょう」と講師。グループで語ることの限界。利用者と職員とが一対一の個人回想法なら解決できるのに、現場では個人回想法には消極的。深追いすることで対象者が動揺したり不穏になったりする危険性が高いから、と講師は説明し、精神科医やカウンセラーに任せるべきだという。
▽150 回想法は、だれもが活用できるように方法論化が進んでしまったがゆえに、利用者の多様で複雑な人生を見据えるまなざしを曇らせてしまうことにつながっってしまったのでは。
回想法には「驚き」が欠けている。
▽154 野本寛一 調査者は話者に「教えを受ける」(回想法とは反対)
▽168 介護現場での聞き書きは、利用者にとって、一時的ではあるが、弱っていく自分を忘れられて職員との関係が逆転する。それは、臨床心理士によるカウンセリングとも社会福祉士による相談援助ともちがう関係性。
受動的で劣位な「される側」にいる利用者が、ここではしてあげる側、教えてあげる側という能動的で優位な「してあげる側」になる。それは、ターミナル期を迎えた高齢者の生活をより豊かなにするきっかけとなるのではないか。
▽184
▽186 「喪失の語り」 ひとつは、未だ絶望の淵にいるときの血を吐くような救いを求めた語り。もうひとつは、時間の経過とともに乗り越えてからの語り。・・・利用者の喪失の語りに涙する私は、まるで昔話を語り聞かされる子どもだ。もしかしたら誇張や虚構があるかもしれないが、・・・私は利用者の語りの樹海に飲み込まれ、夢中になり、熱い涙を流した後には、絶望を生き抜く力に変えていく知恵とエネルギーをもらうことができる。(作り話でも真実〓)
▽195 驚きつづけることの難しさ。ルーチンワークと「驚き続ける快感」とを両立させることは意外に難しい。
▽200 製糖工場の体験の話を理解しようと「砂糖の事典」を買って調べる。(取材と同じ〓)
▽209 過酷な介護現場の勤務。「驚かない」「驚けない」ようにしてしまう。
▽驚けなくなってから、介護の技術的達成かの喜びは強く感じるようになる。だがそこで感じる介護の喜びは、利用者と接しているのに、そこには利用者の存在が希薄となっている。自分の技術に酔っているだけなのだ。聞き書きをしていたとき、利用者の人としての存在がとてつもなく大きく感じられたのが嘘のようだった(稲葉のとりくみ〓)
▽219 上野千鶴子の「ケアの社会学」
▽223 「介護民俗学」に関心を持つことで、民俗学を学んだ若者たちが介護の仕事に携わってくれることを心から望む。民俗調査でムラのばあちゃんたちによって鍛えられてきた彼らが、介護の現場でやれることは多いと思われるからだ。
なにより、介護の現場は、民俗学的関心を持った者にとっては実に魅力的だから。
▽224 ケアワーカーの低賃金。「自分は受けたいが、自分からやりたくない労働」
介護現場が社会へと開かれていく必要性。たとえば民俗学を学ぶ学生が論文の調査で聞き書き目的で入ろうと試みても、受け入れられるのは容易ではないだろう。
▽227 民俗研究者や学生が、研究のために定期的にムラに入って高齢者を対象におこなう聞き書きは、地域包括支援センターと連携することにより地域の高齢者の見守りにつながるだろう。会話を促し、生活を活性化することにもつながる。
高齢者が地域でっくらすことを支える介護予防事業に関わることが、実践的な学問である民俗学に対して求められていくのではないか。
▽229 利用者の人生の厚みを想像できる情報があまりにも少ない。職員にもたらされる情報は、家族構成、既往歴、現在のADL。その人となりを知るための生活歴や人生歴などの情報は極端に少ない。

(能登杜氏の生き方〓)

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