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山びこ学校ものがたり

■山びこ学校ものがたり あの頃、こんな教育があった 佐藤藤三郎 清流出版 20120509
 著者は、青年教師無着成恭が教鞭をとった山びこ学校の一番の教え子であり、無着が村を追われた後もずっと村に残り農業をつづけた。無着の教育の多大な影響と同時に、無着に足りなかったものも身を持って感じ反発してきた。師へのアンビバレントな思いをつづる。
 無着は社会への目を開かせ、物事を具体的に考え、日々の生活のなかから知識を得ていく大切さを教えた。一方で、抽象的なもの、生活と関係ないようにみえるものへの目配せはなく試験対策などは軽視した。社会に対する開眼のようなものは展開したが、具体的な生活者としての技を養うことが弱かった。
 そのへんが島根県で綴り方教育を実践し、さらに卒業した若者とともにムラの発展に取り組んだ加藤勧一郎との違いであり、加藤が無着と出会ったときに指摘していた無着の弱点でもあった。
 山元村の子どもたちは、壊れたリヤカーの車輪を自ら修理してしまうといった「生きる力」を育んでいた。昭和20年代生まれの世代ならば、田舎で育った人は、農作業や家の修繕、魚釣りといった、都会育ちの人間にはない「生きる力」をもっていた。でも残念ながら生きる力をもつはずの田舎の人々-私の個人的な知り合いも-必ずしも幸せな人生を送っていない。衰退する地域社会のなかで行き詰まり、自殺し、精神を病み……。佐野眞一の追った「山びこ」の卒業生もそうだった。
 なぜそうなるのか。どうすればそれを防げたのか。
 「精神的貧しさは、自分の言葉でものを言える勇気をもち、表現する力を身につけることで脱却できる」「真の教養とは……文字の知らない人が文字を覚え、表現し、思考し、伝達できる力を身につけ、生きる力を持つことこそが、学歴を持つこと以上に価値のあるものだ」
 あるべき教育の姿は、無着や加藤やパウロ・フレイレの取り組みの延長線上にある。状況から一度自らを引き離して外の目で評価し直すこと、現状を「受け入れるしかない」とあきらめるのではなく改善すべき課題ととらえること。
 今の日本では、農村で育った子もゲームやテレビによって生きる力を失い、都会の子はそもそも生きる技術すらなく、未来への希望もない。
 では「幸せ」への種はどこにあるのか、幸せを感じている人はどこにいるのか……と考えると、Uターン、Iターンで田舎に来た若者たちに目が向く。
 この本の著者の生活を支えたのは、些細な農外収入である原稿料だったという。半農半X的な生活が、筆者の生活と生き甲斐を支えている。おそらくそれは、置かれた状況を客観的に見つめ、それを表現し、状況と格闘することを教えた無着のおかげなのだ。

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▽8 この先生は「知識」や「学力」面で秀逸だっただけでなく、常識破りで怖いもの知らず、負けず嫌いの暴れん坊だった。
生活と遊離したところに「知識」も「教養」もない。ましてや現実の暮らしから遊離した「教育」など意味がない、と。
▽47 ワラビをとり売って生徒会費。
▽61 リヤカーの車輪が壊れたのを修理してしまう。ぼくの村では中学生ともなればこうした作業力をみんなが身につけていた。労働することがすなわち生きる力として養われていた。〓阿蘇
▽74 「第一歩」という詩 みんなで呼びかけ、大声で叫んで、唱和して・・・
▽78 昭和22年、学校制度改革で「青年学校」が廃止される。それにかわるものとして「定時制高校」が開校したが、村には設置されなかった。そこで「青年学級」が開設された。山形県が全国に先駆けておこなったものとして社会教育のなかで高く評価されている。(加藤の全村教育〓)
▽90 精神的な貧しさは、自分の言葉でものを言える勇気をもち、表現する力を身につけることで脱却できるものだと考えるようになっていた。
▽104 「総合的教育」を無着先生は行っていた。・・・山道も山のてっぺんも、映画館も・・・生活のすべてをどこででも教えた。・・・ぼくらの父母たちを見下げたりすることはなかったが、権力のあるものには抵抗していた。
▽113 無着先生は「貧乏はその人のなまけのせいでもなく、責任でもない。そうさせている社会が悪いのだ」。しかし貧しい村人たちには受け入れられなかった。貧しい人ほど「貧しい」と見られることを恥ずかしく思うからだ。・・・「社会が悪い」などと教えてもらうよりも、今すぐにパンがほしいし、布団が欲しい。そうした村人の心をもっと深く知っておられたら、村の人たちの無着先生を見る目が違ったものになっていたのかもしれない。(加藤との違い〓)
▽141 「たとえ試験の点数が悪かろうと、人間としての生き方をしっかりと教えた」。ぼくはこの言葉にずいぶん悩み、疑問に思った。・・・生きるためには「術」や「技」が必要だ。試験で正しい解答ができることは生きるために「必要な技」なのではないか。ぼくはその技の足りなさゆえに苦労が絶えなかった。国分一太郎先生に「たとえ試験の点数は悪かろうと」について質問すると、「それが無着のいけないところだ。試験の点数もちゃんと取れる力をつけてやらねば駄目なのだ」と言われた。・・・無着先生だって山形中学に入学し、師範学校も卒業しておられる。
▽162 臼井先生は・・・真の教養とは外国の文献を羅列、引用してこね合わせることではない、文字の知らない人が文字を覚え、表現し、思考し、伝達できる力を身につけ、生きる力を持つことこそが、学歴を持つこと以上に価値のあるものだ、と説いておられる。
今の日本の、というよりも、ぼくの子どもや孫たちの勉強にもこうしたものが不足していないのか、と思うことしばしばなのである。(フレイレ)
▽170 村の貧しさと真剣に向き合った遠藤先生。満州移民をすすめた。「遠藤先生に騙された」・・・無着先生の教育にはそうした具体的な「生活」の導きは強くなかった。社会に対する開眼のようなものを展開し、実際の生活者として技を養うことが弱かった。そのために「生活者」たる村の人からは支持されないものがあったのだと思える。(加藤との違い)
▽178 上山市教委。教科書採択ができることに意義を感じていた。地域の自主・自立を意味しているから。・・・教科書そのものを上山市教委がつくり、上山市に見合った上山市の子どものための、地域社会の発展のためになる教育ができる教科書をつくるべき。・・・昭和23年ごろ、21歳にして、そうした理念をたくらみ、実践したのが無着先生だったのだと思うと、その偉大さは深く歴史に刻む価値があるものと思わずにいられない。
「教育委員会」が一般行政と分立している理由は、まさに政治権力や、国家権力などに左右されてはならないことをはっきり教えているからである。昭和23年に発足したときは選挙によって委員が選ばれ、委員の報酬は議会議員と同等であった。
▽189 無着先生は「山いも同志会」のテキストに「経済学入門」を選んだ。マルクス経済。こうした本をテキストに選んで学習をすすめておられた先生が、今は仏教徒だと言い、仏教こそが真理の道だと説かれているのを思うと、理解に苦しむものがある。
当然村に残るだろうと思われた長男もみな村を去った。女性も去った。思想よりも人生観よりも、生きるためには経済が優先だった。日本の経済の変化に対して、教育の力などは実に弱いもののようなのである。
▽192 ぼくの生活を支えてくれたのは、些細な農外収入である原稿料だった。農業以外の収入が少しでもあるということは、農家にとってたいへんな助けになるのである。・・・大規模化が盛んに言われたときは、自給自足的な農業でしかない自分の生き方に後ろめたさを感じたりもしたが、大規模経営にして難儀している農家のことを思うと、副業を持つ農家もあっていいではないかとつくづく思う。(〓半農半X)
▽202 ぼくの村では「山びこ学校」に好感を持っている人は少ない。・・・学校での教育のなかには理念や、精神の育成はあっても、生活のための実際の経済問題や現実の生活の糧になるものがないからだ。・・・現実は進学するにも就職するにも試験の点を高く取らなければいけない。そこでどうすればよいのか、といった具体的な方法を無着先生は示されなかった。
▽210 今井誉次郎 「江口江一君たちがあの蔵王山を真正面に見える家に住んでいたかったら、道路をもっと立派にして朝晩のバスをこしらえればよいのです」この言葉のなかではっきりと、山元村は農業では生活できませんよと言っておられる。山元村を見たとき一目できっぱりと農業だけでは生活できないと言った。
一方無着先生は江口くんに「どうだね、きみのうちの歴史を書いてみないか。そうしたら三学期には君のその作文を中心にして社会科をやってもいい」と。無着先生には社会を教えることに対する鋭い思いつきと、それの問題化、社会科学をとく能力は人ではまねのできないものをもっていた。しかし、今井先生のように「平地がないこの村で農業ではとても生きられそうにない」という現実的な目で村や暮らしを見て、考えることはなかった。

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