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血にコクリコの花咲けば  <森嶋通夫>

 朝日文庫 20070630

福祉社会学の研究会で「福祉社会を考えるならこれは必読書ですよ」勧められた。
名前はきいたことがあった。イギリスで活躍した経済学者であることは知っていた。
でもこんなにおもしろいとは。
戦時中、学徒動員で海軍にはいり、敗戦必至な軍隊の退廃を実感し、合理的な思考能力を失い「神の国」になり、もともな思考さえできないようになっていく日本の有様を間近に見てきた。
明治の功労者たちは欧米のような近代国家を目指したはずだったが、そのときに形成された国体観念が、個人のプリンシプルの尊厳と不可侵を明記したものでなかったことが、イデオロギーの独走を許し、天皇制の凶暴化をもたらした。そう筆者は説明する。
そう、まさに、久野収や鶴見俊輔が言うように、顕教が密教を征伐してしまったのだ(★タテマエの重要性)。
軍国主義をささえた右翼学者たちが、戦後になって一斉にマルクス主義に転向するさまをみて、マルクス主義一色の京大を脱し、阪大にうつる。そこでもプリンシプルより「和」に重きをおく日本的な大学のなかで孤立して英国の大学にうつる。
学生時代から、議論をふっかけ、軍事教練ではけんかし……時局便乗派の教師を軽蔑した。「経済学は1つです。英米経済学やナチス経済学、日本経済学などという敵味方が、学問のなかにあるはずはありません」という言葉に彼らしさがあらわれている。
彼のように強烈にプリンシプルを主張すると、日本社会でははじきだされる。ところが英国にいくと、きちんとプリンシプルをもち、議論できる人間はむしろ重宝がられた。
戦前から綿々とつながるプリンシプルなき日本を徹底的に批判している。

政府の委託仕事をしているうちに提灯もちをするようになり、時間がなくなるから勉強しなくなる。若いときは優秀なのに、中年になれば学問的にも思想的にも退廃してしまう……。
きわめて現代的な学者のありかただが、戦前はそういう学者つぶしのシステムのなかに陸・海軍があったという。彼らと関係をもてば身の安全保障になる。いったん同僚の1人が軍と関係をもつにいたると、その学校では、うかうかと本心をさらけだすことができなくなる。その上に配属将校がいた。こうして教育現場はあっというまに極右化が進行した--。
今も昔も基本的なシステムはかわらない。
3部作の最初の1冊は、戦時中の話だ。

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▽3年制高校のほとんどは旧城下町につくられ、旧藩意識の封建ナショナリスト養成が校風。大正デモクラシーが崩壊し、国家主義的になると、7年制の生徒も3年制の封建ナショナリズムに憧れるようになった
▽満州の列車。日本人が立っていると、軍人が中国人に「立て」と命令。剣をぬいて中国人をおどした。

▽私は今でも漱石の作品のなかで「文学論」と「文学評論」が主著であり、小説より上であると考えている。★
▽私は本の余白にメモはするが、ノートはつくらない。「ノートをつくるまでしなければ記憶に残らないようなことは記憶に値しない」
▽戦後の京大経済学部はマルクス主義の教授が跳梁して不愉快だったが、私が入学したころは逆に、右翼の先生が幅をきかせていた。日本経済論理、新体制の理論、皇国経済学などと称する奇怪な泡沫学問を講義して、軍部の提灯もちをしていた。そのなかで数少ないもともな授業。

▽高田先生の句  大きくも時の動けば塵あくた 便乗の徒の風にまひたつ
▽海兵団に入団する前の晩に母は「軍隊にいけば女の人に会うこともあると思うが、どんな女の人にもお母さんがいるということを忘れないで頂戴ね。それから手柄をたてようなどと思わないように」
▽新古典派もケインズも、英米派とされ、敵性学問とみなされた。マルクス経済学者はいたが、身を潜めて時機がくるのを待つという護身術は使わなかった。むしろ積極的に右翼経済学者に変身し、英米打倒を叫んだ。天皇問題を別にすると、左翼と右翼は紙一重だった。
▽明治維新の功労者たちが、日本の皇室をヨーロッパのようなものにつくりあげたいと思ったことも事実である。ところが、明治中期以後は、天皇を日本古代の絶対君主に先祖帰りさせるという動きが生じた。昭和初期に激変し、ついには天皇を神に祭り上げ、ちょっとでも天皇の神性に疑問を表明するのは非国民だとみながののしるようになった。超一級の原理主義国になった。
▽徴兵制度と義務教育制度は、日本の共同体を直撃した。江戸時代は、支配階級と被支配階級は分断され、両者を包含する共同体意識は希薄だった。政府は2つの制度を武器にして、共同体をあるときに従順な、時に熱狂的な政府派にしようとした。
共同体を洗脳しきっていなかった60年、明治大正期には、共同体が野党の役割をして、政府が忠をもちだせば人民の孝の札をふってバランスが成立した・・・(★今の農村がまさに野党的である構図と似ている)
▽大村で暗号士官 「大和」の沈没の時の状況は、交信を傍受することによって知っている。極めて愚かで無意味な作戦であった。ちょっと暗号通信の心得のある人なら絶対にすることのない過ちの連続の果てに沈没した。 「信濃」の場合も、同様の通信上の誤謬があったに違いないと推察する・・・
▽第2に戦争の仕方が全く非合理的であった。特攻作戦が効果の乏しいものであることは、数回の攻撃の後にわかっていたはずである。にもかかわらず、若者を死刑にも等しいやり方で殺してしまった残忍さは、軍の栄光に泥を塗りつけたものである。占領地の人々の虐殺や、人体実験、植民地や占領地の婦人を性的慰安の対象にしたりしている。
にもかかわらず、・・・私が海軍のある側面を愛していたことがわかると思う。
▽戦争末期。海軍軍人中、もっともすぐれた人は源田実大佐であると思っているが、三四三航空隊は、彼の発案でつくられた。もっとも技量優秀な戦闘機乗りを集め、当時の最優秀機であるといわれた紫電改をあてがった。源田は日本が勝てるとは思っていなかったが、局地的にはこれで勝てると思ったに違いない。武運つたなかった武将の立派な敗戦準備である。
それまではアメリカの編隊が南から来たら、(味方の)飛行機は北に向かって飛んだ。だが、三四三空の搭乗員の練度はアメリカ軍のそれに匹敵した。事実南九州空襲では……
(合理的な思考の大切さ★)
p168
▽特攻編成の電報には、人格高潔な者で、志願者に限ると明記されていた。人格に関しては、「前科者は特攻隊員にしてはならない、特攻隊の名誉にかかわる」などと付言されていた。
ところが実際は2つめの条件は実質上、配慮されなかった。「志願をする者、一歩前へ進め」と号令する。志願せざるを得ない。
イギリス人は特攻隊員をつのるのは、技術や豪胆さんが基準で人格は関係ない。だから受刑者からも募った。
決定的な人間観のちがい。
ところが日本の回天は、発射されれば全速力で走るだけ。速度をゆるめることもできない。
日本軍は、もっとも信頼できる人に攻撃をまかせたはずなのに、いったん作戦行動に入れば、考えたり判断したりすることは許されず、物体に化すことを求められた。
背後には、人間性への決定的不信がある。
しかし、この条件は秘密だった。公表されれば、特攻隊をまぬがれるために、犯罪を犯しただろうから。
▽「大和」 海軍大臣も軍令部総長も連合艦隊司令長官も、お祭り騒ぎの送別の辞を電報で送り・・・出撃が特攻攻撃だったからだ。こんなことは絶対にしてはならなかった。東京と呉の交信量が急増し、それが突然急減すれば、日本軍が作戦行動に入ったことを理解するからだ。それが判明したから、おそらくB29は下関海峡を機雷封鎖し、連合艦隊は通過を断念せざるをえなくなったのだろう。
方針をかえて豊後水道を通って、九州沿いに種子島の北に出ることに。またしても、東京と大和の間にお祭り騒ぎの電報交信があり、私は馬鹿なことをまたやったと慨嘆したのを記憶している。
▽特攻艦隊の伊藤司令長官は、作戦に反対だった。が、「一億総特攻のさきがけになってもらいたい」と説明されて納得する。海軍の良識と理性は亡んでいた。あとは狂気があっただけ。死は美化され、特攻は美名になり、合理的精神の存在は許されず。精神主義、尊皇主義、皇国史観が国全体を風靡し、まともな思考をする人は息をつめて生きていくより他にない国に成り下がった。
▽特攻 何というむごい作戦をしたことよ。それ程日本が大切なのか。それ程日本人が大切でないのか★。
▽大和の特攻でも、志願の意志表明の機会はなかったと思う。特攻は勝つためにされたのではない。隊員を殺すために計画されたといわねばならない。目的は栄光の保持であり、勝利ではなかった。死が美化された。大日本帝国の壊滅を目前にして、前途有望の若者を生け贄として、天皇に捧げた儀式が特攻攻撃である。日本の体制は生贄を必要とする宗教的体制だった。近代国家の体をなしてなかった。
▽中学校以上に軍事教練を必修科目として導入したのは、昭和天皇が大正天皇の摂政となった直後だった。そういう時代が敗戦まで20年間つづく。
▽★台湾沖海戦 大本営海軍部は正規、改造合わせて敵空母を11隻、戦艦2隻を撃沈、空母8隻、戦艦2隻を撃破したとは票した。国民は各地で祝勝大会を開催し……しかし実際には米空母は一隻も撃沈されていなかったし、大本営もその後そのことを認めたが、戦果の訂正はしなかった。間違った発表が、面子を守るために正しい発表として承認された。
自分自身がついた嘘に、自分自身がだまされるという時代がやってきた。
米機動部隊はほとんど無傷だったから、ますます本土に接近し、45年3月18日から21日にかけて九州、呉、阪神を痛撃した。日本軍は反撃して、またしても「空母5,戦艦2、重巡1、軽巡1、艦種不詳1の沈没を確認」という「戦果」をあげた。この場合も事実は、1隻大破、数隻小破という程度だった。国民は日本海軍は嘘をつかないと確信していたから、嘘にも権威があった。嘘をついた本人をもだましてしまった。
米軍を攻撃していた鹿屋の5航艦司令部自身がだまだれて、米軍は敗北退却中だと判定し、神雷攻撃(桜花(人間飛行爆弾)による特攻攻撃)を敢行した。が、米機動部隊は全く健在だったから、「特攻は桜花を捨てて僅か十数分にて全滅の悲運に遭った」(宇垣中将日記)
精神主義が横行するほど軍隊は理性を失い、日本全体がバカになってしまっていた。
▽終戦 宇垣纏中将 太平洋戦争を通じての最大のエース。8月15日夕刻、沖縄の米艦隊に対して、無責任かつ無謀な「最後の特攻攻撃」を敢行した。若者を22人(5人は生還)も同行させて。
正午の天皇の「終戦の詔勅」のラジオ放送以後に発進したから、天皇の命令に背く反乱行為である。長官の自己満足のためにん、若い部下の敗戦時の激情につけこんで実演された空虚な忠君愛国劇。海軍省は、宇垣はもちろん、生贄にされた17人も、特攻戦死者に対する恩賞を与えていない。
▽天皇制の凶暴化をなぜ阻止できなかったのか。答えは、そもそもの明治体制が、人々のプリンシプルが平等対等でなければならぬ体制ではなく、そのなかで1つのプリンシプル(皇国思想)が他を制圧しうる体制だったからだ。ひとたび大半の人が皇国思想を信奉し、行動指針にしだすと、自分自身独自のプリンシプルをもつ人もそれを主張することができなくなる。
天皇制は、個人主義・自由主義・民主主義という近代社会の基本原則のいずれとも両立しえない古代、中世的絶対主義体制に退化してしまったのである。
(★暦もかえる、手足の動きもかえる)

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