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東京ファイティングキッズ・リターン <内田樹×平川克美>

■東京ファイティングキッズ・リターン <内田樹×平川克美> 20111207
「時間」の大切さ、「とりあえず」「いずれ」という判断保留の大切さが繰り返し論じられる。
「時間」という猶予がなければ、「贈与」は起きない。「今はいらないけど『いずれ』必要になるかもしれない」モノを所有するから、それが他者への「贈与」の材料となる。贈与と交換こそが人間の本質であるとする文化人類学の知見に立つならば、贈与が「時間」感覚を生みだし、それが人間の共同体を成り立たせたと言える。「共同体は、第三者を経由するために要する遅延というかたちで時間というファクターをもたらすことによって、自由と主体性の可能性を押し広げたシステム」という指摘は、あす何が起きるかわからないからこそ「とりあえず」選択する余地(=自由)が生まれる、という意味なのだろう。
「いずれ」「とりあえず」を無視した「無時間モデル」を採用することで生まれのが資本主義であり、「時は金」という言葉は、時間には時間独自の価値がない、と宣言しているのに等しいという。
「時間」モデルの社会では、善悪の基準をはるか遠くの神や「ご先祖様」「子孫」などに置き、「子孫に恥ずかしいものは残せない」という倫理感があるから、時代を超える建築物や工芸品、芸術が生まれる。自分には(とりあえず)理解できない「他者」、超越した存在を善悪の基準とするから、カネにはならない価値を生み出せるのだ。
原発計画を追い出した能登半島の珠洲では、浄土真宗を信仰するお年寄りが反対運動の一翼を担った。「わかる」を前提にした現代科学(無時間モデル)を信じる資本主義人間に、「わからない」からこそ自然や超越者への敬意を抱く昔ながらの文化人類学的な人間が対抗した構図といえるだろう。
免許や学力を重視する「キャリア教育」を筆者が批判するのも、それが無時間モデルだからだ。免許や学歴が幅を利かせる社会や、幼い想像力が描いた「サクセス」の枠組みに自分の将来を限定する愚かさを、「自分がこの先どんな人間になるのかを今の自分は言うことができない、という目もくらむような可能性を捨て値で売り払うということに等しい」と指摘する。
「知的肺活量」を、自分の価値観を測定してくれる第三者の不在に耐える力と定義する。これもまた、善悪は判断できないけど「とりあえず」行動する能力だ。過去の成功モデルを価値の基準におき、善悪をスパッと割り切る資本主義的能力の対極にあるといえる。
表現をするうえで大切なのは、「私以外の誰によってもまだ口にされたことがなく、私がいなければこれからも決して誰によっても口にされることがないはずのことば」を探り当てることだという。その反対が、営業マンの言葉や新聞の文章だ。そういった「型」にはまった言葉は、佐野眞一ならば「大文字言葉」と呼ぶ。大文字言葉にはまると、観察する能力もステレオタイプな枠に規定されてしまう。
具体的で細かな描写である小文字言葉をさぐることでしか「自分だけ」の言葉をさぐる道はないんだろうな、と私は思うが、筆者は「型」の打破を「対話性」に求める。断言や説得は自分が「わかっている」ことの伝達であるのに対して、「対話」は「わからない」ことを前提にして「僕にはよくわからないんだけど、あなたはどう思いますか」と問いかける。自分でも「わからない」ことを探りながら「とりあえず」言葉を発するのだから、当然、「自分だけの言葉」になる……。なるほど、と思う。でも具体的にどうすれば対話性のある表現ができるのか。この本はそういう形でつくられたのだろうけど。
この本は、かつての若者から現在の若者に生きることの意味を伝えるメッセージであり、「とりあえず」の生き方、ブリコラージュ的な生き方の勧めでもある。
「先を正確に予見できない」という無能感と、「わずかな入力の変化で劇的な出力の変化が生じることがあり、一人の力で宇宙全体さえ動かせるかも」という多幸感の「あわい」に遊弋することが複雑系としての社会を生きる人間のマナーであり、与えられた状況でできることから(とりあえず)はじめる、というかたちでしか歴史にはコミットできない--と。
また、日本経済は後退局面にあるのに「どう盛り返すか」に議論が集中し、「負け戦をどう戦うか」と考える知的習慣がなくなってしまったという指摘も重い。国レベルだけではない。個人レベルでも後退局面での対応は難しいのだ。自分を振り返っても、大失敗を犯したとき、逆転を夢見てあがき、さらに墓穴を掘ってしまったことが多い。「老い」という負け戦をたたかう上でも貴重な教訓だ。
「とりあえず」状況に対応して生きていくしかないのだが、それだけでは刹那的になってしまわないか。何らかの展望や道筋が必要ではないか。でも下手な「展望」は未来の可能性を狭めてしまう可能性もある。ではどうするか。
「渦中にいるときは現代の意味はわからないが、今から20年後の自分が回想している今がどんなふうに見えるかということは想像力の範囲だ」と言う。「想像的に回顧された過去(としての現代)の意味」を考えることで、自らを展望という「型」にはめることなく、長期的な生き方を構想できるのかもしれない。
難しいけど。
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▽19 会社における被害者の言明は、「会社に捨てられた」などと、受動態でしか語られない。常に加害者の顔はあいまいなまま。
会社であれ宗教であれ国家であれ、内部にひとつの絶対的正義をつくりあげる。いや、正義がつくられたときにそれは共同体となると言ってもよい。「正義」という言葉自体が共同体を前提としている。
P22 知的肺活量というのは、自分の価値観といったものを測定してくれる第三者を、どれだけ自分から離れたところに措定できるかということ。あるいは、そうした第三者の不在に耐えるといってもよいかも。
人間は、判断してくれる他者を求めるもの。しかし、どこかでそういった判断は、実は誰もしてくれないのだということに気づくことが必要。
最終審判の基準を「お天道様が許さねえ」といった具合に、無限の遠点においた庶民の知恵はなかなかのものじゃないか。(神=他者?)
▽30 エロス的関係は共同体の原基的形態であり、共同体への過渡であるが、そこで果たされる交換のコンテンツがあまりに「貧しい」から、コミュニケーションを富裕化するための不可避の「第三者」として「子」が生み出される。そして、「三角貿易」的な交換のプロセスが構築されることになる。たぶんここに、エロス的準位から共同体準位への決定的なテイクオフがある。
……共同体というのはそこに「第三者を経由するために要する遅延」というかたちで「時間」という未知のファクターをもたらしきたすことによって、一気に自由と主体性の可能性を押し広げたシステムではないか。
▽34 「第三者がそこにいる」という事実こそが、主体性と自由を担保している。人間が自由でありうるには、自分たちが自然である、と感じることの対極のところにしかないのではないか。不自由のなかにしか自由は存在しない…………自分自身と向き合っているときは、確かに自然状態の自己を見つめているが、そこには自分が自分から抜け出せる出口がない。(2人ではパターン化する。第三者、「時間」を加えることで自分から抜け出す自由や主体が立ち上がる〓)
▽44 「つま先まできちんと届けられていくエロティックな重さ」……この詩の一節を読んだとき、「そのような分節の仕方があるあるとは知らなかった仕方」で身体が分節された。ぼく自身の身体感覚でありながら、「他者の言葉」から到来した。他者の言葉が、ぼくの中の「そのようなことばをリアルに感じることのできる潜在的能力」をふかつした。(〓言葉によって分節化し、意味を与え、はじめて意味あるものとして現れる。)
「春霞」「牡丹雪」をただの自然現象として経験することはできない。文学的表象として内面化されている。万葉時代から現代に至る日本人にとっての春体験の「全史」というものがあって、その末端にぼくたちは連なっている。その長大な「感受性の系譜」が確かに自分のうちに潜在的に身体化されているのを感じる。
▽50 あらゆる独創的知見は先賢のことばの繰り返しである 「創作者ではなく、祖述者である」という自己規定こそが人間の創造力を解錠するという逆説。……「自分が起源である」ということにしてしまうと人間は「力」がでない。そうではなくて「ゲームは私が到着する前からすでに始まっていた」ということにして、私は「起動者」ではなく「パスする人」であると自己規定すると、フットワークがたいへによろしくなる。孔子もレヴィナスも三島も。
▽60 敬意 上下・敵対・共同といった空間的な理解のなかには生まれない。長い時間というファクターを入れないと敬意のよって来たるところのものがよくわからない。よくわからないが、その分からなさのなかに自分が投ぜられているという気づきがなければ敬意もまた生まれてこないのでは……当今の思考の型を見ていると、どうもこの時間に対する配慮が極端に欠如しているように思える。人間があまりに「効率」に支配されたために、白か黒か……といったことにスティックしてしまった結果なのではないか。
(珠洲のばあちゃんたち わからない、と知るから仏への敬意が生まれる。それが原発反対の基盤になった面もあるのでは〓<>「わかる」を前提とする現代科学とのちがい)
▽62 「2チャンネル」的な語法の本質的な不毛さは、誰かが語るのをやめたときに、発言者が消えたことにおそらく誰も気がつかないという点に存する。
ぼくたちが言葉を語るのは、自分の唯一無二性のあかしを求めてのこと。「私以外の誰によってもまだ口にされたことがなく、私がいなければこれからも決して誰によっても口にされることがないはずのことば」を探り当てること。(新聞的な大文字言葉ではなく、細かな具体的な描写である小文字言葉をさぐる〓)
……最初は「営業マンのエクリチュール」を習得することのあまりの容易さに驚き、ついで、そのような語法を軽々と使いこなす自分の言語能力に満足する。しかしやがて、そのエクリチュール以外のいかなる語法でも語ることができなくなっている自分を発見する(〓新聞の文章の「型」にはまってしまう自分。観察する範囲さえも)
▽65 ことばが外部に与える「政治的効果」よりも、ことばが「内面」に響かせる「未聞の体感」を優先的に配慮するほうがたいせつなことなんじゃないか。
▽68 「ビジネルをやっていると、お金は川のようにざあざあ流れて行く。必要があれば、そこにひしゃくを突っ込んで飲む。でも自分の貯水池のようなところに貯め込もうとすると、いずれ川は流れなくなる。水量の多い川の横にいれば、お金には不自由しないもんだよ」
▽75 社会が免許や学歴でわたっていけると考えるひとの前に開けている社会ってのは、免許や学歴が幅を利かせている社会でしかない。だから、キャリアパス的なものを選択したってことは、すでにそういったつまらない社会をも選択したのだということに気づいてほしい。
▽84 敬意は、対話性にあるのでは……「ぼくにはよくわからないんだけど、あなたはどう思いますか」という問いかけが、言葉の底流に、書き手の息づかいというか、体温みたいなものとして存在する、ということが大切なんじゃないか……
▽86 「被害者」の対極には「加害者」が存在するという考えは、ある種の宗教的信憑にすぎないということは、「複雑系」という概念が普及して納得してもらえたはず。「自分が悲惨な人生を送っている」という事実からは「その悲惨な人生から受益している人がいる」という事実は演繹できない、というのが、科学的な「常識」に登録されたはず。
▽90 キャリアパス的思考の弱点 18歳や20歳の幼い想像力が描いた「サクセス」の呪縛に未来をまること投じることのリスクを過小評価してしまうこと。それは自分の未来性、「自分がこの先どんな人間になるのかを今の自分は言うことができない」という目もくらむような可能性を捨て値で売り払うということに等しい。……「先を正確に予見できない」という無能感。「わずかな入力の変化で劇的な出力の変化が生じることがある」は、一人の力で宇宙全体さえ動かせるという多幸感をもたらす場合がある。
この無能感と多幸感の「あわい」に遊弋すること、それが複雑系としての社会を生きる人間のマナーだと思うのです〓
▽98 他者を差別したい、優位に立ちたいという欲望を自らのうちに飼っているからこそ、それとは反対の概念も立ち上がってくることができる。「言論の自由」「人権の尊重」といった理想的理念を現実変容の力に変えて行くという発想には、こういったことに対してイノセントである自分を作り上げるという前提が必要。しかし、イオの千とからはリアリティのある世界を作り上げることはできない。自分は社会の負担すべき有責に対する加担者のひとりであるという自覚のないところでは、自由を弾圧したり尊厳を毀損したりすることのリアリティは存在しようがないという他はない。……理念が現実的であるためには、その理念に対立する欲望が込みになったかたちでのメタ理念をつくりあげなくてはならない。
▽108 サルトルはカミュに思想家としての死を宣告。「最新」についてこられない人々を「反歴史的」と一刀両断する。レヴィ=ストロースは、それに「ノン」をつきつけようとした。人間にとってたいせつなのは「新しい状況」にそのつど「新しいスキーム」をあてはめることではなく、人間がこれまでに集め蓄えてきたすべてのものに向かって、「でも、これにも何か使い道があるんじゃないかな」と問いかけることではないのか……と。
……ブリコルール。身体を豊かな「宝庫」とみなし、そこから無限の意味をくみだそうと望む人にとって、身体は「対話」の相手。敬意と好奇心を抱いて自分の身体とかかわる人間にとって「自分を勘定にいれる」ことは自明のこと。自分の身体も、過去の記憶も体験も、社会的機能も……すべては「ブリコラージュ」における「手元にそれしかない」ところの道具であり素材である。
▽116 ブリコラージュってのは「暗黙知」で、これをメンバーで共有できる「形式知」に変えなければならないと言われる。個人の身体に刻印された技能は再現性がないから、マニュアル化して形式化することで、多くの人に共有できる技能に生まれる変わるということでしょう。……「暗黙知」がもっていたエッセンスは切り捨てられた……。仕事がそのまま生活であるといった考え方が否定されて、仕事は生活の手段であるというように、仕事が生活から分離されてきた。でもぼくは、仕事と生活は、ひとつのものの別の側面であるというふうに考えたい。
……標準化、大量生産……といったものによって、ものづくりの中に脈々と流れている時間といったものが消失してしまった。「よい仕事をしていれば、どこかで誰かがそれを見る」自分の知らない誰かが、自分が死んだ後でもというような長い時間と空間の中での話。そして自分の知らない誰かがその気持ちを受け継いでくれる。(宮本常一)見えない誰かとの意思の受け渡しといったものが、どんな仕事に対しても手を抜かないという職人の倫理を育んでいるのだろう。贈与ということの深い意味もこのなかに潜んでいるんだろう。(能登の年寄りがもつ感覚=GIAHS)
▽126 ……いろいろな学科のいろいろな立場の人たちと「ネットワークすること」それ自体がぼくにとっては年来の楽しみの一つであった。
▽130 もしかすると人間というのは「出会うことの困難な相手」を受取手に擬したときの方が、ものをつくり出すパフォーマンスが高くなる、不思議な生き物なのでは。安土桃山時代の大工や指物師たちの仕事が世界史的なクオリティに達しているのは、彼らが見えない相手(たとえば数百年後の人間)に向けてその贈り物を差し出そうとしていたからでは。(長い時間軸で考えることの習慣が残っていたからGIAHSとなったのでは〓)
▽134
▽145 こうしてテクストを書いているのも、「自分が何をいいたいのかわからない」からこそ、ことばと自分のあいだの「不安定」や「不均衡」を臨界点まで押していって、どこかで「一気に安定状態に回帰する」ような爆発に巻き込まれるのを待望している……
▽147 支払われる賃金以上の価値を生み出す行為が「労働」の定義。動物は「とりすぎる」ことはなく、「労働」はしない。剰余価値を生み出さない。「剰余労働」を動機づける内発的な動因は「交換への欲望」しか考えられない。とりすぎた「から」交換するのではなく、交換したい「から」とりすぎる。
「いずれいるかもしれないけど、とりあえず今はいらないもの」が交換されるものの条件。「とりあえず」という副詞によって、人類社会は「時間」という概念を手に入れた。
▽149 レヴィナス「時間とは主体と他者の関係である」というテーゼ。むずかしい問題と解く場合は、「話を逆にしてみる」(対偶証明法)。「主体と他者の関係が成り立たないところに時間は存在しない」というテーゼが成り立てば対偶が証明できる。
「いずれ」「とりあえず」。このタイムラグの隙間に「交換」のただひとつの可能性がすまっている。無時間モデルだと「いずれ」「とりあえず」という副詞は存在せず、「いるもの」は需要がいつ発生するかにかかわらず「いるもの」。(時間のずれ、によって、贈与がおきる!?)
▽161
▽168 「だれがやっても同じだ」「おれなんかいなくても、何も変わりゃしないよ」ということばがぼくは嫌い。そういう人間は、「責任」を負う気がない。道路にゴミが落ちていて「おれが拾ったって世界のゴミが減るわけじゃない」という人間がきらい。……今、与えられた状況でできることからはじめる、というかたちでしか歴史にはコミットできない。自分のなしていることの有限性を熟知している人間のコミットメントだけが有限性の枠を超えてゆく。
▽171 日本の危機は、「ヴィジョンなきナカ取って論者」の没落という形をとっている。「クリアーカットな極論」を語る人間の方が旗色がいい。「わけのわからないことをもごもご言う人間」には、昔はそれなりの存在感や迫力があった。「国士」「フィクサー」「キングメーカー」と言われるような人がいなくなった。そういう政治的機能を担えるだけの度量のある人間が払底しつつあるのではないか。
▽178 勝者としてのアメリカ礼賛者 ひとり勝ちのシステムが正しいかどうかを判断するのは自分たちの価値観だっていう媒介項が抜けている。
▽180 アメリカは自由の国で世界の情報に誰でもアクセスできるというが、アメリカほど国外のニュースに無関心な国はないように思える。
▽188 エゴイスティックな親は自分の都合で支離滅裂なことを子どもに要求する。子どもの側は、「隠された教育的意図」があると考えて、必死に首尾一貫性を探し出そうとする。そしてゆっくり狂っていく。日本人はアメリカに対して集団的に「発狂している」
▽192 オーラル中心の英語教育 非ネイティブである限り、どんな局面でも知的劣位におかれるという構造。それが半世紀かけて日本人の英語力を根本的に損なったのではないか。(読み書き中心ならば英米人をしのぐことができる)
▽204 トッド 「どうやったらアメリカの没落がもたらす災禍を最小化できるか」というプラクティカルな問いに焦点化するべきだとトッドは書いた。
思想史に大きな変化をもたらした運動と理説には、それが頽勢の局面のときにこそ、それにふさわしい敬意を示すべき(死に水をとる)。
日本が縮んでゆくという後退局面で遭遇する可能性のあるリスクをどうやってヘッジするかというプラクティカルな問いを立てる人がほとんどおらず、どうやって「盛り返すか」ばかりに議論が集中している。「負け戦をどう戦うか」という問いを真剣に考える知的習慣がなくなってしまった〓〓。(個人的にも負け方は難しい〓)
▽209 「プロ倫」「時は貨幣である」(フランクリン)というのは、裏返して言えば、「時間には時間固有の価値はない」と宣言している。時間の「他者性」をすっぱり捨象したという点にこそ、「資本主義の精神」の精髄はあったのでは。(資本主義の宗教性〓)
▽211 ローマ教会は利子を取ることを禁じていたし、営利を自己目的とする生き方は「恥ずかしい」という意識は商人のなかに伏流していた。お金をもうけるのは「いいことだ」という資本主義の「精神」はかなり日付の新しいもの。18世紀末あたりに生まれた。(〓日本の場合は高度成長後?)
「時は金」というのは、「円周率は3でいいじゃないか」という切り捨て方に深いところで通じているのでは。
「とりあえず」はfor the time being「時間が存在する限り」。それをfor the money being「貨幣が流通する限り」と言い換えることによって、時間を見事に捨象したのではないか。
▽216 昭和30年代をベル・エポックとして記憶。近所の悪ガキたちが、やがて来るであろう生活格差や教育格差といったものを想像することもなく、無邪気に平等な貧困を楽しんでいられたという空気。人間の成長と社会の発展がパラレルに進行する時代〓。それがベル・エポックだとするならば、人間の老成と、社会の衰退がパラレルに進行する時代というのも、味わい深いものではないかと思う。。
▽228 渦中にいるときは「現代の意味」はわからない。でも、今から20年後の自分が回想している今がどんなふうに見えるかということは想像力の範囲だと思う。「想像的に回顧された過去(としての現代)の意味」ならわかる、ということはあるように思える。……司馬遼太郎という人は、その都度の現在を過去回想形で語る知的習慣を持つ人だったのではないか。
▽236 「国家の品格」 中国人が読んだら、韓国人が米国人が読んだら……という自問の部分が抜けている。
……自分の属しているコミュニティもみんな相対化してみるという、文化的な相対性にすごく鈍感になっている。
▽243 ホリエモンが金で買えないものはないと言った瞬間に、野暮だねって言えばいいんだよ。本音だと解説したからもうだめなんですよ。これだと野暮の二枚重ねになっちゃう。新聞は野暮の骨頂みたいなもんだけどさ。
▽244 共同作業が成り立つ条件てのは、自分ひとりじゃなにもできないっていう認識。自己決定・自己責任というのは常にそれを断絶しようとしているからいけない。……「自己責任・自己決定」って言い出したのは、小渕内閣のときの政府の諮問機関。「自分探しの旅」は中教審答申のなかにあった文言。
▽247 すべてを経済的価値に換算して考える習慣が定着したせいで、家庭も学校教育も破たんした。若い人たちは、もう経済合理性で擦り切れているから、そもそも働くモチベーション自体が希薄になってると思うな。……金は欲しいけど、どこかで蔑むちうスタンスがとても大事なことなんだけどね……その感覚は残っているけど、今の日本では価値の担保者としては金しかない。その金にもそれほど魅力があるわけじゃないから、みんなどう生きてよいのかわからなくなってしまった。
(カネ以外の価値、宗教なのか、子孫とのつながりなのか……が残っているから原発というカネに負けなかった。GIAHSになるものも残った〓)
▽255 子どものころの1日という時間の長さ。じっと虫を見たり、花を見たり……(板橋の団地の植え込みのダンゴムシ、台風のときの荒川の河川敷の田んぼ、大きな湖に。ベランダの椅子で読むトルストイ)
▽261 学生運動のさまざまな形態って政治的なメッセージのレベルでしか解釈されなかったけれど、あれはあれで人間が共同的に生きることへの根源的な欲求みたいなものの現れであって、それは時代が変わってもなくなるものじゃないと思うけど。
……時間的にも空間的にも「自分じゃないもの」とつながって、それを次の人につないでいく。それが霊的召命ということでは。ぼくがいなくなっても、ここがつながっているという事実が、ぼくがいたということを証し立ててくれる。
▽265 時間のネットワークのなかでつながっていくと、ナショナリズムは出てこない。空間だとかならずナショナリズムになる。時間なら遡るとみんな同じになっちゃうから。……ナショナリストって要するに時間の観念が欠如したやつらなんだよ。(〓だとしたら資本主義者とナショナリストは同じ?)
▽267 アメリカのホームパーティで宗教と政治の話が御法度になっているのは、彼らがそういう話題についての語り方を知らないからでは。そもそもダイアローグということの意味がわからないのでは。言葉というものを、道具とか武器という形でしか取り扱えないところからくるのでは。かれらは言葉を、貨幣と同じでそれを常に等価交換のスキームで考えている。相手が対価を支払えなければすなわち相手の敗北を意味する。
▽269 私たちの間に、あらかじめ主張したいオピニオンとか、思想があるわけではなく、お互い言葉をつむぎながら、どんなひとつのお話になっていくのかを楽しんでいるだけ。

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