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走ることについて語るときに僕の語ること<村上春樹>

■走ることについて語るときに僕の語ること<村上春樹>文春文庫 20111025
 村上が珍しく自らのことを語る本。
 ジャズバーを経営していたが、「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」で注目され、小説に専念するために1981年に廃業した。そして書いたのが「羊をめぐる冒険」だった。
 33歳から、マラソンやトライアスロンをつづける。なぜ? 走るなかで感じること、学ぶこと、いや、走ることそのものが小説を書く作業に似ており、人生のメタファーでもあるからだ。
 ペースが早すぎてはばてる。筋肉は少しずつ毎日鍛えなければ動いてくれない。1冊の本を書くのはマラソンに似て長くきびしい。それを乗り切るには集中力が必要だ。そのためには体力を維持しなければならない。長い文章を書くとき、彼の言葉の意味がよくわかる。
 「走る意味は後であらためて考えればいい」という言葉も得心した。意味があるから努力するのではない。わけもわからず努力することで後づけで「意味」が見えてくる。
 結果の見えないむなしい努力であっても「少なくとも努力したという事実は残る」と言う。「結局のところ、僕らにとってもっとも大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。そして本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ」。ついつい無意味に思えてしまう日々の仕事をしていると、彼の言葉の重みがある。時間ばかりかかるこの読書ノートもいつか意味が見えてくるのかもしれない。
 でも、ただ他人から言われるままにやみくもに「努力」すればよいわけではない。
 「重要なことは、ひとつひとつのゴールを自分の脚で確実に走り抜けていくことだ。……そこにある失敗や喜びから、具体的な、どんなに些細でもいいから、なるたけ具体的な、教訓を学びとっていくことである」。ひとつひとつのゴールは自分で設定する必要があるし、具体的なナニカをとらえる感性と意思も不可欠なのだ。
 一方、村上は、走ることを通じて自分の年齢とそれに伴う衰えを知る。老いを受け入れる物語でもある。
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▽17 黙々と時間をかけて距離を走る。……身体が今感じている気持ちの良さをそのまま明日に持ち越すように心がける。長編小説を書いているときと同じ要領だ。もっと書き続けられそうなところで、思い切って筆を置く。そうすれば翌日の作業のとりかかりが楽になる。
▽27 40代後半にランナーとしてのピークがやってきた。フル・マラソンを3時間半、ちょうど1キロ5分のペースだ。
▽37 人生のつらさや傷は、人生にとてある程度必要なことなのだ、少しずつ認識できるようになった。考えてみれば、他人といくらなりとも異なっているからこそ、人は自分というものを立ち上げ、自立したものとして保っていくことができるのだ。……他人と違うことを感じ、他人と違う言葉を選ぶことができるからこそ、固有の物語を書き続けることができるわけだ。
……故ない非難を受けたとき、……僕はいつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。そのぶん自分を肉体的に消耗させる。そして自分が能力に限りのある、弱い人間だということをあらためて認識する。いちばん底の部分でフィジカルに認識する。……腹が立ったらそのぶん自分にあたればいい。悔しい思いをしたらそのぶん自分を磨けばいい。そう考えて生きてきた。黙って飲み込めるものは呑み込み、それを(できるだけ姿かたちを大きく変えて)小説という容物のなかに、物語の一部として放出するようにつとめたきた。
▽40 走る意味はあとでまたあらためて考えればいい。……
▽61 朝の5時前に起きて、夜の10時前に寝るという、生活を開始。1日でいちばんうまく活動できる時間帯は、僕の場合は早朝の数時間である。
……若い時期を別にすれば、人生には優先順位が必要になってくる。ある年齢までに、そのようなシステムをきっちりこしらえておかないと、人生は焦点を欠いた、めりはりのないものになってしまう。まわりの人々との具体的な交遊よりは、小説の執筆に専念できる落ち着いた生活の確立を優先したかった。
……店を経営するには、10人のうち9人に気に入ってもらえなくても、「1人」確実にとことん気に入ってもらえばよい。そのためには経営者は、明確な姿勢と哲学のようなものを旗印として掲げ、それを辛抱強く維持していかなくてはならない。
そういう姿勢で僕は小説を書き続けた。
▽67 走るうちに、食べ物も少しずつ変化。野菜が中心になり、米飯をすくなくし、酒量を減らし……
▽73 「今日は走りたくないなあ」と思ったときは自分に問いかける。好きな時間に自宅で1人で仕事ができるから、満員電車に揺られて朝夕の通勤をする必要もないし、……幸運なことだと思わないか? それに比べたら近所を1時間走るくらい、なんでもないことじゃないか。
▽ はじめての42キロはアテネからマラトンを1人で。
▽96 のどの渇き、いらだち、暑さ(……体で感じてそれを書く。体の動きとつながっているから抽象化しない? というか……)
▽116 才能の次に、小説家にとって重要な資質は集中力。この力を有効に用いれば、才能の不足や偏在をある程度補うことができる。僕は普段1日に3、4時間、朝のうちに集中して仕事をする。……集中力の次に必要なものは持続力だ。日々の集中を、半年も1年も維持できる力が求められる。
集中力と持続力は、毎日机の前に座り、意識を一点に注ぎ込む訓練を続けていれば自然にみにつく。日々ジョギングを続けることで筋肉を強化するのと同じ種類の作業。
▽120 訓練によって集中力・持続力を養い、それらを才能の「代用品」として使うことを余儀なくされる。そのようにしてなんとか「しのいで」いるうちに、自らのなかに隠された本物の才能に巡り合うこともある。そのような「幸運」が可能になるのも、もとはといえば、深い穴を掘り進めるだけのたしかな筋力を、訓練によって身につけてきたからなのだ。晩年になって才能を開花させた作家たちは、多かれ少なかれこのようなプロセスを経てきたのではあるまいか。
……小説を書くことについての多くを、道路を毎朝走ることから学んできた。どの程度厳しく追い込み、どのくらいの休養が正当で、どこからが休みすぎになるのか……どれくらい自分の能力を確信し、どのくらい自分を疑えばいいのか?
……与えられた個々人の限界の中で、少しでも有効に自分を燃焼させていくこと、それがランニングというものの本質だし、それはまた生きること(書くこと)のメタファーでもあるのだ。
▽134 雪の冬は、屋内プールやサイクリングマシンで春の到来をまつ
▽145 芸術行為とは、そもそも不健全な、反社会的要素を内包したものなのだ。だからこそ小説家のなかには、生活そのもののレベルから退廃的になる人が少なくない。しかし、息長く職業的に小説を書き続けようと望むなら、そのような危険な体内の毒素に対抗できる、自前の免疫システムを作り上げなくてはならない。そうすることで、我々はより強い毒素を正しく効率よく処理できるようになる。よりパワフルな物語を立ち上げられるようになる。そして自己免疫システムを作り上げ、維持していくには、生半可ではないエネルギーが必要になる。我々自身の基礎体力のほかに、そのエネルギーを求めるべき場所が存在するだろうか。……真に不健康なものを扱うには、人はできるだけ健康でなくてはならない。……往々にして健康を指向する人々は健康のことだけを考え、不健康を指向する人々は不健康のことだけを考える。しかしそのような偏りは、人生を真に実りあるものにはしない。……ある年齢を迎えて疲弊の色を急激に濃くする作家、それは彼・彼女の体力が、自分の扱っている毒素に打ち勝てなくなってきた結果ではないだろうかと推測する。毒素を凌駕してきたフィジカルな活力がピークをすぎて、免疫効果を徐々に失っていったのだ。
▽171 (走ることは)生きることと同じだ。終わりがあるから存在に意味があるのではない。存在というものの意味を便宜的に際だたせるために、あるいはまたその有限性の遠回しな比喩として、どこかの地点にとりあえずの終わりが設定されているだけなんだ、そういう気がした。……言葉ではなく、ただ身体を通した実感として、いわば包括的にそう感じただけだ。
▽182 若死をまぬがれた人間には、その特典として確実に老いていくというありがたい権利が与えられる。肉体の減衰という栄誉が待っている。その事実を受容し、それに慣れなくてはならない。大事なのは時間と競争することではない。どのくらいの充足感をもって42キロを走り終えられるか、どれくらい自分自身を楽しむことができるのか、おそらくそれが、(老いが進む)これから先より意味をもってくることになるだろう。
▽206 アパレル産業の売り上げが落ちても、大量の流木が打ち上げられても、洪水が起きても、渇水が起きても……責任の多くの部分はグローバル・ウオーミングが引き受けることになる。世界が必要としているのは、名指しで「お前のせいだ」と指をつきつけることのできる特定の悪者なのだ。
▽216 我々が人生のあるポイントで、必要に迫られて明快な結論のようなものを求めるとき、我々の家のドアをとんとんとノックするのはおおかたの場合、悪い知らせを手にした配達人である。
▽222 タイムがもっと落ちても、僕はとにかくフルマラソンを完走するという目標に向かって、これまでと同じような−−ときにはこれまで以上の−−努力を続けていくに違いない。……しかし詰まるところ、このような結論こそが僕という人間に相応しいものかもしれないな、という気もしないではない。
▽224 個人的で、頑固で、協調性を欠き、しばしば身勝手で、それでも自らを常に疑い、苦しいことがあってもそこになんとかおかしみを−−あるいはおかしみに似たものを−−見いだそうとする、僕のネイチャーである。
▽229 年を取るにつれて、様々な試行錯誤を経て、拾うべきものは拾い、捨てるべきものは捨て、「欠点や欠陥は数え上げればキリがない。でも良いところも少しくらいはあるはずだし、手持ちのものだけでなんとかしのいでいくしかあるまい」という認識にいたることになる。(ブリコラージュ)
▽250 トライアスロンは、それぞれの競技のつなぎ目の処理がむずかしいぶん、経験が大きくものをいう競技だから、経験によって肉体能力の差をカバーしていくことは可能だ。経験から学んでいくことが、トライアスロンという競技の喜びであり、面白みなのだ。
▽ ……次のレースに向けて、それぞれの場所で黙々と練習を続けていく……底に小さな穴のあいた古鍋に水を注いでいるようなむなしい所業に過ぎなかったとしても、少なくとも努力したという事実は残る。……結局のところ、僕らにとってもっとも大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。そして本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。〓(そう)
長距離レースが今ここにある僕を育て、かたち作ってきたのだ。
重要なことは、ひとつひとつのゴールを自分の脚で確実に走り抜けていくことだ。……そこにある失敗や喜びから、具体的な、どんなに些細でもいいから、なるたけ具体的な、教訓を学びとっていくことである。そんなレースをひとつずつ積み上げていって、最終的にどこか得心のいく場所に到達することである。あるいは、たとえわずかでもそれらしき場所に近接することだ。

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