■魯迅 東アジアを生きる文学 <藤井省三> 岩波新書 20110611
竹内好が描いた苦悶しつづける魯迅ではない、人間的な魯迅の姿が紹介されているのがおもしろい。許広平と不倫して金に困ると往復書簡を出版する、といったエピソードなど、自分をもネタにしてしまう感覚はある種関西人的だ。田舎の仙台がいやになって1年半で東京にもどってしまったり、ハリウッド映画を好んだりするミーハーな一面も。
清朝から辛亥革命、軍閥が乱立する状態を経て、国民党による北伐で統一に近づくが、国民党自身が独裁政権と化して共産党関係者を虐殺する。そんな時代背景のなかで魯迅がどう生きたかがよくわかる。
共産党にシンパシーを感じながらも、西洋的な個人の自立を求める。封建的な家族制度や迷信に近い中医学のあり方などを舌鋒鋭く批判しながら、そういう部分も含めた中国の民衆にある種の愛情を感じている。その不安定なバランスの上に彼の文学と諧謔があり、両者の矛盾を自分のうちに抱えていたから、彼独特の哲学の深みがでてきたのだとわかる。
「正義の味方」であった共産党も、覇権を握ると独裁体制と化する。魯迅の弟、周作人も文革の犠牲となる。魯迅を革命の聖人にまつりあげた毛沢東は後に「もし今日、魯迅がまだ生きていたら、どうなっていたでしょうか」と問われ、「牢屋に閉じこめられながらもなおも書こうとしているか、大勢を知って沈黙しているかだろう」と答えたというエピソードは強烈だった。共産党政権の矛盾も魯迅の本質も、毛沢東は実は見抜いていた。
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▽12 1995年、留学から15年ぶりに紹興へ。80年には汽車の中は、天秤棒に大風呂敷……だったのが、しゃれた旅行カバンになり……かつての招待所は、三つ星級ホテルに。さらに15年後の2010年には、露店がサトウキビを売っていた道にはデパートやブティックが軒を並べ、スターバックスも。(1986年の杭州の夜。アセチレンランプの屋台。独特のすえたようなにおい。うどんの湯気〓)
▽29 周作人。文革中に紅衛兵のリンチで死亡。
▽49 1903年の東京のメディア。14万の「二六新報」を筆頭に、8万から1万の「東京朝日新聞」「読売新聞」など9紙。1909年には「報知新聞」「万朝報」が30万と20万に達していた。中国では、1914年に北京紙はいずれも数百から数千。上海紙で2万とか1万5000を記録したにすぎない。
活字メディアの活況は、日清戦争後の東京に職業的文学者を誕生させる。帝国大で教えていた夏目漱石が、教授就任を断って朝日新聞に入って職業作家の道を選んだのは象徴的。……洋書店も活躍。1869年に丸善。
▽57 魯迅が最も関心を寄せた日本人作家は漱石。漱石にとっても、中国は重要なテーマだった。……漱石が日本の国語普及に大きな役割を演じ、新興国民国家日本の課題を個人から国家までを通底する視点で描き出していたからだろう。
▽60 母親コンプレックス。母の命に従い朱安と旧式の結婚。彼女は纏足をしており、文字も読めなかった。
▽67 1919年当時の教会大学は全国14校で学生数2017人だった。北京大学の学生数は2300人で、1校で全中国のミッション系大学を凌駕していた。北京は当時最大の学生都市だった。
▽71 「新青年」 民主と科学を標榜し儒教イデオロギーを批判して全面欧化論を唱え……文学革命を実行した。教育制度も、口語文教育へと急展開。北京語にもとづく標準語制定へ。
▽78 「狂人日記」のモデル 良妻が夫のために我が肉を食べさせ……それが「孝」や「賢」という儒教的価値観からマスメディアにも賞賛されている。そのことが筆をとるきっかけだったのでは。
▽80 「孔乙己」と「薬」 狂人日記の1年後。作品としてははるかに成長。
▽82 芥川龍之介の影響。「毛利先生」の影響で「孔乙己」を書いたのでは。
▽86 「吶喊」(ときの声)をあげて文学革命。だが、ボリシェビキ主導による革命に不安を抱きはじめ、やがて寂莫と悲哀をもって半生を描く「吶喊の自序」っへと結晶する。「吶喊」期の後に「彷徨」期を迎える。「希望とは本来あるとも言えないし、ないとも言えない。これはちょうど地上の道のようなもの。実は地上に本来道はないが、歩く人が多くなると、道ができるのだ」
第一創作集「吶喊」 第2創作集「彷徨」
▽100 許広平との恋。
▽114 上海時代の許広平 魯迅著作の整理出版など。1941年に太平洋戦争が勃発するや、憲兵隊が許宅を襲い、魯迅の日記・手紙を押収し、許を連行している。
戦後の許は、……
▽116 国民党。一党独裁をかため、自動車道路を建設し、電信・郵便制度を発展させ、北伐後の10年で鉄道の総延長距離は2倍に……就学率も1919年に11%だったのが、35年には30・7%に。……高等教育機関が増加した上海は、かつて5・4時期に文化城を誇った北京と肩を並べる。大学・専門学校生の数は北京を上回った。(1931年)
▽136 命がけの独裁批判。30年代の魯迅は4回も避難生活。
▽146 魯迅は、国防文学というテーマ・題材を強制する中共周揚グループの文芸政策に反対し……(文学者の主体性重視)
▽170 竹内好は、政治と文学の対立に苦悩する魯迅像を日本の読書界に広め、太宰が「惜別」で描いたにこやかに笑う人間くさい個性的な魯迅像を駆逐していった。
▽191 台湾に近代国家の国語制度を持ち込んだのは日本。43年末には、日本語理解者は島民の6割に達した。小型共同体意識を超えた、台湾大サイズの共同体意識を形成した。それが台湾ナショナリズムの萌芽であったといえよう。
1947年の2・28事件後には、魯迅を筆頭にほとんどの民国期文学は禁書となった。国民党は台湾人に北京語を国語として強制したのにもかかわらず、国語をつくりだした現代文学の父、魯迅の読書を禁じた。
▽204 韓国では70−80年代にあって魯迅は民主化運動を闘う人々の心の支えであり、論理的支柱でもあった。
▽210 中国革命の「聖人」に祭り上げられる。中国では、新王朝が成立すると前王朝の正史を編纂してその興亡を描き、新王朝の正統性を主張する正史編纂の伝統が続いていた。中国共産党は、人民革命の正統性を宣伝するため、編纂に長時間を要する正史に代わって共産党中心の近代文学史を編纂し、中学から大学までの国語科を通じて思想教育を行った。その中心に置かれたのが魯迅。
毛沢東は1957年に上海で文化人グループに会見した際、「もし今日、魯迅がまだ生きていたら、どうなっていたでしょうか」と問われ、「牢屋に閉じこめられながらもなおも書こうとしているか、大勢を知って沈黙しているかだろう」
自ら聖人化した魯迅像が、魯迅の真面目とは大きく異なることを、毛沢東自身が一番よく知っていた。〓
▽221 「40歳以下、特に若い女性は魯迅を読みません」 読者層の断絶状況は中国の魯迅と日本の村上(50歳以上は読まない)とではほぼ正反対。
夏目漱石−魯迅−村上春樹を中心とする「東アジアにおける魯迅『阿Q』像の系譜」
▽224 魯迅の息子、周海嬰、2001年に、魯迅毒殺説を書く……親族までもが魯迅の死因に疑念を抱いているというのは、それだけ日本の中国侵略が深い不信感を中国人に残しているからでは。
▽235 中国が大変貌をとげるとき、主体的に変革に参加しない人々、あるいは参加しようにもできない過去の幽霊のような人々を、魯迅は厳しくしかし共感を抱きつつ阿Qとして描き出し、新しい時代の国民性を模索した。村上春樹は、侵略の結果として敗戦を経験しながら「自分の内なるものとしての非効率性」を深く問うことなく、ポストモダン社会へと突入し、今も「名もなき消耗品として静かに平和的に抹殺」されている日本人を、Q氏として描き出し、内省的な市民像を探し求めている。
(自分の内なるものとしての非効率性の責任を追求するのではなく、外部から力尽くで押しつけられたものとして扱い、外科手術でもするみたいに単純に物理的に排除した=亭主関白の革新系)
▽238 「かりに鉄の部屋があって……大勢の人が熟睡しており、まもなく窒息してしまうが、昏睡から死滅へと至るのだから、死に行く悲しみは感じやしない。いま君が大声をあげて、少しは意識のある数人の人をたたき起こしたら、この不幸な少数派に臨終の苦しみを与えることになるわけで、君は彼らにすまないとは思わないかい?」
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