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漆の里・輪島 <中室勝郎>

■漆の里・輪島 <中室勝郎> 平凡社 20110527
 浄土真宗と、田の神などの在来の神々と、それらにかかわる祭りや神事が今も息づく能登の風土を、塗師屋である著者が紹介する。キリコ祭りをはじめとする祭礼が年中催される能登は日本のバリなのだ。
 祭りを担う同年代の組織「お当組」が地域の絆となり、ときに選挙のための組織にもなる。全国を渡り歩いた塗師屋が先進的な文化を輪島にもたらし、職人たちは宵越しの金を持たぬ勢いで遊んだ。そういう文化背景があったから輪島塗は高く評価された。塗師のはぐくんだ輪島の文化を「塗師文化」と筆者は名付ける。
 柚餅子や塩せんべい、魚の行商など、輪島の生活にとけ込む風物の背景がよくわかる。能登文化を知るには最良の本だろう。
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▽12 輪島崎町は神事に義理堅い漁師町。元日は午前4時の無言の宮参り。輪島前神社に参拝。小正月には、アマメハギとして国指定文化財の面様年頭。農村時代の「田の神」行事の名残。
▽15 11月から2月いっぱいが岩のり。春から秋は、カジメ拾い、アオサ、ワカメ
……
▽18 2月15日の「犬の子まき」が終わると輪島では春がくる。かつては門徒衆がつくっていたが、今は聖光寺ゆかりの世話人がつくる。
▽21 間垣。冬の強風を受け止め、夏は西日を遮る。
▽27 輪島崎の女たちは、旧暦の桃の節句が年に一度の山遊び。お供えの草餅。4月1日は全世帯で餅をつく。1日夜から2日朝にかけて、桃の花を供え、漁師町は一夜にして桃の花の町に。
▽イシリ 輪島ではカイヤキと呼ばれる鍋物の調味料や漬け物のつけ汁に。
▽39 舳倉島 数えきれないほどの小宮、塚。神仏が海にこぼれ落ちるほど。……海底より石を拾い、愛しい人の帰りをまつ島の女が、何百年も積み重ねた祈りの塔。島から石を持ち出すことは許されない。
 昭和40年代まで、年に30回を超える神事があった。漁業の近代化で生活基盤が陸の海士町に移った。昭和50年に里宮が建立され、祭りは祭祀具とともに島を離れた。
▽43 島渉り 昭和36年ごろまでの海士町の風物詩は、八十八夜の集団島渡りだった。
▽45 海士町 小さな町に250人の海女が住む。多くの海女が桶を海に浮かべ、小集団で漁をしているなか、大海女は、命綱を腰にまき、夫に命を預け深い海に潜る。現在大海女は、7、8人になった。
▽51 輪島崎町の稲荷講。250軒の半数が聖光寺の門徒衆。1町1寺の絆。年2回、春と秋に稲荷大明神に、年占いのご神託をおみくじの形であおぐ。100本中、凶の数が31本と最多。
▽58 輪島はかつて、商いで全国を旅する塗師野がもたらす芸どころだった。
▽61 フェーン現象をもたらす春の強風を「ぼんぼろ風」が吹くという。日本海側の大火はきまってぼんぼろ風の日に起きる。住吉神社と重蔵神社の争いで刑死した中杉屋栄作。「おれは火柱となって、この町を三たび焼き払うぞ!」。ぼんぼろ風の吹く時節には、中屋の霊に花を手向ける。
▽64 お当組 初老を過ぎた同級生の絆の強さ。冠婚葬祭まで同級生集団でしきり、時には市議選の有力な集票役となる。かつて祭礼は、町の有力者が交互に担当していた。いつしか祭りは衰退した。そこで、男の大厄41、2歳の男たちに祭りを奉仕させ、そのおかげで厄を祓ってやろうとなった。生涯一度ならと男たちもはりきり、曳山まつりは年々盛大に〓〓(それが今負担に?)。
曳山祭りは4月4、5、6日。その年のお当組は年明けに組織される。1月12日までに組織を整え……古当組に、三顧の礼をつくし行事全般を習う。……共同炊事がはじまり壮年の宿のようになる。この町ではお当組の会合が最優先される。職場も家庭もこればかりはとあきらめている。
▽67 塩せんべい 昭和30年ごろ、24、5軒の店があった。古くは塗師屋の残業の夜食がわり。塩せんべいがあれば酒が飲めた。以前は砂糖せんべいがあったが、消えてしまった。現在は6軒。大畑昭平さんの手焼きせんべいは順番待ちの人気。
▽70 公会堂の水 昭和30年に上水道が引かれるまでの河合町は2500軒の大半がこの井戸に頼っていた。明治6年に輪島初の小学校が誕生し、「子供に不衛生な水を飲ませてはならぬ」と学校前に井戸をつくった。1.5キロ離れた山際の清水を引いた簡易水道だった。その後、町民共有の財産に。8月17日は年1度の「井戸替え」で、東馬場町の若衆は早朝から3、40人も集まった。
上水道の普及で、公会堂の井戸を忘れる。井戸替えもままならぬ。「町の歴史を忘れるな。万が一の非常水として必要だ」と説く人。栃木県足利市から年に1度、以前夜店を出していた露天商30数人が来て、水をいただき、浄財をあずけていく。
▽75 魚の行商 ふり売り 春から夏、おからをイワシの腹につめた「イワシ寿司」
▽79 丸ゆべし 柳宗悦「手仕事の日本」で「日本一のゆべし」と絶賛。……天保年間、河井町の塗師屋、井出某が、紀州で丸ゆべしの製法を覚えて伝授したのが起源。(遍路との共通点〓)
▽82 落日の丘 輪島崎の天神山の登り口と、袖が浜へ下る道が交差する丘は、能登随一の夕日展望台。……能登には、美しい落日を1日の終わりに取り込む人がいる。
▽87 輪島には本格的な葬儀屋はない。たいていは町内単位で段取りする。
▽91 祝唄「まだら」 26文字を4分かけて歌う。
▽94 キリコ祭り 8月23から26日。輪島大祭。奥能登だけで800本のキリコ。夏から秋にかけて180カ所で祭りがある。神々とともに暮らす「日本のバリ」〓。集落間の誇示競争となり、華美になり、12、3メートルの大ぎりこも出現するが、電気の普及とともに、電線の下を運行できる現在の6メートルほどとなった。
▽106 漆の木 輪島での漆木栽培事業は20数年を経るが、いまだ成果が出ない。中断で失われた育成技術はあまりに大きい。最近ようやく適地適木の原則が思い出されたようだ。
▽109 あかぎれの傷口に漆を塗り込み治療した。
▽114 
▽115 昭和のはじめの輪島は小江戸風。宵越しの金を持たない職人気質。金沢は小京都風。「だんだら」を奨励。輪島にしかない職人文芸。
▽127 アテの美林 三井町中心とした能登のアテの美林は有名だった。能登では建築の中心材。能登の家は地元材が8割使われる。
 江戸時代、漆器の木地材として使用可能なアテは、三井にはなく河井と鳳至の谷に限られていた。近代以降の輪島塗の発展が、需要を喚起し、三井の山にマアテの美林を作った。
▽133 年季明け 修業期間は明治で8年、昭和初期で6年、戦後は4年。いずれも弟子入り後20歳で年季があけるものとした。
▽139 輪島にかつてアンサンブル楽習会という室内楽団があった。塗師屋の若親方連中が結成した。昭和12年ごろには、東北地方まで公演旅行をしている。塗師屋の宴席。全国から多くの芸能をもちこんだ塗師屋は、自らも旅先で芸を披露して楽しんだ。客に余興をうながし、景品に銘々皿一枚などをつけた。手に入れた客は1つでは不足と追加注文する。ただでは帰らない行商魂。
全国を旅することで、最新の文化情報をもち、取引先では、文人、客人の扱いを受けていた。旅から帰ると、文化教養の研鑽につとめる。輪島の町は、全国でもまれにみる文化情報の発着地となった。
▽157 婚礼ハバキの儀 町野町に伝わる。日本の基層文化が残る能登。
▽160 観音霊場粉川寺 粉川の淵を見下ろす参道からの景観は、遠野物語の河童淵より優れているという。3つの淵に3兄弟の河童が住む。悪さ防止に村人は、河童の好物の甘酒のしぼりかすをワラに包み、粉川寺から川へ投げた。今も無住になった粉川寺を守るため、行事の世話人が投げ続けている。
▽184 もっそう祭り 久手川町本村18戸に残る大食いの「もっそう祭り」 加賀藩の過酷な年貢取り立てに隠田をつくり、未明ひそかに山盛りの昼飯を食べた。久手川農民の精神生活の支えは、集落ごとにある神仏習合の「お堂」様と、久手川北神社への信仰だった。もっそう祭りは、「お堂さま」の地蔵講だった。
▽187 茅葺きの里 三井町細屋を見守る丘に、小さなみやしろ。茅葺きの入母屋妻入り……。2年ぶりに茅葺き民家を訪ね歩くと、30軒のうち、7軒を減じていた。
▽193 時国家から2、3キロの路傍に小さな石堂。大正年間につくられた「町野村村史」 島とみさん。
▽197 朴葉飯 2枚の朴の葉を十文字にしき、炊きたての飯をもる。その上に藻塩味のきな粉をふりかけ、葉を包み、ひもで結ぶ。葉の色あ変われば、朴葉飯のできあがり。
▽201 輪島塗 日本有数の塗師文化こそ、輪島塗の礎になっている。そういう背景を持とうとしない今日の物作りが、明治に及ばないのは当然のことだ。

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