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なぜ、日本はジャパンと呼ばれたか <中室勝郎>

■なぜ、日本はジャパンと呼ばれたか <中室勝郎> 六耀社
 縄文時代、土器をつかうようになることで食物を貯蔵し、木の実などに火を通すことができるようになる。飢えのない平等の文化だった。縄文人は、恵みをもたらす自然と自分の間に境界線を設けることで、自然への感謝が生まれる。漆器は感謝の気持ちをあらわす儀礼の品であった。日本文化の基層にある縄文の「感謝」がそのまま現れているのが漆器なのだという。
 弥生時代になると農耕がはじまり、自然への感謝の念は薄れ、合理性が幅を効かす。貧富の差が生まれ、飢饉も農耕がはじまって食糧の一元化が進んでから起きる。
 なるほど、そうかもしれない……と思いながら読み進む。
 平安後期から、柿渋下地が代用され、漆に油を大量に入れて増量するなどの工法によって漆器が大衆化する。ルイス・フロイスらの見た中世の日本は、ほぼ土器食器は消滅し、漆器が国民の食器となっていた。再び土師器以外の土器食器が現れるのは、秀吉の朝鮮半島の出兵以降という。
 中国や朝鮮では、器を手にもち口につけることはない。日本人の食器が漆器であったから、優しい魂の器を手に包み、思わず漆の器に接吻したのではないか……。
 江戸や京、尾張、金沢などの漆器の産地は、明治以降、支援者を失うと、その技と文化は他の産地に流れる。その受け皿が輪島だった。輪島は、強力なスポンサーを持たず、消費地の問屋に頼ることなく、自力で販路を拓いていたから強かった。今の輪島塗の弱さは、直接販売をやめ、デパートなどの量販店に頼りすぎていることにあるのかもしれない。
 全国の産地が、プラスチック製品に転換し、伝統的な漆器のみをつくる大規模産地は輪島だけとなった。漆器製作に必要な材料や道具は特殊であり、材料の生産者や製作者は、輪島産地の規模があるから生計を保つことができる。輪島産地が消滅すると、材料や道具の入手が困難となり、日本の漆芸は、次の世代に継承できなくなる。
 漆と漆器の歴史を概観するのに最良の本だ。
 不思議なのは、塗師屋である筆者の教養の幅だ。どこでそれだけのことを学んだのか。古きよき文化人としての塗師の系譜をそのまま受けつぐのが筆者なのかもしれない。
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▽17 漆芸は、画家や作家のように、1人の才能と作業で完成するものではない。分業の精緻な技の集合で成り立つ工芸で、プロヂューサーである塗師屋の企画の下に、材料・技・意匠が結集されて生まれる。分業の工程のひとつひとつに特殊な材料が必要。蒔絵筆師は、蒔絵師が数百人いないと1人が生計を立てられない。金粉も2,3人の職人に支えられている。漆芸は他の工芸とちがい、産業が背景になければ存続できない。
▽25 ルイス・フロイスらの見た日本は、一部の地域を除いてほぼ土器食器は消滅し、漆器が国民の食器となっていた。
▽43 土器の製作工程は、石器・木器・骨格器など原型から引く(削る、割る、磨く)にによるのではなく、加除修整する物づくりだった。土器づくりは縄文人の脳の進化の回路を刺激し、飛躍的に文化力を高めた。
▽46 生活を支える「第1の道具」と、精神生活を支える「第2の道具」。弥生時代には、第2の道具が失われ、機能性を重視した工業デザインに統一されていく。
▽51 縄文の環状集落。中央に広場を囲み、墓群、住居群が二分されて向き合う。
▽52 農耕による収穫は労働の対価であり、労働力いかんによって収穫に差が生じる。農耕は競争原理と格差を生み、現代へとつづいた。物質文明の始まりは、魂をデザインすることを忘れた。
▽54 人は自然の一員ではない。自然と違うという意識が、共存、共生を育んだ。
▽57 坪井洋文「稲を選んだ日本人」「イモと日本人」 日本列島の飢饉は、水田耕作の普及とともに始まる。食糧の一元化のリスク。
 人と自然は違うという意識は西洋にもあった。旧約聖書は、創造主がすべてをつくり、その上に神の代理人として人間をつくった。西洋では、自然を支配する、あるいは利用する意識はあっても、感謝の念は生じにくい。
▽67 平安後期、王朝政権が崩壊すると、あこがれの漆器が大衆化する。柿渋下地が代用され、漆にも油を大量に入れ増量するなどの工法による。日常食器に漆器を選んだがゆえに、中世において、ほぼ土器食器は消滅することになる。再び土師器以外の土器食器が現れるのは、秀吉の朝鮮半島の出兵以降となる。(〓伝来)
 中国や朝鮮では、器を手にもち口につけることはない。日本人の中世の食器が漆器であったことが、器の扱い方を決定的にしたのではないか。日本人は優しい魂の器を手に包みながら、その優しさに心包まれていた。だから思わず漆の器に接吻したのでは。
▽76 ウルシノキは人を恋しがる。人の声が聞こえるところに植えないと育たない……
▽78 ウルシノキは日本、中国、朝鮮に分布し主成分はウルシオール。東南アジアの漆は、主成分が異なる。中国産漆と日本産漆では、奥深い艶や、潤いのある塗肌、ふっくら感で差がでてくる。
▽82 「漆が乾く」とは、水分を採り入れて固化すること。だから湿気の多いところで「乾かす」。
▽87 日本の漆生産量は、1トン。国内需要のわずか1%。7割が岩手県二戸地方に集中する。その漆掻き職人も昭和30年はじめには二戸地方で300人を超えていたのが、今では20人ほどに。……いま筆者は、平成10年より、二戸地方で日本最大級の漆の森づくりを展開している〓〓
 孫芽えによってウルシノキは更新されるが、近年は地主からウルシノキを完全に殺してほしいと要望され、漆の森は消えていく。
▽90 漆はいったん硬化すると、これを溶かす溶剤は存在しない。金をもとかす王水でも不変。電気屋放射線も通さない。化学薬品に侵されないため、戦時中は化学兵器の収納箱に使用された。
▽93 漆のルネサンスには、世界に通用する意匠が欠かせない。漆芸専門のデザイン会社が必要だ。日本ではじめての漆芸のためのデザイン事務所を法人設立。「漆サロン花ぬり」を開設(輪島屋本店)して25年。この25年間が、漆は史上最強の塗料を証明する。
 漆は「自己再生型塗料」。タバコの焦げ跡がいつのまにか消えていた。
▽116 江戸時代、漆器の名産地は、スポンサーと大消費地を地の利とする、江戸、京、尾張、金沢だった。明治以降、支援者を失うと、その技と文化は他の産地に流れた。最大の受け皿が輪島塗だった。輪島は、強力なスポンサーを持たず、消費地の問屋に頼ることなく、自力で販路を拓いていた(〓現在は問屋に頼っているのでは〓)
▽120 有力産地が、プラスチック製品の製作に転換するなか、伝統的な漆器づくりのみを行っている大規模産地は輪島だけとなった。……漆器製作に必要な材料や道具は特殊であり、材料の生産者や製作者は、輪島産地の規模があるから生計を保つことができる。輪島産地が消滅すると、材料や道具の入手が困難となり、次の世代に継承できない。日本の漆芸の未来は輪島にかかっている。
▽123 椀講、家具頼母子、と呼ばれる販売方法。
▽126 輪島そうめんは、北前船で発展したが、逆に北前船で小豆島などの素麺が北上して衰退する。輪島は原料を他国に依存。……最大の理由は値引きを遠因とする品質の低下。……筆者の家業も、素麺業善十郎家より文化年間に塗師屋善仁として起業した。
 全国に広まる要因は、外に向けては販売システムの開発、内にあっては分業制度の確立。最も重要なのは、販売と製造を一括して取り締まる塗師屋の誕生。文化プロデューサーの側面をもち、輪島の町に塗師文化を育む。漆器製造を行う塗師のなかより、自ら全国へ販売に歩く塗師を塗師屋と呼んだ。
▽128 輪島にとって最初の市場は東北地方。明治末から大正にかけての出荷高は北海道が1位。北前船の影響。
▽129 長く複雑で精緻な技の積み重ねを必要とする良品づくりは、分業の専門家を育成したほうが理に適う。輪島で作家や名人と呼ばれる人たちも、分業の一職種の上での評価である。
▽132 中世より輪島湊は日本の七湊に数えられた。北前船の輪島港の次の湊は佐渡の小木港だった。
▽136 輪島塗の発展史は、低価格への競争ではなく高品質への競争だった。椀講の集まりに、1年に1度の輪島の塗師屋が訪ねてくる。入札後の宴と、全国を旅する塗師屋の軽妙な見聞録と文化情報、座敷芸が講員の楽しみだった。
▽138 得意先から塗師屋が帰ると、次々と人が集まり、全国の情報を聞きに来る。200人の塗師屋がほぼ同時期に文化や富裕層の生活情報を携えて帰ってきた。……顧客先が重なった時は、先の塗師屋がいかに優秀かを告げ、去るのが礼儀だった。
 戦後まもなくまで、輪島は、生活文化の質において県内で特別に秀でていた。輪島の木造建築技術は今日でも県内1で、全国の最高レベルを保持している。
 塗師屋のなかには、滞在先で芸道を指南する人や、スポーツ教室を開く者までいた。善仁の先代も、輪島でバイオリン教授の看板をかかげ、「アンサンブル・楽習会」なる室内楽団を組織し、東北にも演奏旅行している。
▽140 戦後、顧客の声をきく直接販売法から、効率的な大量生産のできる消費地の問屋や大型の販売店への取引に転換した。それは、輪島塗という文化産物をつくった塗師文化を失うことであった〓〓
▽145 塗師の家……
▽154 宵越しの金を持たない職人たちは、給料日には大勢の借金取りを職場に呼びつけ、並んだ数を自慢した。……迷惑が及ぶ。そこで出入りがしづらく、静かに落ち着いて仕事ができる環境として、家の奥を職場にする配置を思いつく。仕上げ工程の上塗りはチリを嫌う。「人前職後」は、品質管理の面からも優れた配置として定着した。
▽156 狭い間口の3分の1を通り庭にしている。仕事場へ毎日通う人前の通り庭を芸術性でとらえることに着目した。芸術空間に創造することで、皮膚感覚で文化と美が吸収され、奥の仕事場で生産される品々は品格を増す。
▽157 江戸後期から明治期の輪島で第一級の経済力を誇ったのは、廻船問屋や大地主だった。塗師屋は2級の力。塗師屋は経済力ではかなわないが、全国から学んだ文化力では負けないと数寄屋風の町家を建てたと考えた。徳川の豪華絢爛の東照宮を造営したのに対し、文化で対抗すべく桂離宮を建築した心情に共通する。
▽173 「塗師の家」の価値がわからぬ文化財行政。価値判断ができる時代が来るまで公開はやめ保存第一に考えることに。
▽176 チェンバレン fine-artを訳そうとして、日本語にアートに値する言葉がないのに気づく。「美術」という言葉を発明した。日本人はアートを生活に融合させ、アートだけを特別視する観念を持っていないからだと観察した。
同様に、「ネイチャー」も、あまりにも生活に融合していてネイチャー=自然だけを取り出す感性を持たなかった。
▽183 輪島市上大沢(かめぞ)町の竹の風垣(間垣) 輪島崎町は、民俗の宝庫の町。
▽205 藍色の漆器。工夫を重ねて。
▽214 漆器の鑑賞法 安心していただきたい。人間には本能的とも思える本質を見抜く感性が備わっている。善し悪しを見分けるコツは、素直な心で気品の如何を受信すること。感性は心豊かな生活環境で育まれる。衣食住のコトとモノを選ぶ時に、現在の水準より、少しだけ上のものを選ぶことを繰り返す。知性による刺激によっても感性を磨くことが……
▽218 器も「多能を恥じる」。多用に使えることを目的につくられたものは、いずれも「無用」となる。ひとつの用途にこだわり製作されたものは、逆に他の用途にも使いたくなる。
▽226 一芸に秀でた人は他にも通用するたとえのように……
▽228 漆器には、使って買い替えていく器と、伝承する器がある。……もったいないのは使わないこと。
▽235 京都の美濃屋 昭和20年にのれんをおろす。……日本漆芸最良の物づくりで良品を残して消えていこう。材料と意匠と技。漆液は最高を求め、二戸地方で漆の森をつくり、栽培から自家精製をしている。平成20年で、筆者の漆の森は、日本最大となった。〓雨だれ中世の赤黒を超える技を習得。意匠は、漆芸専門のデザイン会社を法人設立。

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