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村の若者たち <宮本常一>

■村の若者たち <宮本常一> 家の光協会 20110613
農漁村の若者の明治以来の生活史をたどる。
農村人口を吸収する産業が発展するまでは次男三男の「処分」が大きな課題であった。貧しい山村では、戦前は子どもを売るのが当たり前であり、酌婦や女郎に売れるから、女の子が生まれると喜んだ。
戦後の経済が復興しはじめて都会への若者流出がはじまると、田舎に残らざるを得ない長男はつらい思いをした。

明治時代には「青年」とは学生のことだけを指し、勤労青年は「若衆」などと呼ばれた。「若者宿」などの自然発生的なあつまりを克服すべき存在ととらえ、勤労「青年」としての誇りを打ち立てようと掲げたのが戦前の「青年団」だった。だが、いつしか軍に利用されるようになり、大人の都合で利用される存在になっていった。
戦後の青年団は、かつての若衆宿のように、男女交際の場として結成され、娯楽色が強かった。だが、女性にあきられ、都会への人口流出とともに衰退する。青年団は単なる娯楽ではなく、ムラをよりよくすることや、よりよい「生産」を追求することに力を入れるべきではないか−−という反省が生まれる。宮本は継続的な動きをつくるため、青年団を卒業する若者に働きかけ、農漁協の青年部を結成させる。そんな流れのなかに、生産教育・社会教育との連携や、綴り方運動への参加という動きが生まれるのだろう。
全国の青年が情報を交換し、交流することで、よりよい生産体制をつくっていく、というダイナミズムに農漁村の未来を託した。過疎と高齢化が進み、一見、宮本らの取り組みは敗れたかのようだが、人とつながることであきらめを克服するという当時の活動は、農山村にも都会にもあきらめが蔓延する今こそ再評価されつつあるように思える。
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▽10 東日本は長男は一般に家にのこることになっていた。近畿から西では、長男でも出て行く村がすくなくない。そういうところで家にのこって百姓をするというのは、……心はまったく暗くならざるを得ない。
▽14 力いっぱい働いていると、、他のことをかえりみる暇もなく、周囲のすべての人々の条件が、自分とおなじようにならないと承知できなくなる。村落共同体というのは、そうした感覚の中に成立。おなじような感覚の中に生きながら、孤独なのである(あきらめのなかで消えていく集落。みなが孤独なまま。〓だからこそ語り合う場が必要。)
▽27 農休日ひとつ守るのに骨が折れる。……守るために罰則をもうけなければならないのが現状。
▽36 選後直後、若者に満ち、やくざ芝居や社交ダンスが流行。何か新しいことをしようとする機運はつよかった。戦い敗れた国の復興の担い手は自分たちなのだという自信もあった。
▽39 政府による農業改良普及事業。それに伴って4Hクラブの運動も。青年たちの農事研究グループ。稲の早期栽培や病虫害駆除など徹底して、……凶作現象は消え去った。
▽41 昭和35年 離村するだけでなく、青年団をやめていく。郷土をよりよいものにしようという使命意識がうすれてきた。……村に若者がすくなくなると、若い人たちは、その集まりにうらさびしさをおぼえるようになり、出席もにぶってきた。青年は定着性が乏しく、しかも時代の動きに対してもっとも敏感。村にのこる青年の苦悶が、同時に村の苦悶であるとも言える。(内子町の野田さん。青年団の復活=心の復活、となりうる〓玉湯や輪島高校)
▽44 秀吉以前は、、農地はあちこちに点在し、村の境界線は引きようがなかった。検知によって、村と村との境界をはっきりさせ、入り組んでいる土地をできるだけ整理。「村切」。検地によって生まれた村では、村を治めるために庄屋または名主がおかれ……住民たちも境界線の内側で生活をたてようとする。やがて村の自治体ができあがってくる。農民たちの「世間」とは、通常、この近世封建制度によって生まれた村の中のことであった。
▽46 村の中に住める人数は限りがある。明治までの村は、どこでも人をふやさないことに苦心した。……西日本では、木綿つむぎや機織りが盛んになり、サトウキビをつくって砂糖をしぼり、菜種をつくって種油をとり……加工業が発達して、村としての人口制限はきていく。が、日本全体としては、大正時代まではそれほど多くはなく……堕胎間引きも……昭和12年ごろまで、つづいている村。
▽52 戦後も次男三男の処遇が問題で、昭和30年ごろまで、その対策は真剣に討議されていた。
▽62 伊那 分家する者は次男三男のうちの3割にsぎず、あとはオジロクで終わった。彼らは、やはり嫁にいかないオバのところにひそかに通うことも。飛騨白川村のように、生まれた子を女たちが育てるふうはなく、たいていは闇から闇へほおむった。
瀬戸内では、次男三男は嫁をもらい、分家している。秋田県の人はそのことに驚いた。
▽65 ……かつての村の中で一番手を焼いたのが、余った人間の処分だった。
▽67 邑智郡田所村の田中梅治。「この村は……図抜けた大地主もなく、……山も高くなく、大風大雨もなく、理想郷といってもよいであろう」。明治時代には貧富の差もあり、生活程度の低い村であったのを、田中翁が中心になって、りっぱな村をつくりあげていったのである。
……東北は、村の中に特別大きな家がある。次男以下は、それぞれ東京へ出して勉強させ、あたらしい職業につかせた。東北の地主んもほとんどは、高級管理や会社幹部などの親戚をもっている。まずしい家の娘たちは、遊女や料理屋の酌婦などに身売りされるものが多く……。
▽70 愛媛県の山の中では、女が生まれると姫が生まれたといって喜んだ、と聞いた。売り先は、海岸地方や内海の島々であった。山口県大島などには、そうした愛媛県から来た子が多く(伊予子)、もっとも多かったのは、大正の好景気時代であった。
▽72 戦後、伊予子が減り、戦災孤児などを養護施設からもらいうけて梶子につかうようになった。
▽80 佐久島の人々は港湾労務者から宿屋・料理屋・食料店・運送業が多いが、能登半島から来た者は風呂屋が多い。新潟県からは大工が多い。
▽83 次男三男が村で分家するようになると、新しい道の両側に分家した次男三男に家や商店をたてる。この新部落の誕生と発達が、村の中の秩序や組織を徐々にかえていく。
▽88 山形県庄内地方を歩いていると、2つの階級にわかれているものが多かった。上は、1町5反以上つくっている。下は6、7反。……零細農の子弟が地主の家で奉公する。上げ浜塩田の多い能登半島の旧家では、貧しい家の子で、塩田の作業をするハマドをたくさんおいていた。
▽97
▽101 出稼ぎは、いなかで生涯を終わらせなければならない若者たちにとっては、社会見学の意味ももつようになった。
▽104 能登の小木や姫 若者が北海道まで櫓をこいでイカ釣りに。
▽110 出稼ぎからもどってくる若者はたいてい酒飲みになっている。
▽113 大工 はじめは、次男三男で分家したものが農業のかたわら担ったが、明治に入って需要が増大し、しだいに専業化していった。
▽116 大工たちで都会にあつまったもののうち、若い向学心にもえるものは、建築技術を教える夜学校に学び……戦前、正規の教育をうけて官庁や会社に入った人をのぞいて、中堅サラリーマンになった者の大半は、大工出身者だった。
▽125 官公署の現業における教育機関と、私立学校の夜間部が、地方の貧民子弟を迎え入れ、彼らの階層上昇に大きな役割をはたす。……通学するために働くのにもっとも都合のよいのは、上流家庭への書生であるとされた。
……貧しい家の若者たちが自らの運命をきりひらいていこうとする機運が生まれてきたのは、日清・日露の戦勝が大きく原因している。多くの人が日本とちがう風土に接したことによって、未開に近い原野があり、能力さえあればいくらでも自分の希望を達成できるように考えた。
▽131 村の中で自警を中心にした若者組のあるところには、たいてい若者宿がある。淡路島の沼島は、最近まで、若者制度がきちんとしてのこっていた。若者たちがひと所にねるのは、ひとつには村の夜景のため。
▽133 昭和29年の愛媛の睦月島事件。女教師が青年に暴行されようとして逃げ出した。島の人々は「夜這をやりそこねた」と理解した。
▽136 よばいは弊風であるとしてとめられるようになったのは、青年団運動が盛んになってから。団では、男女の風紀はかたくとりしまるようにしてきた。さらに、明治の終わりごろから、村々に電灯がつきはじめたのも、この風習を消すのに大きな役割を果たした。
▽138 睦月島事件の結果……
▽143 若者組が村に必要であったから、という以外に、古い生き方の中に、若者が一つのグループとしてみとめられる要素があった。
▽146 年齢階梯制 15歳になると、親は子どもが社会人として成長するための仮親をたのんだ。助けを求めるかわりに、いそがしいときは親方の家へ手伝いにいったり、中元、歳暮をもっていく。先輩や恩顧にあずかった者にたいして贈答品をおくるのも、そうした古い生活の常識化してしまったものだろうが、欧州ではあまり見られぬ。
若者宿 とくに男女の性の問題については、多くを教えられた。
□山本滝之助
▽155 当時は、青年とは教養のある若者、すなわち学生をさし、農村の若者たちは若い衆、若い者と呼ばれ、いなか青年は卑屈そのものであった。そうした農村の青年たちにたいして、奮起を促す。
▽154 若者組や若者宿の制度に不満をもつ者たちが、若者の集まりを研究会、修養団体として再編成しようとする。明治32年に「日本青年会」を組織。日本各地の若連中の組織を改善して青年会にすることを提起。明治37、8年戦役で、青年会は、軍人家庭のために労力奉仕おこない……ドイツは日本の青年会にならって、ドイツ青年隊を組織したといわれる。政府は、しだいに青年会を兵隊のための準備教育に利用するようになる。
▽158 1人の青年が、青年の社会的地位を高めるために努力した功績は大きかった。「田舎青年」を書いたとき、そこには虐げられた青年としての怒りや反抗があった。だが青年の力が認められはじめたとき、国家から大きく利用せられることになっていく。大正時代の青年運動は、おとながぎゅうじることになる。しだいに軍隊の予備訓練的な団体へ編成されていく。
▽166 青年という言葉が学生の別称とされるのに対して、学校に学ばずとも青年は青年であるとして、勤労青年の組織化からスタート。青年団に入るのはほとんど勤労青年に限られた。……戦後は、若さのはけ場の処理。各地に見られたのは青年のヤクザ芝居だった。男も女もこれに参加し、女の子たちはどんどん子をはらんではおろした。
▽170 あたらしい運動は、いつの場合にも、現代社会に対する不満と批判と反逆から生まれるものでなければならない。その中にのみ、あすへの道があるといえるだろう。
……戦後の青年団は、男女いっしょに集まって話し合い、踊り、飲食することからはじまっている。男女交際の場としての、団の結成が見られた。男女の交際を中心にした娯楽面が強調せられたが、それには限界があって、遊ぶだけの集まりではなんにもならないと、女子がしだいに脱退しはじめていった。……未来への夢を引き出し、可能なものにしていくためには、自らが知識をもとめ、自らをきたえることからはじめなければならぬ。それを怠って、ただ娘たちにこびているだけでは、娘たちもふりむかなくなる。
「男子青年の集まりには、あまりに酒を飲む機会が多いし、ふざけた気持ちが多い」(日登の青年団の変遷〓)
▽178 せっかく全国の離島青年と意見交換しても、まもなく青年団から離れてしまう。農協に青年部をつくり、青年団退団後はそこで活動するように要請した。そのことで、離島の農協・漁協には青年部の組織が急速にすすみ、果樹・畜産・草地改良・水産養殖の研究が活発になっていきつつある。
単なる修養団体としての青年団ではなく、村の産業の担い手としての青年の結集が、つよく要望されはじめてきている(〓生産へのシフト、日登の動き、愛媛の農協青年部)
▽190 「わらび座」地方にある民謡や民俗舞踊をほりおこして、地方的なものに普遍性を与えようと努力をつづける。どこまでも民衆の中にとけ込むため、農作業の手伝いも。……主義や理論の前に、まず農民の生き方・考え方・その伝統的なものを学びとり、理解しなければならなかった。ただ単に、封建的保守的ときめつけていたのでは、いつまでたっても垣の外にいてわめくだけで、そこにいる人々を目覚めさせることはできない。「自分たちの身近な周囲に、いくらも貴重な美しいものがころがっているではないか。行き詰まっていた青年運動にもういっぺんとりくみなおす勇気がわいた」
▽211 ……自分の周囲をよく見て、問題のあり場を見つけることからスタートしなければならない。学校の社会科では、農村社会を批判的に見る目をひらきはしたが、それでは農村をどのようにすればよいかという建設的なものはすくなく、これと四つにくんで、理想の社会をつくろうとするような意欲は乏しくなった。そして現実にあるもののなかで、よりよいものをえらぶ気風がつよくなった。(課題的ではなく銀行型教育)
……農協に青年部がつくられ、先進地の視察をはじめ……孤独を感じても、広い世間を見ると、そこにはおなじように悩んでいる者がいることに気づく。その人たちの間に交流がはじまる。……
青年が村の生産構造の改善に発言力をもつことによって、はじめて村はかわる。……青年の生産活動を組織化し、これを横に連合する体制をととのえ、お互いの往来も盛んにすべき。汽車を利用するだけでなく、オートバイなどをつかって、各地を見学してまわりあるく方法が、もっと盛んになってよいのではないか。ドイツのワンダーフォーゲル運動はそうしたものであり、それによって、祖国の認識を深めた。
▽224 学校に学ぶ余裕のあるものは、いろいろの恩恵に浴することができたが、勤労青年たちにはなんらの恩恵も特典も与えられなかった。国家そのものが、恩恵をほどこしてまで優秀な兵隊を必要としなくなり、国家目的のために利用することがなくなったからにほかならぬ。勤労青年もまった忘れられた存在であった。

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