■漆の文化史<四柳嘉章>岩波新書 20110526
漆器の起源は縄文時代までさかのぼること、安価な製品がつくられることで椀を手にもって食事するという日本人の食習慣をも形成したことなど、興味深い事実が紹介されている。
遺跡から出土した漆器を科学的に分析したら、漆の技術の基本はすでに9000年前に完成され、朱漆器は宗教的な重みをもっていた。律令国家では、漆はカイコと並んで貴重な資源だった。ところが鎌倉時代の13世紀中頃から土師器の椀が消え、下地に柿渋を使う安価な漆器が広まる。室町時代になると、材料をブナなどの安価な樹種を使うようになった。律令的漆器生産から中世的な普及品生産への転換だった。
漆器は保温力にすぐれ、口当たりがやわらかく軽いから、椀を手にもつ習慣が生まれた。12世紀後半以降、禅宗の影響もあって雑炊や汁物が普及したが、飯椀・汁碗を手にもち箸で食べる食習慣が確立した背景には、漆器の普及があったという。
輪島塗の歴史もおもしろい。分業体制を確立し、同業者組合によって品質管理やアフターサービスを徹底してブランド化した。最先端の流通システムが輪島塗の全国展開を支えていた。「伝統工芸」もかつては先端産業だったという当たり前の事実が新鮮だ。
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▽ 科学的な分析をすることで、漆の技術の基本はすでに縄文人が完成させていたことがわかった。縄文土器より高度な技術が、9000年前から存在した。
漆器が広域的に普及する南北朝時代から室町時代を境に、高価なケヤキからブナなどの安価な樹種に大きく転換することもわかった。
▽44 東日本の縄文遺跡から盛んに出土した漆器が、弥生時代は激減する。かわって北部九州に目立つに用になり、縄文では赤色漆が主体だった漆器が、弥生後期には多くが黒色になる。塗りも簡略化されて塗り重ねは激減する。漆の精神的価値観が変化した。復活再生の色である赤色漆を塗り重ねることに価値を見いだした縄文思考と、階級社会のなかで生産性を重視する弥生的思考との違い。
▽48 日本人は「漆黒」を愛好するが、それは中国を頂点とする東アジアに共通した技法から生まれたものであり、弥生人の感性を今日に伝えるものといえるかもしれない。
▽54 生漆や麦漆を塗った麻布を何枚もはりかさねてつくる棺桶、聖徳太子や天武天皇の棺も。
▽62 「出雲国計会帳」 古代国家にとって貴重な漆と養蚕のためのカイコの植栽は最優先事項だった。
▽63 古代の漆産地。東北をのぞいてほぼ列島をカバー。
▽87 古代漆器 奈良時代は黒色地が主流だった。平安になると「朱漆の時代」に。高貴の朱の復活か? 貴族の食卓は漆器の色も身分によって規定されていた。4位、5位以下の者が朱漆器を使うことは許されなかった。
▽95 鎌倉時代の13世紀中頃を境に土師器の椀が消え、逆に漆器が増大傾向になる。下地に漆は使わず、柿渋に炭粉粒子をまぜた下地を使うことで安価に製作できた。
▽100 11世紀から12世紀にかけて広く渋下地漆器の存在が確認された。律令的漆器生産から中世的漆器生産(普及品、渋下地漆器の広域的生産)への転換。
▽106 団扇は中国から伝えられた。扇子は、日本独自の発案で、奈良時代に檜の薄い板を数十枚根元でとめてつくられ「檜扇」とよばれた。平安時代に紙扇が生まれ、中国に輸出され、ヨーロッパにまで広まった。17世紀のパリでは、扇専門店が軒を連ねた。
▽109 蝶は、ギリシャ神話でも日本の中世でも、この世とあの世をさまよう人の魂だった。
▽118 型押漆絵の模様。簡略化された量産に適した。渋下地の導入と連動して、工程を簡略化させた。木地もケヤキ以外の安価な樹種を用いた。鎌倉周辺から大量に出土。鎌倉産の型押漆器が、御家人や地頭によって各地に土産として持ち込まれたのでは。
▽120 鎌倉時代まではケヤキ中心だったが、室町になると多様な樹種が使われ、圧倒的にブナが優位。
▽124 絵巻物。公家の食器に漆器ではなくカワラケを使っている。古代律令時代の貴族の食器は、身分に応じて金器、銀器、漆器、陶磁器、土器を使い分けた。これが近世までつづいた。だが、途中で本来使うべき器がわからなくなり、かわらけが使われるようになった。
▽126 1471年。貴族や武士の儀式には使い捨てのかわらけの盃を用い、日常の食事は漆器であったようだ。
▽129 台盤のようなテーブルがない庶民の食卓では、椀皿と口元の距離がある。漆塗りの汁碗は、手に持っても熱くなく、保温力にすぐれ、口当たりが柔らかく計量だから、椀を手にもつ習慣が生まれたのだろう。
12世紀後半以降、禅宗の影響もあって雑炊や汁物が普及する。中世は飯椀、汁碗を手にもち、箸で食べる日本的な食習慣の確立期といってよいだろう。豆腐汁、狸汁、松茸汁などあらゆる食材の汁物が生まれた中世は、汁物文化の時代であり、食漆器の存在が果たした役割は大きいのではないか。
▽150 供花は、奈良時代の仏教で死者に花を手向けたことからはじまっている。平安時代に花を「挿す」、鎌倉時代には花を「立てる」と変化する。16世紀から17世紀はじめは「立花」が、18世紀以降は「生花(しょうか)」が池坊流によって様式化される。
▽162 輪島に隣接する佐野村 値段が手頃で合鹿椀は明治時代にはかなりの生産があったが、大正年間にほぼ終了。合鹿椀が輪島塗のもとという説があるが……
合鹿での木地屋の仕事についての聞き取り調査 部落の9割が木地屋……漆の栽培は、合鹿を中心とする柳田村一帯で、とくに鈴が嶺部落はこの職人が多かった……木地の上に黒い墨を塗り、柿の渋をして、最後に漆をかけた。……合鹿は廉価版の渋下地漆器だった。輪島塗は、水練りの鉱物粒子(地の粉)と漆、米糊を混ぜたものを下地としており、しかも、地の粉として珪藻土を使用する点に特色がある。したがって両者は技法的に見て系譜を異にする、と考えるべき。
▽169 中世の輪島は日本海を代表する海上拠点「親の湊」をひかえた中継港湾都市だった。
▽170 珪藻土 ……くるいがなく熱に強い漆器のベースに。珪藻土の漆下地そのものは、新潟県や広島県の中世漆器から検出されている。が、今日は輪島塗のほかでは見られない。
▽173 17世紀以降、輪島近辺のアテ(ヒノキアスナロ)、ケヤキ、珪藻土などを用いて、分業による堅牢な漆器が生産されるようになった。下地の珪藻土が17世紀後半に発見されたとする伝承によって、輪島の漆器生産はそれより古くならないと考えられていた。同時代の文献に輪島村の主生産物は素麺であると記されていることもその傍証とされた。ところが、同じ寛文年間の「寛文雑記」には、「輪島そうめん、同椀」とある。……中世にはすでに、小規模な漆器生産が行われていた。17世紀前半からは、九州の唐津や伊万里焼が大量に北上したが、能登の食漆器が陶磁器と競合に堪えうるだけの発展を遂げていたのは想像に難くない。
▽177 近世輪島塗の発展 漆や地の粉、アテなどの素材に恵まれた。17世紀後半には堅牢な珪藻土の地の粉による下地技術が確立した。良好な港があり北前船で製品を運ぶことができた。同業組合を組織して品質管理を行い、塗り物の製造工程、価格、販売区域の協定、違反者への罰則などが決められた。信用を呼び、販路拡大につながった。天保時代(19世紀中頃)には、塗師、椀木地師、曲物木地師、指物木地師、蒔絵師、沈金師による生産の分業化がはかられ、量産体制が整っていた。周辺の合鹿椀づくりの木地師は、安価な陶磁器の普及で生活がなりたたなくなると、輪島塗の木地師となった。
さらに、18世紀以降、農漁村の経済力が上昇し、ハレの家財としての食漆器を購入できる層を増加させた。堅牢な下地とアフターサービスを重視した輪島塗は、好評を博した。
▽88 分業と海運による発展。明治維新で、ほかの漆器の大産地は、大名や武士などのパトロンを失って大打撃を受けたが。だが輪島では各地の職人が移住してかえって活況を呈し、蒔絵が発達することに。明治36年の鳳至町と河井町の塗師屋はすでに200軒を超えたが、明治43年は255軒とむしろ増えている。明治23年以降、輪島でも中国産の漆が輸入されるようになった。
▽192 輪島塗はアイヌにまで。アイヌにとって漆器は熊送り(イオマンテ)などの儀式に不可欠な祭具。縄文人の漆に対する観念を受けつぐ、原点にもっとも近い漆文化を保っていた。
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