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珠洲原発・阻止へのあゆみ <北野進>

■珠洲原発・阻止へのあゆみ <北野進> 七つ森書館 20110517

 奥能登に突如原発計画がふってわき、電力会社と行政が事前調査を強行しようとする。労組などの革新勢力が反対の声をあげ、地元住民が共有地運動をはじめ、漁民が立ち上がり、それをネットワーク化する。反対派は当初、珠洲市議会で1人しかいなかったが、4人、5人、6人と増やし、保守が2議席を独占していた県議選の議席の一角を奪取する。
 その間には推進側からの露骨な嫌がらせがあり、あからさまな不正選挙があり、ゼネコンを動員した土地買い占めがあった。どれかひとつをとっても壁の大きさに目がくらむようなのに、カネも権力もない反対派住民は20数年間もたたかいつづけ、ついには阻止を果たしてしまった。
 こんなたたかいはとても私にはできまい。どこかで妥協し、あきらめてしまうだろう。何度も局所的な敗北を味わいながらあきらめなかった人々に驚かされる。
 彼らの粘り腰の力の源泉はなんだったのか。
 「革新」といった政治意識ではなかろう。むしろ土に根付いた保守的なもののなかに源があり、そういった力の発露を促す形で、封建的な枠組みに立ち向かい、地域の民主化をはかったからこそ成功したのではないか。
 2カ所の原発予定地はいずれも荒涼とした浜で、北海道の原野のような最果てのイメージがただよう。予定地の1つ寺家の近くには「ランプの宿」があり、もうひとつの高屋の近くには揚浜式の塩田がある。原発ができたらどちらも価値を大きく落としていたろう。
 原発依存症になった珠洲市は、市町村合併の論議の際にも近隣市町村から嫌がられた。
 原発という麻薬を絶ったいまの珠洲はどうなっているのか。禁断症状に負け、保守派が牛耳る町になってしまったのか、それとも何か新しいものが生まれつつあるのか……
 珠洲市の市政要覧にもホームページにも原発の歴史が載っていない。その一事を見ても、克服していないのは明らかだろう。

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▽ 問題なのは、原発誘致による地域活性化という夢を抱いてきた行政の体質であり、住民の価値観である。市町村合併をめぐる論議のなかで、近隣市町村からは「珠洲市とだけは一緒になりたくない」という声が何度となく聞かれた。
▽市制要覧2004の「珠洲市のあゆみ」には珠洲原発についての記載が一切内。ホームページの「珠洲市の歴史」も同様である。歴史からの抹消である。
▽高屋 寺家
▽11 関電の調査班を宿泊先「きのうら荘」と入山口で侵入を阻止。珠洲焼きの陶工中山達磨〓さんが徐行して走行を妨害する。……停まった車を囲み、作業員が外に出られないようにする。
▽14 蛸島漁協は反対運動の大黒柱。70年代前半、PCB汚染の風評被害でダメージを受けた。海の汚染には人一倍敏感だった。
▽16 落合誓子さん 「高屋現地報告会」を毎晩市内各地で開催。町内、集落単位で、チラシを配布。連日20-30人規模の集会を開催。高屋の井上伸造さん、蛸島漁協婦人部の北浜千恵子さん、森下松子さん、前淑子さん。〓
▽21 真宗大谷派第10組、坊守会、鮮魚組合、宗玄酒造〓も阻止行動に参加。
▽24 組織のトップを決めたら、そこがねらわれて、組織全体がつぶされる……代表を決めずに、ネットワーク式に。珠洲原発反対ネットワーク。高屋に「監視小屋」。大工の番匠留造さんや、小谷内毅くんら若手メンバー。
▽42 反対運動の3本柱。高屋、寺家の現地住民。漁協。社会党と地区労。
▽47 狼煙町 珠洲でも、富山湾側の内浦と日本海に面する外浦の格差が存在する。高屋は、そのなかでも66年に半島周遊道路が整備されるまでは、輪島市から半島先端に向かったゆきどまりの集落だった。山が海際までせりだし、宅地は狭く、水田はわずか。大半の土地は出身で神奈川県在住の医師の手にあり、住民の多くは借地暮らし。自分の土地が夢だった。荒波を直接受ける港は、冬場は漁に出られず、港の整備が大きな魅力だった。これが全国的にも例がない集落70戸の全戸移転を伴う原発計画の背景だ。
 寺家は、上野地区42戸という移転を伴うが高屋とは事情が異なる。内浦側に面している分、なだからかで農地や宅地に恵まれ、比較的裕福。オーソドックスな経済的豊かさを提示する原発計画だった。
 ……高浜の塚本さんの圓龍寺や倉勢三さん。寺家の内田吉松さん。乗光寺の落合さん
▽59 83年から、国定先生が議席を獲得する87年まで革新系の議席はゼロに。……「原発に反対する者は市民ではない」と林市長が豪語するほどの市内の雰囲気だった。
▽65 かずかずの選挙を闘い続け、……「反原発」という枠を超えた地域の民主化運動だった。
▽74 嫌がらせ 門徒からの抗議でかかわりをやめた住職。陳情署名をした人のところに自民市議から「背後にどんな組織があるんだ」と電話が入る。抗議すると「警察にでも裁判所にでも訴えてみろ」と開き直る。集会所も、学校の体育館も貸してくれない。お寺が貴重な集会場。公民館も「市の方針に反する目的に市の施設を貸すことはできない」
▽77 真宗大谷派能登反原発の会
▽104 私が市長選に挑んだとき、手を合わせて拝んでくれたお婆さんや、作業員を乗せた車の前に寝転び「子どもや孫の命を守れるんなら、この婆をひいていけ」と叫んだおばさんを思ったとき、政治の駆け引きの世界は運動の現場とはあまりに距離がかけはなれていると思わずにはいられなかった。(〓伝統保守の力、土の力)
▽110 (県議に出る)私は内浦町出身。町民にとって原発以上に怖い存在が、現職県議の1人、室谷県議だった。私の従兄弟は教員をしており教頭昇格をひかえていた。本家の呉服屋の商売に影響も……
▽117 室谷後援会の事務所が近くにあり、入るのをみられやしないかと怖くて誰も事務所に近づかない。そんななか来てくれたのが前助役の大塚さん。「原発を立てさせたら天皇陛下との約束を破ることになる」と。「真宗大谷派能登反原発の会」雪の日も雨の日も、住宅地図を抱え、一軒一軒原発の危険性を訴えてまわった。蛸島漁協も婦人部中心にチラシ配り。
▽123 市議選は国定先生、落合誓子、新谷栄作(蛸島漁協青壮年部長)、小谷内毅、出村龍彦(三崎地区リーダー、落選)、共産党から坂東正幸氏。
▽137 市長選 市内160人の区長の大半が林候補支持。会場を断られる。個人宅も嫌がらせ。入口では、車のライトをつけて参加する人をチェックする。酔っぱらいが会の進行を壊す。電力会社のノウハウがもっとも生かされる。本番前のミニ集会に参加した人は、選挙戦に入っての個人演説会には顔を出さなくなってしまう。……法定ポスターは夜中に破られる。林陣営のチラシは電力会社のノウハウ発揮。
▽154 選挙の不正。巨大利権がからむと、公正な選挙という社会の最低限のルールさえ吹き飛ぶ。……原発問題が地域の民主化と深く結びついた問題だと認識。
▽168 知事候補の谷本氏との対話。政治センス、バランス、妥協と原則のかねあい。
▽174 「住民合意を尊重する」知事。県政は、推進派を抜け、行司役に。
▽179 珠洲市主催の行事で、私に祝辞などの機会を用意したのは12年間で1回だけ。ひどいときは来賓紹介さえしない。反対派に対する市の基本姿勢。条例にもとづき、珠洲焼きの陶工が窯をつくるための助成金を申請しても反対派だから出さないという例も。
▽181 推進派のPA戦略、89年の市長選を境に市内全域に拡大。電力会社がハコモノを提供。漁業関係者へのバイ貝養殖施設、農業関係へのガラス温室、「キリコ」の収納庫、農産物の保冷庫……
▽186 輪島・五嶋市長の3選を阻止した梶文秋氏の応援。
▽198 県選管「偽造は常識から考えてありえない」と、鑑定の不採用を求め、鑑定申請は却下。投票用紙を印刷したのは林市長の親戚である市内の印刷所。他市町村では通常、市外の印刷所にまわすと聞いたが……
▽204 林陣営の事務責任者は市選管の前書記長。
▽217 出直し選挙。貝蔵陣営は、電話による個人調査をフルに行い、原発賛否、今回投票しようとしている人などを調べあげてゆく……。市長選無効の申し立てリストのなかから1人暮らしの老人をピックアップして切り崩していく。
▽226 
▽256 99年の県議選、市議の新谷栄作さんに幹事長をつとめてもらった。
▽262 
▽275 原発は撤退しても、残された住民は反対派と推進派のままである。後々まで地域のなかに勝ち組、負け組みが残る終わり方をしてはいけない。着地点として凍結という選択肢もあるのでは、と考えた。
▽277 泉谷満寿裕 早大政経学部、野村證券
▽298 
▽304 2000年暮れ、輪島市、内浦町、柳田村の12月議会で、首長の珠洲原発に対する所見を問う質問があいついだ。輪島市の梶市長は、元社会党の輪島市議。……内浦町長「最大の基幹産業である水産振興、海洋深層水の利活用を考えると、少なからず影響」。能登町の持木町長も「漁業振興が町政の柱……」
▽307 国の押しつけによる合併には批判的な立場で発言してきたが、珠洲市は原発問題を抱え「貧しくてケンカが絶えない、心のすさんだ家」であり、原発による巨額資金をあてにした、自治の気概のかけらもない町でしかない。対等合併は、既存自治体の破壊であり、行政改革のチャンス。合併を優先課題にすることで、原発問題に決着をつける。……合併特例債の10年間で、原発依存体質からの脱却をはかる。
▽313 02年、市内7漁協が蛸島漁協を中心に合併。原発予定地「高屋」を抱える珠洲北部漁協、「寺家」を抱える寺家漁協が、反対運動の最大拠点の蛸島漁協を中心とした合併に同意した。
▽322 県議選定数1になり落選。相手候補はずっと安定。反原発陣営は一定割合で減少してきている。……電通や北陸鉄道労組などが次々となくなり、全逓や全農林の組合員も減り、県教組・高教組も少子化で組合員が減る。……市議選でも後退。
□総括
▽336 反対派地権者は、個別に反対するだけでは切り崩しにあう。共有地運動を展開するため、90年に「自然を護る地権者の会」を結成。寺家の活動の中心は内田吉松さん、前信弘さん、出村正広さん、池上則芳さん、畦内伝次さん、池上富治男さん、内田寅吉さんらが結束。高屋は、「よしひろのスイカ」で都市部と交流のある板谷儀博くんの農地が重要な地点にあった。90年に「高屋土地共有化募金」を呼びかけた。
 成功した3つの条件。先祖伝来の土地を快く提供してくれた地権者。地権者と共有地主をつなぐ高屋の塚本さん、寺家の内田さんというリーダーの存在。電力会社の用地買収の動きに遅れをとらなかった。……電力会社との交渉を拒否しつづけると二束三文の荒れた山。印鑑を押すだけで、札束の山にかわる。家族のなかで賛否が割れ、ケンカ状態になる。
▽349 89-93年、「真宗大谷派……」など市外の応援と地元運動の歯車がかみあった。96年の市長選以降、市外の反原発グループ受け入れに消極的になっていった。推進派からの「外人部隊攻撃」に負けた。外人部隊というなら電力会社が最大の外人部隊だと訴えたが……。結果的に、地元の人は長期間にわたる運動の疲れで足が鈍り、市外の人の支援はないということで運動の停滞を招くことに。89年市長選では、事務所には全国各地の人がいた。交流が楽しく刺激があった。それが、勝利だけが至上命題となり、運動自体の魅力が欠けていった。
▽366 北陸電力は、関電・中電との交渉の末、志賀原発運転開始後5年間は90万キロワット、その後は60万キロワットを引き受けてもらうことで息をつないだ。関電・中電にとっても志賀原発はお荷物だった。護送船団方式から自由化の波に漕ぎ出す電力会社には、珠洲に無駄なカネをつぎ込む余裕はなくなっていた。

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