■大いなる人生 <高田宏> 芸術新聞社 20100903
15人の伝記・自伝を通して「大いなる人生」を論じる。
伊能忠敬は49歳まで実業家としてすごし、いわば引退後に歴史に残る業績を残した。それを知るだけでもオヤジは勇気づけられる。ただ、それを可能ならしめたのはそれまでの人生の蓄積がある。他者からの期待に必死に答えてきた力の蓄積がなしたものだろう。
福沢諭吉は「偉人」部分ではなく、「威張っている政府の奴らはいやだ」と晩年になっても言い放つその稚気に魅力を感じる。
陸奥宗光は、体の弱さを卑下せず幼いころから逃げる訓練をする合理主義者・リアリストだったからこそ、日清戦争後の三国干渉とその後の国民的非難を予想したうえで外交交渉を果たした。弱い人間であり、その弱さを正面から見つめて考え抜いたからこそのリアリストぶりだった。
その人の人生にほれなければよい伝記は書けないという。ほれるからこそ、その人の生き方の学ぶべき部分が浮き彫りになるのだろう。
======================
□伊能忠敬 「四千万歩の男」(井上ひさし)
□福沢諭吉「福翁自伝」
▽41 福沢は、明治政府と距離を置いた。なぜか。「政府役人はむやみに威張っている。……そんな空威張りの仲間に入る気はない」「役人は、家の内外に妾などを飼うて、多妻の罪を犯しながら恥ずかしいとも思わず……(色好みと言われた伊藤博文が念頭?)」
□陸奥宗光
▽51 僕は非力で喧嘩すれば負けるにきまってゐる。何としても早く逃げるといふことが自分の身を保つ第一義だ。その逃げる稽古をしてゐるのだ。一つ俺と喧嘩をしてみんか、素晴らしく逃げて魅せるぞ。
▽56 自由主義に傾斜し、藩閥政府の専制に強く反発。……民権派に身を投じて反政府をつらぬくのでなければ、みずからの内なる「自由主義の魂」と現実政治の接点を求めなくてはならない。
□高橋是清
▽61 昭和初期はテロリズムの時代だった。昭和4年に山本宣治代議士が倒れ、5年には浜口首相も狙撃され、7年には井上準之助、団琢磨が射殺あれ、同年五一五事件が起きる。テロの総仕上げが二・二六事件だった。
□原田甲斐「樅の木は残った」
□ガンジー
▽94 「自己浄化」人は絶対に喜怒哀楽の情から解放されていなくてはならない。愛と憎悪、愛着と嫌悪の相反する流れから、超越していなくてはならない。それを目ざして、まだんなく努力しているにもかかわらず、まだこの三重の純潔にいたっていない。……真実の神に対する、思想、言葉、そして行為における非殺生の恩恵を与えたまえ、とのわたしの祈りに、ともに加わっていただきたいと願う。
(オーウェルはその純潔をいやがる。だがガンジーの果たした役割を評価する)
▽97 政府当局者の1人が語ったという。 ガンジーたちが暴力をふるってくれたら、と思うことがしばしばあった、と。
□タゴール
□カーネギー
大阪府立図書館 明治時代に住友家が建てて大阪府に寄贈。その資産は別子銅山によるものだった。二代目総理事の伊庭貞剛は、荒涼たるはげ山になっていたのを大植林計画を推進。カーネギーに通じる企業人倫理。
□クロポトキン
□チンギスハン
□マリーアントワネット
□ドストエフスキー
▽184 子供を主題とする長編小説の構想こそが、子を奪われたドストエフスキーを突き動かし、救ったのではなかったか。亡くしたアレクセイの名は主人公アレクセイにつけられている。
▽187 27歳で銃殺刑を言い渡され、柱に縛り付けられ、ずきんをかぶせられた。最後の5分を3つにわけた。2分間は瞑想に、2分間は友との別れに、そして残りの1分間をこの世界に目を向けることに。……とはいえなにを瞑想して、なにに目を向けたらいいのだろう……兵士らが照準を合わせたとき、恩赦の勅書が届いた。囚人の1人はその直後に発狂した。
□高群逸枝
▽190 1964年、70歳の生涯を終える。死後夫が完結させたのが「火の国の女の日記」
▽198 夫の橋口憲三は、真の恋愛は娼婦との関係だけだ……瞬間恋愛説だった。永遠の誓いをちゃかされた逸枝は、教師をやめて四国巡礼に出かける。巡礼から帰っても、同居したり別居したりをくりかえす。……家を借りても、いつも友人を同宿させる。……この生活から逃れようと家出し、新聞に報じられる。……やがて、妻のためだけに生きる憲三が出現する。
□中原中也
□加藤文太郎
コメント